♯14 雨音
生温い風が吹きつけ、田園の空気を重く濁らせる。
レイカは支給された雨合羽を羽織り、雨の中を歩いていた。兵たちは強化スーツを着込んでいるが、レイカだけは黒いスーツ姿だったため、温度や湿度調整をされていない雨の下では雨合羽が必須となった。レイカは空を仰ぐ。
これが自然の雨か、と掌を上にして感触を確かめた。積装の下で感じる雨とは違う。積装の雨は冷たさも一定で、降る間隔も風の強さも全て調節されたものだったが、今感じる雨風はどうだろう。周期も何も関係ない。自然の恵みそのものだった。
「これが外の雨ですか」
兵たちも珍しがっているようだった。積装の下で過ごしていたのならば無理からぬ感想だ。
「濡れそぼったような臭いはしないんですね」
積装の下ではコンクリートや特殊炭素素材が濡れると独特の臭いを発する。しかし、この田園風景ではそのような臭いはなく、草の突き抜けるような気持ちのいい匂いが広がっている。レイカは深呼吸をした。冷たい空気と緑色の風が肺の中を満たす。
空気を入れ替えると、脳裏に先ほどの諸星ヒビキの様子が思い出された。全ての真実を知らされた表情に浮かんでいたのは絶望だったのだろうか。顔を伏せていたので詳しくは分からなかったが、押し黙っていたことから考えるに衝撃的だったのだろう。その心境は察するに余りある。迷宮に迷い込んだような心地だろうか。今まで直線的に生きてきたのだろう。それは最初の印象から分かった。本能で生きてきた人間が袋小路に迷い込んでどうしたらいいのか決めあぐねている。そのような感じだった。
レイカは人類側だ。ロードの気持ちなど分からない。しかしヒビキはロードでもあり、人類でもある。英雄の息子という誉れもある。ならば、人類につくのが正道に思えたが、それはレイカの押し付けかもしれない。自分が人類の側だから思うことだ。半分人間で、半分異星人という境遇はなってみなければ何とも言えないが、きっとそのような状況に置かれれば自分とて迷う。
「……でも、迷ってもらっている時間はない」
レイカは田園風景の中に不意に浮かんだ異物である白亜の機体を見やる。イーグルミーティアには既に解析班が取りついて調査している。十五年前の技術とはいえ、人類では解き明かせていない分野の一つだ。当然、これから運用するに当たって必要になってくる。まずは知ることだ、レイカは感じた。段差を降りてイーグルミーティアの付近に張られたテントに入った。中では既に解析班が複数の端末を動員してイーグルミーティアの機体を分析にかけていた。
「首尾は?」
レイカが尋ねると、眼鏡をかけた女性が振り返った。白衣を纏っており、煙草を口にくわえている。化粧けのない顔立ちで金髪を後ろで括っていた。レイカ以外では唯一の女性だった。解析班のミナミだ。テントの中は紫煙がくゆっていて煙かった。レイカは顔の前で手を振るう。ミナミが、「ああ、天月少尉殿」と口にした。
「堅苦しくなくっていい。兵たちには下がらせてある」
テントに入ったのはレイカだけだった。解析班の人間は他にもテントにいたが、皆、端末に向かっており、レイカのことは目に入っていないようだった。
ミナミはレイカの数少ない友人だった。対等の立場で話してくれるので、レイカとしてはありがたい。父親の威厳のせいで、誰もが萎縮する中、ミナミだけは学生時代からレイカをまともに見てくれていた。
「じゃあ、レイカさ。言わせてもらうけど、あんたちょっと無理あると思うよ」
「無理、とは?」
「わたしらデスクワーク主体なわけ。それを山越えさせてここまで来ただけでも相当疲れてんの。それなのに三日程度でロードの技術の結晶であるミーティアを調査しろっていう命令がさ。何? わたしらを過労死させてもいいって言うの?」
