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毛多霊伝説殺人事件  作者: 巴邑克弥
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杜酉死魔音剣

杜酉死魔音剣


 景山加奈が倒れている横には、金や銀の装飾を施した太刀の鞘が転がっていた。その太刀を見た蔵金刑事は、

「これはまた、人を殺すにしては、随分と高そうな骨董品の太刀だな」

とボソッとつぶやいた。それを見ていた臼井速弥太の顔から血が引いた。

「そっ、それは…… 毛多霊神社の『杜酉死魔音剣(酉の杜の死者の声の剣)』…… 」

「おや、神主さんはこの太刀をご存じかな? 」

「はい、その太刀は、うちの神社に昔から伝わる、『杜酉死魔音剣(酉の杜の死者の声の剣)』という、魔力を持つと謂われている妖刀で、いつもは奥の院の社の奥にあります石室に納めてあるものです。私も本物は何度も見たわけではありませんが、神社の資産資料の写真で見たことがあります。その太刀は間違いなく『杜酉死魔音剣(酉の杜の死者の声の剣)』だと思います」

「なんでそんなものがこの部屋に…… ? 」


「だけん、言わんこっちゃない…… 」


小村正一がボソッとつぶやいた。すかさず蔵金刑事が、

「小村さん、いま何て言われました。何か思い当たる節でも…… ? 」

「いんや、わしは、景山さんが毛多霊神社の巫女として働くって聞いた時から、心配しておったんですわ、いつかこんな恐ろしいことがおこらなにゃいいがなって…… 」

正一は一呼吸おいて

「化陀の呪いですわ。毛多霊神社は昔から、若い巫女が来ると良くないことが起こるという伝説がああですわ…… わしは景山さんが毛多霊神社で巫女として働くっちゅうて聞いた時から、こげなことにならにゃええがなと思っちょりました」

「化陀の呪い? 何ですかそれは? 」

「毛多霊神社の裏にある、南尼母山に住んじょったという化け物です。その化け物を毛多霊神社の先祖が退治したんです。その時に化け物はその太刀に姿を変えたといわれ貯ります。しかしその太刀には化け物の呪いが移って…… 」

「それは、いわゆる昔話です…… か? 」

「まあ、そげですね。昔話と言われたら、そげんなりますわな」

毛多霊神社の神主の薄い速弥太は、青い顔をしたまま二人のやり取りをじっと聞いている。蔵金刑事が続けた。

「小村さん、今は平成の世ですよ。いくらこの気多玉町が、世の中から隔絶された時代遅れの町だからといって、いまどき、呪いや伝説は…… 無いでしょ。それより小村さん、景山さんは昨晩の何時ごろに帰って来たかわかりますか? 」

「確か…… 景山さんが帰って来られて…… そうそう、漬物を貰ったからといって持って来てごしなったわ。あれが、確か、夜の七時半くらいじゃなかったかな」

「そうすると、夜の七時半には部屋に戻っていたということですね」

「そげそげ、その時もこのセーターとこの体操着を履いちょられました」

「体操着? ああ、ジャージのことね」

「詳しい死亡推定時刻は、応援の米郷署の鑑識に任せないといけないけど、この状態から見て、それから今の小村さんの話からして、犯行は昨晩じゃないかと思います」

横で話を聞いていた畑木巡査は、そんなことは誰が見てもわかるわ、という顔をしたが、そんなことは関係なしに、蔵金刑事は続けた。

「小村さん、昨晩何か変な物音とか悲鳴とかを聞かれませんでしたか? 」

「さあて、なんも聞かんかったように思いますが、わしはいつもは夜の九時前には寝ちょりますが、昨晩は珍しく宿泊のお客さんもあったもんで、夜中の十時過ぎまでは起きちょりました。でも…… なんも変わったことは…… 無かったと思いますが」

