♯5 ご神体
一級河川である標川がさらさらと流れている。
標川は山間部に程近い場所にある川で、川幅は広い。大人十人が連なって横になってもまだ足りないくらいだ。澄んだ透明度の高い水で深さはあまりない。子供たちが遊び場にできる程度だ。
野ざらしの看板が錆び付いた表層を晒している。草葉が風に揺れている。緑色の風が吹き抜けて、川のせせらぎの中に魚たちの息遣いさえも聞こえるようだった。静かな空間をエンジンの音が切り裂いた。しかし、無粋ではない。
それさえも自然の一部のようなエンジンの音と共に赤と銀色の車体が現れる。急なカーブを曲がりながら、ヒビキは鳥居を目指した。山間部付近は五丁目とされ、その奥まったところに御神体が安置されている。背中のヨシノが、「行ってどうすんの?」と声を上げた。その大声で静寂に満たされていた空間が僅かに揺らいだのをヒビキは感じた。一抹の罪悪感を覚えつつ、「何が?」と自分も声を返す。
「行ってどうすんの、って言ったの」
「それは分かってるよ。何でそんなことを聞くんだ、っていう話」
「だって、御神体のことなんて大人たちに任せればいいじゃない。あたしたちみたいな子供が口出しできることじゃないでしょ」
「そりゃ、そうだけど」
アクセルを開きながら、ヒビキは思案する。どうして御神体のことが気になったのだろう。答えを胸中に探し、導き出した言葉を口にする。
「分からない」
ぽつりと呟いた。
「え? 何?」
「分からないって言ったんだよ。どうして気になったのか分からないけど、何か綻びみたいに感じてさ」
うまく表現できなかった。ただ、綻び、と言うしかない。村の綻びが気になったのだ。もちろん、それ一つで村が崩壊するだとかそういう話ではないだろう。しかし、軽視できる話でもないような気がした。
「綻び、ねぇ。あんたらしくない言葉使うじゃない」
「うっせぇ」
言い返したヒビキは視界の隅に赤い鳥居が映ったのを感じた。徐々に減速して、鳥居の前で停まる。ヨシノが先に降りた。
ヒビキはヘルメットを外しながらゆっくりと降りる。鳥居の向こう側は別次元のようだった。木々が深い影を落としている。陰影、などという生易しいものではない。まだ夕暮れ前だというのに漆黒に近い。発達した枝葉が鳥居の内側と外側を完全に隔絶していた。
ヨシノが無遠慮に鳥居をくぐる。ヒビキには鳥居をくぐることすら、どこか畏れ多いような気がした。思わず、頭を下げる。それを見たヨシノが、「何で頭下げてるの?」と尋ねた。
「何でもねぇよ」と返すと、「あっそ」と素っ気ない返事が返ってきた。鳥居の向こうは石畳だ。中央にクレーターのような穴が空いている。まじまじと見るのは初めてだったので、ヒビキは少し緊張した面持ちでそのクレーターを眺めた。
「ご神木でも植えるつもりだったのかしら?」
ヨシノが首を傾げる。それにしては、とヒビキは周囲を見渡した。木々は密集している。もしご神木を植えるとしたならば、もう少し間隔が必要ではないのだろうか。
ざわざわと葉の擦れる音が聞こえてくる。その音が人の声に似て、何かを語りかけてくるようだった。「出て行け」と言っているようにも聞こえる。もちろん、錯覚だろうとは思う。しかし、近づきがたい雰囲気を纏った場所であることは確かだった。
クレーターをしばらく眺めてから、ヒビキとヨシノは御神体のある本殿へと向かった。本殿は木造で特別豪奢ではない。陽射しが差し込まないのでともすれば地味とも見える。先ほどのクレーターのほうがまだインパクトがあったと言える。ヨシノは本殿の前で足を止めた。ヒビキも並んで足を止める。
「どうした?」
「ねぇ、あたしたちって御神体がどうなっているのか確かめに来たんだよね」
「ああ、そうだろ」
何を当たり前のことを言っているのか、と訝しげな目を向けていると、ヨシノは、「じゃあ」とゆっくりと口にした。
「本殿の中を見なきゃいけないわけでしょ」
「ああ、そうだな」
「それって、何か罰当たりじゃない?」
言われてみてその言葉の意図に気づいた。確かに、御神体がどうなっているのか確かめるということは本殿の中を見なければならない。ヒビキは観音開きの本殿を見やった。引けば子供の力でも開くだろう。問題は気持ちだ。畏れ多いという感情が先ほど掠めたばかりだというのに、本殿を開けるなんてできるのだろうか。
「ヨシノ。お前がやれよ」
「嫌よ。気になっているのはヒビキでしょ。ヒビキがやりなさいよ」
ヨシノははっきりと否定の意を示した。ヒビキはここまで来た手前、引き下がるわけにはいかなかった。それにヒビキも男だ。女子供に重要な局面を任せるわけにはいかない。ため息を一つ漏らして、「分かったよ」と肩を竦める。
「俺がやる。お前は誰か来ないか見張っていろよ」
「うん」とヨシノは一歩引いた。誰か来ないか見張れというのは、やましい行為だという実感があるからだ。ヒビキは本殿の前の賽銭箱に財布から取り出した五円玉を入れた。ちゃりん、と音がする。久しく入れられていないのか、賽銭箱の底で硬貨が跳ねたのが分かった。
