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♯3 星の民


 目が覚めると、下階から頭を揺さぶるようなガンガンと重い音が響いた。

 いつもの祖父の悪ふざけだ。本人はまともだと思っているだけに性質が悪い。ヒビキは欠伸をかみ殺しながら起き上がった。カーテンの隙間から朝陽が差し込んでいる。布団からもそもそと出て、カーテンに手をかけた。一気に引くと、眩い朝の光が身体まで突き抜けていくようだった。ヒビキは大きく伸びをしながら、首筋に手を当てる。僅かに痛む。寝違えたのかもしれない。

「ヒビキ。早く来んか! 朝飯だ!」

 祖父の声が木造建築に響き渡る。ヒビキの家の欠点は二階からの声は下階に届きにくいのに対して、下階の声は筒抜けなことだった。なので、ヒビキは大声で返さなくてはならない。

「今行くっての!」

 祖父が音源を止めた。金物を打ち鳴らしてヒビキを起こすのは通例だった。ヒビキは身に纏っている寝巻き用のじんべいを脱いだ。制服に袖を通しながら、まだ眠りから完全に脱却できていない頭を揺り起こすように首を傾げる。着替えて脱ぎ捨てたじんべいを拾い上げ、ヒビキは鞄を持って下階に降りた。居間では祖父がちゃぶ台を前にして、厳しい顔をしている。別に怒っているわけではないことはヒビキには分かっている。十五年も共にいれば、祖父の表情の変化くらいすぐに分かるようになる。

「飯だ」と短く告げた祖父に、ヒビキは、「はいよ」と返して洗面所に向かった。洗面所にはヒビキと祖父の歯ブラシしかない。

 歯を磨いて口をすすぎ、鏡の前の自分を見やる。短く切り揃えた髪にしなやかな体躯を赤い虹彩が反射している。ヒビキは目を擦った。まだ寝ぼけ眼だ。額には逆三角形の小さな赤い刺青がある。

 一度、祖父にこれは何なのか尋ねたことがあったが、祖父は前髪をかき上げて皺の寄った額を見せた。祖父の額にも逆三角形の刺青があった。ヒビキと違い、少しくすんだ赤色だった。

「あって当たり前だ」という返答に妙に納得したのを覚えている。ヒビキは前髪を分けて、刺青を見えるようにした。

「よし」と最終チェックの声を出して、ヒビキは居間に戻った。居間では祖父が腕を組んで、銅像のようにじっと待っている。椀には白米が盛られ、味噌汁からは湯気が出ていた。豆腐が浮かんでいる。黄色い漬け物が皿に添えられていた。祖父の対面に座り、ヒビキは両手を合わせた。祖父も同じ動きをする。

「いただきます」という声が二人分響き、まずは白米にがっついた。祖父が咎める声を出す。

「ヒビキ。まずは味噌汁から手をつけんか」

「だってよ。腹減ってんだからしょうがないじゃんか」

「礼儀というものを学べ。いつも言っているだろう」

 祖父の声に、ヒビキは味噌汁をすすった。「今さら遅い」と祖父は漬け物に手をつけていた。

 鳥の声が聞こえてくる。うぐいすの声だ。今年も春を告げに来た。

「そろそろ暖かくなる頃だな、じィちゃん」

「そうだな」と淡白に答えた祖父は、味噌汁を飲んだ。いつもながら静かな朝食だと思う。しかし、これは前哨戦のようなものなのだ。嵐の前の静けさとも言える。ヒビキは黙って食事に手をつけながら、今日も来るか、と僅かに身構えていた。

