002 自称神様
迷子になって彷徨った道を、女子高生に連れられて戻る。
俺を先導する制服姿の黒髪女子高生――まだ名前は聞いていなかった――がどうして幼く見えるのかを考察しながら、彼女の背を追った。靴のサイズが小さいからかもしれない。
暗がりが段々と明るくなると、周辺も高層ビルから兎の家みたいなごはん屋さんが立ち並ぶ通りになっていた。
結論から言えば、彼女はおそらく悪い人ではない。
結論に推測の言葉が紛れ込んでいるのは、はっきりと確信がつけられないからだ。
神様だと自称する女子高生。
俺は神様なんて信じていない。だから彼女が自己を指して神様だと妄言してしまうのは、中学生の男の子が「世界を救う役目が俺にはある!」と悲しくも豪語してしまうのと同じ類に分類した。
もしかしたら俺に壺を売ろうとしている可能性もあるが……違う、気がした。そう思いたいだけかもしれない。
迷子になった俺を導き、穴場スポットの紹介をしながら、彼女は俺をついに人がいる場所まで連れてきてくれた。
目の前には五車線の公道で渋滞が起きている。まさか車が走る音なんかに安堵するなんて思いもよらなかった。自分では気づかなかったが、内心ではよっぽど心細かったのかもしれない。
大通りまで出たら寂しさなんて感じる暇もないほどの人の往来があった。俺は安心して、「一息つきたい」と口が勝手にぼやくほどだった。
その言葉に何の他意もなかった。歩き疲れて、どこか喫茶店に入るか、自動販売機で飲み物でも買いたいなーぐらいの気持ちだった。
けれど彼女は俺の言葉を拾って会話にしてくれた。
「大分歩きましたからね。私も少し汗を掻いてしまいました。今日はもっと涼しいと思っていたので、薄い服を着てきたのですが失敗でした」
「? 涼しいから薄い服を着たのに、どうして失敗なんだ」
恩人に対して失礼だが、この倒錯者が今更おかしな発言をしても驚かない。けれど不思議になった。それだけだ。だから会話が続行される。
「暑い日は汗を掻きますから、薄い服だと、あう、なんでしょう、この、汗を掻くあたりがですね……たはは、見苦しくなっちゃうんですよ。だから涼しい日の方が女の子は自由に服を着れるんですよ」
なるほど。しかし彼女は制服だ。ワイシャツにセーターを着こんでいる。薄手というのは、ワイシャツの中の服についてなのだろう。
「あー、おっぱい掻きむしりたい」
俺は黙った。というか黙るしかなかった。聞かなかったフリでもしないとどうしたらいいのかわからない。
こんな調子で余計な一言を彼女は付け足す。そのせいで彼女と会話のキャッチボールを数度交わしたら、汚れたボールを変えなくてはいけなかった。
彼女の独り言は、出会ったばかりの男に対して距離を取ろうと警戒しているのだと受け取ったが、それにしては道中、彼女の方から何度も喋りかけられた。もしもこれが虚言癖のある彼女の癖だとしたら、言葉のチョイスが独特としかフォローの仕様がない。
「えっと、ありがとうございました。道案内。迷子、助けてくれて、ほんと、どうも」
もうここからなら駅まで一人でも戻れるだろう。看板とか標識もあるし。
疑ったことを彼女に謝りたかったが、疑っていたことをわざわざ伝える必要もないだろうと感謝だけを伝えた。
「私に感謝してくださいね。いいことをした私にご褒美はいりませんよ」
額の汗を袖で拭う彼女は太陽みたいに輝いていると――余計な一言を聞くまでは思っていた。
「なんせ私はあなたに対して行った善行によって、天国へ行くんですから」
「……なんかその嘘、面白くないですね」
本当はほかの嘘も全て面白くなかった。けれど面白くないだけで、彼女が何らかの意図を持っていることがわかった。迷子の俺を励まそうとしていたり、突然現れた女に対しての緊張を解そうとしていたり。
彼女が今言ったそれはそういうのとは違くって。
明日の天気が晴れていることを確信するような、純粋な慈しみ。
それだけは、不愉快だった。
「嘘じゃないよ? 知らないですか、極楽浄土。わかりやすいように天国って言い換えましたけど。生者の肉体から離れた魂のうち、徳のある魂が行ける彼方の理想郷。昔は南無阿弥陀仏とか唱えてればそれだけで行けたんだけれど、最近はあっちも許容人数いっぱいでして。神様だって善行を積んでないと切符をくれないご時世なんですよ」
つらつらと彼女が言う言葉の半分も理解ができなかった。けれどもとりあえず、その言葉だけで理解したことが一つある。
