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毛多霊伝説殺人事件  作者: 巴邑克弥
1/2

事件(気多玉町の朝)

=毛多霊神社=


毛多霊神社 このちょっと変わった名前の神社を皆さんはご存じだろうか?


毛多霊神社は、鳥取県の米郷市から国道百八十一号線を南に車でおおよそ三十分ほど山中に入り、そこから碑野川の支流に沿って二十分のところ、岡山県との県境に近い鳥取県気多郡気多玉町にある小さな神社である。


鳥取県気多郡気多玉町は人口六千人ほどの小さな町である。

気多玉町は江戸時代には出雲街道の要衝であったことから宿場町として栄えた。またこの地方も島根県の奥出雲地方に並んで和鋼の生産が盛んな地であったが、現在は宿場町としての役目も無くなり、盛んだった和鋼の生産も大正時代になると、輸入鋼に押されて衰えて行った。和鋼の生産が衰えると、それに代わる産業も無く、気多玉町は寂れた町となってしまっている。

中国山地の山々に挟まれた谷間のわずかな土地に古い町並みが、以前の宿場町として栄えた名残を残している。そのような古い町並みの向こうに見える風景はどこも見渡す限りの山、山である。気多玉町の古い町並みは時間の流れが違うのではないか、あるいは時間が止まっているのではないかと錯覚をおこすような町である。


その気多玉町のさらに岡山県の県境に近い御墓谷の入口に毛多霊神社がある。


以前は訪れる人もいない、寂しい古びた神社であった。

しかし最近になって頭髪にコンプレックスを抱えた男性が、毛多霊神社にお参りしたところ、新たな髪が生えてきたと言った噂話が広がった。

いちど噂話が広まると瞬く間に全国的な話題になり、また神社の名前の“毛多”の文字より、世の中の頭髪にコンプレックスや悩みを抱える男性にとってはありがたいパワースポットとしてあちらこちらで取り上げられるようになった。

参拝すれば滅び始めた、あるいは滅びてしまった頭髪にご利益がある育毛の神社として注目を浴びるようになってきた。最近では日曜ともなれば、参拝者が後を絶たず、活気のある神社となった。

そうなると気多玉町としてもこれは町おこしになると乗り出してきた。毛多霊神社の横の土地を駐車場に整備して、その横に土産物販売所を建て、育毛饅頭をはじめ、育毛タオル、頭髪のお守り、また毛多霊神社の裏に涌く水をペットボトルに入れて、この水で頭を洗うと効果があるかも知れないとか言って、何かと関連商品を売り出すようになった。気多玉町の飲食店ではイカ墨を練りこんだ養毛ラーメン、育毛そばをはじめとして、新しい町のグルメも誕生した。挙句のはてには、アフロヘアーに似ているからといって『アフロ餅』というものまで販売を始めたが、『アフロ餅』は何のことはないただのボタ餅であった。

しかし頭髪にコンプレックスや悩みや不安を抱える藁にもすがりたい思いの男性にとっては、毛多霊神社は何よりありがたい存在であり、週末になると遠くは関東、関西や九州からも参拝者が来るようになり、今では町の大きな収入元となっている。


=小村商店の朝=


平成二十七年、その年の夏は猛暑であった。そんな夏の暑さもそろそろ忘れかけた、十月の日のこと、今日も気多玉町の小村正一の静かな一日が始まっていた。

小村正一は今年で八十二歳になるが、ふさふさとした白髪を綺麗にバック整えており、やはり白くなった口ひげを綺麗に蓄えて気多玉町にはふさわしくないお洒落な老人であり、ジーパンに淡い紫のシャツにピンクのスカーフと、とても八十二歳には見えない。

小村正一は気多玉町で民芸品や土産物、子どもの玩具や文房具、また生活雑貨を扱う『小村商店』、またその隣に『小村食堂』を営んでいる。その他にも『小村旅館』の看板を出している。

正一の家は、一階が『小村商店』と『小村食堂』になっており、その奥に正一が寝起きしている正一の住まいとなっている。そして『小村食堂』の中の階段を上がった二階が『小村旅館』の部屋となっている。

以前は母屋の隣に離れがあり、その離れも宿泊客のための部屋として使っていた。しかし戦争が終わった頃から気多玉町で宿泊する者はいなくなった。そのため旅館の宿泊のために使っていた部屋を、小さなキッチンとトイレと風呂が一緒になったユニットバスを入れて、ワンルームのアパートに改装して『レジデンス・コムラ』とちょっとお洒落な名前を付けてアパート経営もしている。