 食べ終わって、「ごちそうさま」とほとんど二人同時に声を出す。椀を重ねて後片付けをし始めた祖父がヒビキへと振り向いた。

「ヒビキ。朝の稽古がある。逃げるんじゃないぞ」

「えー、今日くらいいいじゃんか」

 ヒビキは畳に寝転がった。それを見咎めた祖父が、「こら」と低い声を出す。

「食べてすぐに寝るんじゃない」

 その声に佇まいを正すと、祖父は、「よし」と言った。流しへとヒビキは自分の分の食器を持っていった。その時にもう一度口にする。

「なぁ、本当に今日もやるの?」

「毎日のことだろう。嫌がる理由が分からない」

 食器を洗いながら祖父がヒビキには一瞥も向けずに応じる。ヒビキは後頭部を掻きながら、「制服に着替えてんだけど」と言い訳を作った。

「ならば、胴着に着替えなおせ。ワシは別にこのままでいい」

 祖父の身なりは質素な紺色のじんべい一枚だった。説得は不可能だと感じたのか、ヒビキはため息をついた。

「分かったよ、じィちゃん。裏の道場に行けばいいんだろ」

「分かっているなら早くしろ。学校に遅刻するぞ」

「分かってるよ」と片手を振りながら、ヒビキはその場を後にした。自分の部屋に戻ると見せかけて、勝手口からヒビキは足音を殺して抜け出した。靴を手に持って、そろりそろりと表のガレージに向かう。ガレージにはバイクが一台、停められていた。ヒビキのバイクだ。銀色に輝く機体で先端が猛禽の嘴のように尖っている。排気筒はない。学校に置いてあった昔のバイクの資料を見せてもらって初めて、自分のバイクが異質であることに気づいた。排気筒のないバイクで座れる面積が多く取られていた。靴を履いて、ヒビキがバイクに跨ろうとすると、不意に声が弾けた。

「おーい! ヒビキー!」

 その声にヒビキはびくりと肩を震わせて振り返る。視界に映ったのは、自分と同じ制服に身を包んだ少女だった。藍色のショートボブをヘアピンで留めている。幼馴染のヨシノだ。ヒビキは目に見えて嫌そうな顔をした。

「何で来てんだよ」

「何でとは随分な言い草ね。近いんだから送ってよ」

 ヨシノの家はお隣だ。歩み寄ってきたヨシノの額にYの字の刺青が見えた。ヒビキは顔を背ける。

「たまには歩けよ。でないとババアになった時足腰が弱って大変だぜ」

「あんたにそんな心配されたくないわよ。さっさと送りなさい!」

「馬鹿。そんな大声出したら――」

 人差し指を立てて制そうとすると、表の玄関から祖父が飛び出してきた。

「ヒビキ! またサボるつもりだったか!」

 ヒビキは、「しまった」と頭を抱えた。ヨシノが二人を見比べて、「なるほどね」と腰に手を置いた。

「おじいさんの稽古をすっぽかそうとしたわけだ」

「そうなんだよ。お前さえ来なけりゃなぁ……」

 額に手をやってヒビキは嘆く声を上げる。ヨシノが不服そうに腕を組んだ。

「何よ。勝手なものね。起こしてもらっていたのは誰かしら」

 ヒビキの胸元を指差してヨシノが言う。むっとしてヒビキが言い返した。

「それはガキの頃の話だろ。今は立場逆だし」

「いい加減にせんか、ヒビキ。胴着に着替えろ。朝稽古をするぞ」

 ヒビキが肩を落としていると、ヨシノが祖父に頭を下げた。

「おはようございます、おじいさん」

「おはよう、ヨシノちゃん。すまないが少し待ってもらえるかな」

 祖父は微笑んでヨシノに返す。ヒビキもそれに併せるように笑っていると、祖父はたちまち厳しい顔になった。

「何をへらへらしとる。さっさとしろ」

 祖父は身を翻して道場へと行ってしまった。ヒビキはふぅとため息をついて、ヨシノを見下ろす。

「お前のせいだからな」

「そんなことないわよ」

 つんと澄ました様子でヨシノが背中を向ける。ヒビキは、「あーあ」と青空を仰いで嘆いた。

「せっかくサボれそうだったのにな」

「朝稽古はヒビキのためでしょ。ほら、さっさとする」

「……お前、だんだん言うことがじィちゃんに似てきたな」

 ぼやきながらヒビキは表玄関から家の中に胴着を取りに戻った。「諸星」と達筆で書かれた表札をヒビキは一瞥した。


 道場では、まず精神統一から稽古は始まる。

 呼吸を整え、道場に敬意を払う。なので一礼し、気を引き締めるために、「お願いします」と口にする。お願いする気など全くないのに、妙な心地だといつも思う。それでも胴着に着替えると身が引き締まる思いがした。自分というものが洗練されていく感覚に身を浸しながら、ヒビキは冷たい道場の床に正座する。

