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♯2 積層の世界

十五年後……継続した人類は何を見る?

 つかつかと無機質な音を立てて廊下を歩く。その様を、人はコンパスのようだ、と言う。

 レイカにとってそれは大して重要なことではない。取り立てて怒ることにも思えなければ、安心材料にもならない。

 ただ、大した想像力だ、と思う。職務のために一切の無駄な思考を放棄した自分を文房具にたとえるのは正しいだろう。レイカは立ち止まり、黒いスーツに身を包んだ自分の姿を窓越しに確認する。襟元を整え、長い黒髪をかき上げる。化粧はほとんどしていない。飾り気がない、と褒める輩もいれば、お高くとまっていると言う人間もいる。どちらも正しい、とレイカは思う。だからこの際、自分の化粧の有無などどうでもいいのだ。

 周囲がどう見ているか、を人間は気にしたがる。レイカからしてみればそれは些事だ。周囲がどうではない。自分がどうか、それだけだ。厳格な父親がいつも言っていたその教えを、レイカ自身も厳格に守り通していた。

 不器用だ、と他人は言うかもしれない。その通りだと思う反面、父親の教えを絶対視する自分も存在し、一概には括れない。レイカは呼び出された部屋の扉の前に立って、深呼吸を一つした。自分の中の空気を取り替えるのは必要なことだ。殊に重要な案件となればこそである。ポケットから鉛筆型の端末を取り出す。画面がスライドして開き、時刻を表示している。

「あと三〇秒」

 レイカはそう呟いた。時間厳守が自分のポリシーだ。それは早過ぎても遅過ぎてもいけない。時間通りに行動する。そうでなくては気が済まない性質だった。父親譲りだ、と揶揄されることもある。それを風と受け流し、自己を保っている。それがレイカの強みだった。レイカは靴の爪先で秒数をはかった。きっかり三〇回、爪先が秒数を刻んだ後、レイカは扉を開けた。

「失礼します」

 視界に飛び込んできたのは黒い質素な部屋だった。応接用のソファとテーブルが手前に置かれている。執務机が奥にあり、さらに奥はガラス張りだった。そこから付近の景色が見える。レイカは部屋に踏み込まずに、身に馴染んだ挙手敬礼をした。レイカの声に気づいて、ガラス張りの外を眺めていた影が振り返る。壮年の男だった。黒いスーツを着込んでおり、表情全体は温和そうだが全く年齢の衰えを感じさせないような眼光でレイカを見据える。レイカの直属の上司だった。林原准将だ。

「天月少尉」

 低い声がレイカの苗字と階級を呼ぶ。その声で自分がより引き締まるのをレイカは自覚していた。

「そうかしこまるものではないよ。入りたまえ」

「は」と短く応じる声を出して、レイカは部屋の中へと踏み込んだ。林原が執務机の椅子を引いて座る。レイカは立ったままだった。それに気づいた林原が、「ああ」と声を出す。

「ソファに座りたまえ、少尉」

「いえ、私は立ったままでも大丈夫です」

 その言葉に林原は微笑んだ。

「父親譲りだな。だが、娘さんをいつまでも部屋で棒立ちにさせていては上官からお叱りの声が響く。座りたまえ、少尉」

「命令でありますか」

「命令だ」

 問うた声に即座に返事が来る。レイカは長年父親の下で仕えてきた林原という男を尊敬していた。幼い頃に頭を撫でてもらったのを覚えている。その時の手のごつごつとした感触や、固い声音も覚えていた。今、その声音は部下である自分に向けられている。しかし、以前と何ら変わるところはない。含むところのない発言は自然と好意が持てた。

「では、失礼します」

 レイカはソファへと歩み寄ったが、座らなかった。林原は仕方がないとでも言うようにふぅと息をつく。

「私もそちらに座ろう。それでいいだろう」

 頑ななレイカの意思を尊重して、林原が動いた。執務机の椅子から立ち上がり、ゆっくりとソファへと腰かける。レイカも対面にようやく座った。顔を拭いながら、「父親譲りだな」と林原が呟いて口元を綻ばせる。レイカにとってその言葉は誉れだった。父親を目標としてきたレイカは何かにつけて父親に似ている点が指摘されるのを喜んでいる節がある。しかし、表層ではそれを出すことはなかった。鉄面皮を貫くことこそが、レイカにとっては重要なのだ。誰かの巧言に惑わされることなく、常に自身の中に芯をもって行動する。父親からの教えだった。

