017 ネットの海、現実の空
玄関から出てきたのは、ちぐはぐな涛万里だった。
暖色の水玉模様のパジャマに袖を通しているのに、学校指定のスカートを履いている。お前は何がしたいんだって、コントならそういうだろう。
今の涛万里に、悩みあぐねているであろう彼女に、そんな無神経な言葉は投げかけられない。
伸ばした手を戻す。涛万里は玄関から全身を見せている。俺はインターホンがある門戸の前で待っている。
一歩踏み込めば、彼女の家の敷居に入る。
だから、俺はここで待つことにした。
無理に涛万里を連れ出さない。
涛万里が引きこもりたいなら、俺も今日はズル休みする。
須田には伝えたし、姉貴にも相談してある。
俺は、準備を終えてるぞ。
全力でお前を受け入れる準備を整えたんだ。
応えてくれ、涛万里。
「迎えに来ました、お姫様」
「お、うし……」
数日ぶりに聞いた彼女の声からは小学生みたいだった快活さは失われ、老衰さを感じさせた。
「元気ないな。ちゃんと食べてるか? カップ麺とか、エーテルとかばっかじゃ死んじまうぞ」「……んなの、いつも食べてるわけじゃない。自炊してるし」
「そうか」
震える彼女の声。彼女の心境を一発逆転させる秘技があったとしても、それはルール違反だ。
彼女を尊重するということは、彼女を変えさせないことでもある。
彼女が自発的に変わるしかないのだ。
残酷な受け入れ方だ。
けれど俺には、その方法しかわからなかった。
だから彼女が進みたい方向に俺は指揮を執る。
彼女が台風の中を飛びたいと言ったら風除けになるし、雪の中で野球をしたいといったら、足腰が屈強なマッチョマンを雇用する。冒険者となってゆりかごの中で暮らしたいといったら、手を取り合おう。
門戸の前から、呼びかける。
「涛万里、どうしたい?」
昨日は答えてくれなかった。
そのとき思っていたのがイエスでもノーでも、関係ない。
今、目の前で立ち竦む彼女だけが本物。
「学校に行きたいか?」
だから言葉を待った。行動を待った。
彼女の意思を確認するために。
「……牡牛は、どうして欲しい?」
「どっちでもいい。涛万里が学校に行こうが行くまいが、この愛情は変わらない」
恥ずかしがるな、俺。
愛情を、愛情と表現できることを今だけはとにかく誇るんだ!
「……あの日」
地面を見据える涛万里。
「おうしは、とっても冷たい目をして私を見た。牡牛が家に来なくなってから、毎晩、毎晩、夢の中であの目の牡牛が私を見るの。ああ、お前は。ああ、お前は。何度も、何度もそう言うの。何度も……」
涛万里は繰り返し強調した。それが彼女の心にどれだけの傷を負わせているのか、俺にわかりやすく説明するために。
「もう、しない」
「……」
「冷たい目は、もうしない。約束する。涛万里を縛っている鎖を解くためになんだってする。俺の努力できる範囲で、手の出せる限りある中で、涛万里が思い描く幸せを守りたいんだ」
拳を強く握る。
「俺が涛万里を縛っているなら、身を引くことだってできる」
涛万里のお腹から声が出る。
「ダメ! 違う、違うの……。それが、私は、それは、嫌……」
必死に目を押さえつける涛万里。こぼれ落ちそうになるのを必死に食い止めていた。
「涛万里、どうしたい?」
再三の質問。
けれど、それが全てなんだ。
涛万里が顔を上げる。
崩れた形相の皺を液体が垂れ落ちていった。
「……嘘ついて、ごめんなさい」
敷居を一歩だけ、またぐ。伸ばした手は彼女がもう一歩動けば届く距離だ。
「来い、涛万里。学校に行こう」
凝縮した骨が身の中で詰まっているみたいに、ぎこちなく涛万里の腕が宙を漂う。
彼女の唇が形を保てないほどに震え上がった。
青いすだれの髪が巻き上がったように見えた。
それは、初めて涛万里と出会って、別れたホームの彼女を彷彿とさせた。
髪の毛が空に落ちるように、彼女の体が崩れ落ちる。
重力に逆らえなかった彼女の髪が雨を打つように彼女に降る。