正一は、昨晩のことを一つひとつ掌の上で思い出すように答えた。

「ところで、小村さん、景山さんはいつもは何時に部屋を出ていました? 」

「おそらく、八時半前には出ておられたように思いますが…… 」

「今朝は? 」

「さあて、いつも気を付けて見ちょうわけじゃないですけんな。宅配便が来た時に鍵がかかっているって言われたので、出かけられちょうもんだと思っちょりました」

「そうですか、そうすると今朝は景山さんの姿を見た人はいないわけですね。小村さんも、宅配便が来て、ドライバーの人がドアに鍵がかかっているって言ったので、景山さんはもう出かけたと思っていたんですよね」

「そげです」

蔵金刑事はベッドの方を見ながら

「でも、しかしだ、あのアクセサリートレイの中には、車のキーが入っている。と、いうことは、景山さんの車はここに置いてあるはずですよね。車の確認はしなかったのですか? 」

「景山さんの車は…… といいますか、景山さんに限らず、アパートに入ってもらった方の駐車場は、店の裏にある駐車場を使ってもらっちょります。だから今朝まだ景山さんの車があったかどげなかは? わからんです。店の横の駐車場はお客さん用にしちょります」

「わかりました」


=出雲郷吾郎=


 蔵金刑事はもう一度部屋の中を見回すと、景山加奈の死体の横にしゃがんで、

「ホトケさんは、声を出さなかったのかな? 」

蔵金刑事は、景山加奈に手を合わせると、死体のそばにいた畑木巡査に聞いた。

「見てください、首に絞められた跡があります。おそらく景山さんは何者かに、こう、後ろから首を絞められて、気を失った。その後、犯人はとどめに胸を太刀で突き刺した」

畑木巡査は身振り手振りで答えた。蔵金刑事はちょっと不機嫌になって、

「わかっている。そんな事は君に言われなくても、俺も最初から気が付いていた」

「はっ、申し訳ありません」

「この部屋の鍵、ええっと、景山さんの持っていた鍵はどこにあるんでしょうかね? 」

蔵金刑事はそう言いながら、部屋の中を見回していたが、ベッドサイドのテーブルから、景山加奈のバッグを取り上げると中を調べ始めた。蔵金刑事はバッグの中から、

「これは、何の鍵ですかね? 」

猫のついたキーホルダーを親指と人差し指で摘み上げて、正一の顔の正面に見せた。

「これは、景山さんが使っちょぉなった部屋の鍵ですわ。間違いあぁません。景山さんはいつもこの猫のキーホルダーを持っちょられましたから」

正一は目の前でぶらぶらしている、猫を指さしながらこたえた。

「すると、景山さんが使っていた鍵はこの部屋の中にあった。合鍵はさっきまで小村さんが保管していた。ほかに鍵はありますか? 」

「いんや、この部屋の鍵は、景山さんの鍵と、私が持っている合鍵の二つだけですわ」

「じゃあ、この部屋には他に出入りできるところがありますか? 」

蔵金刑事は窓に鍵がかかっているのを確認すると正一に聞いた。

「いんや、建物は古いが忍者屋敷でもあるまいに、隠し扉や抜け穴なんかはあぁませんな。ドアと窓以外に人が出入りできるところなんてあぁません」

「窓には内側から鍵がかかっている。ドアにも鍵がかかっていた。ほかに出入りできるところは無い。犯人は犯行後どこから逃げたんだろうな? 」

蔵金刑事はブツブツと独り言を言いながら天井を見ている。そばの畑木巡査が、

「はぁ? 犯人はドアから逃げたのではないでしょうか。それ以外に逃げれるところはありません」

「確かに俺もドアから逃げるしか方法は無いと思う。でも小村さんたちがホトケさんを発見した時には、ドアに鍵がかかっていた。神主の臼井さんがドアを開けようとした時に鍵がかかっていることを確認している。それから鍵がかかっていたことは、宅配便のドライバーも確認している。そしてその鍵のひとつは、ほれこの通りホトケさんのバッグの中にあった。そしてもうひとつの鍵は朝から小村さんが管理していた。そうだ、小村さん、合鍵はいつもはどこに保管してあったんですか? 」