 祖父が既に胴着に着替えて正座していた。奥に鎮座する様はまるで観音菩薩か何かのようだ。実質的にこの道場の主なので道場からしてみればそのようなものなのかもしれない。道場の奥には神棚があった。「神様が見ている」と祖父からはいつも教えられたものだ。なので、道場は聖域も同然だった。いつでも清潔にしておくのが慣わしだ。同様に心も清浄でなくてはならない。

 ヒビキは長く息を吐き出した。それと同じタイミングで祖父が息を吸う。呼吸を連動させる。それが第一段階だ。この道場と、祖父と魂を通わせるためには。

 祖父が息を長く吐き、ヒビキが吸う。それを五往復ほど繰り返してから、両者は同時に立ち上がった。祖父が片腕を差し出す。

 それに交差させるようにヒビキも片腕を差し出した。腕を密着させ、お互いの身体の調子を窺う。これが第二段階だ。祖父にはヒビキの血液の流れ、脈拍に至るまでこの瞬間に分かるらしい。ヒビキには相手が緊張しているのかどうかしか分からない。祖父はいつでも緊張していなかった。自然体で稽古に臨んでいる。

 腕を放し、お互いに三間の距離を取る。これが第三段階だ。踏み込めばどちらも技を繰り出せる間隔である。ヒビキは呼吸法を整えながら、祖父の動きを見た。祖父が一瞬まばたきをした。

 その瞬間をヒビキは見逃さなかった。呼気と共に踏み込んで祖父の懐へと入る。腕を振り上げ、胴着の襟を掴もうとすると、逆にその手をひねり上げられた。

「痛っ」と声を上げた瞬間、呼吸法が乱れる。そこから先は流れるような祖父の動きに翻弄された。踏み込んできた祖父がヒビキの襟を逆に掴んで肩に担ぎ上げる。ヒビキは天地が逆転した心地を味わいながら、一呼吸の間に背中をしこたま床に打ちつけた。

「まだまだだな。ほれ、立たんか」

 祖父が構えを崩さずにヒビキへと声を降りかける。ヒビキは起き上がって、祖父へとしゃにむに突っ込んだ。しかし、呼吸が既に乱れている。それに猪突とも言える直進的な動きでは祖父の相手になるわけがなかった。真っ直ぐに放った拳を叩いた手でいなし、その手を返す刀のようにヒビキの肩口へと打ち込んだ。ヒビキの体勢が崩れる。

「なろっ」とそれでも倒れない姿勢を見せると、不意に重力が消えた。いつの間にか足が引っかけられていた。顔面から床に倒れ込む。蛙が潰れたような呻き声が上がる。祖父はそれでも手を貸そうとはしない。

「その程度か? 立て、ヒビキ」

 ヒビキは両手をついて立ち上がろうとした。膝をついて、呼吸を整える。もう一度、第一段階から自分を組み上げる必要があった。

 バラバラになっていた呼吸と血液の循環を意識して、魂を洗練させる。自らを完全な状態にするには呼吸一つでは足りない。それこそ、神経を研ぎ澄ませる必要があったが、その前に祖父が踏み込んできた。慌てて立ち上がり、応戦の構えを取る。伸ばされた手を弾いてヒビキは後ずさる。さらに祖父が一歩、深く踏み込んでくる。右腕が大きく引かれた。ヒビキは瞬時に両足に力を込める。

「――奥義」

 その言葉が吐き出される前に身体を防御の姿勢にしなければならない。ヒビキは奥歯を噛み締めた。

破魂拳(はこんけん)!」

 声が鋭く放たれると同時に突き出された掌底が腹腔を打ち据える。まるで刃の鋭さを伴った砲弾だった。ヒビキは大きく仰け反ったが、辛うじて倒れない。倒れてなるものか、という執念で背中に引っ張り込まれる力を減衰しようとしたが、最後の一線で緊張が解けた。

 ヒビキは背中から仰向けに倒れた。呼吸が荒く、肩で息をしている状態だった。最後の一撃が腹部に熱を伴って燻っている。最初のうちはこの攻撃を受ければ先ほど食べたものを吐き出してしまっていたが、ここ一年ほどは受けても大丈夫になっていた。とはいっても、苦いものがせり上げてくることはある上に、痛みは蚊ほども収まらない。

