009 魔法のお城
不登校児の家に単身訪問した翌日。
クラスメイトが誰も姿を知らない涛万里について情報を仕入れようと俺に寄ってきた。
俺は涛万里が世界一エプロンが似合う女の子だと、髪が青い、しかも自炊する女の子であることを喧伝した。すると男子が家庭科系女子の魅力について語り出し、女子が夢見がち男子を罵るクラス一大戦争が巻き起こった。
中立な態度を一日とり続けていた俺は、放課後、担任の柳先生に呼ばれた。
職員室では部活動で忙しそうなジャージ姿の教師が目に着いたが、やなぎんは落ち着いて茶を啜っていた。貫禄がある姿は立派だが、文芸部の顧問はよほど暇なのだろうか。
「それで、涛万里の様子はどうだった」
「健康でしたよ。涛万里さんが一人暮らしなのって知ってましたか?」
「ああ。父親が海外に出張する都合で、父方の家に預けられたんだ。涛万里は編成試験を受けたからな。高校の転校は義務教育と違うから、しっかりと理由を聞くんだ。それで、学校には来そうか」
「来ませんね。金輪際」
俺が断言すると、やなぎんは目を細めた。心なしか、声のトーンも落ちた気がした。
「お前、何か言ったのか?」
「何かってなんですか」
ため息をついたやなぎんは、スマートフォンを操作し始めた。俺より文明機器の扱いになれている四十路の担任は、「聞いてみろ」と言った。
俺が耳に電話を持ってくると、くぐもった声が聞こえた。
『……柳先生ですか、おはようございます。朝早く、ごめんなさい』
小学生のような声。昨日、インターホンで聞き間違えた涛万里の声だ。
『学校へは、行きません。ごめんなさい』
葬式の翌日みたいに気落ちした声はそこで途切れた。耳元でやなぎんのため息が聞こえる。どうやらこれは録音だったらしい。スマートフォンをやなぎんに手渡す。
「昨日まではこうじゃなかった。明日は必ず、明日こそ必ず。そう言ってたんだ。まさか爼倉に限ってそんなことはないと思うが、けしからんことをしてないだろうな」
「けしからんことってなんですか」
「須田に聞いたぞ。ナンパしたらしいじゃないか。若さに口を出すつもりはないがなあ、高校生らしい節度を持ってだな」
須田の野郎……。
「普通に家を訪問して、ご飯食べて帰っただけです。いじめられっ子を刺激するようなことも言ってません」
俺の弁解に声を出してやなぎんは驚いた。「いじめられっ子?」と首を傾げた。
「涛万里は別にいじめられて学校に来てないわけじゃないぞ。前の学校にも事情を伺うったが、そんな素振りはなかったそうだ」
「そういうのって、学校は隠すもんじゃないですか……言っちゃ悪いですけど」
ほんと、これを職員室で言うのはよくなかった。周りの教師陣の動きが止まって、視線が痛いくらいに俺に向けられていた。
「漫画の見過ぎだ。いじめられっ子というだけの理由で転校はできん」
だけの理由、というのもなんだかなあだったが、高校はそうなのかもしれない。学校という制度に特に期待はしていない。
優しさの見返りはないのだ。大人が誰かを救うのは善意じゃなく、利益があるときだけだ。
「それに前の学校では無遅刻無欠席だったそうだ。よしんばでいじめられていたとしても、学校への意欲はある娘が、心機一転の場で最初から欠席するか?」
「そういわれると答えづらいですけど……」
とかく、涛万里はいじめられていたわけじゃないらしい。じゃあどうして学校に来ないんだろうか。学校に行く理由を探しているとか? 自分探しを家というユートピアの中でやっているのかもしれない。
用件が終わった職員室から出る。
やなぎんがこの一件をどうするつもりなのかは聞かなかった。涛万里の退学の期日が前倒しになることも延期することもない、と言っていた。