 扉が開き、秘書官が茶菓子を持ってくる。テーブルの上に茶菓子を置いて、秘書官が出て行った。羊羹と緑茶だった。林原は湯飲みを手にして、少しだけ口を潤した。

「上からの特務でね。ここに降りてきたのが三時間ほど前だ」

「特務、ですか」

 あまりいい響きではない。しかし、誰かに任せるのも気が引ける。レイカは実直に、「それはどのような」と訊いていた。

「君でなくとも、と思ったんだが、適任者がいなくてね。私も辛い役回りというわけさ。恩師の娘さんを危険な任務に晒すことになる」

「私は、仕官です。そのようなご配慮は不要かと存じますが」

「君の性格は知っている。だから、そう言うだろうな、とは思っていた」

 林原は両手を組んで微笑んでみせる。レイカはしかし、一笑もしなかった。それにつれて、林原も厳しい顔立ちになる。どうやら話を深刻にさせているのはレイカのようなのであるが、これは自分の性分だと半ば諦めていた。いつでも話を暗くさせるのは自分だ。嫌気が差す、と思ったことは少なくない。

「我が国にM2が年に何体落ちてくるか知っているかね?」

 M2とは十五年前に初めて存在が確認された異星体のことだ。メテオモンスターの略称である。その存在を認めた日本政府は当初、隕石獣なる呼称を用いていたが、国際社会や軍事面で使われるのはM2という略称だった。

 レイカは挙手敬礼をして、脳内にデータを呼び起こす。

「は。確か、三年に一体の割合だと聞いておりますが」

 この十五年でその計算だと五体落ちてきたことになっている。事実、小型のものも含めれば、その割合が正しい。林原はフムと頷いた。

「その通り。小型のM2は大気圏で燃え尽きて、ほとんど原形を留めぬまま、落ちてくる。人口密集地に落下する割合が低いのは本当に奇跡のようなものだろう」

「米国では、ニューヨーク市内に落ちたと聞いております」

「その時の被害は甚大だった。今さらに掘り返すことでもないが」

 レイカはニュースで流れていた映像を思い出す。鉄壁を誇るニューヨークの要塞都市に巨大なクレーターが口を開けていた様は今思い返してもぞっとする。記録上、落下したM2の中では最も巨大だったという。それでも大気圏の摩擦熱で若干は磨り減っているのだと言うのだから、本来の質量を伴って落ちてきたらと仮定すると肝が冷える。地球の気候変動程度では済まないだろう。

「M2は世界が最も関心を寄せている話題だ。その中でも、我が国の近辺に最も落ちてきているというのは」

「存じております」

 林原は指の腹でテーブルを叩いた。苛立っている時の仕草だった。父親との会話ではほとんど見せない仕草だったが、会議が長引いた時などによく見る。自分との会話が苛立ちを引き起こしているのだろうか、とレイカは少し不安になる。しかし、表情には出さなかった。

「そうだ。怪獣大国なんてぞっとしない響きだよ、全く。一昔前の特撮映画じゃあるまいし」

 レイカは特撮、というものに対する造詣がない。今の若者には馴染みのない文化だろう。父親の代ですらほとんど廃れていたと聞く。それが現実問題として迫っている実情というのは、実は滑稽なのではないだろうかと思ったこともあった。

 ――過去の人間に笑われる。

 そんなことを考える時もあったが、今を生きている自分たちからしてみれば死活問題なのは事実であり、過去や未来がどう思おうと知ったことではない。

「M2の接近が観測されたのですか?」

 話題の方向性を先読みして尋ねる。林原は幾分か迷った後、首を縦に振った。日本の国内、それも軍部で取り沙汰されているのならば、事は重大なのではないだろうか。

「国民に報告は?」

「そんなものの意味はないことは知っているだろう。穴倉民族と呼ばれて蔑まれている。ここだって陽の当たる場所ではない」

 林原がガラス張りの一面を顎で示す。レイカはちらりと視線を向けた。ガラス越しに望める視界の中に灰色の地表が見える。木々が重力を無視して生えており、緑地が空に広がっていた。