『レジデンス・コムラ』は、名前だけはお洒落ではあるが、築三十年を過ぎた、木造平屋、部屋数三部屋のおんぼろアパートであった。

アパートには景山加奈という若い女性が一人入居しているが、他の二部屋は空き部屋となっている。

景山加奈は毛多霊神社で、時給八百円で巫女のアルバイトをしている。時給八百円では生活が大変だろうと思われる方もいようが、『レジデンス・コムラ』は毛多霊神社が巫女のための社宅として借りており、景山加奈には部屋代の負担が無いのであった。そうでなければ気多玉町の小さな神社のアルバイトに来てくれる者などいないに違いない。

正一の連れ合いは三年前の暮にガンを患って、あれよ、あれよという間に逝ってしまった。正一には娘と息子がいたが、娘は米郷市の男性の所に嫁いでおり、息子は東京の大学を出るとそのまま東京の会社に就職していた。

連れ合いに先立たれた正一は、現在は『小村商店』と『小村食堂』を一人で営んでいた。東京の息子からは何度か東京で一緒に暮らさないかと言ってはくれていたが、正一は幼い頃から育ってきたこの気多玉町を離れる気にはなれず、元気なうちは一人で頑張りたいと息子の誘いを断っていた。

朝の九時を回ると、正一はいつものように『小村商店』の入り口のカーテンを開けてガラス戸を開けて、店の中に朝の空気と光を入れた。店の外は秋晴れのいい天気ではあったが、十月の朝の冷たい空気は正一を身震いさせた。

入口のガラス戸には明日に迫った『毛多霊神社例大祭』のポスターが貼ってある。正一はそのポスターを(ちっ)という顔で見たが、すぐに開店の準備に戻った。

十年ほど前までは、例大祭といっても数名の氏子が集まるだけの静かで簡素な祭りであった。しかし育毛のご利益のある神社として有名になってくるにつれて、祭りになると参拝者も増えてきて、それに伴って祭りも賑やかで派手なものになって来た。

気多玉町の通りには毛多霊育毛神輿が練り歩き、夜になると毛多霊踊りが夜の街を彩るようなった。神社の境内では毛多霊育毛太鼓が奉納され、毛田玉町あげての大祭となった。


祭りの前日と言っても気多玉町の朝はいつもと変わりはなかった。しかし今朝の小村正一の朝はいつもとは少し違っていた。

というのは、昨晩は珍しく『小村旅館』の宿泊客があった。『小村旅館』が宿泊客を迎え入れたのは、何年ぶりかのことであった。であるので今朝の正一は宿泊客の朝食の準備に追われていた。

宿泊客は東京からやって来たと言う二人ずれの男性で、昨日の昼前になってひょっこりと『小村商店』の前に現れた。

二人の男性は『小村商店』のガラス戸にはられた『毛多霊神社例大祭』のポスターを見ると興味をもったのか、店の中に入ってきて正一から神社にまつわる話と聞くと、祭りの日まで気多玉町で宿泊がしたいが、どこか泊まれるところが無いかと言い出した。正一は急な事なので夕食の食事の準備はできないが、それでも良ければ自分の所でも宿泊は出来ると話すと、素泊まりでいいと言って、何年ぶりかの『小村旅館』の客となった。

正一は『小村商店』の店を開ける前に、『小村食堂』のテーブルに、焼き魚にハムエッグ、味噌汁とご飯を準備して、宿泊客に朝食の準備が出来たと声を掛けてはきたが、『小村商店』が開店する午前九時を回っても宿泊客は部屋からは出てこなかった。

正一はいつもと同じようにガラス戸を覆っていたカーテンを開けて、店の前の道路を簡単に掃除をすると、またいつものように店の奥の椅子に腰を降ろしてラジオのスイッチを入れた。

『小村商店』と『小村食堂』は店内でつながっており、正一が腰を降ろしている場所からは『小村食堂』の店内の様子を知る事が出来た。宿泊客が朝食を食べに降りてきたら、味噌汁を温め直して出そうと様子を伺ってはいるが、宿泊客は姿を見せなかった。