「せめて親御さんが家にいてくれればなあ」ともぼやいていた。
退学の期日までは根気強く涛万里に電話をするのだとさ。涛万里の拒絶の言葉も無視して。
涛万里の性格は好ましい。涛万里は自らの好みを押し通している、筋が通った人間だ。できれば負けないでほしいと願った。
「お、おっしだ。呼び出しか?」
全ての元凶であるところの須田が、反省文片手に廊下を歩いてきた。これからやなぎんの元へ向かうのだろう。
「一発殴らせろ」
「非暴力非服従」
「要望だけ通そうとするな。てか、俺がナンパしたってなんだよ」
ナンパをしたことは本当だが、須田は知らないはずだ。須田がやなぎんに報告したナンパとは、昨日の朝、電車の中で寝ている女子を起こしていたシーンについてだ。見当違いもいいところだ。
「そういっとけば面白いかと思って。それより、今日も涛万里の家に行くのか?」
「そうだけど」
須田に何の関係があるんだ、という前に、反省文も放り投げて俺の肩を掴んだ。
「俺もついていく。キビ団子はいらない。俺が欲しいのは、お前の愛だ」
「そうか。じゃあ十二時にお城の前で待ち合わせだ。舞踏会が終わったら必ず会いに行く」
面倒ごとをあしらう。涛万里家に行く前に一度家に帰ろうか。姉貴の飯だけでも作っておきたい。こういう時携帯があれば便利なのにと思わなくもない。学校に公衆電話はあるけれど、このご時世なら常設の無料電話くらいあってもいいだろ。カケホーダイの時代だぞ。
「まあ待て、おっし」
背中を掴まれる。須田が粘る理由がわからない。
「なんだよ。なに、俺と遊びたいの? だったら涛万里の家はいつでもいいけど」
予定があるわけじゃない。遊びに行きたいから行くだけだ。アポイントメントもないから、急な変更にも対応ができる我が人生。けれど須田の着眼点は、俺のフリーダムライフじゃなかった。
「涛万里って昨日ナンパしてた青髪だろ。べっぴんだな」
……ああ、そういうことか。オーケー、全て理解した。
俺はクラスの人間に「涛万里は青髪だ」と説明した。他のことを喋りたくなくて、外見の情報だけでも流出すれば満足するだろうと喋った。けれどつい最近青髪を見たのは、俺だけじゃなかった。
「あのすだれのときに、よく顔が見えたな」
「いや、見えてない。けれど背格好からして美人が伝わった。それに胸も大きい」
「見てたのはそこだけか……」
そんなの廊下で言うことじゃない。けれど須田にその手の一般常識は通じない。口と言語野が直結してるのだ。カラスを見たら「カー」と発してしまう小学生と同じだ。職員室から出てきた下級生が足ばやに去っていった。
「なあおっしー。俺も連れっていってくれよー。クラスメイトのよしみだろ。お前だけカエルが乗っかるおっぱいを堪能できるのは不公平だ!」
「うっせえ! カエルなんてグラビア雑誌に勝手に乗っけてろ!」
「べとつくんだよ」
「なにが」
「……言わせんなよ、恥ずかしい」
恥ずかしいのは友達の俺だよ。よっぽど言ってやりたかったが、周囲の視線を放置して口論を続けられるほど俺の心は強くなかった。
「……本当に行くのか? 涛万里の家」
「行きたい」
「じゃあ校門で十分だけ待つ。やなぎんの説教がそれまでに終わったらな」
欲求に純粋な須田は職員室の扉を開けて、
「柳先生はいらっしゃいますか? お届け物です。双子の弟がこの反省文を届けて欲しいと。それでは兄のあっしはもう帰りますんで、お疲れさまで――」
「須田、座れ」
職員室の床に正座させられていた。まあ、十分だけは待ってやるか。
下駄箱で靴を履き変えている最中に、須田は追い着いた。
驚きすぎて鞄が肩からずり落ちてしまった。
