029 七月七日・壊れた天の川
明日がテスト当日であることを鑑みて、八時も過ぎた頃には勉強会も終わった。
「あ、そういや今日発売のゲームを買い忘れてた」
駅までの道のりで、須田がそんなことをぬかしやがった。
「いや、明日が期末テスト初日だから。買わせるわけねえだろ、帰って勉強しろ」
ジト目になった須田が、寒そうに身を震わせていた涛万里から離れて、俺の隣にくる。顔近づけんな。
「牡牛、ここは二人きりで姫君を送るべきだ」
「気遣いのつもりかもしれないけれど、ゲーム買う口実だろそうなんだろ」
「姫君」
須田が涛万里を呼ぶ。俺のことは無視か。かじかむ手を吐息で暖めていたお姫様は、こちらに目を向けた。
「私はゲームを買うために一足先にドロンするでござる」
キャラぶれぶれかよ。
「よろしいですか?」
お伺いを立てる須田。視線の先の涛万里は、困ったように俺を見て、すぐに視線をそらしてから、頷いた。
「寛大なご配慮、痛み入ります」
しからば、と言い去って須田は駅の方向に向かった。
……須田のやつ、これで留年したら卒業するまで笑ってやる。
今日は無口な涛万里と住宅路を歩く。人一人分の隙間を開けて。
「コーヒー、買ってくる」
涛万里はさっきからしきりに手を擦り合わせていた。夏であっても、白いワンピースだけでは夜風が防ぎきれない。日に焼けていない無垢な素肌。
ここで抱き着いて「温めてやるよ」とか言って許されるのは間違いなくイケメン。というかイケメンでもそんなことしたら金的ビンタ通報タイーホまで連鎖コンボだドン!
だから温かい飲み物の提供が精一杯なんです。ほんとなんです。
住宅街を抜けて、公園にさしかかった角にある自動販売機。ミルク入りの甘いコーヒーを買って、涛万里に手渡す。
「ありがと牡牛」
「須田みたいにどっか行って、ゲーム買われても困るからな」
「いやー、さしもの私も常識人だからね。退学かかってるテスト前日にゲームはできないんだなあ」
涛万里は歩き出さずに、自動販売機の傍、公園前のペンキのはげた木製椅子に座った。
「ああ、ここだ」
「なにが?」
「封鎖されるって公園」
「へー、広いね」
遊具や池に目線を向けた涛万里。すぐに興味を失って、コーヒー缶のプルタブを開けた。
促される前に、俺も涛万里の隣に座った。
何か話したがっていることは勉強会のときからわかっていた。俺を見る視線にも、いつもとは別の感情が混じっていたことにも気づいていた。
水無月が高校に行っていない。それでもいいと俺が言った辺りから。
コーヒーをすする音がする。
「勉強、どうだ?」
間が空く。
「退学は、ないでしょ」
コオロギの鳴き声が聞こえた。
「赤点取るなよ」
スズムシだっけか。そういえば今年のセミはいつ鳴き始めるのだろうか。
「……」
すすり鳴く声が聞こえた。
隣を見ると、涛万里は泣いていた。
コーヒーをすする程度の小さな音にさえ負けるほど、過小な声すら殺しながら、涙を白い服の上に落としている。
「ごめん!」
悪いと思っていることがたくさんあった。
だから、泣いている涛万里を見て、すぐに謝る言葉が出てきた。
「どうして謝るの。なにを悪いと思ってるの……?」
俺は先月、涛万里を苦しめた。学校に行く行かないという個人の問題に、俺が介入した。俺の願望を織り交ぜてしまった。
結果的に涛万里は不登校をやめて学校に来た。
もしも、不登校をやめていなかったら? 学校に来なかったら?