「適度に休んでも構わない。ロードの技術は数世紀進んでいる。どの道、完璧な解析は望んでいない」
「そりゃ、わたしらにとっちゃ皮肉以外の何者でもないわ。じゃあ解析班呼ぶなって話だよ」
ミナミは悪態をついた。煙草を忌々しげに灰皿に押し付ける。灰皿にはミナミが吸った煙草が精密なパズルのようにびっしりと突き立っていた。どうやら相当なストレスを抱え込ませているらしい。
「悪かったと思っている。でも私だって命令で動いている。上がそう指示すれば、私はそう命令を下すしかない」
「お偉いさんの言うことはいつだって無茶苦茶だからねぇ。わたしらなんて捨て石としか思っていないんだよ」
ミナミがテーブルに置いた新しい煙草へと手を伸ばしかけるのを、レイカは箱を押さえて制した。
「煙草は禁止。肺がんになる」
「なんだよ。せっかくの楽しみ奪わないでくれよ」
「ミナミ、私は実力を買っている」
「うん、だから何? わたしに早死にされちゃ困るって?」
死にやしないって、とミナミは笑うがレイカは煙草の箱を取り上げた。
「戦場以外で死んで欲しくない」
「そりゃ、随分と傲慢なことで。人なんて死ぬときゃ死ぬよ。それこそ、つまんない理由でね」
ミナミが諦めきれずに手を伸ばす。レイカはため息をついて雨合羽のフードを取った。煙草を箱の底から押し出して一本出す。それを見てミナミが、「おっ」と声を上げた。
「遂に堅物のレイカちゃんが煙草デビューってわけ?」
「私だってちょっとは現実逃避したい時がある」
煙草をくわえるとミナミがライターを差し出した。年季の入った代物で、銀色の鈍い光沢を放っている。火を点けるとゆらりと揺れた。レイカは煙草の先端を近づける。ジュッ、と先端が焼けて黒ずんだかと思うと紫煙が鼻腔をついた。レイカは吸おうとしたが、むせ込んでしまった。涙を目の端に溜めながら何度か咳き込む。灰皿に押しつけようとするとミナミが、「勿体無いって」と煙草を受け取った。レイカが口にしていたものを平気で口にして、自分のものにする。ミナミは口から煙い息を吐き出しながら、「レイカちゃんにはまだ早いか」と笑った。
「うるさい」
レイカが目の端を拭いながら言い返すと、ミナミはひひひっと奇妙な笑い方をした。癖のようなものだった。
「それで、どうなっている?」
「件のミーティア?」
「そう、それ」
ここに来た本題を思い出し、レイカは指差した。ミナミは煙草を手元で弄びながら、「どうにこうにも……」と煮え切らない口調だった。
「あのバイク型のユニットがキーになっているのは分かった。でも、バイクには既に生態認証のロックが厳重にかけられていてコックピットブロックから離脱させることだって容易じゃない。これほどまでに外部からの介入を拒むシステムとは恐れ入ったよ。さすがは異星人」
ミナミが端末のキーを打った。コックピットブロックの模式図が現れる。三次元的に表示された投射画面の中に浮かんだのは赤く塗り潰されたバイクのモデルだった。
「赤いところは?」
「わたしらじゃ介入不可能なところ」
「これって全部じゃない」
赤は余すところなくバイクの形状を模している。前輪と後輪が分割されて展開し、四つの車輪となっている。
「そう。コックピットブロックにハックして人類専用にしようなんていう目論みは最初から大外れ。これはもう、遺伝子情報が刻み込まれた人間にしか動かせない。しかも、システムに介入できるのはロードだけ」
「システム情報の書き出しは?」
「したよ、もちろん。でもね、これもロードだけなんだわ。システムの情報はロードの頭脳なら直接叩き込まれる。一種のテレパシーに近いかな。人類じゃ、そのテレパシーを受信することができない」
「そんな馬鹿な。だって、十五年前にミーティアを動かした諸星ダンは人間だったって」