正一はいつもの場所に腰を降ろして、今日も静かな一日を過ごすはずであった。


=事件=


午前十時前になった頃だった。店の前に宅配便のトラックが止まった。トラックから降りてきたドライバーは荷台から段ボール箱を両手に抱えると、店の中の正一に向かって

「おはようございます。景山さんの荷物を預かってきました。お部屋まで行かせていただきます」

と丁寧にあいさつをした。

「ご苦労様、頼んます」

正一の経営する『レジデンス・コムラ』は店の横の駐車場の奥にあった。ドライバーは駆け足で、店の横からアパートに向かって行った。しばらくすると

「景山さんはもう出かけられたようですね。ドアに鍵がかかっているし、呼んでもでられないので、荷物を預かってもらってもいいですか? 」

そう言いながらドライバーは店の中に入ってきた。ドライバーは景山さんより、荷物の配達にきて、もし自分が不在だったら、大家さんの小村正一に預けておいて欲しいと頼まれていたのであった。気多玉町周辺の広い山の中を走り回るドライバーにとって、再配達を考えると、その方がありがたいに違いは無かった。正一も景山さんから荷物を預かっておいて欲しいと頼まれていたので

「ああ、そこに置いちょいて」

正一は荷物の受け取りに“景山”とサインをすると荷物を受け取った。荷物は景山さんが定期的に購入している衣料品か何かで、毎月届けられており、箱は大きいが重くは無かった。

 ドライバーは受け取りにサインをもらうと、また駆け足でトラックに戻ると次の配達先に向かって車を走らせた。

 ドライバーが行ってしまうと、正一はまた静かな時間を過ごす事になった。

その頃になって

「おはようございます」

二人の宿泊客が二階から降りてきた。

「おはようさん、いま、味噌汁を温めぇけん、そこに座って食べ始めてごしない」

正一は食堂の調理場に入ると、味噌汁を温め直してテーブルに並べると

「今朝は、えらいゆっくりでしたな」

と声をかけると、男性のひとりが、

「昨日頂いた地酒の”黒髪鏡“が美味かったもんで、つい…… 」

と頭をかいた。

「そげかな、まあゆっくり食べてごしないな」

そう言うと、正一はまた自分の席に戻って腰を降ろした。

 地酒の“黒髪鏡”は気多玉町の造り酒屋が以前は“毛多真澄”として販売していたが、近年の毛多霊神社のおかげに便乗して名前だけ変えて売り出したものであった。


 時刻は午前十時半を回った頃であった。『小村商店』の前に一台の見慣れない車が止まった。車の中から、一人の男性が降りてきた。男性は身長百七十センチくらいで中々のいい男であった。

「おはようございます」

男性は見せの中に入ってきた。

「あれ、誰かと思ったら、毛多霊神社の速弥太さんじゃないかな、車が違うので誰かと思いましたわ」

速弥太と呼ばれた男は毛多霊神社の若神主で、フルネームは臼井速弥太という。今年三十歳になる。身長があるので、痩せては見えるが、筋肉が付くところには付いている、なかなかのいい男である。また、速弥太の苗字は臼井であるが、頭髪は黒々とした長髪であり、これがまた『毛多霊神社』の養毛話に拍車をかけている。

「ああ、いつも乗っている車の調子が悪くなって…… あれは代車なんです」

「そうかな、で、今朝は何の用かな? 明日はお祭りだけん、忙しかろうに」

「そうなんですよ、明日のお祭りの準備で今日は忙しいのですが、今日に限って、景山さんが出て来ないんです。携帯に電話をしても出ないし、具合でも悪いのかなと思って来てみたんです」

「景山さんなら、もうとおに出かけられたと思っちょりましたわ。さっきも宅配便の兄ちゃんが来たけど、部屋には鍵がかかっているし、誰もおらんと言っとりましたけん」

「そうですか、でも神社にも出てきていないんですよ。今まで一日も休んだ事もない娘なんですけどね」

「風邪でもひいて、寝込んでいるんじゃないかな? 」

「小村さん、一緒に部屋まで行ってみませんか? 」

「ああ、ええですよ。ちょっと待ってごしないよ」

正一は『小村食堂』の二人に向かって

「ちょっと裏のアパートまで行って来ますけん、店の番をしちょってごしない。」

そう声をかけると、ついでとばかりに宅配便の荷物を両手に抱えた。突然やって来た見ず知らずの宿泊客に店番を頼むとは、何とものんびりとした気多玉町である。


「小村さん、合鍵も持って行った方が良いんじゃないですか? 」

「ああ、そうですな、すまんが、速弥太さん、その引き出しの中に鍵がありますけん…… そうそう、それを一緒に持ってきてごしない」

そう言って正一と速弥太は店の横のアパートに向かった。


 店の横は車が三台くらい止める事が出来るお客さんのための駐車場になっており、その奥に『レジデンス・コムラ』があった。『レジデンス・コムラ』は『小村旅館』として宿泊客を受け入れていた頃は離れと呼ばれており、正一の住んでいる母屋と並んで建っている。母屋との間には幅が一間ほどの細長い通路があった。以前はその通路は中庭と呼ばれて手入れがされており、渡り廊下で母屋と離れはむすばれていた。しかし今はその渡り廊下も取り壊されてしまっている。であるので以前の中庭は、今は只の通路でしかない。駐車場側の壁面は今風のアパートの壁面であり、その壁面に『レジデンス・コムラ』の文字があった。しかしその奥に入ると築三十年は隠せない平屋のおんぼろアパートが三部屋ならんでいる。

