♯17 因縁の拳
ゆっくりと、薄く張った膜が溶けるように目を開いた。ヒビキは起き上がろうとして腹部にわだかまる熱を感じた。祖父の放った一撃だ。そうそう拭えるはずがない。呻きながら起き上がろうと周囲を見渡した。どうやら使われていない教室のようだ。後ろ手に手錠がはめられ、自由が利きそうにはなかった。ようやくの思いで膝を立たせると、教室の扉が開いた。そこから現われた影にヒビキは瞠目した。
「……ケイイチ」
その声にケイイチがヒビキへと視線を向ける。ケイイチの後ろから兵隊がついてきていた。兵隊へとケイイチが声を出す。
「ここまででいいです。あとは、こいつと僕だけで話したい」
その言葉に兵隊は従って踏み込んでこようとはしなかった。どういうことなのか、ヒビキの頭の中では整理がつかない。どうしてケイイチは兵隊をまるで手駒か、あるいは仲間のように扱っているのだろう。兵隊もどうして従うのだろう。ヒビキはケイイチの額を見やった。X字の刺青はある。自分の知っているケイイチに間違いない。次いで腹部を見やった。確か撃たれていたはずだ。しかし、今は影も形もなかった。
「撃たれたはずじゃ」
「もう塞がったんだ」
「そんな簡単に傷が塞がるわけ――」
「ロードだからな。傷の治りは速い」
放たれた言葉にヒビキは鼓動が跳ねたのを感じた。当たり前のようにそれを口にしたケイイチはヒビキを見下ろしている。その眼には蔑みの色が浮かんでいた。
「いつからだ」
どうしてだかヒビキは、ケイイチはヨシノとは違う。ミーティアに乗ったからロードだと自覚したのではないと確信した。それはケイイチの超然とした態度に現れていた。ケイイチが口を開く。
「もう三年ほど前からだな。僕だけは大人に紛れてお前らを、諸星ヒビキや何も知らぬ子供たちを守る任についた。流連式柔を身につけ、ロードの戦士として来るべき時に備えるために」
衝撃的な宣告にヒビキは何も言えなかった。三年前といえば、まだ十二歳だ。そのような頃からケイイチだけ大人の仲間入りをしていたということなのか。顔を上げ、身をよじってヒビキは言葉を発する。
「……どうして、どうして黙っていた」
「言ったところでどうしようもない」
「だからって、俺たちは友達だろう」
「僕は一度としてお前を対等な友達だと思ったことはない」
忌々しげに放たれた声にヒビキは声を詰まらせた。ちりちりと身を焼くような鋭い視線が向けられる。一回りは大きいケイイチの身体が怪物のように見えた。赤い眼が射抜くように細められる。
「そんな、ことって」
「悪いな。三年前に僕は全ての真実を知らされた。お前やヨシノが今日知ったことを僕は三年も前から聞かされ、それでもお前らの前では偽り続けなければならなかった」
ケイイチの声はいちいちヒビキを責め立てるようだった。ヒビキは歯噛みして、「そんなの」と口を開く。
「大人たちの勝手だろ」
「勝手じゃないんだ。僕の家系、北斗家は代々影の家系だ。戦士として、長の家系である諸星家や他の者たちを守る義務があった。僕は何よりも強くあらねばならなかったんだ。来るべき時、お前がロードのために立ち上がってくれる時のために」
窓の外で雨音が強まる。叩きつけるような大粒になっていた。漆黒の闇の中、月明かりさえも差さない教室で赤い眼が対峙する。
「だが、お前にはその気がないようだな」
ケイイチの声に、ヒビキは顔を伏せ、「ああ、そうだ」と告げた。
「俺は人類でもロードでもない。どちらかのために戦うなんてできない」
ケイイチはその言葉に対して何度か頷いた。理解してくれたか、とヒビキは感じていた。「ああ、そうともお前はそういう奴だ」とケイイチは呟いた。