まさか担任教師を殴り飛ばして脱出してきたことまで危ぶんだが、須田はちゃらんぽらんしてる風貌にアホな言葉遣いだが、喧嘩をするタイプの人間ではないはずだ。ましてや人を殴る噂なんて立ったことがない。
「まさか、やなぎんをやったのか?」
「おっしはたまに本気で失礼なときがあるよね。俺が一年のころ、算数でゼロ点を取ったときに何て言ったか覚えてる?」
「高校に算数って科目はない」
「その前」
「πをおっぱいと書き間違えたのか?」
「それは三学期。じゃなくて一学期だよ」
「一年生の一学期のことなんて覚えてねえよ。丁度一年前じゃねえか」
そろそろ二年生は一学期の期末試験だ。テストはどの学年もクラスも同じ時期に行われるから、まるまる一年も前の会話だ。しかも須田が低い点数を取るのは日常茶飯事だ。覚えているわけもない。
「あの屈辱は忘れもしないね。おっしはそのとき、須田はバカなんだから名前にも配点があってもいいのにな、つったんだよ!」
そうか。それはまあ、俺も気が立ってたのかもしれない。そのぐらい、いつも言ってる気がしないでもないけれど。
「なんか悪かったな。ごめん。覚えてないけど」
「いいさ。過ぎたことは忘れよう。けれどせめておっしがお詫びしたいっていうなら、俺を女子の家に連れて行ってくれ」
弱みを握ったつもりの須田は、きっと俺が今から裏切っても、そのことを誰かにひけらかしたりはしないだろう。そういうやつだ。
涛万里のことも、あまり人に吹聴はしないだろう。
信頼はある。なのにどうしてか、連れていきたくない。この感情の正しい在処がわからない。
それでも約束は守ることにした。
「携帯貸してくれ、須田。涛万里に電話してみる。訪問の許可が必要だろ」
校門から駅まで歩く。メモ帳の一番下に書き込んだ涛万里家の携帯番号を、須田の携帯に打ち込む。数コールして、小学生が電話に出た。
『はい、涛万里です』
「爼倉です。妹さんかな、お姉ちゃんに変わってくれる?」
「涛万里家には妹がいるのかあ。五歳くらいだといいな」
『そのネタ面白くない』
電話に出たのは涛万里その人だった。彼女は一人っ子でかつ一人暮らしだから当然だ。
「今日って暇か?」
『暇! 凄い暇!』
久しくお客が来ずに暇だった店主が張り切りきるみたいに怒涛の勢いで、涛万里は一方的に許可を出して来た。
『万事オーケー。ばっちこい。百人来てもだいじょーぶ!』
「そうか。じゃあ友達一人連れていくから。また後でな」
『え――』
通話を切る間際、涛万里の声が聞こえたが、面倒くさいテンションに付き合いながら道を歩くのはよくない。それも歩きスマホとかいうのになるんだろう。
隣にいる須田が可否を訊いてきた。
「涛万里さん、なんだって?」
「いいってさ。一応お菓子でも買ってく?」
「女子の家にお菓子もっていくのか?」
「じゃあ何もっていくんだよ。まさか化粧用具買うわけにはいかないし」
「発想が突飛だなおっしは。普通でいいんだよ、普通で。宿題を涛万里さんに持っていこう」
授業を受けていない涛万里にそれを渡すのは酷だろう。そもそも先生も不登校児の分のプリントを用意しているのだろうか。俺に休んでいる間のプリントが渡されてないあたり、教師側も作成していない可能性がある。
「いや、俺の宿題。友達の家に宿題もっていって、俺が遊んでいる間に友達に解かせる。一石二鳥」
「お前の宿題かよ」
須田の家は反対方向にも関わらず、文句も言わず電車に乗った。あとでまた姉貴に電話しないといけないな。涛万里に電話を借りても、須田の携帯を借りるのでもいい。駅の近くならまだ電話ボックスが生きてるから、そこでもいいか。
「どうしてダイアル式電話が置いてある電話ボックスはないんだろうな。指を突っ込んでクルクル回す。一度やってみたい」
「わかる。おっしの家はプッシュ式?」
