007 風鈴の如し青髪
世間一般が指す「運」っていうのは、差し当たって神の采配だ。
赤ちゃんは神様の贈り物。違うだろ。
道ばたに落ちていた百万円は奇跡。違うだろ。
覚えの無い評価で人生が好転する。そんなのは、誰かのおかげだろ。
全部、誰かのおかげだ。誰かのせいだ。
俺は認めない。
この世に偶然なんて存在しない。
全ては知らない何かの積み重ねでしかない。
そもそも、偶然とはなんだ。
宝くじが当たったら「幸運」だと思うかもしれない。けれど宝くじの制作側からしてみれば、当たるのは必然だ。誰かが当たるように作っている。
偶然とは主観的なものでしかない。
主観でしか説明のできないものを存在しているとは言い難い。妄想の彼女の実在を認めてしまうようなものだ。人間の繁殖本能的に、それは看過されない。
誰かの偶然が他者の必然。二つの見方。どちらかが正しいと断言できない。
ただ一つ言えることは、それに関与しているのは人だということだ。
髪は宝くじを作ってない。神が当たる人間を選考していない。お金を用意したのも勿論人だ。
神じゃなくて、人だ。人だけが全てだ。
世の中の良いこともも嫌なことも、嬉しいことも悲しいことも――誰かの居場所も、全てに人が関係する。
俺は神を選ばない。
運なんて、あやふやなものを頼らずに生きるために。
けれども、学校の教室の後方で立ち上がった俺は、理不尽な弁を唱える担任に向かって、叫んでいた。
「不運だ! 理不尽だ!」
そんな不毛な言葉を。
♰ ♰ ♰
「うるさいぞ爼倉」
「これが落ち着いていられますか。なんすか、不登校の子の家に行けって。はた迷惑極まりないですよ。お互いにとって」
大宮猫高校は一学年十五クラスを抱えるマンモス校だ。入学当初の頭の良し悪しで六つのコースに分かれており、全校集会や行事以外はおおむねコース毎で行われる。クラス替えも前後のクラスと文理で分離するため、実際に関わる生徒数はもっと少ない。
特色もなく頭脳も世間的には中の上ぐらい、下から二番目のコースに俺は籍を置いている。そのコースには誰も姿を見たことがない不登校がいた。二年生の初頭に俺が所属するクラスに編入したが、一度も学校に来ていない。怪我や家庭の事情ではなく、登校拒否……みたいなものらしい。
担任の柳先生はため息をついている。そんなことは先刻承知だ、みたいな顔つきだ。
「そりゃあ、涛万里もクラスの面々を知らない。知らない奴が家にいきなり来たら嫌がるだろう。だからといって、このまま何もしないつもりか。来週までに来なかったら、彼女は退学だぞ」
「そんな脅され方したって、その涛万里さんが退学になろうが知っちゃこったないですよ。なまじ会ったことすらないのに」
「だよなあ」
やなぎんは珍しく、物わかりのいい口調だった。今が好機とみて、俺は追撃をした。
「そもそも、退学勧告を生徒にさせるのだっておかしいでしょ。電話してくださいよ。文明の利器ですよ。電話。涛万里さんの家に電話がないなら、郵便でもなんでも、手段はあるでしょ」
電話と口に出して思い出した。今日、帰ったら水無月に電話しなくてはいけない。なんとしても早く帰る必要がある。だからこそ、余計なお役目を背負わされるのは御免だ。
「手段はある。メールも電話も涛万里宅に通じる」
「それで、涛万里さんは何て言ってるんですか?」
明日は行きます。
「だ、そうだ」
「……それ、いつ言われたんですか?」
「昨日だ」
本日も丸一日、教室窓際、俺の一つ後ろの、前から四番目は空席であった。
涛万里は学校に来るという約束を破ったらしい。
「正確には、先週から昨日まで、毎日そう言っている」
「来る気ゼロじゃないっすか!」
俺の後ろの席は、須田やらクラスの女子が弁当食う時だけ都合よく使う。持ち主不在が当然の机だ。
一週間も行きます詐欺をしているなら、間違いなくそいつは来ないだろう。来られないだけなのかもしれないから、責めることはできないけれど。
やはりいじめだろうか。前の学校でいじめられて、編入先でも恐怖が取り除けずに学校に来られない。ありがちといえばありがちなパターンだ。そんな生徒に対しての打開策が他の生徒にお迎えをさせるなど、ネズミの国に猫を解き放つみたいじゃないか。それはそれで猫が負けそう。