「店の机の引き出しの中ですが…… 」

「そのことを知っている人は、小村さん以外にいますか? 」

「いんや、わしは一人暮らしだし、他には誰も…… 」

「昨晩は何時に戸締りをしましたか? 」

「景山さんが漬物を持って来てごしなってから、すぐに店は閉めましたが…… 」

「今朝も合鍵は机の中から? 」

「そげです」

「だとすると、犯人はこのドアから外に出て、そのあとどの鍵でこのドアを閉めたんだ? 」

「それは…… ? 」



畑木巡査が天井を見つめながら考えていた時だった。

「いやあ、これは完全な密室殺人ですね」

 蔵金刑事と畑木巡査がその声に驚いて振り返ると、いつの間に入ってきたのあろうか、身長百九十センチはあろうかという背が高く痩せた男と、その男とは対照的に小柄で少々ブヨっとした小さな男の二人ずれが、キッチンの前の板の間に立っている。蔵金刑事が、

「誰かね、君たちは? おい、関係者以外は中に入れるなと言ったろ! 」

と外にいる見張りの警察官を怒鳴った。

「はっ、すいません。そちらの方が小村さんの知り合いで、自分も関係者だと言われたもので、てっきり警部か小村さんのお知り合いかと思いまして」

「俺の知り合いに、こんな奴はおらん。どうして君たちが関係者なんだ? 」

蔵金刑事は怒鳴り続けている。背の高い痩せた男が、

「はい、僕たちは小村商店の小村さんに店番を頼まれているものであります。ですから、僕たちは小村商店の関係者でありまして、また僕たちは明日の毛多霊神社のお祭りに招待されておりますもので、よってこの事件の関係者でもあります。ですからもう少し事件に関して詳しく知りたいと思いまして、こうして見せていただいております」

「はあぁ? 何を言っているのかよくわからん。小村さん、誰ですか、この男たちは? 」

「はい、その方たちは、うちの旅館のお客さんで、今朝、景山さんの部屋に行くときに、ちょっこう店の番をしちょってごしないと、頼んじょりました」

「宿泊客? だったら関係ないじゃないか。それに臼井さん、こいつらは神社の招待客何ですか? 」

臼井速弥太は、

「別に招待したわけでは…… たまたま昨日、小村さんのお店で出会いまして、そしたら明日の祭りの話になりまして、その流れで、明日のお祭りにはぜひご参拝下さいと申し上げたまでで…… 」

「そっ、そんなことで、君たちは関係者だというのか? 」

蔵金刑事の怒りは爆発寸前までに達していた。その怒りに油を注ぐように背の高い男が

「まあまあ、蔵金さん」

「くっ、くらがねさん? 俺は、蔵金警部補だ。いいか、俺は、く、ら、が、ね、け、い、ぶ、ほ、だ。わかったか」

「はい、はい、わかりました。蔵金さん。でも蔵金さん、おかしいと思いませんか? 」

「何が? 」

「この部屋は密室です。これは密室で起きた殺人事件です。つまり、世の中でいうところの密室殺人というやつです。さっきも蔵金さんが…… 」

蔵金刑事は禿げ上がった頭と顔をさらに真っ赤にしながら、

「何度言ったらわかるんだ、お、れ、は、蔵金警部補だ! 」

背の高い男は、そんな蔵金刑事を気にする様子もなく、

「いいですか、この部屋は密室です。窓には鍵がかかっている。ドアにも鍵がかかっていた。その他には出入りできるところは無い。よく出来た密室です。そしてその密室で殺人が起きた。これは何度も言いますが、密室殺人です。で、問題は、さっきも蔵金さんが言ったように、犯人はどこから逃げたのでしょうか? それから、犯人はなぜ密室にしないといけなかったのでしょうか? この問題、つまりなぜ密室にしなければいけなかったかという問題はもう少し後から考えることにして、この部屋の鍵に関して考えてみましょう」