「ごめんなさい」と両手を合わせて拝んでから、ヒビキは本殿へと歩を進めた。鼓動が早鐘を打っている。何てことがないだろうと思っていたが、無意識下に刷り込まれた良心は拭い去れるものではない。肩を荒立たせて息をつく。普段の稽古に比べれば、と自分を叱ってから、ヒビキは渇いた喉に唾を飲み下した。本殿の扉に手をかける。そこから先は一気だった。目を瞑って顔を伏せてから、ヒビキは観音開きの扉を開いた。ゆっくりと顔を上げると、そこにあったものにきょとんとした。
ヨシノが、「どうなっているの?」と背中を向けたまま尋ねてくる。ヒビキは後頭部を掻いて、「どうもこうも」と言った。
「見てみろよ」
その言葉に促されてヨシノが振り返る。本殿の中にあったものにヨシノは目を丸くした。
「何これ?」
「分からない。何だ、これ?」
ヒビキは御神体と呼ばれていたものに目を向ける。それは黒い立方体だった。一抱えほどもある大きさで低い駆動音を立てており、四隅が黄色く光っている。
どこからどう見ても、それは機械の類に見えた。
「誰かの悪戯か?」
「でも、こんなの悪戯にしても性質が悪くない?」
「まぁな」
ヒビキは立方体に触れかけて、はたと手を止めた。何か触れてはならないような気がしたのだ。
「これが御神体?」
ヨシノが尋ねる。ヒビキはもちろん答えを出せない。誰かに訊いてみるわけにもいかなかった。
ヨシノが歩み寄ってまじまじと観察の目を注ぐ。一旦気になりだすと、止まらないようだった。
「機械、だよね」
確認の声に、ヒビキは首肯した。
「機械だな」
「何の機械?」
「何のって……」
そこから先の言葉を濁す。ヒビキは腕を組んで考え込んだ。どうして御神体の代わりに機械が置いてあるのだろう。大きな謎に思えたが、どうしても分からなかった。首を傾げていると、ヨシノが手を伸ばそうとする。それをヒビキが声で制した。
「よせよ」
「何で?」
ヨシノが振り返る。言われてみれば何故止めるのか分からなかったが、触れないほうがいいような気がしていた。
「一応、御神体なんだから」
「どう見ても機械でしょ」
にべもない返事だった。ヒビキはそれでも承服しかねた。
「でも、本殿に置かれているってことは意味があるんだろう。だから俺たちみたいなのが触るのは駄目だ」
断固とした口調に、ヨシノは好奇心を露にしながらも手を引っ込めた。少し残念そうに見えた。
ヒビキは本殿の扉をゆっくりと閉めた。機械が扉の陰に隠れていく。そっとしておいていいものなのだろうか、という疑問が鎌首をもたげたが、何か事情があるのだろうと無理やり自分を納得させた。
扉を閉めて、ヨシノへと声をかける。
「ヨシノ。お賽銭を入れろ」
「えっ、何で?」
「何か、見ちゃいけないもんを見た気がする。お賽銭の一つも入れないと、申し訳ないだろ」
その言葉にヨシノは渋々財布を取り出した。がま口のピンクの財布だった。十円玉を取り出して賽銭箱に入れた。先ほどと同じように硬貨が賽銭箱の底で跳ねたのが分かった。
ヒビキは両手を合わせて拝んだ。怪訝そうにしながらも、ヨシノもそれに倣った。拝み終わった後、ヒビキは息をついた。酷く疲れたような思いだ。額を拭ってヒビキは、「よし」と声を出した。
「帰るぞ、ヨシノ」
その言葉にヨシノが不満の声を上げる。
「えー、他の御神体もどうなのか確かめない? どうせなんだし」
ヒビキはため息をついてヨシノを見やった。
「お前、罰当たりだと思ってないのかよ」
ヨシノは腰に手を当てて何故だかふんぞり返って応じた。
「そりゃ、思ってますよ。でも、これだけじゃ何だか狐につままれたような気分だわ」
「一回つままれりゃ充分だろ。それとも何か、お前は他の御神体まで暴くってのか? それじゃ、御神体を盗んだ奴とやっていることは同じだぜ」
その言葉にヨシノはしゅんとして言葉を飲み込んだ。ヒビキも気にならなかったわけではない。しかし、それはやってはいけないという感覚があった。今とて、禁忌に触れた感触がしている。これ以上、村の人間でありながら逸脱するような行動はしたくなかった。
「帰るぞ」
もう一度言うと、ヨシノはこくりと頷いた。イーグル号に跨ってエンジンをかける。噴かした直後に、ざわざわと揺れる森林から鳥が声を上げて飛び立った。ヒビキがびくりと肩を震わせる。ヨシノも少し怖がっているようだった。黒い鳥の群れが西の空に向かって飛んでいく。斜陽が川面を照らし出している。
ヨシノがヒビキの制服の裾を摘んだ。何も言わず引っ張ってくる。帰ろう、という合図だろう。ヒビキはヘルメットを被った。
車輪が舗装されていない地面を擦り上げて、砂利を撒き散らしながら反転する。イーグル号は余計な物音は立てず、まるで過ちを犯した子供のようにさっさと走り去っていった。