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♯9 雨空の前に

 重い音が響いたのを聞いて、ヒビキは眠りから覚めた。また祖父だ、と呆れながら上体を起こす。陽射しが薄らいでいた。カーテンを開けると、薄曇りの空が広がっている。降りそうだと思った。

「ヒビキ! 朝だ! 飯にするぞ!」

「今行くって! 待っててくれよ!」

 大声で返して、ヒビキは寝巻きを脱いだ。制服に着替えながら、ヒビキは窓の外の景色を見やった。

「降るんだったらイーグル号で行くのはやめよっかな……」

 呟いていると、下階から、「ヒビキ!」と呼ぶ声が聞こえてくる。一回では聞こえなかったのだろうか。もう歳だな、と思った。

「分かってるって!」

 言い返して、ヒビキは鞄を持って下階へと降りた。居間でちゃぶ台の前に祖父が座っている。

「じィちゃん、今日って降るの?」

「分からんな。降りそうではあるが」

 祖父は両腕を組んで唇をへの字にした。

「じゃあ、イーグル号での外回りはやめといていい?」

 その言葉に祖父が僅かに目を向ける。眼光鋭く、慣れていなければ射抜かれるようだった。

「馬鹿者。こういう時こそ、老人連中は体調を崩しやすい。イーグル号で外を回って来い」

「えー、でも、俺が風邪引いたら元も子もないじゃん」

「お前は風邪など引かんだろう」

 祖父の声にそれもそうだと思った。ヒビキは生まれてこの方風邪を引いたことがない。周囲が全員、体調を悪くしてもヒビキだけは大丈夫だったことが多々あった。

「でも冷たいし、制服濡らすのは嫌だって」

「老人連中がポックリ逝ったらそれこそ嫌だろう。ヒビキ、務めは果たせ」

 断固とした口調に、ヒビキは従わざるを得なかった。

「……はいよ。じゃあ、歯を磨いてくるよ」

「ああ」と祖父は返す。

 ヒビキは歯を磨き、顔を洗って鏡に映る自分の姿を見た。額の逆三角形の赤が何やら澱んでいるように見えた。光の屈折の加減だろうか。額にかかる前髪を上げて、ヒビキは鏡に顔を近づけていると、「いつまでやっとるんだ」と祖父が洗面所までやってきて言った。ヒビキは驚いて後ずさる。

「うわっ。びっくりさせんなよ、じィちゃん」

「今さら見つめ返しても男前になるわけではなかろう。さっさと飯にするぞ」

 あんまりな言い方だ、と思いつつも、ヒビキも腹が減っていたのでそれに従う。

 居間に座ると、空いていた窓から生温い風が吹き込んできた。嫌な風だとヒビキは感じる。

「いただきます」と二人同時に言ってヒビキは味噌汁をすすった。飲んでから、どうして今日は白米からがっつこうとしなかっただろうと感じた。何か、いつもとは違う気配が窓の外に感じる。ヒビキが茶碗を持ったまま硬直していたせいか。、祖父が呼びかけた。

「ヒビキ。飯の時はぼうっとするな」

「あ、うん。分かってる」

 食事に集中しようとするが何か違和感があった。食べ終わり、「ごちそうさま」と二人分の声が響いた後も、ヒビキは外を眺めていた。

「外に何かいるのか?」

「分からないけど、じィちゃんは何か感じない?」

「ワシは何にも」

 無関心に身を翻した祖父が食器を流しまで持っていく。「そうかな」とヒビキは首を傾げた。

「片付けが終わったら朝稽古だ。今日は逃げるなよ」

 祖父の声にヒビキは生返事を返した。纏いつくような奇妙な感覚だった。まるで一夜にして村の空気が全て入れ替わったかのようだ。

 その感覚は稽古の間も消えることはなかった。それでもいつも通りに呼吸を通わせ、流連式柔の型を一通りこなしてみせる。ヒビキの呼吸は最初から乱れっぱなしだった。最初の一撃が弾かれた上に、足を引っかけられて無様に転ぶ。立ち上がって猪突しようとしたが、呼吸の乱れで甘い一撃を与えてしまい、返す刀で背中から床に打ちつけた。

「ヒビキ。今日はいつもにも増して甘いぞ」

 祖父が襟元を整えて発した声に、ヒビキは額に手をやって応じた。

「うん。分かっているんだけど……」

「分かっているのならば集中しろ。戦いの只中においては余計な思考に浸っている場合ではない」

 果たしてこれは余計な思考なのだろうか。ヒビキは妙な感覚を引き連れたまま、制服に着替えてイーグル号の待つガレージへと向かった。ガレージの前でヨシノがもたれかかっている。

「おはよ」

 ヨシノの声にヒビキは、「ああ、うん」とはっきりしない返事をした。ヨシノが訝しげな目を向ける。

「どうしたの?」

「いや、お前には……」

 ヨシノを見やる。数秒間見つめ合って、ため息をついた。

「分からねぇよな」

「何よ、それ」

 ヨシノが不服そうに頬を膨らませて抗議した。自分でさえも掴みきれない違和感をヨシノが明確に掴んでいるとは思えない。この幼馴染は鈍感だということはヒビキが誰よりも知っている。

「イーグル号で外回り。今日もするけど」

 ヒビキが指鉄砲の形を作ってくるりと回転させる。ヨシノは掌を上に向けた。

「降りそうじゃない? 大丈夫?」

「俺は風邪引かないからやれってさ。こういう時には老人連中のほうが危ないみたいだ」

「あたしが風邪引くじゃない」

「じゃあ、お前は歩くか?」

「冗談」とヨシノはイーグル号の後ろに回った。ヒビキはため息をついてイーグル号に跨る。ヘルメットを被る直前、ヒビキは道場のほうから視線を感じて目を向けた。しばらくそちらを見ていると、ヨシノが怪訝そうに尋ねる。

「何かいた?」

「いや。多分猫か何かだと思う」

 言ってから、それにしては鋭くなかったかと考える。しかし、人間ならば簡単に気づけるはずだ。村の連中の気配はある程度察知できる。視線を外して、ヒビキはハンドルを握った。アクセルを開いてエンジンを始動させる。駆動音が響き、イーグル号が砂利を巻き上げて走り出した。ヒビキは空を仰ぐ。今にも降り出しそうに見えた。


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