 ヒビキがその場で倒れたまま呼吸を整える。痛みを和らげるには呼吸を意識することが最も効果的だった。これもここ一年程度で知ったことだ。祖父は何も教えてはくれなかった。攻撃の受け止め方と打ち込み方も我流で、身体で覚えた部分が大きい。痛みの和らげた方など微塵にも教える気はなさそうだった。ゆっくりと息を吐いて、痛みを逃がそうとする。祖父は帯を締めなおして、「鍛錬が足りんな」と呟いた。

「……まだ足りないのかよ」

 減らず口を返すが、即座に返せるようになったのもここ最近だ。祖父は鼻を鳴らした。

「この程度で音を上げるのでは、まだ充分とは言えん。もっと強靭であらねばならん。ヒビキ、もし強大な敵にぶつかった時、どうするつもりだ」

「こんなど田舎でそんなことありえねぇって」

 風と受け流すヒビキへと祖父はあくまでも真面目な口調で問いかける。

「強大な敵はお前を殺そうとするかもしれん」

「はいはい。ありえないよ」

 いつもの祖父の説教だ。ヒビキは少しうんざりしていた。

「大切なことだ。その時、お前は何を信じる? 何のために戦う? それが胸にあるならば、たとえ腕をもがれ、脚を切り裂かれようとも何度でも立ち上がる。それがお前であり、諸星家の男だ」

「じィちゃん、俺をスポーツ選手にでもする気?」

 ようやく起き上がれるようになったヒビキが尋ねた。祖父は何も言わずに身を翻す。懐からタオルを取り出して、ヒビキへと肩越しに投げた。ヒビキはそれを受け取る。

「汗を拭いて学校へ行け。遅れるんじゃないのか?」

「だから、稽古は嫌なんだっての」

 ヒビキはタオルの匂いを嗅いで、げんなりとした。

「……ジジくせぇ」

「何か言ったか?」

 祖父が振り返ってきたので、ヒビキは笑顔を向けた。

「いや、何にも」

 怪訝そうに眉間に皺を寄せながら、祖父が母屋へと戻っていく。道場に取り残されたヒビキは息をついた。タオルで身体を拭きながら、立ち上がる。胃の腑に痛みの根源があった。呼吸数を整えて、痛みを体外へと排出する。ようやく痛みが取れてきたのか、歩けるようになった。稽古がつけられるようになって五年だが、すぐに歩けるようになったのはここ半年になってからだ。それでも天候や体調で左右されるのだから、すぐに歩けるというのは珍しい。

「今日は、体調は万全みたいだな」

 大きく伸びをしてヒビキは道場の木枠から差し込む陽射しを浴びた。見上げた眼差しの中に、青空が映る。

「よし」と頷いて、ヒビキは胴着を脱いだ。部屋に着替えがあるのでそこまで半裸で行くしかない。道場を出たところで、ばったりとヨシノと出くわした。ヨシノはバケツを持っていた。ヒビキの姿を見るなり、「わっ」と声を上げてバケツの中身をぶちまけた。円弧を描いて飛んだバケツはヒビキへと真っ逆さまに被さった。滝のような水がヒビキの身体を濡らす。ヒビキは頭にバケツを被りながら、頬を引きつらせる。道場の入り口でへたり込んだヨシノは、「てへっ」とわざとらしく言って舌を出して笑った。

「てへっ、じゃねぇだろ」

 ヒビキは盛大にくしゃみをした。


 涼しい風が制服の隙間から吹き込んでくる。ヘルメットを被って、ヒビキはゴーグル越しの景色を見やった。景色が流れるように飛んでいく。緑地が広がっており、草の穂先が風に揺れている。

 背中越しにヨシノの体温を感じる。ヨシノは、「もうちょっと速く」とヒビキを急かした。

「遅れちゃうでしょ」

「うっせぇ。誰のせいだよ」

 ヒビキは毒づいて鼻をすすった。ヨシノは道場の掃除のためのバケツを持ってきたらしかったが、それを全てヒビキにぶちまけた。ヒビキは春の少し冷たい風を制服の節々から感じていた。愛用のバイクであるイーグル号が咆哮のような駆動音を上げる。イーグル号という名前をつけていたのは祖父だった。まだバイクに乗れなかった頃、どうしてその名前なのか尋ねたところ、父親が名づけたらしいことが分かった。

「お前の親父は何かにつけて名前をつけるのが好きな奴だった」と祖父が遠くを見ながら呟いていたことを思い返す。ヒビキにはその名前が格好いいとは到底思えなかった。しかし、イーグル号自身が、その名前が気に入っているのかそう呼ばれたがっている気がした。物の気持ちなど分かるはずがないのに、どうしてだかイーグル号だけは特別だった。