「今時ダイアル式はないだろ。そもそも売ってない」
好奇心から旧製品を試行したい。そういうの一手に集めた博物館でも作ればいいのに、と時々だけ思う。
地元駅を通ったとき、須田が降りようとした。
慌てて俺が引き止めている間に、電車の扉は閉じた。
「あれ、なんで降りなかったの?」
「というより、なんでお前が降りようとしたんだよ。次の駅な」
「じゃなくて、おっしの家に寄って自転車で涛万里の家に行けばよくないか。一駅なら自転車のほうが安上がりだろ」
「そこまで気を遣わなくていいよ。節制は心がけてるけど、ウチは貧乏ってわけじゃない」
須田の気遣いは少しいき過ぎだったけど、嫌なものじゃなかった。自分が素直にそう言葉にできるかと聞かれたら、きっとできない。なまじ同じ境遇だったら、遠慮して遠まわしに奢るとか言い出しそうだ。
須田は「そっか」と、その一言だけで引きさがった。こういう空気が読めているなら、もっと普段から生活態度を改めろよ。
「そういえば、やなぎんの説教早かったな。一時間くらいかかると思った」
駅を降りて涛万里家に向かう。地図は昨日と同じものを使った。昨日今日で見栄えが変わるほど世界に変化はない。俺と涛万里が知り合ったのは、ごくごくありふれたものだ。
「ああ、やなぎんに、須田が涛万里と不埒なことをしてないか随行して俺が調べるって言ったら涙を流して解放してくれた」
「なんで涙を流したんだ?」
須田は四十路担任の声音を真似した。
「須田、お前が随行だなんて言葉を知ってるなんて……俺はうれしいよ」
今度は、須田は真面目そうな声を出した。……それ、もしかして自己評価か?
「はい。キャバクラのお姉さんがホテルにお客さんと行くときに使う言葉ですよね。――そしたらやなぎんが泣いた」
「そうか。ここが涛万里家だぞ」
「おう。普通の家だな」
住宅街にありふれた家だ。差があるとすれば、表札に涛万里の名前があることだけ。
インターホンを押す。お客が来るからってお菓子でも買いに出かけていない限り、家にいるだろう。よそう通り、間も経たずに玄関のドアが開いた。
「……おはよう。いらっしゃい」
ゆっくりと姿を現した涛万里。昨日のポニーテールとは打って変わって、青い髪がサイドで渦を巻くツインテール。その日の気分で変えてるのだろうか。袖まである黒いワンピースを着ている。なんだか昨日よりガードが堅そう?
「もう夕方だ。こんばんは、涛万里」
軽く会釈される。涛万里の視線が俺の隣にいる須田に向けられた。兎が肉食動物に見せるような視線だった。
「こんばんは、始めまして。おっし――爼倉と同じクラスの須田です」
須田も涛万里の視線に気まずいものを感じたようで、緊張した挨拶をする。遅刻の言い訳にネトゲを登場させた同一人物だとは思えない。涛万里が小さな声で「こんばんは」と言った。
「おい須田。おまえ、涛万里となんか因縁とかあったりすんの?」
「あるわけないだろあんな美人と。どこかの道ばたで凝視してた可能性ならあるかもしれない」
須田の欲望にまみれた眼差しを涛万里は怖がっている、という風ではなかった。それよりかは、しつこいセールスマンが帰らないときみたいな不機嫌さを……そうか。
涛万里が身持ちの堅そうな服を来ている理由に思い当たって、俺は頭を下げた。
「悪いな、涛万里。押しかけて邪魔だったよな。そりゃそうだよな。昨日あったばかりの男が家に連日押しかけるのは気持ち悪かったよな、ごめんなさい」
頭を上げたとき、目を見開いた涛万里が手をあたふたとさせていた。
「違う、違くって。嫌とかじゃないの。大歓迎。玄関の鍵を持っててもいいぐらい。でも、その、知らない人もいるから……」
須田が腕を組んで唸った。