「だから、ロードから教わったんでしょ。全ての情報は諸星ダンの頭の中にあったわけ。後にも先にも、人類でミーティアの動かし方を知っているのは諸星ダンだけ」
「十五年前の作戦には多くの人間が関わったはずだ。システムの概要を誰も知らなかったはずがない」
「ところがね、みんな、なぁなぁでやっていたんだわ。まぁボトムパーツは人類の技術だし、そっちの制御がメインだったのかな」
ミナミが口をすぼめて楕円形の煙を投射画面に吐き出す。楕円は投射画面をすり抜けてテントの端まで行って消えた。
レイカはミナミの話を半ば信じられない心地で聞いていた。人類ではまともに制御できないとは思っていたがこれほどまでとは。顔の半分を手で覆って、「じゃあ」と口にする。
「私たちではミーティアを動かすことは」
「うん。到底無理」
「えらく簡単に結論を出す」
「科学者ってそういうもんよ。無理だって分かったらもうね、次の世代に託すしかないの。わたしらができることってのは、解明できている部分の分析作業。まぁ、バックアップくらいならできるかもね。通信周波数合わせたりとか。端末でできたんでしょ、ミーティアに通信」
ゲンジロウが咄嗟にレイカの端末を使って大気圏に落ちてくるイーグルミーティアに通信していたことを思い出す。レイカは首肯した。ミナミはキーを叩く。
「じゃあ、通信とあとはパイロットの脳波、心拍数のモニターとかかな」
「ほとんど何もできないな」
「仕方ないよ。これが今の人類の限界点。そんでもってわたしの限界、っと」
ミナミがエンターキーを押した。投射画面上のコックピットブロックが半回転する。レイカがそれを眺めていると、ミナミはカップを差し出した。
「飲む? コーヒーしかないけど」
「いらない。ミナミは知っているはずでしょう。私は」
「あー、そうだったそうだった。お子様口だもんね、レイカは。コーヒーは飲めないんだっけ」
「もう」とレイカは頬を膨らませた。こんな表情をするのはミナミか両親の前だけだ。
「それではお子様口なのに、妙に大人ぶっているレイカちゃんにはこれをあげよう」
ミナミが白衣のポケットから取り出したのは棒のついた丸いキャンディーだった。レイカは不服そうに眉をひそめる。
「子供じゃないんだけど」
「いいじゃん、口寂しい時とかにくわえていると落ち着くよ」
「それはミナミがヘビースモーカーだから」
「まぁまぁ。お姉ちゃんが飴あげるから大人しく言うこと聞きな」
百年ほど前にいた不審者のような口ぶりでミナミがキャンディーをレイカの顔の前で振る。レイカは渋々といった様子で受け取った。
「部下の前じゃしめしがつかない」
「いつまで完璧超人の天月少尉でいるつもり? どうせぼろが出るんだから、さっさと出しちゃえばいいのに」
「作戦中だ。そういうわけにはいかない」
「お堅いねぇ。そんなだから男が寄ってこないのよ」
「ミナミだってそれは同じ」
「わたしはこの子が恋人だもん」
ミナミは端末を叩いた。恋人関係だとしたら、かなり雑な関係だ。レイカは足元に視線を落とした。イーグルミーティアに繋がれたケーブルの類が走っている。ミナミは端末の投射画面にじっと目を向けていた。時折、眼鏡がずり落ちそうになって慌ててブリッジを上げる。
「ねぇ、ミナミ」
「何? レイカ」
「もし、自分が人類じゃないって分かったら、どう思う?」
レイカはヒビキのことを思い返していた。自分を含め、信じていた人々が異星人だと知らされ、さらにその中でも自分が異端だと知らされる。それはどのような気分なのだろう。
ミナミはキーを叩く手を休めて、腕を組んだ。難しそうな顔をして中空を睨む。
「うーん、何それ、心理テスト?」
「まぁ、みたいなもの」
「どういう団体に属しているかによるけれど、不安になるだろうね」
「不安、って?」