 景山さんの部屋は一番奥の一〇一号室であった。

 神主の速弥太が先に、正一が段ボール箱を抱えてその次に続いた。

 部屋の前に着くと、速弥太が、

「景山さん、おはようございます」

と声をかけた。しかし返事は無かった。速弥太はドアノブに手をかけると、ガチャガチャと音を立てて、もう一度

「景山さん、おはようございます。神社の速弥太です」

と声を掛けると、正一に向かって

「やっぱり、おられないみたいですね」

部屋の正面は出入り口のドアの他にはキッチンの小窓があるばかりで、その小窓もしっかりと閉まっており、中の様子を伺う事は出来ない。

段ボール箱を両手に抱えて、その様子を見ていた正一は

「もうこの時間だ、やっぱぁ、出かけられたんじゃないかな?どれ、裏にでも回ってみますか…… 」

と段ボール箱を抱えて部屋の裏へと歩みを進めた。速弥太も少し遅れて正一の後に続いた。

 『レジデンス・コムラ』の奥は隣家との背の高いブロック塀になっている。その塀とアパートの間に人が一人通れる程度の隙間があり、部屋の反対側に回り込む事が出来た。

 部屋と壁の間には瓦礫が散らかり、その上雑草が茂っているため、歩くのには多少難渋したが、それでも部屋の裏側に回ることは出来た。

 正一は段ボール箱を両手で抱えたままその隙間に入って行った。隙間を通って部屋の反対側に出るとそこは一部屋につき二坪ほどの庭になっている。壁の向こうも隣家とのブロック塀になっている。庭は手入れをするものはいないので、雑草が生い茂っていた。

 部屋はその庭に面したが、大きく掃き出しのガラス窓になっている。正一はそのガラス窓に近づいてみた。ガラス窓にはカーテンがかかっており、中を見る事はできなかったが、よく見ると景山さんの部屋の窓のカーテンはほんの少しだけ隙間が出来ていて中の様子を見ることが出来た。

 そのカーテンの隙間から中を覗き込んでいた正一の手から段ボール箱が落ちるのと同時に、正一の目がその皺の多い顔から五センチは飛び出したうように見えた、そして次に正一の口から

「あ゛、あ゛~」

と何とも言えない悲鳴にも似た言葉が漏れた。

「はっ、はっ、はやたっ、速弥太さん、たっ、たっ、たっ、大変…… だ…… 」

「どうしました? 小村さん…… 」

速弥太が、正一が見つめるカーテンの隙間から、部屋の中を覗いて見ると、部屋の中は女性の部屋らしく、フローリングの床にピンクのカーペットが敷いてある。そしてその上に細めの大根が落ちていた。その大根の根は幾つかの細い根っ子に分かれている。そしてその大根は白いセーターの中より出ており、その白いセーターの、ちょうど胸のあたりが、真っ赤に染まっている。その真っ赤な色は、ピンクのカーペットも赤く染めていた。

 速弥太は、その大根と白いセーターと赤い色が何なのかが、すぐにはわからなかったが、セーターの、ちょうど人間の首の部分に当たるところに、景山さんが大きな瞳を見開いてこちらを見ていた。速弥太の目と景山さんの目と目が合った。

「え゛~、ひっ、ひっ、ひっ、」

今度は速弥太の口から、わけのわからない言葉が発せられた。

「ひっ、ひっ、ひとが、人が、死、ん、で、る…… 小村さん、早く警察に知らせないと…… 」

「あ゛、あ゛…… まだ、生きちょるかも知れんがぁ? 早く助けんと」

正一も、まだわけのわからない言葉を発している。速弥太は、合鍵を正一に渡すと

「いや、あの様子では、もう死んでいるでしょう。それより早く、警察に電話を、ドアを開けるのは警察が来てからにしましょう。それまで合鍵は正一さんが持っていて下さい」

正一は速弥太に言われる通りに、隣の塀との狭い間を身体をぶつけながら、急いで店に戻ると警察に電話を入れた。


 正一が警察に電話を入れてから三分ほどして、サイレンを鳴らしたパトカーがやって来た。『小村商店』と気多玉署は二百メートル程の距離であるので、おそらく走って来た方が早いと思うのではあるが…… 