男は蔵金刑事が持っている部屋の鍵を取ろうとしたが、蔵金刑事がさっと背中に隠してしまったので、今度は畑木巡査の横に立って、

「こちらの警察の方が言われるように、僕も犯人はドアから逃げたのではないかと思います。そうすると、どうやって犯人はこの部屋に鍵をかけたのでしょうか? 」

「そんなことはさっきから話しているではないか」

「そうですね。鍵は景山さんが持っている物と、小村さんの合鍵の二つしかない」

「それもさっきからわかっているじゃないか」

「でもですね、おかしいと思いませんか? 」

「何が? 」

「おかしいのは、景山さんの部屋の鍵です」

「何がおかしいんだ? 小村さんもこの猫のキーホルダーの鍵が景山さんの部屋の鍵に間違いないと言っているぞ! 」

「僕もその鍵は景山さんの部屋の鍵だと思います。でもどうして、この鍵は景山さんのバッグの中にあったのでしょうか? 」

「景山さんの部屋の鍵が、景山さんのバッグの中に入っていて、何がおかしいんだ? 」

「自分の場合に当てはめて想像してみてください、いいですかぁ、仕事から車で帰ってきました。駐車場に車を停めました。エンジンを切って、キーを抜いて、車をロックしました。駐車場から部屋まではまだ歩かないといけません。その場合車のキーはどうするでしょうか? 」

「自分なら、バッグの中に入れます」

畑木巡査が横から割り込んだ。

「お前は黙ってろ! 」

蔵金刑事が怒鳴る。

「申し訳ありません」

背の高い男は関係なしに話を続ける。

「そうですよね、バッグに入れますよね。男だったらポケットに入れるかも知れませんがね。そして部屋まで歩いて帰ってくる。今度は部屋の鍵を開けないといけません。部屋の鍵もおそらくバッグの中に入っているでしょう。そしたらバッグから鍵を取り出して、部屋を開ける。部屋のドアを開けた後、鍵はどうするでしょうか? 」

こんどは蔵金刑事が

「おそらく手に持ったまま部屋に入るだろうな」

「そうですよね、手に持ったまま部屋に入りますよね。部屋に入ったら、部屋の鍵はどうするでしょうか? 普通は部屋のどこかに置き場所を決めておいて、そこに置くんじゃないでしょか。現に景山さんも車のキーはバッグから出して、そのアクセサリートレイの中に入れてありますよね。おそらく景山さんは普段身に付けているアクセサリーや鍵などを、そのトレイに入れていたのでしょう。おそらく彼女は、部屋に戻ると、車の鍵をバッグから出してトレイに置いた。そして身に付けているアクセサリーも外すとトレイに置いていた。当然、手に持っていたと思われる部屋の鍵もトレイに置いたと思います。でも今回は部屋の鍵はバッグの中にあった。仮に部屋のドアを開けた後、バッグの中に鍵を入れて部屋に入って来たとしてもですよ、車もキーを出す時に一緒に部屋の鍵も出して、トレイに入れると思いませんか。おかしいと思いませんか? どうして景山さんは部屋の鍵をまたバッグに入れたのでしょうか? 」