ミナミは煙草を手にとって息を吐いた。黒々としたコーヒーの入ったカップを手にとって口に運ぶ。煙草を吸ったばかりの舌で味が分かるのだろうかと思う。
「だって今まで自分が人類だと思っていたんでしょ? それなのに人類じゃないって不安じゃん。あ、もしかしてそれ、ミーティアのパイロットのこと言ってる?」
ミナミの勘の鋭さにレイカが沈黙を返した。それが何よりの肯定だった。ミナミは頭の後ろに手をやって、「不幸だよなー」と言った。
「不幸?」
「ロードでもないし、人間でもないんでしょ。どっちに与すればいいのか分からないって不幸だと思う。だって、どっちの味方になればいいのか分からないし」
「ミーティアは地球人類の遺産だ。地球のために尽くすのがいいに決まっている」
レイカの言葉にミナミは口のへの字にして、「……あのねぇ」と言葉を発した。
「何?」
「レイカ、そういうところよくないと思うよ。基準点がずれちゃってるもん。そんな大局的に物事を考えられる人間なんていないんだって。人類のため? 翻ったら地球のため? そんなの、昨日まで普通に暮らしていたらピンと来るわけないじゃない。百年以上前のデフォルメコンテンツだってそんなこと考える主人公っていないよ」
デフォルメコンテンツとはその昔、アニメーションと呼ばれたコンテンツのことだ。そのコンテンツの中では荒唐無稽な話が多かったと聞く。レイカも幼い頃は教育用としてよく観ていた。大抵のピンチは主人公が何とかするのだ。そこには愛やら勇気やらが関係してくるらしかった。
「でも、諸星ヒビキにはその義務がある」
「へぇ、ヒビキ君って言うんだ、英雄の子供」
「ミナミ、これはこれだから」
レイカが口をチャックする真似をする。他の解析班の人々にも目を向けるが、彼らはミーティアのデータ分析に忙しいらしくミナミとレイカのやり取りを聞いている者はいなかった。
「はいよ、これね」とミナミは笑いながらチャックする真似をする。
「笑い事じゃない」
「分かってるって。それにしてもヒビキ君ねぇ。あ、男の子? 何歳?」
「うん、男。十五歳」
「うっわ、十五歳の男の子か。そりゃ、大変だわ。多感な時期に大変な役目を負わされたもんだね」
「宿命だ。むしろ背負わされたことを光栄に思うべきだ」
「そんな考え方にはならないんじゃない? だって聞くところによれば自分がロードって知らなかったんでしょ。あ、でも人類でもないのか」
ミナミは深いため息をついた。「なるほどね」と頷いている。何がなるほどなのだろうか。
「何か分かった? 天才さん」
「わたしは確かに天才だけど、そういう言い方は好きじゃない」
ミナミが手足をばたつかせる。天才だというところを否定しない辺りがミナミらしかった。
「じゃあミナミ。何がなるほどなの?」
「いやー、彼の苦しみってのが一端でも垣間見えたっていうのかな。ただの不幸じゃないな。レイカみたいな人間が突然目の前に現われて、『お前はロードだ。人類の英雄の血も引いている。でも私たち人間とも違う』とか言っちゃうんでしょ。もう頭ん中、ぐっちゃぐちゃだよね」
「私は事実を言ったまでだ」
「その事実が苦いっての。あー、苦いね、ホント。コーヒーなんかよりずっと」
ミナミはコーヒーをすすった。砂糖もミルクも入れていないブラックだ。レイカはそれよりも苦いものがあるのか、と思った。
「ヒビキ君からしてみれば、レイカはロボットみたいに映っているよ」
「ロボット? 私が?」
意想外の言葉に聞き返した。ミナミはカップを置いて再び作業に戻る。
「そう。ミーティアなんかよりもっと複雑でわけ分かんないロボット」
「人類の叡智をかき集めて造ったミーティアよりも複雑なはずがない」
レイカの発した声に、ミナミは一瞥を向けて目を瞑った。
