♯7 帰る家
ゲンジロウがその男に止めをささなかったのを、ケイイチは見ていた。
一人目を殺さずに始末するのは骨が折れた。銃火器を持っていた上に、近接戦闘でも相手の動きは遥かに上だ。訓練されたものだと一瞬で察知したケイイチはゲンジロウ仕込みの格闘術である、流連式柔へと切り替えて迎撃した。流連式柔の特徴は型がないことにある。呼吸で相手の意識を捉え、差し出した腕を触覚のように用いて相手の次の手を察知する。星園村では大人たちは皆、これを身につけていた。
大人の分類に入っているケイイチももちろん身につけていたが、ゲンジロウには遠く及ばない。殺さずに昏倒させるまでに二十分はかかったが、駆けつけたケイイチがゲンジロウの戦闘を見たのはものの三分にも満たなかった。ゲンジロウはまさしく流れるように敵の攻撃をいなし、強化スーツで武装している敵をいとも容易く倒した。もちろん、殺してはいない。それどころか血の一滴すら落ちていなかった。
ケイイチは右肩を押さえる。ナイフの一閃を受けてしまった我が身の未熟が悔やまれた。
――まだ、自分は弱い。
このままでは誰一人として守れぬだろう。ゲンジロウがケイイチに気づいて振り向いた。
「ケイイチか」
「はい。西の山道から潜入しようとしていた一人を仕留めました」
「殺しては」
「もちろん、いません」
「ならば、よし。霧島先生に後は任せろ」
ゲンジロウは歩き出した。すれ違い様にケイイチは声をかける。
「どちらへ?」
「まだ夕食を摂っておらん。ヒビキが心配するからな」
発せられたその言葉に苦々しいものを感じた。ヒビキ。その名前。ゲンジロウは最強の武人と謳われながら、ただ一人の孫のために鍛錬をしている。その実力が本来発揮されることはない。ケイイチは拳を握り締めて奥歯を噛んだ。
――全てはお前のためなのだぞ。
面と向かってヒビキに言ってやりたかったが、それも無駄だろう。時が来れば、ヒビキは否が応でも背負うことになる。しかし、時が来なければ、と思うことも度々あった。何のために、自分は研鑽の日々に身を置いているのか。守るための力を誰のために振るおうというのか。ふと脳裏にヨシノの姿が浮かび、ケイイチは首を横に振る。自分では駄目だ。あの子は自分に守られたがっていない。
ゲンジロウがゆっくりと鳥居をくぐって、「後の処理は任せる」と言い置いて風に溶けるように姿を消した。家へと向かったのだろう。
「帰る家、か」
ケイイチにだって家族はいる。しかし、ヒビキに比すれば何と矮小な枠組みだろう。誉れ高い祖父と、父親を持っているヒビキに比べれば、自分など。
ヒビキはそれを自覚していない。自分の言葉でさせるべきかと思ったが、ヒビキは自分の言葉程度では揺り動かせないだろう。ヒビキを動かせるとすれば、それは圧倒的な現実だけだ。
ケイイチは倒れ伏している男へと歩み寄った。屈んで脈をはかる。まだ生きている。しかし、すぐに目を覚ますことはないだろう。
「さすがだ」と呟いて、ケイイチは男を担いだ。強化スーツを着込んでいるためか重たい。ゆっくりとした足取りで鳥居をくぐろうとした直前、ケイイチは本殿の扉が開いていることに気づいた。本殿へと歩み寄り、扉に手を触れる。中にある黒い立方体が目に入った。低い駆動音を立てている。星園村に点在する七つの御神体の一つ。これによって自分たちは楽園を享受することができている。
ケイイチはゆっくりと扉を閉めた。低い駆動音が消え、虫の声が耳についた。
ヒビキは部屋で蓄音機から聞こえる音楽に耳を傾けていた。蓄音機は学校から借り受けたものだ。星園村では娯楽が少ない上に、設備も整っていない。
楽器店はあるものの、そこにある蓄音機はとてもではないが手の出せる値段ではない。なので、安価なレコードだけ買って、蓄音機は学校から借り受けているのだ。貸し出し期間は一週間で、あと二日で返さねばならなかった。ヒビキは貪るようにレコードを置いた。ジョン・レノンという昔の歌手の歌声が聞こえてくる。
曲は『スタンド・バイ・ミー』だ。ヒビキはこの曲が好きで何度も再生していた。節に合わせて首を動かしていると、玄関が開く音が聞こえてきた。ヒビキは蓄音機のトーンアームを上げて、下階へと降りていく。
「おかえり」とヒビキが帰ってきた祖父を迎えた。祖父は無愛想な顔をしてじんべいの懐に手を入れている。
「ああ、ただいま」
「飯の準備、一応しておいたけど」
「今日は何だ?」
「青菜のおひたし。あとお吸い物と白飯。ハンバーグも作ろうか迷ったんだけどやめておいた」
「充分だ」と祖父が返して居間へと歩いていく。ヒビキは流しへとついていった。流しには既に仕込み終わった料理が並べられている。夕食はヒビキの当番だった。朝食と弁当は祖父が作ってくれている。そのため、夕食が簡素なものになるのはよくあることだった。
「じィちゃん、遅かったね」
「会合だ。面倒だが仕方がない」
「もう少ししたら俺が行かなきゃなんないのかな」
「まだそんなことは考えなくっていい」
ちゃぶ台に皿を置きながら他愛もない会話をする。祖父は灰皿をちゃぶ台の上において、煙草を取り出した。どうやら懐に入れていたのは煙草の箱だったらしい。それをヒビキが見咎める。
「じィちゃん、飯の前に煙草はやめとけって。飯に臭いがつくだろ」