「俺は涛万里さんの家に行かないですよ」
「家は爼倉と一駅しか離れてないぞ。帰り道だ」
「パン屋寄るのとはわけが違うんですよ。そんなついでだからみたいに言われても」
柳先生はよほど不登校案件に焦っているらしい。いつもはここまで引っ張ることもないだろうに。それに、どうして俺を指名したんだ。一駅しか離れていないということは、一駅も離れているということだ。同じ駅の人ぐらい他にいるだろう。
「大体なんで俺なんですか。それに涛万里さんは女子なんでしょう。男の俺よりも女子の方が適任でしょう」
周りの女子から小声でブーイングが飛んでくる。
ブーイングを無視した俺に、やなぎんが用意していた弾丸を撃つ。
「はあ。それはな、爼倉。お前が今日、遅刻したからだ」
「……確かに遅刻しました。けれどそれとこれに何の関係があるんですか?」
遅刻は悪だ。それは認めよう。俺が全面的に悪かった。遅刻の遠因が朝の青髪の彼女にあるとしても、それを許容したのは俺の甘さだ。彼女に責任はないし、擦り付ける気も毛頭ない。
だからといって、クラスメイトを家まで学校に来るように説得するのは俺の仕事じゃない。
「昼休みに呼び出した須田に言われて私も気づいた。同じく遅刻した須田にだけ反省文を書かせて、爼倉にお咎めなしというのは、教育者として平等ではないと」
教師をたぶらかしたネトゲーマーに射殺す視線を向ける。この視線であいつが血反吐でも吐けば御の字だったが、そんなことはなくあいつは親指を立てた。あいつのパソコンを壊してやりたい。
「須田は遅刻の常習犯だから反省文を書かせる。だが爼倉は初犯だ。今朝も、偶然、眠りこけていた女子生徒を起こすのに手間取って遅刻したのだと須田に聞いたぞ」
「須田てめえ、なんでそれ知ってんだよ」
「……え、マジなの? おっしのためを思った方便だったのに」
クラスが色めき立つ。墓穴を掘った形になる。あいつのマウスやらキーボードやらを水没させることを予定リストに組み込んだ。
「……須田はもう一度職員室に来い。爼倉は、まあ、ついでだ」
ついでの一言で放課後に余計な仕事を追加された。やなぎんはホームルームが終わった後に、涛万里なるクラスメイトの住所と電話番号を教えてくれた。それとついでに、定期圏外の駅だからと差分の百円をくれた。まるで小学生のおつかいだ。
ひやかすクラスメイトに畳返しで応戦しながらの帰宅。電車は地元駅を通り過ぎ、埼玉も田舎へと突き進んだ。埼玉という関東圏でアッパーミドルな田舎である証左は、駅にある。お隣の駅というだけでがらりと風景が変わる。基本的に埼玉は駅近辺だけが繁盛しているから、施設もお店もない駅は人通りまで寂しい。
俺の地元駅は寂しい方。一個向こうの涛万里家がある駅は賑やかな方。夕方の時刻も相まって、駅前はおばさまや他校の生徒と袖触れ合う。
住所には番地まで書かれていたが、携帯のない俺は時折見かける看板地図だけが頼りだ。子供や老人向けに作られているそれとにらめっこしながら、団地を抜けて一戸建てが並ぶ住宅街まで足を伸ばした。
「ここかな」
特に目新しくもない二階建ての表札には、『涛万里』と苗字だけが書かれていた。
夕陽の傾き具合からして、ご飯を作り始める頃合いだろう。そんな時間にお邪魔するのも悪いと思ったが、だからといって同じ手間暇をもう一度かけるのは御免だ。迷わずインターホンを押した。
十数秒したころ、インターホンにノイズが走った。
「はい」
小学生の声だった。涛万里さんの妹だろうか。初耳だ。いや、情報なんて何も降りてきてないんだけども。下っ端はつらいぜ。
「こんにちは。大宮猫高校の二年生、爼倉です。そちらの涛万里――」
しまった。涛万里の名前を聞いてくるの忘れた。先生も常識だろうと俺に教えてくれなかった。しかも、牡牛の方が呼びやすいのに爼倉と生徒の苗字を呼ぶ先生は、一度も涛万里の名前を発していない。何か言わなきゃ。ここで言葉が詰まるのはとてもとても失礼だ!