 赤と銀色の骨格が陽光に映える。フットペダルを踏み込むと、イーグル号が身じろぎしたのを感じた。

「重いって言っているぜ、こいつ」

 笑いながら後ろのヨシノに話しかけると、ヨシノが膨れっ面で、「そんなわけないでしょ!」と大声で言い返した。エンジン音は静かなので声を大きくする必要などないのだが、どうしてだかヨシノはいつだって大声だ。

 緩やかな坂道を下りながら、一軒の家の前で停車する。生け垣の前からヒビキが呼びかけた。

「吉村のばあちゃん! おはよう!」

「おや、ヒビキかい」とひょっこり顔を出したのは、腰の曲がった老婆だった。吉村のばあちゃんというのは幼い頃、ヨシノと共に遊んでもらった記憶があった。古い遊びを幾つも教えてくれたものだ。ヒビキがこの家の前で立ち止まるのはもちろん理由があった。

「具合はどうかってじィちゃんが聞いてたぜ。腰が痛むんなら、すぐに家に来いってさ」

 ヒビキの家は気功術でも有名だった。村の老人連中は祖父にかかっている人間が多い。祖父だけが老人連中と同じくらいの年齢にもかかわらず元気そのものだった。

「すまないねぇ。学校があるってのに気を遣わせちゃって」

 吉村のばあちゃんが顔を綻ばせる。ヒビキは、「いいって」と気前のいい返事をした。

「ちょっと待っとくれ。これを持っていきな」

 吉村のばあちゃんが何かを放り投げる。ヒビキはイーグル号に跨ったままそれを受け取った。つやつやと赤く輝く林檎だった。

「いいの?」

「ああ、ほんのお礼さぁ」

「ありがとー。じゃあ、次、回ってくる」

 鞄に林檎を詰めてヒビキはフットペダルを踏み込んだ。イーグル号がいななき声を上げてエンジンを噴かす。

「ヨシノちゃんも元気でね」

 背中にかかる声にヨシノは手を振り返したようだった。

「よし、次は西崎のじいさんだ」

「ねぇ、ヒビキ」

 ヨシノの声にヒビキは振り向かずに応じる。

「何だよ」

「毎日これやっていて飽きない?」

「飽きたら終いだろ。老人連中のほうが多いんだから当然だって。それに欠かしたらじィちゃんにどやされる」

「学校行くの、遅れちゃうよ」

「その間にポックリ逝かれたほうが寝覚め悪いっての」

 カーブを曲がり、身体を僅かに倒す。イーグル号が風を切り、緑の景色が流れ飛んでいく。空を仰げば白い雲が千切れて浮かんでいる。

 ヨシノは不意にヒビキの鞄を探り、先ほど吉村のばあちゃんからもらった林檎を手に取った。それに気づく前に、ヨシノは林檎を齧っていた。

「あー! 後で食おうと思ってたのに」

 ヒビキが声を上げると、ヨシノは、「こんなことばっかりじゃ、いつまで経っても食べれないよ」と返した。つんと澄ましたように見えたのは気のせいだったのだろうか。

「授業の前に食うっての。いいから返せ」

 ヒビキがハンドルから手を離してヨシノの手にある林檎を取ろうとする。ヨシノが身を避けると同時に目を見開いて叫んだ。

「ヒビキ! 前! 前!」

 胡乱そうに顔を正面に向けると、石垣が前面に近づいていた。ヒビキは慌ててブレーキをかけて車体を横にする。イーグル号が滑ってあと数センチで石垣にぶつかるところで止まった。ふぅと息をつくと、石垣の向こう側から年老いた男性がブレーキ音に気づいたのか、「何だ?」と顔を出した。

「よお。西崎のじいさん。いつもの見舞い」

 額に浮かんだ汗を拭いながらヒビキは微笑んでみせた。ヨシノがその背後で分からぬ程度にため息をついた。


 結局、学校に着いたのは始業ギリギリだ。イーグル号を飛ばして校門に滑り込む。駐輪場に置いて鍵もかけずにヨシノと共に走り出した。他の乗り物のように鍵は不要だった。イーグル号はヒビキしか動かせない。誰も動かし方を知らないのもあったが、イーグル号自身がヒビキ以外には乗られたがっていなかった。それに何故だかイーグル号に他人が乗るとうまく動かせない。一度、ふざけたクラスメイトがイーグル号に乗ったことがあったが、まともに乗りこなすことなどできなかった。イーグル号は微動だにしないか、派手に暴走してしまう。気の荒い暴れ馬だと祖父は揶揄した。