彼女が善行をすると、彼女は神の野郎に救われた気分になるってことだ。
「飯食いにいくぞ」
「え。あれ、キャラちがーくないですか。そんな男らしかったっけ。もうちょっと尖っているけど実は草食系です、みたいな雰囲気だった気がするよ」
彼女の腕を引く。足に杭を打ち込んだみたいに、彼女は動かなかった。
それが彼女の意志ならば、俺はもっと強引にでも彼女を引っ張るしかない。
「案内のお礼だ。きっちり、迷子案内の料金を俺がお前にくれてやる。受け取らないなら交番でお前の似顔絵を描いて指名手配を頼んででも御礼を渡す。興信所で住所を突き止めて夜な夜な枕元にプレゼントを置いていく。それが嫌なら俺に奢られろ」
歩道の往来を少しだけ止めた俺の誘いを受け取った彼女は、愉快そうに笑った。
「頭のおかしい人ですね。そこまで奢りたいと仰るなら、お供え物代わりに、飲み物くらいは奢られてさしあげましょう」
赤ちゃんが俺の指を握るみたいに、彼女の手が絡みつく。恥ずかしかったけれど、逃げられるよりかはずっとましだと思い込むことにした。
それからは彼女の足に羽が生えたみたいに、軽い足取りで俺のあとをついてきてくれた。
♰ ♰ ♰
姉貴が言うには、女の子はパスタが好きらしい。
それは流石に偏見だろうと女子に免疫・耐性・経験の三拍子が揃って欠如していた俺は思って、とりあえず目に見えていたファミレスに入った。
席に座って早々、彼女は指を鳴らした。
「残念。今の私の気分はイタリアンでした!」
「……」
「ひぃ。どうしてそんな恐い顔するんですか!」
彼女の手はバンバンと机をたたく。
さっきまで俺の手を握っていたあの手。柔らかくて暖かくて、握っていたら寝起きでもまた眠れてしまいそうな女の子の手。……それをまあ、無残にも机に叩きつけやがって。
「ちょっとは静かにしろ。それと、それ、手をもっと大事にしろ。傷ついたらどうすんだよ」
「意外に紳士ですね。あ、ドリンクバー頼みますよね。私コーヒー取ってきますけど。あなたは何を飲みますか?」
「……ウーロン茶」
おやつ時のファミレスに人はそこそこ入っていたが、小学生がゲームをしていたりおじいちゃんおばあちゃんの憩いの場という感じだった。日曜日だし当然か。
「おまたせしましたー」ウェイトレスがタブレット片手にテーブルの横にやってきた。
「ドリンクバー二つで。食べ物はまた後で頼むそうです」
「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ」ウェイトレスはすぐさま去っていった。この間わずか六秒。もはや接客業でもねえな。
彼女は俺が注文を決めていないことを見越してウェイトレスに伝えたのだろうが、それなら俺の注文が決まるまで呼び出しベルを押すのを待ってくれればよかったんじゃないか。いや、別にいいんだけど。
「コーヒーだっけ? 俺が取ってくるよ。ミルクと砂糖でいいか」
「わあ、お優しい」わざとらしい。「ではミルクを三つとガムシロップも三つで」
言われた通りのブツとストローと、それから俺の分のウーロン茶をテーブルに置く。
「ありがとうございます。それにしても、コーヒーって不思議ですよねえ」
「お前のそれはコーヒーじゃないけどな――ごめん」
「? どうして謝るんです。異国農家のワーカーズにですか。それともお知り合いにバリスタでもおられたりします?」
「コーヒー職人が見たら発狂するような、かけ離れたゲテモノを飲んでる認識はあるんだな」
甘いコーヒーをストローでかき混ぜる彼女。店が流す有線放送ではテンポのゆるいクラシックがフェードインしてきた。
そう、彼女だ。
俺はまだこの女子高生の名前を知らなかった。
「お前、って。初対面の人に行っていい言葉ではなかったから。悪かった」
「ふふっ。気が弱かったり強かったり、おかしな人ですね。知り合いの双子を見ているようです。姉妹なんですけど、姉は私みたいに人助けするのが生き様なのですが、妹は一度思い込んだら善も悪も関係なく止まらない猪突猛進な子なんですよ。あなたは双子をティーカップでかき混ぜて出来上がったばかりのカプチーノみたいです。というわけでカプチーノのおかわり」
激甘コーヒー――もはや砂糖入りカフェオレを一息の間に飲んだ彼女は、空のカップをテーブルの上にことりと置いた。