「――ちゃんに会いに来たプイ」
死んだ。ああ、穴があったら入りたい。なんでこんなことを口走ったんだ。
「プイ」
小学生が頭の悪い語尾を繰り返す。無感情な声は明らかに警察に通報しようか迷っていた。
言い訳をする前にインターホンが途切れた。さてと、逃げるか。
クラウチングスタートをするための準備運動をするのと同時に、やなぎんへの言い訳を考える。涛万里家に行かなかった理由は姉貴が隣町で結婚することとなり、私は出席しなければいけませんでした。だから須田に代わりに行ってもらうよう頼んでいました。これでいい。やなぎんの担当教科は古典文学だから、宮沢賢治は外れるだろう。あれ、夏目漱石だっけ?
片膝を地面から浮かせていたら、玄関が開いた。小学生ならセーフ。電話持ったご両親ならアウト。よよいのよい。
俺は手を地面に接地させながら見た。玄関に立つ、エプロン姿の女性を。
「え……」
胸が詰まる。もしも世界で一番美麗な専業主婦を問われたなら、間違いなく目の前の彼女が選ばれる。世界三大美女の一人を変えてもいい。
身長は日本女性の平均。年の頃合いは同じくらい。髪は後ろで括られている。ポニーテールが快活に見えるのは、その髪色が黒ではなく明るい青色だからだろう。
青色。本日二度目ましての、群青色。
「げ、今朝の」
制服の上にエプロンを着用した青髪は、俺の姿を認めるやいなや、口を大きく開けて露骨に嫌な顔をした。
今朝…………………………え、今朝の青髪?
だって今朝は髪の毛すだれだったじゃん。ああポニーテールにしたのか。顔なんて見えなかったけどびっくりした。ああびっくりした。パイナップルだと思ってたら実はスイカだったみたいな。そんな経験ないからこの比喩が正しいかわからない。落ち着け俺。
よく見れば似てるかもしれない。そういえば制服の形状が一緒だ。女子の制服は一種類あるから、もしかしたら制服が違う可能性があるかもしれな、いやいやない。
「涛万里……さん?」
今朝会ったらしい彼女に聞いてみる。まあ、涛万里宅の玄関から出てきたから違うことはありえないわけだが。
青髪の彼女。おそらく涛万里さんは、手に持っていた包丁を剣に、一歩ずつ後退した。しんがりを務める武士みたいだと呑気に思っていたら、彼女はそそくさと玄関の扉を閉めてしまった。
逃げられたと気づいたのは、クラウンチングスタートを通りすがりの本物小学生に笑われてからだった。
再チャレンジ。日を跨がず、俺を笑った小学生を追い払った後、涛万里家のインターホンをプッシュ。
数十秒経っても開かない。
プッシュ。プッシュ。プッシュプッシュプッシュプッシュ!