「言うと思っていた。三年前からな!」
ケイイチが近くにあった椅子を蹴りつける。椅子が転がり激しい音を立てた。それと呼応するように雷鳴が轟いた。一瞬の光がケイイチの顔を映し出す。憎悪で濁った瞳がヒビキを睨んでいる。
理解など端からしていない眼差しだった。
「お前はいつだって、僕の欲しい物を持っていながら、それを大切だとも思っていなかった。流連式柔の継承権も、ミーティアを操縦できる資格も。……ヨシノも」
痛みに呻くようにケイイチの顔が歪む。ヒビキは何かを返そうとして果たせなかった。ケイイチのことを捉えどころのない人間だと思っていた。しかし、その実は身を焼くような怒りを自分に抱いていたのだ。それに気づかなかった自分は何と鈍い。ケイイチは自分のために、自分の青春を犠牲にしたのだ。きっとケイイチには何一つ決められない自分がもどかしく映っているのだろう。
「……でも、俺は決められねぇよ」
ケイイチが舌を打ち、「だったら!」と大声を発した。
「分からせてやるよ。僕の気持ちを」
ケイイチはヒビキへと歩み寄り、胸倉を掴み上げた。そのまま引きずられるように扉まで連れて行かれ、兵隊へとケイイチは目配せした。
「一時的にこいつの拘束を解いてください」
「しかし、天月少尉の許可なしでは」
「聞こえなかったんですか? 僕はロードの戦士だ。あなたたちくらい簡単に殺すことができる」
冷たい殺気を含んだ声音に恐れを成したのか兵隊が、「か、監視下でならば許可しよう」と言った。
「よし。ならば来てください」
ケイイチに連れられて階段を降りていく。ケイイチは校舎の外に出た。校舎の前にはイーグル号が青いビニールシートをかけられている。ケイイチはそのビニールシートを剥ぎ取った。それを見ていた兵隊が、「何を」と声を上げる。
「黙っていてください。これからこいつに自分の立場を分からせます」
その言葉に気圧されたように兵隊は黙りこくった。ケイイチはイーグル号に跨る。ハンドルを握り、フットペダルを踏み込もうとした。しかしイーグル号は微動だにしなかった。アクセルを開こうとしても全く反応しない。ヒビキは雨に打たれながら黙ってそれを見つめていた。ケイイチはそれこそ身のうちから搾り出すような声を出してイーグル号を動かそうとする。力任せに稼動させようとしてもイーグル号は動かない。それどこかより強固にケイイチの手を拒んだ。イーグル号へとケイイチが拳を振り下ろす。
「動けよ、くそっ!」
悪態をついてフットペダルやフレームを蹴りつける。それでも何の反応も見せなかった。ケイイチは顔を伏せて、「これで分かっただろう」と言った。
「イーグル号は、翻ればミーティアはお前にしか動かせない。ロードでも無理だ。僕はその現実を、三年も前から知っていた。そして、隔たりも」
ケイイチがイーグル号から降りる。兵隊へと、「拘束を」と命じた。兵隊がヒビキの手錠を解く。ヒビキは拳を握ったり開いたりして血の巡りを確かめた。
「俺は……」
発しようとした言葉を、突然に飛びかかってきたケイイチが遮った。ヒビキは咄嗟に身をかわす。ケイイチは片腕を突き出して呼吸を整えた。流連式柔だ。
「ケイイチ。お前」
「今は黙れ。そして、僕の拳を受け止めてみろ」
ケイイチが地面を蹴りつけてヒビキへと肉迫する。鎌のように放たれた回し蹴りをヒビキは差し出した片腕で受け止めた。衝撃で雨粒が弾け飛ぶ。ケイイチは両足で飛び上がり、半回転を加えながらヒビキへと拳を放つ。ヒビキは拳をいなして、掌底を打ち込んだ。着地と同時にケイイチが片手を出して掌底を無効化する。ヒビキは習い性の身体を動かした。掌底が無理ならば次の手を打つ。身体を返してヒビキは裏拳を放った。ケイイチが横っ飛びに飛び退く。距離を取り、息を詰めて襲いかかろうとしてくる。ヒビキは構えを崩さずに、「どうしてこんなことを」と声を上げた。
