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第4話 「街の人々」

 サンダロスの南側には大きな水たまりがある。

 それを人間は「海」と呼んでいる。

 海の水はしょっぱい。だから飲めない。けれどもそこにはたくさんの「御馳走」が泳いでいる。


 防波堤の上に跳び乗ったオスの黒猫は、そんな海の彼方をじっと眺めていた。


「…………」


 空と海が混ざる境を、ただただ見つめる。沖に漁船が何艘か漂っていた。あの船のどれかに、先ほど魚をくれた青年がまた乗りこんでいるのかもしれない。

 しかしいくら見ていても、腹の虫は鳴りつづけたまま、いっこうに治まってはくれなかった。むしろひどくなっていく一方だ。


 黒猫は防波堤から降りると、とことこと当てもなく歩きだした。


 しばらくいくと、大きな河口に行き当たった。

 街の中心を貫くライン川。山向こうの湖から、市街を通って、海に流れ込んでいる。荷を積んだ船がちょうど目の前を遡っていった。

 黒猫はその船を追うように川岸を走っていく。


 少し行くと、一人の若い画家を見つけた。

 彼はパンをかじりながら写生をしている。


 黒猫はすぐさま走っていって、ぐるぐるとその青年のまわりを回った。

 少しだけでもその食べている物を恵んでくれないかと見上げてみるが、画家はかなり集中していて、こちらを見向きもしない。


 イーゼルの上のキャンバスには、とある建物が描かれていた。それは川沿いに建つサンダロス伯爵の館――あの幌馬車が入っていった建物だった。

 わずかながらあの少女のことを思い出した黒猫は、いや、それよりも、とあわてて首を振る。


「みゃあーん」


 甘ったるい鳴き声をあげて、振り向かせようとする作戦だ。

 金色の巻き毛の上にこげ茶のベレー帽をかぶった画家は、丸メガネを指の背でずり上げると、ようやくこちらを向いた。作戦成功。


「ん? ……猫?」


 ちらっと視線が合う。


「なんだい? 僕に何か……あ、なるほど。こいつを狙ってるんだな」


 そう言って、手元のパンを見て笑う。


「僕もそんなに裕福じゃないからね……たくさんはやれないけど……まあ、少しだけならいいか。ホラ」


 小さくちぎったパンのかけらが目の前に差し出される。

 黒猫はゆっくりとそれを咥え、いったん脇に置いた。普段食べたことのないものだったので、どこから手をつけていいかわからない。何度かガジガジと噛みついてみる。さらに前足を使って、一片の端っこをさらに引きちぎってみる。そうして口の中に入れると、ようやく小麦の味がしはじめた。

 好みの食べ物ではないが、空腹には代えられない。


 青年は、そんな様子を眺めながらぽつりとつぶやいた。


「はあ……こうしていても……金はできないんだよなあ……。ねえ、黒猫君。どこかにいいパトロンはいないかい?」

「みゃあ?」


 言っている意味がよくわからず、黒猫は小首をかしげる。


「僕も、例の流行り病にかかっていてね。もう、あまり見えなくなってきているんだ」


 うつむきながら画家は額に手を当てる。


「この作品も、もしかしたら最後まで仕上げられないかもしれない。そうなる前に……治したい。でも、ボクには薬を買うお金もない。ああ、どうして、どうしてこんなことになったんだ……」


 画家の手から絵筆が滑り落ちる。パンを食んでいた黒猫は思わずそれを避けた。意気消沈しきっている青年をいぶかしげに見上げると、青年はうらやましそうに言う。


「君の目は……とても美しいね。おぼろげだけれど、色だけはまだよく見えるよ。ああ、君は猫だから……こんなふうにはきっとならないね。ずっと見えるなんて……。それに引き替え僕は……。ああ、どうして、どうしてこんなに僕は不幸なんだ!」


 急にパレットナイフを手に取った画家は、腕を振り上げ、キャンバスを切り付けた。黒猫は突然のことに驚いて逃げ出す。

 路地に入り、画家が見えなくなるところまで走った。


 しばらく体を動かしていると、ようやく気持ちが落ち着いてきた。

 まだ胸がドキドキしている。パンを食べたためか、喉がやたらと乾いた。

 どこかで水を飲みたい――。そう思っていると、前方からふらふらと身なりの汚い男がやってきた。左手を前に突き出し、右手には先端を地面に当てた棒を持っている。


「ああ……ここはどこなんだ。誰か、誰か! 俺の家の場所を教えてくれないか!?」


 どうやら目が見えないらしい。

 黒猫は男の棒に当たらないよう側を通り抜けると、薄暗い路地を出た。大通りに出る。

 おかしいことに、いくつかの店は「なぜか」閉まっていた。陽が傾きかけているとはいえ、まだ完全には沈みきっていない。いったいどうしたことかと思っていると、ふらふらと今度は若い女性がこちらにやってきた。


 すれちがう通行人に片っ端から肩をぶつけていっている。

 黒猫は厄介ごとはごめんだとまた元の路地に戻った。目の前を、先ほどの女性が通過していく。と思ったら、その反対側からやってきた男性と勢いよく正面衝突した。

 男は女に必死に謝っているが、その視線もなぜか全く違う方向を向いている。


「にゃあ……?」


 こんなことが、少し前から街中で見受けられていた。どうやら目を悪くした人間が増えているらしい。

 先ほどの画家も言っていたが……これは、やはり「流行り病」なのだろうか。


 腹の虫がくうと鳴る。それを皮切りに、黒猫はまた食べ物を探しに行った。

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