その結果は、俺と水無月のような関係性になっていたのかもしれない。
必死に思い悩んだ涛万里の選択――分岐して消し去ったはずのルートにいる自分を見てしまった。
そんな存在が……好意を向ける相手の傍にいたら、どう思うだろうか。
思いあがった考えであることは十分にわかっている。それでも、そう思わないと、涙の理由が俺には理解できなかった。
泣きじゃくる涛万里の気持ちにわかるとかごめんとか言いたい。
「謝るぐらいなら、どうしてこんなことしたの……」
涛万里の声。初めて聞いたとき、小学生みたいな高い声だと思った。
でも、引きこもりをやめてから、クラスの奴らと教室で会話することで、引きこもっていた間に衰えた声帯が元に戻って、今では少し高いだけの普通の女の子の声だ。
ぐずった小学生なんかじゃなくて、目の前の同い年の女子高生が、泣いている。
「牡牛が助けてくれたこと、私は嬉しかった。家に来てくれたことも、ゲームの中で私に呼びかけてくれたことも、ご飯を一緒に食べたことも、クラスに馴染めるように支えてくれたことも、勉強を教えてくれたことも、私は」
涛万里の大きな瞳から顎にかけて、肌を切り裂く筋が生まれていく。
それは涛万里が言葉を紡ぐほど、俺を憎む程、大きさを増していった。
「私は愛情を感じてた。私の家で、牡牛が私を好きだって言ってくれて、牡牛は私を見てくれてると思ってた。牡牛は――私と同じ気持ちだとずっと思ってた」
安いコーヒー缶を持つ涛万里の手に、俺の手を重ねようとした。重ねる前に、弾かれた。
「どうして一番じゃないのに、好きだなんて言ったの」
――どういうことだろう。
頭の中で、俺が思う涛万里の悩みと、現実の涛万里の叫びが一致しない。
涛万里は何に対して怒っているんだ。
その答えを、涛万里はすぐに教えてくれた。
「ハーレムって、なに……?」
♰ ♰ ♰
「それは……」
どこでバレたんだろう。誰がバラしたんだろう。ハーレムについて家の中で知っていたのは姉貴だけだ。ああ、そういえば姉貴とファッション雑誌を囲んでいたっけ。そのときに姉貴が告げたのかもしれない。俺のタイミングで話すとか、ハーレムのことを涛万里に教えたかどうかまでは、話していなかった。
迂闊の一言では済まないほどに、涛万里の傷は深かった。
「ゲームの話? ギャルゲーの話? 攻略キャラクターは誰? たまたま涛万里とか六月っていう珍しい苗字のキャラクターがいるの?」
どこまで知っているのだろう。
何を知っているのだろう。
どこまで引き返せるだろう?
勉強会の風景が、遠い昔の出来事に思えた。
「ねえ、牡牛。わたし、嫌だよ。二番は嫌。いつか、私が選ばれないことが来るなんて耐えられない」
「それは違う。ハーレムについては、ちゃんと説明するつもりだ。でもとにかく信じてくれ。何があっても涛万里を見捨てることは絶対に」
「見捨てるとかそういう話はしてないよ。じゃあ一番と比べても、私を取ってくれるの? 選んでくれるの? だったら私を一番にしてよ。私のことをもっと考えてよ。私にもっと好きって言ってよ」
ズボンに熱い液体が飛び散る。続いてカランコロンと、コーヒー缶が地面に落ちて跳ねる音が聞こえた。
その間、俺の顔は涛万里の熱された両手に挟まれて、ずっと彼女の顔だけを見ていた。
「私が大切で大事で一番なら、ここでしようよ」
公園の傍。大きな公園だ。人目につかない場所なんていくらでもある。
何を、なんて言えなかった。
その瞳に冗談を写す余裕なんてないと、溢れる涙を流しながら涛万里は訴えていた。
「私はできるよ。私は私を好きでいてくれる牡牛のことが一番大切で一番大事で一番大好きだから。誰にも負けないくらい、牡牛が大好きだから」
こもる熱量に押されそうになる。
夜風が吹いていた。どこか寒い場所から、この一連のやり取りを眺めている。
欲望にうなされて、唇の柔らかさを目で感じている俺に向かって、臆病なそいつは慌てて言うんだ。
「ゲームカセットほど人は脆くないから、強く抱きしめていいんだよ。壊れるくらいに私の体を触っても、心までは壊れないんだよ……」
――それは恋じゃないと。
「ごめん」
蛇口をひねったような涙が、腕を振りかぶった衝動で空中に散った。
「性欲馬!」
視界が四十五度、回転する。
顔を戻したときには、もう涛万里は走り去っていた。
半分以上も中身が零れて、コンクリートに河になっていたコーヒー。缶を拾い上げてゴミ箱に捨てる。
涛万里は駅の方向に走って行ったけれど、何があるかわからない。須田から帰宅したか確認のメールを涛万里に送ってもらうように、帰ったら電話しよう。
「須田は最悪、ゲーム買って勉強しないかもしれないしな。勧告ついでに、うん、電話しよう」
須田は人の秘密を噂するような露悪趣味はしていないけれど、テスト前に勉強をサボるくらいならしそうな気がする。
そのついでに、確認をしよう。
コーヒーが自販機の取り出し口に落ちてくる。ミルク代すら節約した不味い安物コーヒー。プルタブを開けて、煽るように飲む。
見上げたときに見た空の、どこにも織姫と彦星はいない。
夜空に人を繋ぐ架け橋なんてどこにもない。
これが神を恨んだ罰当たりなら、くそくらえだ。
……いや、神はいない。いてたまるか。
ただ、俺が最低だっただけだ。
「ああ、まっずい!」
七夕の夜は、誰との逢瀬も叶わずに幕を閉じた。
ただずっと、頭の中を誰かの声が反響していた。
――それは恋じゃない、と。
恋じゃないなら、ハーレムを作りたいこの気持ちはなんなんだよ。