 積層式特殊外装、通称「積装」を日本が取り入れ始めたのは二十年前からだった。M2の接近を異星人であるロードに予言され、ロードの母星の技術を真っ先に取り入れた日本の誇る鉄の屋根だ。しかし、米国も遅れながらに流用された技術を取り入れて要塞都市ニューヨーク建設計画を発足させながらも、その途上でM2の衝突という憂き目にあったのである。日本の態勢とて磐石ではない。ただの硬いだけの壁や屋根ならば普段よりも二メートルでも直径が大きいM2が襲来してきた場合、対処不可能だ。

 日本国民は人口密集地のみ、積装で守りを固めているが後は手薄である。積装による衝突の回避、実質的な被害の減少には一役買っているものの、M2が落ちてくるという現状は変わらない。時代遅れの専守防衛など意味がなく、日本国民は絶えずM2の脅威に晒されている。

 そのために発足されたのが自衛隊を母体とする戦力軍部組織、R機関である。ロードとM2に関することは全てR機関が処理することになっていた。

 軍部におんぶに抱っこの状態の国民にはもちろん不満の声もある。それの聞き役が、諜報部隊、即ちレイカの所属する部署の役目だった。

 ――お歴々の皺寄せだ。

 レイカはそう感じていたが職場で口にすることはタブー視されていた。職務を全うする機械のような判断と思考こそがこの職業では必要不可欠になってくる。

「M2の落下予測はついているのですか?」

「その落下予測地点なんだ。今回、我々が問題視しているのは」

 林原が、「よっこいしょ」と言いながら立ち上がる。執務机に置かれていた中型端末を手に取った。それと一緒に丸まった紙を手にする。テーブルの上で広げられたそれは地図だと分かった。しかし、今時紙の地図などほとんど役に立たないだろう。どうして林原は中型端末がありながら、そのようなアナクロなものを取り出してくるのか、理解に苦しんだ。

 中型端末で静止衛星からのリアルタイムの映像が流れてくる。個人の家の特定まで高感度でできる強力なものだ。まだ民間には出回っていない。

そこには何もなかった。山脈に囲まれた盆地である緑の平野が広がっているばかりだ。

「見えるか」と尋ねられ、レイカは首を横に振った。

「准将。人口密集地には見えません。この場所ならばM2が落ちても大した影響はないでしょう。被害状況はレベル1と仮定されます」

 レベル分けは人工の密集度合いによって五段階で示されている。レベル1は安全を示すものだった。誰もいない場所ならば、M2が落ちてきても不都合ではない。

 林原はレイカの状況判断に、「うん。そうなんだが」と頷きながらも煮え切らない様子だった。レイカは質問を重ねることにした。

「何か、懸念事項が?」

「この場所に、諜報員を送った。一応、視察という名目だ」

 M2の落下予測地点には諜報員が予め送り込まれ、その場所に人が住んでいないかの確認をする。人口百人未満ならば即座に立ち退き命令が下る。千人以上の密集地ならば、何日もかけての避難誘導の始まりだ。その間、報道管制が行われ、いたずらに混乱を招く報道は避けられる。それでもM2の話題は夜のニュースを賑わせる一大事ではある。それがたとえ日本への落下予測でなくとも、トップニュースに上ってくる。M2は全人類が抱えている長期的な問題として、彼らは捉えているのだ。その捉え方は間違いではない。危険喚起の上でも必要な考え方だと推測される。奨励されてしかるべきものだが、報道は時にやりすぎる。M2の落下を一種のエンターテイメントと勘違いしている輩も少なくはない。対岸の火事だからと言っても、いつ燃え移るかも知れぬ火事なのだ。国民の大多数がそれを理解しているはずだが、ごく一部でそのような報道が過熱する。そして、人気を博するのはいつだって正しい情報ではなく、誇張された情報である。

 情報面の職業に就いているレイカには思うところがあったが、今はそのような話ではないのだろう。

「諜報員は、どうなったのです?」と尋ねた。

「消えた」

 放たれた言葉にレイカは唖然とした。レイカが予測していた事柄の斜め上を行っていたからだ。レイカは諜報員たちが何らかの避難誘導か、立ち退きに難儀している程度の情報だと考えていた。事実、今までもそのようなことは度々あったし、頭を悩ませる種だったからだ。