「私の名前は六月神河です。ろくがつは水無月の現代名です。かんがは、神の棲まう河と書きます。ついでに私の誕生日は霜月から数えて四度目の下弦の日です」
「ろくがつ……かんが。珍しい、な」
「お気に入りです。でもまあ、呼び方を指定はしませんよ。大体の人は水無月と気軽に呼ぶことが多いですね。でも、素直に神様と崇めてくれても罰は当たりませんよ」
「はっ。神様、ねえ」
ちゃんちゃらおかしい。その名前で呼ぶというのは、無視するよりも忌まわしい。存在しない者の名前で呼ぶなんて。
「それで、神様に対して妙に固執した主張を持っていそうなあなたのお名前は?」
「爼倉牡牛」
自称神様の彼女――六月は、微妙そうな表情で口の端からコーヒーを垂らした。六月の肌は健康的な肌色をしている。けれどもし日に焼けてメラニン色素が濃くなっていたら、コーヒーが垂れたことに気づかなかっただろうな、と思いながらハンカチを六月の顔に当てた。
六月ってなんか言いにくいな……。
「はぶっ……そんな勢いよく顔を押さなくてもいいですよ。というか、今のせいでハンカチにコーヒーぶちまけちゃいましたよ。……過失です。洗って返しますからそれ貸してください」
「これぐらい別にいいよ、水無月」
六月――水無月は……ああ、これが一番しっくりくるな。
「俺の名前で笑われるのは慣れっこだから」
水無月は手を差し出してハンカチを受け取ろうとする。一面の半分が茶色くなったハンカチだが、まあどうせ帰ったら洗濯するのだから一緒だ。
「笑っただなんて心外です。名前を笑うだなんてその人と親に対して犬の糞を投げつけるのと同じぐらい失礼な行為です。あなたには似合わない下品な名前だと思っただけです」
手を引っ込めないままに、水無月はちょっと憤りながら、結局失礼なことを言った。
「人の名前を下品とかいうな」
「下品、というか、下心がありそうなお名前ですね。だって股座に雄牛って……。ご両親に橋の下で拾われた子なのよ、とか言われませんでした?」
「俺の苗字は股座じゃなくて爼倉だ。両親はとっくに死んでる。聞いたことない」
「でしたか。血縁関係とか疑っちゃう名前ですけど、DNA鑑定って亡くなった人とはできないものなんでしょうかね?」
両親が死んだというと、クラスの奴らは大体怯む。高校生の身の上で家族が亡くなっていればそういう反応が普通だ。知った口で「つらかったな」とか「お悔み申し上げます」とか大人ぶる。
気の利いた反応なんて求めていない。けれど、そんなとりあえず意気消沈したような態度を取っておけばいい、みたいな反応は頭に熱が溜まる。
俺がそれを口にした時点で、それはもう笑い話として受け取ってほしいのだ。親をけなして欲しいとは微塵も思っていない。ただこうやって、俺の中で両親が息づいていることを実感するために、数年前に死んだ両親について、前を向いていると大声で叫ぶ代わりに語るのだ
そんな風に扱うな、とクラスメイトには言いたかった。
「もし鑑定が出来たとして、俺が橋の下から拾われた子だとわかったとしても、関係ない。親が酔狂や伊達でこんな名前をつけないだろ。俺の名前には寿限無顔負けの意味があるんだ」
水無月は一切ひるまず、死んだという言葉にも切りかかってきた。
「ほうほう。牡牛さんのご両親はどうして性欲の権化とも名高い雄牛の名をつけたのですか? 是非とも知りたいものです」
よくぞ聞いてくれた! 水無月の切り込んでくる姿勢を、好ましく思った。
遠慮される方が傷つくこともあるのだ。
「まず爼倉から。これは実際の地名だ。こういう山が実在する。後で図書館に行ってでも調べてくれ」
「はい。実は知っていました」
水無月は石川県出身なのかもしれない。あか抜けていないから東京育ちではないだろうと思ったが、田舎臭さも感じなかったから驚いた。……別に石川が田舎だから臭いと言っているわけではないですよ。都会臭いとも言いますから。いやー、俺は好きだな田舎育ち。
「肝心の牡牛についてだが、まず俺の姉貴の名前から説明しよう。姉貴の名前はなんだと思う?」
「牝牛。牝牛です、先生」
「順当に考えればそうだな。弟が牡牛なら姉は牝牛。俺の友達には姉ちゃんを牝牛にちなんでめう姉ちゃんと呼んでいた奴もいた」
俺も呼びやすくて小さい頃はそう呼んでいた。けれど牝牛と呼ぶのを躊躇うほどの分別がついてきたころ、呼ぶのをやめた。それに昔はめう姉ちゃんで通ったが、今やモデルもやっている美人女子大生だ。二十歳超えた姉貴をめう姉ちゃんと呼ぶほど俺は子供じゃない。