だっだっだ、と家の中から物音がする。巨人が疾駆するような音だった。あ、どてって鳴った。こけたな。
案の定、鼻頭を抑えた涛万里が恨めしげに玄関から顔をのぞかせた。
「居留守よ」
「警察だ」
嘘ばっかりだった。水無月がこの場にいたら裸足で逃げだすレベルの。
「涛万里で合ってるか?」
顔を半分だけ見せている青髪に尋ねる。微かに彼女は頷いた。
「それで、二年一組の……股座さん? が、何か用」
「股座じゃない爼倉だ」
「小説向きじゃない天丼ネタね」
わかってんだったら一発で覚えろよ、と怒りを露にする一歩手前で押し止まる。彼女は不登校児だ。過度に優しく扱うのも、些細なことで喧嘩腰になるのも、風船を針で突っつくみたいに危険だ。扱いには慣れていないがわかっている。
「涛万里、今時間あるか? 俺は担任の先生に頼まれて来たんだ」
今は体を扉に隠してわからないが、さっきはエプロンを着ていた。家族の食事を用意している彼女を邪魔するくらいなら、一度出直してもいいと考えていた。けれど涛万里は、突き放した途端に尻尾を振る子犬みたいなしぐさで、玄関を開けた。
「なんか失礼な想像してるでしょ」
「大丈夫だ。主婦として完璧な姿だから写真を撮ってパパラッチに売りたいだなんて考えて」
玄関が閉められた。
♰ ♰ ♰
「お邪魔します」
エプロンを外してしまった涛万里がドアを開けてくれたのは、夕陽も落ちて街灯が家の前に立つ不審者を明るみに出し始めたときだった。防犯対策がバッチリな街で嬉しかなん。
靴を脱いで、涛万里の背を追う。使い古された壁だった。二年の初めに出回った噂では、涛万里は埼玉に引っ越して来たのだと聞いていた。貸し家というやつだろうか。
リビングに通される。大きな大人向けのアニメが流れるテレビを囲むように、二脚のアンティーク風味な椅子がある。チャンネルを変えた涛万里に座るよう促されて、どちらに座ろうか迷った。上座とか下座とか、どっちがどっちかわからない。家主である涛万里が上座なのだろうが、上座ってなん
だよ。テレビが正面にある方が上座っぽいな。
涛万里がテーブルにお茶を入れてくれた。すぐに追い返す気はないらしい。
「それで」。上座に座るやいなや、つまらなそうにテレビを見始めた涛万里。「学校の生徒がなんの用。今朝会ったときのことを訴えたいとか言われても、払うものなんてないけど」
今朝、俺は登校するための電車で涛万里と会っていた。そのときの彼女は髪に手を加えずに流していた。だから顔を見ていない。けれど彼女の小学生みたいに高く未発達な声音は特徴的で、同一人物だとはっきり教えてくれた。
「担任の柳先生が、学校に来いってさ。今日も来てなかったな」
「……」
「朝、同じ電車に乗ってたのに」
涛万里が家からエプロン姿で出てきたとき、もしも彼女が涛万里なら、と仮定して不思議だった。
彼女が涛万里その人なら、彼女は引きこもりではない。なぜなら彼女とは朝の電車で会ったから。
電車で会ったとき、彼女は同じ高校の制服を着ていた。でも、学校行きの電車に乗ったはずなのに、涛万里は学校に来なかった。
「……先生も、私が電車乗ったこと知ってるの?」
「そもそも今朝の青髪の学生を涛万里だって認識してなかった。担任には報告してない」
「そう……」
涛万里の視線はいつの間にかテレビから外れて、膝の上で擦り合う指を眺めていた。重苦しい雰囲気は嫌だ。いつ彼女の家族が帰ってきて、「涛万里を泣かすのは誰じゃあ!」と鬼面の父親が襲ってくるかもわからない。
「涛万里、ご飯、いつも自炊してんの?」
萎れていたポニーテールがちょっとだけ元気になった気がした。
「うん。私しかいないから」
「偉いな。俺も飯を作れたらいいんだけれど、全然上手くなくて、いつも姉貴に頼ってる。料理を作れる人って尊敬する」
「まあ、しょうがないよ。カップ麵とかコンビニ弁当ってなんか食べたって気がしないから。空気でも噛んでるみたい」
「最近のカップ麺はうまいぞ。特に油そば。胸やけする」
「何それ。そんなん旨いとは言わないし。でも油そば、食べたことない。テレビで見たことあるけど」
「オススメはぶぶかっていうところ。五人に四人は胸焼けする。あ、でも、ぶぶかのカップ麺は油そばはいいけれど、ラーメンの方はやめとけよ。毎年恒例なんだけどさ、ぶぶかの油そばが春先に発売されて、みんなが中毒になった頃合いに微妙なラーメンの方が発売される。美味しくないけれど、あのぶぶかならってラーメンにも手を出しちゃうんだ」
なお実話。
「へえ。じゃあ今度買ってみようかな」
「だな、コンビニとかスーパーで売ってるよ」
そう口にしてから、失敗に気づいた。不登校児に外出しろとは、酷な話ではないか。
あれ? でも、彼女は引き籠もりじゃないからいいのか……?
