第10話 「ガーネットのお願い」
翌朝。
黒猫が屋敷の中庭をうろついていると、薄紅色のドレスを着た少女がこそこそ隠れるようにしてやってきた。
「あっ、黒猫さん、いた! こっちこっち!」
呼ばれたので一目散に駆け寄る。少女は、手にしていた包みを広げてこちらに中身を見せた。
「焼き魚のパイだそうよ。なんのお魚かはわからないけど……これでいいかしら」
くんくんと鼻を近づけると、おいしそうな匂いがする。地面の芝の上に置かれたそれを、黒猫はぺろりとなめてみた。うん、味もそんなに悪くなさそうである。
――――ふむ、ま、いいだろ。これでチャラだな。
「良かった。じゃあ、もう行かないと。今、お手洗いに出ているということになっているから、そろそろケイトが探しに来ちゃうかも。あなたに食べ物をあげてるとわかったら、何を言われるかわからないし……」
――――じゃあ、もう行け。
「あ、あの、猫さん」
――――なんだ。
「また、来てくれるかしら。いつでもいいけれど……夜にまた部屋に来てほしいわ」
――――どうしてそんなことをボクがしなくちゃいけない?
「だって……わたしは外に出られないんだもの。ずっとひとりきりだし……話し相手がほしいのよ。あなたは街のことを色々知っていそうだし……わたしの力で街の問題が解決しているかどうか教えてほしいの」
――――面倒くさい。
「そんなこと言わないで。お礼にまた何か食べ物をあげるから」
黒猫はしばらく考えると、しかたないという風にうなづいた。
――――わかった。どうしても食事にありつけなかった日だけ、来てやる。
「ありがとう!」
――――勘違いするなよ。食べ物が欲しくて来るんだからな!
「ええ、それでいいわ。誰も味方がいないここで、ずっとひとりきりで過ごすのは辛いもの……」
――――ボクが味方になったなんて一言も言ってないけど。
「そうね。でも、少なくとも敵じゃないわ」
ガーネットはそう言うと、手をひらひらと振って屋敷の中に入っていってしまった。
残された黒猫は、誰かに邪魔されないうちにさっさとそのパイの切れ端を平らげることにする。サクサクとしたパイ生地と、白身魚の淡白な味が最高だった。風味付けのレモンだけはいらないと感じたが、空腹には勝てない。
きれいに食べ終えると、黒猫は屋敷の方を見た。
軟禁状態の少女、ガーネット。彼女は街の異変を無くすという使命が与えられているらしい。その異変とは……あの目の病だ。少女の「宝石加護の力」とやらであの奇病が無くなるのだろうか。
馬車と遭遇したのは二日前だ。ということは、おそらくあの日に少女がこの街に来たのだろう。それなら、まだここへ来て三日と経ってはいない。
黒猫は街がどのように変わるのかを、なんとなく見ておいてやろうと思った。
別にあの少女が気になるからではない。
あくまで、食べ物をもらうのに手ぶらでは恰好がつかないと思っただけだ。そう、決して少女のためではない。自分のためだ。そう、自分のため――。
黒猫はそう思い込むと、中庭を後にした。
◇ ◇ ◇
屋敷に入ったガーネットは急いでお手洗いの方向へ戻ろうとしていた。
だが、ふと廊下の角を曲がったところで、誰かにぶつかってしまう。
「きゃっ、ご、ごめんなさい!」
額を抑えながら見上げると、この家の主の息子だった。
サンダロス伯爵には二人の息子がいるが、そのうちの長男の方だった。たしか名前は……マーク。ガーネットより4、5歳は上の青年だ。父親の遺伝か、彼もまた背がかなり高い。
「マーク……様」
おそるおそる名前を言うと、ぎろりとした目でにらまれた。
「おい、気をつけろ」
今朝の朝食では顔を見なかった。体調でも悪いのかと思っていたが、どうやら「朝帰り」だったようだ。おしろいの匂いが全身からぷんぷんしている。ガーネットは露骨に顔をしかめてみせた。
「なんだその目は? 俺が夜遊びしていちゃ悪いか?」
「いえ……」
マークは顔は整っている方なので、さぞかし女性にもてるだろうと思った。しかし、性格はかなり悪いらしい。なにか因縁をつけられそうになったので、ガーネットはさりげなく離れることにした。
「本当に、わたしの不注意でした。すみません。では……」
「おい、待て」
横をすり抜けようとしたら、ドンと片手を壁につかれて行く手を阻まれてしまった。
「良く見たら、お前きれいな顔をしているな。どうだ、俺と今晩……」
くいと顎をつかまれて、上を向かされる。ガーネットはとたんに青ざめた。
「なっ、何を言ってるんですか? わたしは……」
「ああ、知ってるさ。この街の『救世主』になるかもしれない娘、なんだろう? 宝石加護の力を持つ、神の子、ガーネット」
「だったら……」
「けど、知っているか? ガーネットって宝石の力はな、精力を高める効果も……あるんだそうだ。お前とやったらどれだけイイんだろうな?」
ガーネットはいやらしくほほを撫でられ、マークの手を思わず払いのけた。
「や、やめてください!」
すると、そこにちょうどケイトがやってきた。
「ガーネット様? それに……マーク様。何をされているのですか?」
「ふん、邪魔が入ったか。まあいい。せいぜいこの街を早く救ってくれよ。でないと……容赦しないからな。覚えておけ」
「…………」
なめるような目でガーネットを見やると、マークは自室の方向へ去っていく。
ケイトが慌てて側にやってきた。
「大丈夫ですか、ガーネット様」
「え、ええ……」
顔色がかなり悪かったのだろう、ケイトが心配そうに声をかけてくる。
「何かマーク様に言われたのですか? 旦那様からご子息様たちには近づけさせるなと命じられているのですが……」
「いえ、本当に大丈夫よ。ありがとう」
ガーネットの言葉に安堵したのか、ケイトは急に声をひそめて言う。
「そうですか。なら、いいのですが……。その……マーク様は少し……素行が悪いお方ですので、お気を付けになってくださいませ」
ガーネットはその言葉にぞわぞわと鳥肌を立てた。たしかにケイトの言う通り、できるだけ注意しなければならない人物のようだ。
遠ざかっていくマークの後姿を見ながら、ガーネットは不安な気持ちでいっぱいになっていた。