 口を開けて呆けているレイカへと、「嘘ではないよ」と言葉が被せられる。レイカはハッとして、目元を擦った。

「しかし、消えたとは……」

 俄かには信じられない、という響きを言外に漂わせる。林原はその響きを察したのか、「言いたいことは分かる」と言った。

「消えたというのは現在日本において正しい呼び方とは言えないだろう。ただ、そうとしか説明できない」

「端末に、連絡は」

「したよ。何度も」

「では、命令系統が万全ではなかったとしか」

 考えられる可能性を挙げていくが、林原は苦い顔で、「それも行った」と告げた。

「命令系統に不備があったのではないか。疑ったよ。しかし、ないんだ。不備なんて、どこにも」

「ですが、諜報員ですよ。まさか、この日本国内で遭難したなんて」

 ありえない、とレイカは思う。今の世の中、どこでも監視の眼は光っているのだ。積装の加護にあるのならば、それは磐石のはずである。よしんば積装の加護を受けていない地域だとしても、とっくの昔に整備は行われ、秘境など国内には存在しない。

「諜報員たちは忽然と消えた。そして、戻ってきた」

「戻ってきた?」

 意想外の事実にレイカは平時の言葉遣いを忘れて聞き返していた。慌てて、その言葉を訂正する。

「戻ってきたとは、どのような意味でしょうか?」

「そのままの意味だ。彼らは目標地点で消息を絶った。しかし、三日後にはけろりとした顔で職場や自宅に戻ってきたという」

「そんな。神隠しにでもあったとでも……」

 口に出しかけた言葉があまりに時代錯誤だったので、レイカは言葉を飲み込んだ。ありえない。殊に現在日本においては。現象の説明がつかなかった当初では使われることの多かったそのような言葉は黴臭く古ぼけている。情報を操作する側である自分が踊らされるような言葉を発することは躊躇われた。しかし、林原は、「そうだね。神隠しだ」と平然と口にした。立場が違うからだろう。

「彼らの尋問は」

「行った。しかし、全員記憶に欠落があった」

「全員、ですか」

「全員だ。ありえないと思うのならば映像記録のログがあるが、観るかね?」

 レイカは信じられない心地で頷いていた。中型端末を操作し、レイカへと端末を出すように促す。レイカは懐から鉛筆型の端末を取り出した。映像の受信と再生くらいならばこの端末でも用が足りる。中型端末から送られてきた映像ファイルをレイカは開いた。自分と同じように黒いスーツに身を包んだ男が次々と代わる代わる尋問されていた。誰しも特徴と呼べる特徴がないのは、服装の同一性と顔立ちのせいだろう。皆、一様に呆けたように画面の一点を眺めている。

 尋問する側が声を発した。

『では、その場で何が起こったのか、あなたは覚えていないのですか』

 その言葉に男は頷いた。子供のように素直な返答だった。

『はい。覚えていません』

『本当ですか。何か、頭の片隅にでも覚えていることはありませんか?』

『いいえ、何も。覚えておりません』

 男は首を横に振った。次の男も同様の質問をされ、同じような返答をした。その様子があまりにも判で押したように同一なため、レイカは再生バーを確認した。しっかりと映像は進んでいる。ともすれば先ほどと同じ映像を見せられているような錯覚を覚えた。

 林原は両手を組んで黙ってレイカが映像を観終わるのを待っていた。全ての映像を確認し、レイカは画面を鉛筆型の端末に戻した。思わず息をついてソファに深く腰かける。目頭を揉んで、「これは」と口にした。

「事実なのですか」

「事実だ。映像資料として残っている」

「別の方法は試みられなかったのですか。例えば、記憶の投射などは」

 脳の記憶の一部ならば投射することが可能である。しかし、林原は渋い顔で首を振った。

「試してみたさ。しかし、駄目だった。どうにも該当する一部分の記憶がすっぽりと抜け落ちているんだ。しかも厄介なのは、彼らがその欠落を不自然だと思っていない」

「不自然だと思っていない、ですか」

 それは奇妙な話だろうと思える。自分の記憶の中に一部分でも欠落があれば、しかもそれを重要視されていればより一層意識するはずである。

「三日の空白を彼らはどこで、どう過ごしていたのか、全く分からない」

 林原は額を押さえた。頭痛の種なのだろう。レイカは口元に手をやって、考え込んだ。この社会で神隠しなどという不可思議な現象がまかり通るはずもない。考えられるとすれば、唯一つだった。