「けれど、姉貴の名前は牝牛じゃない。姉貴の名前は乙女だ」
「早乙女、という苗字なら聞きますが、乙女、というのが名前なんですか。読みもそのままおとめ……。それはまた珍しいですね。牡牛ほどではないですが」
だろうな。俺も十六年間生きててこの方、同じ名前の同士にあったことがない。
「ん? ……乙女。乙女。牡牛……。あ。そういうことですか。わかっちゃいました」
ストローで空中に八の字を書いた水無月は唸った後、大きく口を開けた。電球が初めて点灯した科学者がこんな口の開け方をしていた気がする。
背もたれにどっしりと身を任せて腕を組んだ水無月は、得意げな顔で正答した。
「十二星座ですね」
「お見事。水無月選手に十ポイント」
「やったあ。その五ポイントと交換で飲み物取ってきてください」
「……意外に人使いが荒いのな」
「だから自主的に徳を積んでるんですよ」
手渡されたカップに、ドリンクバー仕立てのイタリアン風カプチーノを淹れた。少し冷めてから持って行ったら水無月は憤慨していた。
「遅かったですね。多少の嫌がらせなら看過しますが、食べ物を粗末にするのは許せませんよ。私、ぬるいカプチーノなんてトイレに流しますから」
「粗末にしたくないならそれくらい我慢しろよ。じゃなくて、カプチーノ、絵柄」
持ってきたコーヒーカップの表層はクリームが占めている。やり方を知っているわけではなかったから、ストローでちょちょいとハナマルを描いただけだ。時間がかかったし、渡すのが恥ずかしかった。やらなきゃよかった。
座ってから照れ隠しに名前の由来をもう少し話した。
「俺の父親は天文学者だったんだ。母さんも仕事をしていたけれど、姉貴を出産したときに辞めたそうだ。あやしてくれたとき、母さんはよく俺に話してくれたよ。ねえ、おっちゃんの名前の由来はね」
――牡牛座にはプレアデス星団があって、そこには七人の美しいお姫様がいるんだよ。
「生涯の伴侶と幸せな家庭を築けますように。そう思ってあなたの名前は付けたんだよ。お父さんが最初に牡牛にしたいだなんて言ったときは五月だからって安易な名前は却下! って、一発ビンタしちゃったけれど、由来を聞いて納得しちゃった。だって、家族はこんなにも幸せなものなんだから。おっちゃんもいいお嫁さんを見つけるのよ」
指を掴むと、優しく握り返してくれた母さん。大きかった手で頭を撫でられるのがとても好きだった。
……高校生にもなって、十年も前のことに何を感傷に浸っているのか。
今は目の前に同じくらいの年齢の女子もいるんだ。姉貴の前ならいざ知らず、初対面の相手にこんな面白くないことを喋っても空気が重たくなるだけだ。
ウーロン茶がなくなっていたことに気づいて、飲み物のおかわりをするために再びドリンクバーに行こうと立ち上がった。
彼女の横を通り過ぎる時ふと見ると、座る水無月は縒れた花びらのマークを凝視していた。
「……そんな出来そこないのハナマル、見てたって楽しくないだろ。さっさとかき混ぜちゃえよ」
カップの表面に描かれている絵柄は幼稚園児のお絵かき並だ。お世辞にも整っているとは言えない。けれど水無月はカプチーノに手を出していなかった。
「これも天国に行く善行、なんでしょうか。私、初めてカプチーノで温かくなりました。生まれて初めてです。もう十七年も生きてるのに」
「カミサマじゃなかったのか」
「世襲制なんです。代々神様家族で――それは今はおいておきましょう。あの」
路地で見知らぬ男に声をかけたり、騒がしく机をバンバン叩いたり、独り言が超絶ドン引きするようなものだったりと、不思議で残念でオカシナ六月神河という少女は、無風の水面が全てを受け入れるような態度で、横に立っていた俺を見上げた。
「ありがとうございます」
「……お、おうあ、ありが。じゃ、なくて。こ、こちらこそ。うん、どういたしまして」
「はい。折角なんで、トイレに流す前に一口だけいただきますね」
「……ほんと、一言余計だよ」
水無月がお礼を言うのは、きっと普通のことなのだろう。
だから自然に屈託のないそれができる。
迷子になって、水無月といるのが少しだけ楽しくて、忘れてしまっていた。
俺は今日、どうして人が集まる場所に来たのか。それを思い出した。
俺が侍らす七人のお姫様を探しに来たのだ。
そして、一人目は比類するまでもなく、枠に収まってしまった。
優しさの対価は0円スマイル。……それは卑怯だろ。