「どうして? 何故? 分かっているだろう。僕はお前を超えるんだ」
ケイイチがぬかるんだ泥を飛び散らせながら雨の中を駆け抜けてくる。ヒビキは呼吸を整え、差し出した腕に全神経を集中させた。ケイイチの声が雷鳴に混じって耳朶を打つ。
「お前は、僕の欲しかった全てを持っていた!」
放たれた拳をヒビキは蛇のように絡めて湾曲させる。軌道を誤った拳は空を切った。ヒビキはすかさずすり足で踏み込み、ケイイチの胸倉を掴んだ。雄叫びを上げて、一回りは大きいケイイチの身体を担いで、身体を翻す。ケイイチはそのまま投げ飛ばされるに見えたが、驚くべきことに空中で体勢を立て直して着地した。ステップを踏んでヒビキから距離を取ろうとする。しかし、ヒビキはせっかく掴んだ獲物を逃がすほどやわな鍛えられ方をしていない。歩方を即座に変化させ、俊足でケイイチの懐へと踏み込む。それにケイイチが気づいた瞬間、右手を掌底の形に変え、砲弾のような一撃を打ち込んだ。ケイイチの背中側にあった雨粒が余さず弾け飛ぶ。背骨を打ち砕きかねない一撃にケイイチが身体を折り曲げて呻いた。
「奥義、破魂拳」
ヒビキはその名を発していた。ケイイチがその場に膝から崩れ落ちそうになる。それをヒビキが抱えて押し留めた。
「ケイイチ。どうしてこんなことを」
「……お前は、僕にない物を持っている。僕の欲しかった物を全て。流連式柔なら勝てると思ったのに。道化だな、僕は」
自嘲の笑みを浮かべるケイイチへとヒビキが視線を落としていると、ケイイチがヒビキを突き飛ばした。ふらふらとよろめきながら校舎へと歩いていく。ヒビキは雨に濡れながらその後姿を眺めていた。不意に駆け寄ろうとして、「来るな!」という声に阻まれた。
「僕は敗者だ。惨めな姿をこれ以上、お前の前に晒したくない。影は影らしく、そう振る舞うさ」
違う、と言いたかった。ケイイチのことは友人だと思っていた。だというのに、そんなことを言って欲しくない。しかし、ヒビキの喉からその言葉は出なかった。ケイイチの思いが伝わったからかもしれない。簡単に口にしていいことのようには思えなかった。
これも決定的な隔たりなのだろうと思う。ヨシノの時と同じだ。ロードだから、という宿命に雁字搦めにされて、進むことも戻ることもできない。ヒビキは拳を握り締めた。
「何で、こうなるんだよ。チクショウ」
ケイイチが兵隊に命じたのか、兵隊がヒビキへと手錠をかけた。抵抗はしなかった。ケイイチは今の決着に全てを賭けていたのだろう。自分を超えられるのか、そうでないのか。ある意味では、自分の限界点をはかっていたのだ。
――俺は一つ、誰かの夢を壊した。
その感慨が胸に滲み出て、ヒビキは目を伏せた。ケイイチは校舎のどこかへと行ってしまった。自分だって欲しい物は指の間をすり抜けていく。ケイイチと何ら変わるところはない。違うとすれば、欲しがっていた物の差だ。ケイイチは特別を欲し、自分は普通を欲した。
「あのロードも、お前もよくやったよ」
兵隊が不意に言葉を投げた。今の決闘に思うところでもあったのだろう。ヒビキは、「……何もできなかった」と呟いた。
「そんなことはない。今は静かに待つことだ」
兵隊がヒビキの頭を撫でて、校舎へと連れて行く。何を待つというのだろう。待ちわびるものなど今はない。
ヒビキは顔を上げた。雨粒が目に染み入り、視界を滲ませた。