「うん。まだご飯食べてないから、今日の夜ご飯はそれにしようかな」
意に反して、涛万里は素直に頷いた。
「いや、あれは健康な若者なら食べれるけれど、焼肉食べるのがしんどくなった親世代には刺激が強い気が……」
涛万里の両親が油そばで娘に毒殺されるのは御免だ。胸焼けで死んだときの死因が毒殺なのか食中毒なのかという話はともかく、情報提供者の俺が共犯扱いされることも嫌だった。青色のポニーテールが困ったように揺れた。
「あれ、担任の先生とかに聞いてなかった?」
「住所と電話番号以外は特に何も」
ソファから軽やかに腰を浮かせた涛万里は俺に背を向けながら、戸棚にある封筒を開いた。
上半身だけ振り向かせた彼女。指には千円が挟まっている。
「わたし、一人暮らしなんだ」
涛万里家を出る。近くのスーパーまでカップ麺を買いに行くことになった。千円札を片手に持つ涛万里と一緒に。
「ママは小さい頃に蒸発しちゃって、ずっとお父さんと暮らしてた。お父さんも私が二年生になって海外出張。もぬけの殻だったおばあちゃん家に私だけ越してきたの。マンションの一室を私だけが占領するのも、日本じゃバカ高いからね」
あの家は貸し家ではなく、列記とした涛万里宅だったらしい。表札にもそういえば威厳があったような気がしないでもない。
「兄弟は?」
「いない。一人っ子。妹とか欲しかったかな。……そしたらこうはなってなかったかも」
地元のスーパーまでは徒歩数分。慣れた足取りで軽快なサンバが流れるスーパーに入店した。大きくも小さくもなかった。駅から離れている地元根付き型の食料品店ならこんなものだろう、と訳知り顔で頷いてしまうぐらい普通だった。
「カップ麺は二番通路だってさ」
「わかってるよ、私の地元なんだから。もう二ヶ月ご贔屓にしてるんだよ」
「贔屓ってか、こういう場合は愛用にしてるとか言うんじゃないのか」
「細かいなあ。文系?」
「いや、理系。宗教学とか倫理学とか全滅タイプ」
やる気がないだけとも言える。涛万里は面白かったらしく、力の抜けた笑みを見せた。
「ははは。私もそう。理系。でも哲学とかは好き」
「よかったな。うちのクラス担当の哲学の先生は面白いぞ。担任の柳先生とは電話で話したんだろ」
「うん……。先週から、電話がかかってきてるから」
「あの人は古典な」
「うっわ、ヤだな。学校行きたくない」
「来てないだろうが引きこもり」
「引きこもりじゃないし。不登校してるだけで引きこもってはないし」
不貞腐れるような顔が面白くって、スーパーの中で笑ってしまった。時間は七時だったこともあり、主婦はいなかったが、代わりに総菜を買う独り身ばかりの中で俺と涛万里は目立ってしまった。
なるほど、制服姿でスーパーに二人で買い物か。銃社会なら事件が起きてたな。
「って、七時!」
もう一度スーパーの壁にかけられた時計を見る。七時まで残り十分ほど。やばい。姉貴に連絡してない。こんな時間まで電話をかけなかったら過保護な姉貴は必ず心配する。まさか警察に捜索願を出すほどじゃないが、心配はかけたくない。けれど俺は電話を持っていない……。
「涛万里、携帯持ってるか?」
「なに、どうしたの。テレビの録画? 私が録画したのだったら後でダビングしてあげようか?」
「ちげえよ。姉貴に連絡しなくちゃいけないんだよ」
「お姉さん? どして?」
鬱陶しいなあ。そんななぜなぜと聞かれたって、いつも答えがあるとは限らないジェシー。
「姉貴が俺の保護者だから。心配かけたくない」
「……わかった」
その一言でどこまでわかってくれたかはわからなかったけれど、とりあえず矢継ぎ早に質問が飛んでくることはなかった。
「あ、ごめん。携帯持ってない。どうする? 私の家に戻る?」