 学校は基本的にはクラスのくくりはない。若者の人口が少ないからだ。教室に入ると、ヒビキと同い年のクラスメイトはヒビキたちを合わせても三人しかいない。そのうち一人がイーグル号にふざけて乗った北斗ケイイチというクラスメイトで、額にX字の刺青のある鋭い目つきの男だった。身体ががっしりとしており、ヒビキより一回りは大きい。

「おはよう」と声をかけると、ケイイチはじろりと睨んできた。別に怒っているわけではないことは分かっているが、ヒビキは少し気圧された気分だった。

「北斗君、おはよう」

 ヨシノが声をかけると、ケイイチは顔を伏せて、「ああ」と短く返した。ヨシノの言うことは渋々ながら聞くので変な奴だとヒビキは思っていた。三人以外はまだ幼い、小等部や中等部の生徒だ。高等部の生徒は三人だけである。皆、額に刺青がある。

待つまでもなく、教室の扉が開いた。背の高い痩躯で眼鏡をかけた教師だった。霧島、という。額にはCの刺青があった。

「みんな、揃っているかな」

 霧島は出席簿を出して点呼を始めた。名前を呼ばれたのでヒビキが、「はい」と声を上げる。高等部の生徒が先に呼ばれ、中等部、小等部の生徒の順だった。今日の連絡が事務的に行われる。

「春のお祭りが間近に迫っています。皆さんで協力していいお祭りにしましょう」

 この村では春夏秋冬でそれぞれ一度ずつ祭りが行われる。豊穣を祈るものだ。村のあちこちにある御神体に供え物をして、神にその年の実りを約束してもらう。

「そういえば」とヒビキは手を上げた。

「霧島せんせー。この間の社が荒らされた件は何とかなったんですか」

 つい数週間前、村のあちこちにあった社が荒らされ、御神体が持ち出されたという噂が、村中を飛び交った。大人たちがどうにか事を収めたと言うが、祭りに影響してくるのではないかとヒビキは思ったのだ。霧島は微笑みながら応じた。

「ええ、御神体もきちんと戻ってきましたし、何ともありませんよ」

「そうですか」

「変なこと気にし過ぎなんだよ」

 ケイイチが横から突っかかる。ヒビキが目を向けると、ケイイチは窓の外を見やった。どうにも掴みどころのない奴だとヒビキは思う。頬杖をついて連絡事項を聞いた後、「北斗君」と霧島が呼んだ。

「はい」とケイイチが応じる。

「あとで職員室まで来てください。少し用事がありますので」

「何やったんだ?」

 ヒビキがにやにやしながら尋ねると、ケイイチはむすっとした顔で、「何でもねぇよ」と応じた。

「可愛げのない奴」とヒビキは呟いた。

「それでは授業を始めます」

 一時間目は国語だった。

 小等部、中等部、高等部に関わらず、生徒は同じ授業を受ける。その中で細分化して教育していくのが霧島の仕事だった。生徒は全員合わせても十五人といない。それぞれの学習速度に合わせた授業が行われている。

 中には小等部でありながら、中等部並みの授業でも平気でついてくる生徒もいる。一人一人の特性を活かした授業内容が求められたが、霧島はいつだって笑顔を絶やさずに熱心に生徒に教えていた。

 いい教師だとヒビキは思う。とはいっても、霧島以外に教えを乞うた教師はいない。大抵のことは祖父から教わり、霧島から教わるのはその補足事項のようなものだ。十五人の生徒だって、ほとんどが家庭学習の延長だろう。職員室も一度行ったことがあるが、三人の教師しかいなかった。その三人のうち声を聞いたことがあるのは霧島だけだ。

 ヒビキは与えられた教材を解きながら、窓の外を眺めた。突き抜けるような青空が広がっている。

「平和だな」と呟いた声がケイイチに聞きとがめられ、目を向けられる。ヒビキは教材に視線を落とし、鉛筆を走らせた。


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