ここまで聞いた蔵金刑事は

「そうそう、俺もおかしいと思っていたんだ。どうして景山さんは…… と、その前に君たちは誰なんだ? 」

背の高い痩せた男が答えた。

「はじめまして、僕の名前は溝川総司と申します。東京で民芸品店を営んでます」

「あっそう、で、そっちの小さい方は? 」

蔵金刑事に指をさされた小太りの男は、

「小さいって…… ? 私のことですか? 」

「ああ、そうだ。お前だ」

「小さいって…… (失礼な、まあ本当に小さいのだから仕方がないが)初めまして、私は出雲郷吾郎といいます。溝川さんの友達です。小さくて、すいません」

「あだかえ? 変わったお名前ですな」

「すいません、よく言われるんです。出雲の郷と書いて、あだかえと読みます」

「で、あんたも東京から? 」

「はい、溝川さんと一緒に旅をしていまして」

「男二人で旅行…… ? 気持ち悪! で、仕事は?」

「現在、無職です」

「無職、仕事をしていないの? 」

「はぁ、ちょっと前までは仕事をしていたんですが、いろいろあって辞めました」

「民芸品屋と無職ね、でなんでまたあんた方ふたりは、この田舎の気多玉町に? 」


=問詩絵里のふたり=


出雲郷吾郎が毛多霊神社に興味を持ったのは、別に彼が頭髪に悩みを抱えていたからではない。

出雲郷吾郎、今年で四十歳になる。身長百六十五センチ、体重七十八キロと、どちらかというとデブの仲間に入る。いつもジャージの上下ににジョギングシューズを履いているが、運動は全く出来ない。

吾郎は無精者で、いつも無精ひげを生やしており、髪の毛も伸ばし放題、お洒落という言葉を知らない。

吾郎は大学を出ると、数年前まで小さな商事会社で正社員として働いていたが、仕事を初めて十数年経って、初めて自分が仕事のできない人間であることを知り、会社のみんなに歓迎の拍手を受けて退職した。吾郎にとって、人生で人に喜んでもらったのはこの時くらいである。

仕事を辞めてからは、アルバイトをしながら生活をしている。いわゆるフリーターである。


 事件が起きる三日前のことであった。


 出雲郷吾郎は、今日も昼過ぎになってから、杉並区上井草のアパートから出かけた。西部新宿線の井荻駅から電車に乗って高田馬場で降りると、早稲田通りゆっくりと大学の方に向かって歩き出した。

 駅前の交差点から少し歩いた戸塚第二小学校を過ぎたところに気を付けていなければ見過ごしてしまうような小さな路地がある。路地といってもビルとビルとに挟まれた隙間といった方がよい路地であり、両サイドのビルから出されたごみ箱が所狭しと並んでおり、とても通りとは思えない。

 その路地の入口に小さな張り紙がしてある。張り紙には小さく【珈琲屋『問詩絵里』この奥】と書いてある。しかし張り紙はパッと見た感じは魔除けのお札にしか見えない。

 吾郎はためらうことなくその路地の中に入って言った。

 背の高いビルに挟まれた路地の中は、一年中太陽の光が差し込むことは無く、表の通りの華やかさに比べると、暗く湿っぽく地の底に落ちた感がある。

 路地を二十メートルばかり入ったところに、珈琲屋『問詩絵里』の小さな看板があった。

 間口一間ほどのビルとビルとの間に挟まれた、平屋の小さな喫茶店である。営業中の札は出ているのであるが、とても入ってみたいと思えるような外観ではない。

 しかし吾郎はためらうことなく『問詩絵里』の木製の思いドアを開けて中に入って言った。

 店内は思ったよりも広く、テーブル席が三つと五人ほど座れるカウンターがある。店内の照明は間接照明が中心になっている。それでもテーブル席とカウンターには天井からランプが下がってはいるが、その明るさは必要最低限の明るさで、店内は薄暗い。

 さらに濃い茶系の色で統一された店内はいつの頃からか時間が止まってしまったようであり、店内の空気までが重く澱んでいるようである。

 この珈琲屋『問詩絵里』が開店したのは昭和五十年のことであり、その当時にマスターがレトロなインテリアにあこがれて、大正浪漫をテーマにしてインテリアをデザインして開店したのであるから仕方がない。

 店内にはたくさんの棚があり、それらの棚にはおそらく全く価値の無い骨董品や民芸品、またその棚に置かれてから誰も手に取ったことなど無いと思われる何冊かの洋書や昔のレコードが無造作に置いてある。そしてそれらの品々はうっすらと埃が化粧をしている。