今から駅まで走っても、到底七時には家に着けないだろう。七時は目安だから厳密に守る必要はない。でも、姉貴が家で待ってると思うと胸が痛んだ。
「頼めるか? ごめん。無理言って」
「いいよ。じゃあご飯はどうする? お姉さんが作ってるなら……」
涛万里は言いながら、手に持ったカップ麺を差し出してくる。買い物かごには既に一つ同じものが入っている。
「お姉さんの手作りの方がいいと思うけれど」
素直な気持ちは、涛万里と一緒にご飯が食べたかった。彼女と話していると気が休む。
けれどここは現実案を取ろう。
涛万里の手を掴んで、そのまま買い物カゴに突っ込む。小さな手は、少しだけ骨ばっていた。けれどやはり女の子の手だと思うぐらいましゅまろってた。
「とりあえず買う。姉貴が夜ご飯を作ってたら帰る。そのときはカップ麺は涛万里にプレゼントで」
「わかった。じゃあ支払いしてくる。鍵渡そうか?」
「もっと危機管理持て。俺が泥棒したらどうするんだ。さっき戸棚の封筒の在処まで見せてたけど、もっと人に見つからない場所に隠しておけよ」
ポニーテールが笑い転げるみたいに上下に揺れた。
「母親かよ」
そして罵倒を残して、涛万里はレジに向かう。
「……どういう意味だよ」
その笑顔を見送ってから、俺は一足先にスーパーから出た。
涛万里の家に転がり込んだ俺は、とっさに偽名を名乗り……。
「涛万里牡牛です。結婚しました。お姉さまは如何お過ごしでしょうか」
「本当にやってる……。じゃんけんの罰ゲームくらいで」
姉貴に電話をかけた。携帯電話じゃなくて涛万里家の親機。時刻は七時丁度だった。
『そうか』
姉貴の反応は淡泊だった。少し拍子抜けしながら、お伺いを立てる。
「それでお姉さま。ご飯の時間に唐突で申し訳ないのですが、今日の夕ご飯は外で食べますので」
『ステーキだけど』
心が揺れる。けれど涛万里に悟られないように、うめき声は出さなかった。
『三橋のおばさんが送ってくれた黒毛和牛。今日が食べごろ』
「ぐはっ」
「どうしたの?!」
だめだった。そんな美味しい食材をぶら下げられたら、二つで四百円のカップラーメンが駄菓子程度に感じてしまう。
電話の向こうで姉貴は満足そうな顔をしているだろうか。
『冗談だ。まだご飯は作っていなかった。作り置きしないから、ちゃんと食べてきなさい』
「……うん。ありがとう。でも友達の家でカップ麺食べるだけだよ」
背で息をのむ声がした。起きたとき窓を開けたら晴れていたときのような。
『私のことはいいよ。それより牡牛、六月さんへの電話はどうするの?』
「あ……」
水無月の顔が走馬灯のように駆けた。まるっきり失念していた。どうしよう、か……。
水無月への電話を先送りにはできない。
約束を破るのを嫌うだろうと、たった一度の会話だけれどひしと伝わってきた。
「八時ごろには家に帰るから。それから電話するよ」
『そうか。家の方に失礼のないようにな』
「子供じゃないっつの。姉貴もちゃんと鍵閉めとけよ」
受話器を置く。後ろでは涛万里が呆けた顔でこっちを見てた。アメリカ産のホームコメディーを見終わってくつろいでる感じ。
「どうした」
「ううん。なんでもないよ。ご飯、どうだって?」
「ゴチになります」
「ご馳走するのお湯しかないけどね」
立ち上がった涛万里がカップ麺を二つ、キッチンへもっていった。
「そうだ。油そばのシミは抜きにくいから、服は着替えたほうがいいぞ」
「まだっ……爼倉君は?」
「言いにくいなら牡牛でいいよ。食べなれてるからこぼすなんて粗相はおかさない」
「そっか。わかった……牡牛」
涛万里は俺のカップ麺にもお湯を注いでくれた。その間に着替えるのだろうか、階段を上がってしまった。リビングにはこれといった特徴もなかった。写真とか貼り付けてあるのかと眺めまわしてみたが、それらしいものは見つからなかった。涛万里の自室にはあるのだろうか。
