第18話 「別れの覚悟」
食堂から出たガーネットはゆっくり後ろを振り返った。
そこには、穏やかな表情をしたケイトがいる。
「あの、ケイト、ちょっとお手洗いに……行ってきたいんだけど」
そう声をかけると、ケイトはふるふると首を横に振った。
「ダメです。昨夜も言いましたが……もうお一人では行かせられません。今朝からはケイトもご一緒いたします。用を足されるのでしたら、それはこちらでお預かりしておきましょう」
「えっ、あ、その……」
ごく自然に紙包みを引き取られそうになったので、ガーネットはあわてて手を引っ込めた。
「どうされました?」
「あ、ち、違うの。これは……」
「お手洗いにお料理を持っていかれるのはどうかと思いますが……」
「そ、そうなんだけど。ちょっとこれは、その……今必要なのよ」
「今? どうして……。もしかして、ここで召し上がるんですか?」
「あ、いや、その……」
だめだ。
ケイトに内緒で中庭に行くことはもう、できなさそうだ。以前はできたが、昨日のことがあったので監視の目がきつくなってしまったのだ。
「……っ」
ガーネットは下唇を噛んだ。
「ガーネット様?」
ケイトはいぶかしげな目でこちらを見つめている。
今日だけではない。
きっと、ずっとこれからもこんな調子なのだろう。
マークさえあんなことをしてこなければ、こんな風に行動を制限されることはなかった。
もう、黒猫さんに会えないのかな――。
そう思うと、ガーネットはきゅうっと胸の奥が締め付けられたようになった。
自分でも驚く。
でも、あわててその気持ちを切り替えた。
そうだ。自分は……囚われの身。
そんな中で、あの黒猫と出会えたのは奇跡だった。もとより願ってもいなかったこと。だったら、はじめから全部なかった……そう思えばいい。そうしたらきっともう、辛くなくなる。
ガーネットは、そっと覚悟した。
「ケイト……ついてきて」
「……え? はい」
「あ、お手洗いにじゃなくて、中庭に」
「中庭……ですか? お手洗いは?」
「うん、もういいの」
もっと、色々おしゃべりしたかったな――。
抑えようとしていたのに、黒猫とのあれこれが思い返される。考えたくないと思っているのに、この三日間ばかりのことが次々と頭に浮かんできた。
また、ひとりぼっちになるのか……そう思うと、ただの猫なのに、失うのがとても嫌だと感じられる。
「やっぱり……わがまま、だったのかな」
「何かおっしゃいましたか?」
「……ううん、何も」
小さくつぶやくと、ガーネットは首を振った。
たしかに、最初はただのわがままだった。話し相手が欲しいという、自分の都合を押し付けたものだった。でも、いつからか、それだけじゃなくなっていて。
中庭をひたすら目指す。
長い廊下を抜け、回廊の途中にある扉を開ける。
そして、高い塀に囲まれた中庭へと出た。
たくさんの花々が咲き乱れ、青々とした芝生が広がっている。
そこには黒い猫が一匹、うろうろと歩いていた。黒猫はこちらに気付くと、ガーネット以外の人間がいることに驚き、距離をとっていく。
「が、ガーネット様! あれはこの間の野良猫ではないですか!」
ケイトが黒猫を見つけて、甲高い声を上げる。
「まさか、そのお料理を……」
「そう。これは、あの子にあげるためのものだったの」
「なっ、ダメですよ! 餌付けなんかして。ここに棲みつかれたりでもしたらどうするんですか。旦那様が知ったら、とてもお怒りになられます」
「ごめんなさい。これで、最後にするから許して。ほら黒猫さん、約束の……『御馳走』よ」
ガーネットはさっと黒猫に近寄り、目の前で紙包みをほどいた。地面に置くと、黒猫はさっそくがっつき始める。ガーネットはそれを見ながら寂しげに言った。
「ごめんなさい。見ての通りケイトに知られてしまったの。もう、お礼をあげることはこれで最後になりそうだわ。だから……もう、あなたはわたしに協力しなくても……いいの。もう、来なくたって……」
言いながら、こらえていた気持ちが抑えきれなくなる。ガーネットは目元をごしごしとこすった。
黒猫は料理に口をつけながら、そんなガーネットにだけ、聞こえる声で言う。
――――そうか。そいつは残念だな。けど……ボクは今までも、そしてこれからも「好きに」する。なんか……お前がまだ、気になるからな。来るなって言ったってまた来るぞ。
「えっ?」
きょとんとして、訊き返す。
黒猫はつんとそっぽを向いていた。
――――だから……また来てやるって言ってんだ。そ、それがいつかは、わからないけどな! なにせボクは、お前と違って自由だ。いつだって来れるし、いつだってお前に……いや、べ、別に特に会いたいって、いうわけじゃないけど……。
途中から何を言っているのかよくわからなかったが、それでもガーネットは流れていた涙がぴたりと治まった。
「ま、また来てくれるの? ご飯、あげられないのに?」
――――だから、来るかもしれないし、来ないかもしれないって……言ってるだろ! お前に命令されて決めるんじゃないんだ。勘違いするな。だからその……なんかその目から流してるの止めろ!