俺は、そんな彼女を見て、
「好きだよ、涛万里」
一辺倒な感想が口を突いて出てしまった。
「ふ」
「……」
「ふふっ、ぶふっ、ぬふっ、あはっ、ははっ、ははははっ、はっはは」
涛万里が地面に手を突く。
震え上がっていた手が、確かな支えとなって、彼女の体躯を立ち上がらせる。
上下でちぐはぐな服を着た彼女が、顔を上げる。
「今、それを言うの。そんな、くだらないこと」
涛万里の顔も、泣きながら笑っていた。
「ねえ、牡牛。一つだけ、いいかな。約束。絶対に、破らない約束」
「いいよ。守る」
「まだ何も言ってないよ」
立ち上がった涛万里が手を伸ばす。
握ったその手は、土だらけだったけれど、小石が刺さって痛かったけれど、放そうとは思わない。握り返す柔らかいその手が、そう言っていた。
朝陽は彼女の青い髪のためにある。
涛万里の目元から流れる一筋の光が、彼女との距離感を曖昧にさせた。
もしかしたら一歩以上、俺は近づいていたかも知れない。
「私を」
涛万里は照れたようにはにかみながら、
いつか言えなかった、聞き取れなかった約束を取り付けた。
「見捨てないで」
初登校する俺のクラスメイトの日常は、これから始まる。
♰ ♰ ♰
やなぎんが気を利かせて、哲学の一時間目を木元先生から借り受けて、ホームルームにした。
議題はもちろん――
「あれがおっしの彼女か。めっちゃ美人じゃん!」
「あの写真はフォトショップじゃなかったのか……」
「くっそお。俺があの日遅刻していれば涛万里をゲットできたのに」
「推定を早めろ。おっぱい推定係はまだか!」
「ABCDE……ぐっ、スカウターが壊れただと。あいつのおっぱいは化け物か!」
俺の彼女――ではまだないけれど――の自己紹介だった。
教卓に立った彼女は好き勝手言われ放題だった。言いたいことを言える環境ってのも問題だな。後で俺が直々に制裁を加えてやろう。
人見知りを地味に発揮した涛万里は、おしとやかに自己紹介を終えた。
そりゃあ、こんな場ではっちゃけようってやつはいない。
遅刻と一緒だ。
下手なギャグは場をしらけさせる。無難が一番。
けれどこの教室には、そんな当たり前を知らない馬鹿が一人いた。
「マザーシスター、今期の覇権アニメは『夢出る日のモンパナッシュ』だよな」
須田が、勝手に教壇に立つ涛万里に質問、というか雑談を持ちかけた。
クラスがどよめくよりも先に、教壇を叩いたのは今朝俺が握った柔い手だった。
「はあ?! 百人が百人『ロリコップ』の二期だと答えるでしょうよ。にわかか!」
ああ、そろそろ梅雨も終わりだなあ。乾いた夏の空気が窓から入り込む。
週末には七月に突入するけれど、今年の夏休みはどう過ごそうか。
クラス中の視線を受けて赤面する涛万里。そしてそれに過剰反応する騒がしいクラス。
教壇周りに人が群がる。他クラスは普通の授業をしているわけだが、やなぎんは注意しなかった。涛万里がクラスに認められるためなら、と柔軟な措置だろう。伊達に二十年も教師人生を歩んでいない。
心の中でお礼を言いながら、このクラスなら夏中が補習でもいいかなと思った。
だって楽しいんだもの。
窓に「おうし」と書いてみる。
「おっし、何彼女が取られて拗ねてるんだよ。こっちこいよ」
「ばっか。取られてないわ。つうか誰だ、取った奴」
「楽しいクラス」
遊園地に行った子供みたいにはしゃぐ涛万里。
俺と涛万里は、涛万里の自宅に向かっていた。
二ヶ月間学校に来なかったことによる人間関係の弊害はほぼほぼなかった。
だけれども、勉学だけは二ヶ月分の重みが直接のしかかってきた。
「テスト近いけどどうすんだ」
夏休み前に期末テストがある。このままだと須田とどっこいどっこいの点数だ。あいつ何しに学校来てんだ。
「折角学校に来られたのに、すぐさま退学とか笑い話にならないからな」
「大丈夫大丈夫。愛する人のためなら勉強くらいお茶の子さいさーい」