けれど涛万里。そんなことを言ったら、俺とお前だって昨日が初対面じゃないか。
「須田はいいやつだ。そりゃ女の家に上げるのに不安がないと言ったら嘘になるけれど、少なくとも涛万里に手を出すようなことはない」
「おっし、俺のフォローをするならせめて下げてから持ち上げてくれ」
「持ち上げるだけの利点を挙げてみろよ」
「そうか。よし、見てろよ」
俺の言い返しを待っていたかのように、須田は玄関で怯える涛万里の前に進み出た。
後ずさって家の中に戻ろうとする涛万里の前で、須田は膝を折った。
真摯な眼差しは須田の輪郭を変貌させた。
片膝をついた須田は、さながら姫様を迎えに上がる騎士のようだった。
「某ネトゲでレベルキャップのマゾナイトやってます」
……須田。お前はなんて残念なんだ。もしも言うことが違っていたら、格好いいと思っていたかもしれない。現実で美少女の子の目前に膝立ちまでしたんだぞ。なのに、なのに……。
カップ麺を湯切りする際に、流し台に麺を落としてしまったときのような、徒労と表現するのが一番近しい感情が胸の中に沸き上がってきた。
俺がどうやって涛万里のフォローに回ろうかと思っていたときだった。
姫様は、ナイトの肩に手を置いた。
「ハンドルは?」
真剣な目で、涛万里は須田に訊いた。ハンドル? 車の?
「真琴のしっぽをもふり隊」
須田が即時に言葉を返す。けれど端から見たら変な会話だ。そもそも成立しているのか怪しい。
「カノン鯖の友よ!」
涛万里が唐突に大声を上げた。
鯖。その言葉を、つい最近何かで聞いたような……。
互いに目を見開いて相手を見る。二人だけの空間で、二人だけの言語で喋っている。
「もしや、あなた様は……。お願いします、わたくしに、名前をお教えくださいませ」
膝を折ったままの須田が天に手を伸ばす。まるでそこに架空の何かが見えているみたいに。
涛万里はくるりと回って(どうした)、黒いワンピースの中腹をつかんで恭しくお辞儀した。
「AB-2ndBeats【発売中止】」
涛万里は、さっきまでの怯えた表情を彼方に置き去って、聖女を思わせる微笑をした。
大げさに身を悶えさせたのは須田だった。
「ああ! マザーシスター! いつも陰ながらお慕い申しておりました。よもやこんな近場に住んでいられたとは。会うのは先週のレイド戦以来にございます。わたくしのクラン員のミスで一度ならず二度までも全滅の危機となったところを助けていただき」
「よい。よいのだ。死ななかった。それが全てだ」
頭を垂れる須田。手を組み合わせて祈る涛万里。
……そろそろ、説明をくれとツッコミをしていいだろうか。
「で、それ何の話?」
茶番は二人にとってよっぽど満足だったらしく、ホクホクした顔で俺を見た。二人の声が重なる。
「ネトゲ!」
「……だと思ってたよ」
夕風が独り身にしみると、俺だけが感じていた。
♰ ♰ ♰
リビングに荷物を置いたら、
「ちょっと、上に来て」
と涛万里が誘ってきた。
俺が踏み入れられなかった階段を、須田はなんなく駆け上がった。
学校で、須田を連れて行きたくないと思ったのは、こういうことだったんだろうか。どこか、匂いが似ていると、俺は無意識に感じていたのかもしれない。
他人に優しくする人生はやめたはずだ……はず、だったんだ。
自分のことだけを考えないと、つけいられる。
二階には部屋が三つあり、涛万里は迷わず突き当たり右手の部屋のドアを開けた。
「二人とも、入って」
……ここで、昨日は「牡牛」と呼んでいたことと比較するのは、流石に女々しいだろう。なあ、俺。よそうぜ、そういうのは。
廊下を歩きながら、覚悟していたことを心の中で唱える。
それは渋谷にナンパしに行った前日に決めていたこと。