「えっ」
――――ボクは人間じゃないからよくわからない。けど、お前がなんか辛そうにしているのはわかる。……そうなんだろ?
「あ、ええと……そう、ね……」
――――じゃあ、そういうことだから。そんな風に思わなくていい。ずっと来ないなんて……言ってないからな。
「うん……。うん、ありがとう! ファンネーデル」
ガーネットが笑顔で感謝の言葉を述べると、黒猫はまた急いで料理を食べ始めた。そして、きれいに食べ終えると、ぎこちない足取りで去って行く。
――――じゃあな、ガーネット。
黒猫が庭の茂みの奥に姿を消すと、ケイトが急いで側に寄ってきた。
「あの、が、ガーネット様。さっきの猫に今……話しかけてませんでしたか?」
「あ、うん……。そう、あの黒猫さんとは少し……お話しできるのよ」
「はあ……」
ケイトはいまだに目の前で起こったことが信じられないようだった。
「昨日ね、はじめてあの子にご飯をあげたの。それから仲良くなって……あ! ごめんなさい。そんなことがあったなんて隠していて。でも、もうやめるわ。だからケイトが言うように……ここに居つくってことは、ないと思う。安心して」
「そうですか。まあ、今後餌付けをされないのであれば……ケイトからは言うことは特にありません」
「ありがとう。わたし、話し相手が欲しかったの……」
「猫と……ですか? よりにもよって……。はあ、奇妙なことですね」
ケイトは胸の前で腕を組むと、何やら考え込みはじめた。どうして猫と話せるようになったのか、色々と思いを巡らせているのだろう。
「あの……ね、ケイト。無茶なお願いかもしれないけれど、今後もあの子とここで……お話がしたいの。いいかしら」
「えっ?」
急に言われて、目をしばたたくケイト。
「あなたも……必要なら側にいてもらってもいいから」
「わ、私も一緒に……ですか。うーん、まあどっちみちガーネット様を見張っていなくてはいけないですからね……。わかりました。たまに、ならば……」
「ほんと?! いいのケイト!」
ガーネットは喜び勇んだが、ケイトは呆れている。
「まったく、ついこの間まで引っ掻かれそうになっていたというのに。いつの間にそんな仲よくなったんですか。そうやって愛でているだけならいいですが……そのうち糞をそこらじゅうに撒かれたり、庭を荒らすようになったら、即刻、あの猫を叩き出しますからね!」
「は、はい。それは……わたしからもしっかりあの子に伝えておくわ……」
「それなら、まあいいでしょう」
ケイトが了承してくれたので、ガーネットはようやくホッとした。
希望も、消えずに済んだ。ああ言ってくれたのは、黒猫なりの優しさだったのかもしれない。
「早く、また来てくれないかな……」
料理を包んでいた紙を拾いながら、少女はそんなことを思った。