「愛する人……」
「あ……」
半歩。涛万里と俺の距離が離れた。
それが誰を意味するのか俺にはわからなくて、ついでに聞くのが恐ろしくて。
学校にいる間、何度も俺の彼女だと涛万里はからかわれた。けれど一度も涛万里は否定しなかった。少なくとも、俺の見ている場所では。
「なあ、涛万里。どうして、あれを、否定しな――」
なんともなしに見ていた視界の中に、涛万里の家が見えた。よく見ると、玄関の上に花びらみたいな染みがある涛万里の家の前に、スーツを着た男性が立っていた。
「え……」
隣を歩いていた涛万里も男性に気づいたようで――ダッシュで駆け寄った。ダッシュで駆け寄るって頭痛が痛いみたいだな、なんて思う間もなく、涛万里は叫んだ。
「ぱぱ!」
男性は抱きつく女子高生に腕を回す。
「なーちゃん。ただいま。学校の帰りかい?」
「うん。楽しいよ、学校!」
涛万里の声も相まって、小学生が帰宅中のお父さんに会ったときみたいな。
無視することもできないので近づくと、ぱぱさんが俺に気づいた。
「おや、君は? なーちゃんの彼氏さんかな?」
なーちゃん。それが涛万里の名前から来る愛称であることは易々と想起できた。自己紹介のときに涛万里の名前を聞いたから。
首をどちらに振ろうか迷う前に、涛万里がぱぱさんの腕を絡め取って、自分の胸にうずめた。
「紹介するね。私の大事なぱぱ。今まで帰ってこなかった、ぱぱ」
「いや、それはなんとなくわかって」
そして爆弾発言を残した。
「牡牛にネトゲで話した「嘘をついちゃった人」って牡牛じゃないから。ぱぱに、だから! 私の愛する人ね」
「え……」
震える腕をなんとか動かし、ぱぱさんを指さす。
「愛する人?」
「愛する人」
俺を指さす。
「愛する人?」
「クラスメイト」
涛万里は首を横に振った……。
極楽浄土を俺は作る。
それは俺を裏切らない人を周りに固めて、家族になるためだ。
二度と、誰の手も放さない強固な繋がりを求めて。
道のりは長い。
人生かけて取り組む命題だ。
最も、永遠と作るのに熱中してたら意味はない。
お金を稼ぐために家族に目を向けられないなんて、馬鹿のすることだ。
その点、涛万里のぱぱさんは家族のなんたるかがわかっている。
涛万里を見捨てなかった。彼女の元に返ってきたんだから。
俺もハーレム作って幸せになって、幸福を噛み締めるのだ!
涛万里に振られたその日、そんなことを考えながら俺は帰宅した。
まだまだ前途多難な極楽浄土を夢見ながら。
♰ ♰ ♰
制服を着た男子生徒が肩を落として帰って行った。
「いいのかい? あんな嘘ついて」
涛万里家の大黒柱が、腕に絡みつく娘に尋ねる。
「うん」
ちょっと見ない間にどことなく妻に似てきた娘は頷いた。
「好きなのか?」
娘の交際に私は何を言えばいいのかわからない。だから一任している。きっといい選択をしてくれると信じている。
親の心子知らずな涛万里は、指を顎に当て、少し考えた様子で首をひねった。
「うーん……。嫌いじゃない。それほど、まだまだ、ちょびっと、パーマイル、秒速5センチ、絶妙――うん。微妙かな」
表情はそうは言ってなかった。父は娘の赤い顔が愛おしくて撫でた。
「ずっといるの?」
「ああ。向こうの仕事がすぐに終わったからね。これなら引っ越しもしなくてよかったのに――ごめんな、なーちゃんに学校まで変わってもらったのに」
謝った父親に、娘はなんでもないように笑った。
彼女にとっては、もうなんでもないのだ。
「言ったでしょ。今の学校、楽しいよ。それにみんなと連絡を取りたかったら、メールでも電話でもいいし。今のご時世、ネットなんて便利なものがあるしね。どこに行ったって、簡単に縁は切れないよ」
たとえ、波涛万里の先にいたって。
私と彼の縁が一生切れないように。
涛万里波は、我が家を見ながら大きな声で笑った。
第一章『引きこもりの涛万里』 了