ソファに腰をうずめる。涛万里の部屋はどんな感じだろう。
俺が知っている女の部屋なんて姉貴のぐらいだ。けれど姉貴の部屋は殺風景で、小物すらなにもない。モデルルームみたいな部屋にかろうじてある色は、俺と姉貴のタンスだけ。クローゼットもあるけれど、そこはモデルの仕事で使った服がしまわれている。姉貴の趣味ではない。ベッドも無地で、人形の一つもおいていない。いや、二十歳にもなれば人形に興味はないか。
けれど現在進行形の女子高生なら、人形が好きでもおかしくない。涛万里の部屋が人形まみれのピンクな乙女色で埋め尽くされていても、なんらおかしくない。
時計を見ると三分経っていた。カップ麺が出来上がった。上で物音がしているから、涛万里は部屋にいるのだろう。迎えに行くのは忍びない。廊下から二階に続く階段には鞄や本が散乱していて、物置みたいだ。生活感があるともいえる。俺が階段を上がるのは、早い気がした。
「涛万里、先に食ってるぞ」
「すぐ降りる!」
「ゆっくりでいいからな」
先に涛万里のカップ麺から流し台へとお湯を捨てる。手先の感覚だけで残量を知る。兎のタイマーだけが職人の手際を見ている。
見事だピョン。
涛万里はギブアップした。ソファの背に倒れながら、胸元からこぼれ落ちそうな脂肪の塊を何度もさすっていて、俺の視線がちらちらと動くのを目ざとく発見した。冤罪を晴らすために油コーティングされた麺をほぼ二人前食べた。当分は野菜だけで生活できそうだ。
テレビをぼんやり見ながら話しているのも心地よかったけれど、いつまでも厄介になるわけにはいかない。後片付けを済ませて、涛万里家を出た。夜風が涛万里の黒いワンピースをなびかせる。
「お邪魔したな」
「特にお構いもしてないよ。それより、牡牛は何の用事だったの?」
ポニーテールの尻尾をもじもじと触る。犬が自分の尾を追いかけるのに似ていた。
「学校に頼まれていたのは、来週までに来ないと退学になるぞって勧告。けれど、相手が涛万里なら必要なかったな」
「ん……ん? 必要、ない?」
涛万里は今朝、電車の中で呼びかけた俺に言っていた。
――遅刻するぞ
――いい!
それに先週から学校に来ていないのも加味すれば、自然と結論はでる。
もう、退学を受け入れているのだ。
「学校やめるならやめるでいいと思うぞ。俺が養ってやる」
「……ねえ、それってどういう――」
強く吹き付けた風が葉っぱを擦り合わせる。街灯が急かすように点滅を始めた。
「涛万里、また来てもいいか?」
涛万里の視線が宙をさまよった後に、地面へと釘付けになった。涛万里の顔はまた髪の毛に隠された。
「――……うん。いいよ。私は暇だから。どうせ、学校に行かないんだから……。うん」
「ああ。じゃあ暇ならまた明日来るよ」
手を振って涛万里家から離れる。振り返ると、俯いたまま、涛万里は自宅に入っていった。
彼女は迷惑だったのかもしれない。もう行く気のない学校にせっつかれるのも、男がまた来訪するのも。けれど俺は涛万里の姿勢を好きになった。
彼女は生きたいように生きている。
食べたくなったら好きなものを食べ、着替えたくなったら好きなものを着て、行きたくなかったら学校だって眼中にない。
世間からすれば世捨て人とか傍若無人とか自己中心的だとか、悪いように言われるのかもしれない。けれど俺は、彼女の我を通すスタイルを好ましく思う。ハーレムを目指す俺の目標と、重なっている、見習う点もあるかもしれない。
「また明日、行こうかな」
今週の平日は残り四日。
涛万里が退学扱いになるのは来週だと言っていた。来週の月曜が最終日となる。
もう一度くらい、涛万里の制服を拝んでおきたかったと、少しだけ後悔した。