振られたってしょうがない。振られることが一度や二度のわけがない。相手は人間だ。心を釘付けにさせることはできないんだ。
だから落ち込むな。甘えるな。前を向け。
姉貴の言葉を、何度も唱えた。
「ここが私の部屋」
涛万里が促した部屋の中は、女の子女の子していなかった。人形や小物雑貨の代わりに、一代の机とデスクトップパソコンが部屋を占領していた。
「おお、キーボードとマウスが一杯。こっちはサウンドボードか!」
須田がベッドの上に並べられたキーボードやマウス、床に散らばる緑色の基盤を手にしては天井の電球にかざしていた。
モニターがある机は部屋の一角にあるはずなのに、配線や周辺器具の線路の全てが、パソコンに指針を向けていた。
これはいわゆる、
「廃人?」
涛万里と須田の体が雷でも落ちたみたいに跳ねた。
「おっし、それだけは禁句だあ……」
「牡牛くん、言ってはいけないのです……」
B級映画のゾンビみたいに顔を俯けた二人。よほど言われたくない一言だったらしい。今度からは気をつけよう。でもクラスの女子は須田のことを「ネトゲ廃人」だとよく言っている。本人には今まで聞こえていなかったのだろう、きっと。
「悪かったって。つまり、涛万里も須田と同じくネトゲーマーってことか?」
「はい。もっとも、私が遊ぶのはネトゲに限らないけど。普通のゲームもやるよ。春休みからは特に……」
「ああ、そういえばマザーシスターのキャラも春休みぐらいだっけ。二月でレベルキャップまで飛んできたからニートなんだと思ってたけれど、不登校児か。傍目には同じだけどな」
須田の口からわからない単語が続出する。ひとつひとつ紐解けばいいのだろうが、いちいち聞くのも面倒くさいな。
涛万里が首を傾げていた。
「どうしたん牡牛。丸呑みした動物が何かわからない蛇みたいな顔して」
「それがどんな顔なのか俺には全く想像つかないけれど。いや、わからない会話してたから」
「牡牛はゲームしない系?」
涛万里がまたもや首をかしげる。何かが気になると首を傾ける癖なのかもしれない。
須田が押さえ込むように涛万里の名前を呼んだ。俺も、どこまで涛万里に話していいのか。自分が話したいのかわからなくなっていた。
「あんまし、な」
間違っていない程度の真実。息苦しくならない程度の見栄。
涛万里はそれで納得したらしく、会話に出てきた単語の答え合わせをしてくれた。
「ハンドルっていうのは、ハンドルネームのこと。オンラインゲーム内のキャラクターの名前ね。レベルキャップっていうのは、レベル上限。キャップは頭に被る帽子のことだから、語源はきっとそんな感じ。それと後は……鯖について?」
「それはこの間、紅葉がうんたら言ってた須田に聞いた」
最近、その単語を聞いたと思っていたが、遅刻の言い訳に須田が使っていたのだった。そりゃあ、他にネトゲの用語を使う友達はいないから、出所はすぐに割れた。
「こういう話、牡牛は好きじゃない感じ?」
須田が歓喜の声を牛みたいにあげているのを見ていたら、涛万里が耳元に顔を寄せてきた。涛万里の髪が俺の肩に乗っかる。
「俺はあんまし……。でもよかったじゃないか。須田はあんなに喜んでるぞ」
涛万里の髪がほっぺに触れる。
くすぐったいそれに身をよじることも忘れて、涛万里の息に時間を止められた。
泡立った石鹸のような香りが脳の回転を止めた。
「牡牛に見せるために並べたんだよ」
床が軋む音。涛万里がステップで俺から離れたのだと、後から気づいた。
ちっぽけな悩みを抱く俺を弄ぶように、涛万里はナニもなかったと話しかけてくる。
「牡牛もネトゲやらない?」
「……俺は、いいかな」
「そうなんだ。楽しいよ、ネトゲ」
自室にゲームのための機具を揃えてある涛万里は、影のない顔に笑みを湛えた。