「そんなわけがあるか。だとしたら、線香屋の飯はまずいことになる」
「線香売っているところはいつも焚いているわけじゃないし、じィちゃんの理屈は合わないと思うけど……」
祖父の屁理屈に舌を巻いていると、煙草をライターで点けようとしていた。しかし、なかなか火が点かないらしい。痺れを切らしたヒビキが、「あー、もう」とライターを取り上げた。
「あとで点けてやるから、今は飯! そうだろ」
顎でしゃくると、祖父は渋々と言った様子で、箸を手に取った。ヒビキも箸を手に取り、両手を合わせる。
「いただきます」
二人分の声が響き渡り、ヒビキが白米にがっついた。それを見た祖父が眉をひそめる。
「ヒビキ。まずは汁物から手に取らんか」
「へいへい」と応じながら、吸い物をすする。なかなかの味付けだと自分で思ったので、祖父に尋ねた。
「じィちゃん、このお吸い物、うまいな」
「あ、ああ」と祖父は生返事をして、吸い物をすすった。ヒビキは納得がいかなかったが、いつものことだと思った。祖父は滅多に料理を褒めることなどしない。青菜のおひたしを食べていると、祖父が、「霧島先生から聞いたが」と口火を切った。
「ヒビキ、御神体のことが気になっていたらしいな」
思わず吸い物を吹き出しそうになった。ヒビキは茶碗を置いて、「まぁ」と曖昧な声を返す。
「お前が気にすることじゃない。大人たちがちゃんと考えている」
まさか御神体を確かめに行ったとは言えずにヒビキは俯いて頷いた。祖父はおひたしを口に運びながら、「祭りは行う」と言った。
「御神体がどうこうした事件は忘れろ。余所者のしでかしたことだ」
「でも、この村に余所者が入ってきたことって気になるじゃん」
「それも大人の仕事だ。お前は学校に行って、一日でも早く学をつけろ。霧島先生はお前の成績を気にかけていたぞ」
「げっ」とヒビキが声を詰まらせる。祖父が睨みつけた。
「よもや、赤点など取らないだろうな」
「取らないって、さすがに赤点は」
「次のテストで数学が六十点未満ならば稽古を倍つける」
その言葉にヒビキは血の気が引いていくのを感じた。箸を持った右手を顔の前で振る。
「いや、それはじィちゃん……」
「箸を振るな」
その声にヒビキはわざわざ箸を置いて手を振り直した。
「それは厳しいってじィちゃん」
「勉強すれば何とかなる。稽古も同じだ。怠るな」
断固とした口調にヒビキは何も言い返せなかった。青菜を口に運びながら、考えを巡らせる。明日はどうすれば朝の稽古をうまくかわせるだろうか。そんな邪心を見透かしたように、「明日は」と祖父が口にする。ヒビキは一瞬、びくりと肩を震わせた。
「夜の話だがまた会合がある。晩飯をよろしく頼むぞ」
「あー、分かったよ」
会合が二日続くことは今まであまりなかったのだが、仕方がないことだ。この村で頼りになる大人は少ない。必然的に祖父がリーダー役を務めることになる。
「しかし、じィちゃんも大変だね。色々とその歳で任されてさ」
「子供が気にすることじゃない」
その一言で話題は打ち切られた。祖父は自分の事情に踏み入られるのを嫌う。そのことは分かっていたが、御神体の件もありヒビキは心配したのだ。だが、無用な気遣いだったと考える。祖父は心も身体も逞しい。自分もそのようになるのだろうか、と思案を巡らせたが、未来の姿というのは及びもつかないものだった。
「ごちそうさま」と二人同時に言って、流しへと食器を持っていく。夕飯の後片付けはヒビキの当番だった。
「じィちゃん、横になってろよ。俺があとはやるから」
「おう、頼む」
そう言い置いて祖父は奥の間へと歩いていった。その背中を見送りながら、ヒビキは思う。祖父はどんな重責を背負わされているのだろう。もしものことがあった時に、自分にお鉢が回ってこないだろうか。そうなった場合、成し遂げられる自信がなかった。
祖父は強靭ゆえに弱さを見せない。だが、歳も歳だとヒビキは思っている。そろそろ身の振り方を考えねばならないのはヒビキのほうかもしれない。食器を洗いながら、ヒビキはため息をつく。
「母親も父親もいないとこういう時にな……」
呟いてから聞きとがめられないかと周囲を見渡した。祖父は奥の間に入って戸を閉めている。どうやら聞こえていなかったようだと安堵の息をついた。
母親はヒビキを出産するのと同時に他界したらしい。それは何度も祖父に聞かされた。だから、お前はその生に誇りを持て、と言われたものだ。しかし、父親に関しては祖父の舌鋒は鋭かった。何かにつけて、「お前の親父は」と悪評を口にする。そうなるな、という戒めのつもりなのだろうが、それほど自分の父親は悪い人間だったのだろうか。祖父の厳しい口調からはその人物像を推し量ることはできない。ただ、祖父は嫌いだったのだろう、と思う。
お湯で指先がふやけるのを感じながら、ヒビキは食器を洗って考える。
もし両親が生きていたらどうなっていただろうか。もしかしたら、の話などナンセンスだということは分かっている。少なくとも朝稽古はなかっただろう、ということだけは確信できる。十歳の子供に流連式柔という胡散臭い武術を教え込むことはなかっただろう。今だってヒビキは疑っている。流連式柔など何の役に立つのだろうか。将来、自分をどうするつもりなのだろうか。
祖父の考えは読めず、ヒビキは深いため息をついた。