「何者かによる記憶操作……」

 呟いた言葉に、「やはり、君はそう結論付けるか」と林原が首肯した。どうやら上層部も同じ結論を持っているようだ。その考えに至って、レイカはここに呼ばれた意味を悟った。

「何者か、ということを解明するのが今回私に与えられた特務ですね」

 林原が口元を緩める。

「上は情報部である君にならば、この謎が解明できると思っている。しかし、私個人としては今回の特命、あまり気の進む話ではない」

「私が彼らの二の舞になるとでも?」

 心外だと言わんばかりの声音だった。レイカは与えられた特務ならば無事に遂行してみせる自信があった。その自尊心を傷つけられたような気がしたのだ。林原は取り成すように口にした。

「可能性がないわけではない。現に被害に遭ったのも訓練を受けた諜報員だ。もちろん君のほうが権限は上だし、それなりの経験は積んでいる。特務をこなせるかどうかを心配しているわけではない。私はね、今回の件、ただの集団記憶操作に留まるのか危惧しているんだ」

「それは、どういう意味でしょうか」

 林原が中型端末の画面を向け、地図の一点を示す。先ほどと同じ、山脈と緑色の平野ばかり広がっている。

「これは?」と尋ねると、林原は、「現時刻の衛星からの映像だ。リアルタイムで処理されている」と返した。

「どう見える?」

 訊かれた意味が一瞬分からなかった。林原がテーブルの上の羊羹を爪楊枝で切り分ける。その間にレイカは問われた意味を解そうとした。印象のことを言っているのだろうか、と結論付けて、レイカは言葉を発した。

「何もない場所だと」

 最初に見た時と印象は変わらない。レベル1以下の安全地帯。林原は羊羹を口に含んだ。「うん。うまい」と言って、レイカにも羊羹を勧める。レイカは遠慮するように片手を上げた。甘いものは好きだが、節操もなく食べてしまいそうな自分を戒めるためだった。

 林原は緑茶をすすって、「そうだね」とレイカの言葉に応じる。

「何もない。そう見えるだろう。事実、衛星画像はそうだと示しているからね。しかし、これを見て欲しい」

 林原が丸めていた地図をテーブルの上に広げた。それは細かい部分まで記されたものだ。その地図は中型端末に映し出されている箇所と同じに見えた。山脈が囲っている盆地なのがそっくりだ。しかし、緑色の平野に見えていた部分が、そこにはなかった。町を示す記号や住民が住んでいることを示すものが数多く記されている。

「十五年前の地図だ」

 林原の言葉にレイカは顔を上げた。

「同じ場所ですか?」

「そう。十五年前の同じ場所だよ。名前を星園村(ほしぞのむら)という」

 聞いたことのない地名だった。今や積装が覆っていない地域はないも同然に考えられていたのでその感想も当然と言えば当然だった。それにしても村とは、とレイカは内心思う。十五年前でも不自然な場所だろう。

「十五年もあれば廃村にもなります。今はないのでは?」

「なければ問題にしないよ。私はね、個人的な考えだが、星園村があると推定している」

「何を根拠に……」

 十五年前の情報など錆び付いていて使い物にならないだろう。それと今回の諜報員の記憶操作がどう関わってくるのか、レイカの頭の中では結びつかなかった。

 林原は羊羹を切り分け、もう一口頬張った。林原は父親との会話でもよく甘いものを食べていたことを思い出す。

「ロードだ」

 発せられた言葉がすぐに意味を持たなかった。レイカは林原の顔を見つめた。温和な家立ちの中に一点の厳しさが宿っている。ようやくレイカはその言葉の重要性を理解した。

「まさか……」

「そうとしか考えられない。十五年前だって星園村というものは認知されていなかったらしい。ただ、あるとだけ言われていた形だけの村だ。名前だけの形骸化したどこにも属さない村だよ」

「そこがロードの隠れ家だと?」

「隠れ家、か。あまりそういう言い方は好きじゃないが」

 レイカは発してしまった自身の言葉の不明さに恥じ入るように顔を伏せた。ロードに対する迫害は十五年前をピークにしている。今だって続いているが、軍部のようなニュートラルな立場の人間が偏った言葉を口にするのはいい傾向ではない。レイカはすぐさま、「すいません」と口にした。林原は顔の前で手を振った。