「馬鹿。そういう意味で言っているんじゃないって。本当に鈍いよね、お子様のレイカちゃん」
その言葉にレイカはむっとした。ミナミからしてみれば確かに鈍いかもしれない。しかし、お子様と言われるほどではないと感じていた。
「天才さんに比べれば、私は単純だよ」
「どうだか。そういや、本部から増援来るの?」
ミナミは投射画面から目を離さずに話題を変える。レイカは頷いた。
「二日以内に来るみたい。こっちがステルスフィールドを破っているという前提だけど」
「そのステルスフィールドはどうなっているって?」
「ロードたちにかき集めさせている。村の七つの地点に置かれていたものを一点に集めれば、解けると思う」
「作戦の指揮官が、思う、じゃ駄目だと思うけどな」
レイカは失言だと口元を押さえた。ミナミは、「まぁ、いいけどさ」と言う。
「人間らしい面が残っているってことで。こっちでもデータはちゃんと取ってるし。七つの点でそれぞれ補強していたみたいだね。これ、この村の本来の地図」
ウィンドウに呼び出したのは静止衛星からの俯瞰図だった。リアルタイムの映像である。山脈に囲まれた緑地地帯、ではなく、家々が軒を連ねている集落が盆地の中に見える。
「んで、これが偽装されていた地図」
本来の地図の隣に緑地帯が広がる偽装地図を展開する。今まではこれを見せられていたのだ。そのせいでこの村は十五年間秘密を守り続けた。M2が偶然この場所を標的に選ばなければ永遠に分からなかっただろう。
――いや、とレイカは顎に手を添えて考える。本当に偶然だったのだろうか。M2がこの星園村の偽装を見破ったのは何か原因があるのではないか。諜報員たちが送られ、ステルスフィールドの一端を動かしたから、M2の落下が確実になった。全てはそれから転がったと考えることもできるが、それ以前にM2が落下する予測が立っていたから諜報員が送られた。どちらが先か、まるで卵と鶏のような話だ。
「レイカ、ここに皺」
ミナミが額を示す。レイカは覚えず難しい顔になっていたことに気づき、額を隠した。
「レイカの考えていること、大体分かるよ」
ミナミは地図を見ながら口にした。
「M2に聞いてみなきゃ本当のことは分からないね。それともロードか。どちらにせよ、どっちも異種族だ」
ミナミの言葉にレイカは息をついた。異種族。自分たち人類とは考え方が異なる存在。決して交わることのない平行線の異星人。M2もロードも同じだ。理解できない。しようとしても煙に巻かれたようになってしまう。M2は最初からロードの殲滅しか考えていない天敵だし、ロードはロードで何を考えているのかさっぱりである。思わずさじを投げたくなる気分だ。
「にしても、このステルスフィールドって強力だな」
ミナミは投射画面の中にステルスフィールドの基点となる社の場所を投影した。それぞれ村の山間部に至る道の前に配置されている。
「ちょっと見てな。面白いよ、これ」
打ち込んだ座標データを端末に計算させ、ミナミはエンターキーを押した。北側の社から赤い線が伸びる。七つ全てを線で結ぶとちょうど北斗七星の形となった。
「北斗七星になっている」
「面白いって、それのこと」
「だけじゃないんだって。強力な磁場が放出されていて、この上を通ると航空機とかならシグナルが消失する。人間なら消息不明、神隠しだね」
林原の言葉が思い出される。正真正銘、この村はそういった場所だったということだ。しかしレイカは冷淡に返した。
「オカルトね」
「オカルトは馬鹿にできないよ。そうだね、この村はちょっとしたバミューダトライアングルだ」
「バミュー、……何それ?」
レイカが怪訝そうな目を向けると、ミナミは首を傾げた。