「おはよう」

店の奥からマスターが吾郎に声をかけると、吾郎はぺこりと頭を下げてマスターに挨拶を返すと店内を見渡し、一番奥のテーブルに一人の男が座っているのを確認した。

 店内には吾郎とその男以外の客はいなかった。吾郎は無言で一番奥の席に向かい、男の前に腰を下ろした。

 マスターが水を吾郎の前に置くと、

「珈琲を、それから何か食べるものをお願い…… 」

「サンドイッチとナポリタン、どっちがいい? 」

「じゃあ、サンドイッチを…… 」

マスターは吾郎から注文を受けるとカウンターの中に戻って言った。吾郎の向かいの男は無言で雑誌を読んでいる。吾郎は

「今度はどこへ? どぶさん」

どうやら、吾郎と男は知り合いらしい。吾郎の問いかけに、どぶさんと呼ばれた男は

「さあて、それをいま考えていたとことなんだ、なあ、吾郎君、君は山陰に行ったことがあるかい」

「山陰ですか、あの出雲大社や砂丘のあるところですよね、残念ながら無いですね」

「そうか、なあ吾郎君、山陰に行ってみないか? 」

「山陰ですか…… 山陰には面白いものがあるんですか? 」

「いや、僕も行ったことが無いので、全然知りません。でも山陰は昔からの何かがあるような気がするんです」

「山陰もいいかも知れないですね。ちょうど、この前までやっていたバイト代も入ったことだし…… 」

「お金は心配しなくていいですよ。旅費と宿泊費は僕が何とかします。いつものように吾郎君は付き合ってくれたらいいんですよ。僕の旅の話し相手になってくれたらいいんです。山陰の温泉にでも入って、何日かブラブラしてみませんか」

「いいですよ。つきあいますよ。どぶさん」

 男の名前は溝川総司、本当はみぞかわと読むのであるが、漢字が得意ではない吾郎は、初対面の時に間違えてどぶ川と読んでしまったことから、吾郎は溝川のことを『どぶさん』と呼んでいる。えっなに、溝川をどぶ川って読む方が難しいって…… まあ、その辺はあまり気にしないで頂きたい。

 さて、話を戻しましょう。溝川総司、年齢は四十五歳くらい、身長は百九十センチと背は高いが痩せている。いつもゆったりとしたジーパンにワイシャツ、そしてジャケットを着ている。溝川は吾郎と違って、髭も毎日剃っており、髪の毛もきちんと整えている。おそらくその気になったらいい男なのであろうが、吾郎と同様にお洒落には縁の無い男である。

 溝川は高田馬場で日本中の民芸品や珍しい雑貨を扱う小さな店を営んでいるが、店はほとんど閉めたままで、この珈琲屋『問詩絵里』で一日の大半の時間を過ごしているか、店で販売する民芸品を求めて日本の各地を歩き回っている。

 吾郎と溝川総司はある事件をきっかけに知り合い、それから吾郎もこの珈琲屋『問詩絵里』に出入りするようになった。しかし怪しい関係ではないのでご安心頂きたい。

 そして吾郎はいつの頃からか、溝川の民芸品探しの旅に付き合うようになっていた。

 溝川はいつも吾郎の旅費や宿泊費を出してくれているのであるが、吾郎はその金を溝川がどこから調達してきているのかは知らない。もちろんこの『問詩絵里』での飲み食いした支払いも溝川が支払ってくれている。最近はそんな関係に吾郎もすっかり慣れてしまって甘えている。もう一度断っておくが、ボーイズラブのような関係ではない。


「で、どぶさん、いつ出発します? 」

「僕はいつでもいいけど、吾郎君はいつならいい? 」

「俺に予定なんて無いことは、どぶさんが一番知っているじゃないですか。俺はいつでもいいですよ」

「じゃあ、明日、どうかね? 」

「ノープロブレン、何も問題なしです」

「明日の朝の十時に、僕の店の前に集合でどうかな? 」

「わかりました。朝の十時、店の前ですね」



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