「いや、私はロード擁護派ではないからいいんだが、そういう発言は慎重にしたほうがいい。ロードが潜んでいる可能性は充分にある」

「しかし、ロードは」

「そう。世間から姿を消している。十五年前だって我々に叡智の結晶だけを授けてどこへやらに消えていってしまった。問題なのは」

 林原が指で星園村を示す。レイカも地図上の星園村に視線を落とした。

「何故静止衛星の映像に引っかからないのか、何故、諜報員は記憶を消されなければならなかったのか、だ。私はね、天月少尉。彼らが何かを知ってしまったからだと考えている」

「何か、とは……」

 レイカが思わず身を乗り出して尋ねる。林原はソファに体重を預けて首を横に振った。

「分からない。ただ次のM2の落下予測地点になったのも、何か偶然でないような気がするんだ。君は分かっていると思うが、M2の法則とは」

「ロードを優先的に狙う、でしたね」

 M2はロードの敵対種だ。ロード殲滅のためにM2は質量兵器として落下してくる。日本の近辺で特に多いのは日本政府がロードをかくまっていると思い込んでいるからだろう。十五年前は確かにそうだった。しかし、今はロードの行方などようとして知れない。日本にいるのかすら定かではないのに、日本の近辺を狙って落ちてくるのはどう考えても筋違いだ。それともM2には分かるとでも言うのだろうか。

「ロードがいるとすれば、その場所へと落ちてくるのは納得できますが、どうして諜報員の記憶を消す必要があったのでしょう」

「諜報員が余計なことをしたせいか。ロードの逆鱗に触れたのかもしれないな。異星人の考えは分からないよ」

 そう言って林原は緑茶を飲み干す。レイカは羊羹にも緑茶にも手をつけていなかった。

 異星人、と呼んでしまえばそれまでだ。しかしロードは十五年前に人類と結託している。結託してある武器を造り上げた。その活躍のおかげで今の人類の繁栄がある。しかし、繁栄と素直には喜べないのが現状だ。十五年前の第一次落下を嚆矢として、M2は地球人類の脅威として映るようになった。第一次落下のM2ほど巨大なM2は観測されていないが、それでも落ちてくる敵というのは民衆を不安に陥れる。

 林原が湯飲みを置いた。本題を切り出そうとしているのが気配で分かった。

「天月少尉。君には星園村へと現地調査に向かってもらいたい」

「あるかどうかも分からない村ですか」

 自分の言葉がどこか反抗的な鋭さを帯びているのをレイカは自覚していた。しかし訂正しなかったのは、あまりにも情報が少なく危険度が高いからだ。林原もそれは了承しているようであった。

「十五年前の情報ですまないが、確かにそこにあるんだ。十名ほどのバックアップと共に君は現地調査の隊長として向かってもらう。それが今回の特務だ」

 レイカはその言葉にしばらく凍りついたように動けなかった。目を強く瞑り、特務の重さを噛み締める。

「もしも、ですよ」

 レイカはそう口にしていた。目を開いて林原を見つめる。林原が静かに頷く。

「もしも、ロードと接触した場合、どうすればいいのでしょうか」

 ロードとの接近遭遇のマニュアルはない。ロードの側から隠れたのだから必要ないとしてとっくの昔に破棄されてしまった。林原は両手を組んで、「一任する」と告げた。

「君の判断に任せよう。何が起こっても、記録上存在しない村だ」

 つまり自分たちが死のうがロードが死のうが関与しないというかとレイカは理解した。ある意味では死地に赴けと言われているようなものだった。

 ――捨て駒か。

 レイカは顔を伏せる。それをどう察したのか、林原は、「心苦しいことだが」と言った。

「私としても恩師の娘さんをこのような危険な任務に就かせるのは承服し難い。しかし、上からの命令なんだ」

 上から、という言葉が引っかかった。林原の上から命令を下せる人間など限られている。父親もその中に与していると考えてよかった。

 信頼されているのか。それとも、死んでもいいと判断されたのか。後者とは考えたくないな、と思いつつレイカは、「分かりました」と声に出していた。立ち上がり、挙手敬礼を返す。