「あれ、知らない? 有名な話なんだけどな。まぁ、百年ほど前にインチキだって分かった話なんだけど、その三角形の海域に入ると船舶や航空機は消息を絶っちゃうの。魔の三角形って呼ばれていてさ。ブラックホールがあるだのワームホールがあるだの、宇宙人が攫っていくだの色々と面白い話があったわけ。んで、まぁ実際には悪天候だとか操縦者のミスだとかなんだけど、この村はまさしくそれ。強力な磁場で端末も特定周波数以外は通さない。入ればローカル通信以外は意味なくなるし、視覚的にも偽装が入っているからモニターできない。いやはや、ロードの技術はすごいね」
「それで自分の星を守ればよかったのに」
レイカがにべもない返事を寄越すと、「いや、これ制限があるんだって」とミナミが投射画面を指差した。
「惑星全体を覆うほど強力でもないし、本当に日本の山間部にある村が適切、って感じ。それに惑星覆ったって意味ないでしょ。M2はロードを目標にするんだから。一度目をつけられればそれまでだし」
確かに、とレイカは思う。ミナミはふぅと息をついた。
「まぁ、何にせよ。ここが割れちゃったから意味ないね。M2は目的地を限りなくこの村に定めてくるだろうし、それに上の方々はこの村を対M2特別戦略室として使おうとか考えているんでしょ」
「戦略室は相変わらず積装の下。ここが戦場になるだけ」
お偉方は積装の下でM2の脅威に怯えながら、実際には死地に立っているのは自分たちというわけだ。いや、M2の目標物であるロードの居場所が分かったのならば積装の下は安全な上に怯える心配もない。この場所だけがM2に狙われるというわけだ。
「わたしらは尖兵ってわけね」
ミナミの声にレイカは何も返さなかった。ほとんど事実だ。ロードを拘束し、M2の脅威から世界を守る。そのための防衛拠点として使われる。レイカはここに来るまでに見た田園風景を思い返した。あれも戦地となれば消し去ってしまうのだろうか。緑色の風が吹き抜ける風景もなくなってしまうのか。ロードが独占していたと思えばあれだけ怒りが湧いたことも、いざなくなってしまうとなれば惜しい気がしてしまう。
「……人間は勝手だ」
レイカは思わず呟いていた。自分以外が持っているものならば羨み、自分のものならば誰にも渡したくない。隣の芝生は青く見えるとはまさしくこのことだ。
「本当、勝手だよ。でもそれ、わたしらにも返ってくるから」
ミナミがくるりと人差し指と親指の間を回転させる。発せられた言葉はレイカの心に突き立った。まさしくそうだろう。ロードの安住の地を奪ったのだから。しかし、元々は人類の居場所だ。
「まぁ、現場の指揮官はそう迷うもんじゃないし、ステルスフィールドが晴れたんならレイカより偉い奴らが来るんでしょ」
「多分。でも、二日間は守り切らないと」
「張り詰めんなよ。切れちゃった時、大変だから」
ミナミは再び作業に戻った。レイカは頷いて雨合羽のフードを被り、外に出た。冷たい風が吹きつける。イーグルミーティアにも青いビニールのカバーがかけられていた。ビニールカバーを叩く雨音が聞こえる。レイカは歩き出した。後ろから兵がついてくる。
「少尉、護衛を」
「いらない。少しだけ一人で歩かせてくれ」
そう言うと兵は惑う挙動を見せたが、ついてくる者はいなかった。レイカはテントから離れ、誰もいない道で空を仰いだ。雨粒が目に染み入ってくる。積装の下では得られなかったぬるい春雨を、レイカは全身を広げて感じた。雨合羽越しに雨の感触が伝わる。レイカはふと、先ほどミナミからもらったキャンディーを取り出す。袋を剥ぎ取って舐めると、口の中に甘美な味わいが弾けた。グレープソーダ味だ。レイカの好きな味である。棒を摘んで舐めながら、レイカはハッとして呟いた。
「お子様口って言われても仕方ないな」
薄い雲越しに太陽が見え隠れする。その光が位相を変えたような気がして、レイカはじっと見つめていた。