「天月レイカ、本作戦を引き受けます」

 自分で自分に死刑宣告をしているようなものだった。林原も立ち上がり、敬礼を返す。

「少尉の勇気には敬意を表する」

 まるでもう死んでいるかのような言い草だな、とレイカは胸中で自嘲した。林原が言葉を発した。

「作戦に必要な物資は後ほど届けよう。三日後に着任してもらいたい」

「は」と短く返礼をし、レイカは踵を合わせた。

「それと」と付け加えられる。

「特務内容は他言無用だ。ロードの居場所が割れたとなればパニックを起こす連中も多い」

 当たり前の言葉だったが、レイカは愚直に受け取った。

「承知いたしました」

「では、私からは以上だ。行ってよし」

「失礼したします」

 もう一度敬礼を返して、レイカは部屋から出て行った。扉を閉めてすぐに端末を取り出す。画面に表示されている時間を確認する。入ってから一時間が経っていた。レイカは歩き出した。コンパスだと揶揄される歩き方を貫いて、自分の部署へと戻る。

 部署には人は少なかった。残っていた事務の女性に所在を訊くと、「お昼休憩です」という返事が返ってきた。呆れるものを感じつつも、レイカは、「私もお昼の休憩を取る」と告げた。事務員は頷いた。レイカは歩き出した。全てが決するのは三日後だ。それまでせめて普通の生活を送ろう。そう心に決めた。

 施設から出ると、採光のために一部分だけ強化ガラスになっている積装の威容が映る。積装の向こう側は生憎の曇天が立ち込めていた。僅かな光を取り込む積装の内部は明るかったが、積装の中では自然の恵みに触れることはない。雨粒は調節されて定時に降らせられ、雪や台風などの自然災害にはほとんど遭わない。雪は自然な量が調節され、台風も積装の向こう側を通り過ぎてしまう。

 穴倉民族と言われても仕方がない、とレイカは思う。このような管理社会の中でしか、人間は最早生活できないのだ。

 レイカは近くのコンビニに寄って、サンドイッチと缶コーヒーを買った。近場にあったベンチに座り、ぼんやりと空を眺める。

 積装の灰色の空、天井の風景。何の彩もない、自然界とは切り離された人類圏という籠の中。その籠の中でしか生きられない自分たちは何なのだろう。天井の窓の合間に小さな影が映る。渡り鳥だろうか。ぽつりぽつりと浮かんでいる。鳥でさえ自由なのに、人類は閉塞の中にある。閉塞を望んだのは他ならぬ人類だが、その原因を作ったのはロードだ。ロードという人類からは及びもつかない外来種が地球という田園を荒らして、その上にM2という害獣を呼び込んでしまった。ロードも敵だ。M2と何ら変わるところはない。

 レイカは缶コーヒーを飲みながら、歩いている人波を見つめる。積装のことをとやかく言う人間はいなくなった。既に日常の一部としてあるのだ。それが正しいあり方かどうかは問うても仕方がない。人間は自分で自分を律する籠を作らなければ、自然を食い潰してしまう。その自然だって、人間が手を加えなくても、M2の落下によって地図は歪められる。今の世界地図を正確に知っているのはロードの技術で支えられた静止衛星だけだろう。

「……どんなことにもロードが絡んでいる」

 呟いて嫌気が差した。人類の意思などてんで無視したやり口だ。そうせざるを得ない状況に追い込んで、思考停止のまま人類はここまで来てしまった。もう後戻りはできない。

 レイカはコーヒーの苦味を口の中に感じて、サンドイッチを頬張った。コーヒーのせいだけではないのかもしれない。世界状況はほとんどロードのものだ。ロードはそういう点では地球支配を成し遂げた種族と言えよう。そんな彼らが隠居をして、安全圏から自分たちを監視している。そのような状況が我慢ならなかった。地球を侵略しておいて、勝手なものだ。人類を家畜のように思っているのだろうか。都合の悪い部分は見せず、真実を捻じ曲げて。

 レイカはサンドイッチの最後の一切れを口の中に放り込んだ。通りに置いてあるくずかごに目を向ける。空になった缶に一瞥を向けた後、レイカは空き缶を投げた。くずかごの端に弾かれて、空き缶が空しい音を立てて転がる。巡回している円筒形の掃除ロボットが、『ポイ捨てはやめましょう』というアナウンスを発しながらくずかごへと空き缶を捨てる。

 レイカは思わず舌打ちを漏らして、身を翻した。


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