 気多玉町は静かな町で、毛田玉署でも、もう何年も事件らしい事件を扱ってはおらず、最近の事件というと、小学生の通学路に熊が出たとか、畑が猪に荒らされて被害が出ているとかといった状態である。その上、交通事故ももう何年も起きてはおらず、鳥取県内でも交通安全には優秀な地区として知られてはいるが、これは単に交通量が少ないだけである。

 また気多玉署は鳥取県警の流人の署と呼ばれており、毛田玉署に配属になると、定年まで他の警察署に転勤になる警察官はいない。人事の移動があるのは、気多玉署員が定年で退職するか、あるいは何らかの理由によって、途中で退職した時に、新たな流人が配属になる以外に、毛田玉署から出て行く警察官はいなかった。まあいい方に取れば、もう転勤の心配をしないでいい安住の地を得たようなものではあるが、昇進の野心を持つものにとっては、地獄のような気多玉署であった。しかし安心あれ、毛田玉署に昇進の野心を持つような警察官はいなかった。


 そのような気多玉署であったので、警察の組織も【交通課】【生活安全課】【経理課】、そして忘れかけられている【刑事課】とはなっている。

【刑事課】は名ばかりで、署内では【雑事課】と呼ばれて、一年間何も警察の野暮用以外は、何もしないことが通常の仕事であった。

 そんな【雑事課】失礼、【刑事課】に殺人事件の連絡が入って来たのであるから、毛田玉署内は、てんやわんやの大騒動になった。

 いつもは、町内の安全パトロールと称した、暇つぶしのためのパトカーの出動であったため、気多玉署のパトカーはサイレンなど鳴らしたことが無い。今日は事件での出動である。しかしサイレンのスイッチを探すのに時間がかかって現場到着が遅れてしまった。

 現場に到着してからも警察官たちは初めての殺人事件に何をしていいのかわからず、『小村商店』はあたふたと慌てる警官で大騒ぎになった。しかし誰も景山さんの部屋には入ろうとはしなかった。なんせ、交通事故も無い町である、どの警官も交通事故の怪我人はおろか、血を流した人を見たことが無い。もちろん変死体など見たことはないし、見たくも無いのである。その上、昇進の野心の無い警察官ばかりである。“人より目立ってはいけない”を信条としている警察官ばかりである。そんなわけで、パトカーでやって来た警官は皆、現状維持の見張り役になってしまっていた。


 そんなやる気の無い警察官が気多玉署でパトカーの出発に手間取っている時に、気多玉署を勢いよく飛び出してきた、小太りの私服の警察官がいた。

「お前ら、何をのんびりしているんだ、現場はすぐそこだ、走った方が早いぞ。俺は先に行く、お前らは後からついて来い! 」

と言って小太りの私服の警察官はどたどたと走り出した。

 三分遅れで気多玉署を出発した警察官たちが次にその私服の警察官を見たのは、毛田玉署から五十メートル離れた、自動販売機でペットボトルのお茶を買って飲んでいるところであった。

 パトカーの警察官が、

「乗りませんか? 」

と声をかけたが、

「いま給水ポイントだ、お前たちは先に行って、現場が荒らされないように、見張っておけ! 」

 

=蔵金刑事=


 ゼイゼイと息を切らしながら、小太りの私服の警察官が『小村商店』に到着したのは、パトカーの警察官たちが見張りを初めて数分後のことであった。

「はあ、はあ、はっ、畑木くん、お待たせ、お待たせ。で…… 現場はどこ? はあ、はあ」

遅れてきたにしては、随分と横柄な態度の警察官である。畑木くんと呼ばれたのは、気多玉署の畑木 翔巡査である。畑木巡査は、

「はい、店の横に駐車場があります。現場はその駐車場の奥にあるアパートであります」

少々緊張して敬礼をしたまま答えている。

「で、第一発見者は? 」

「はい、こちらの小村正一さんであります」

畑木巡査は、右手で敬礼をしたまま、左手で正一を指さして、私服の警察官に伝えた。私服の警察官は、小村正一の前に立つと、

「始めまして、私は毛田玉署の刑事の蔵金と申します。あなたが第一発見者の…… コ、ム、ラさん? 」

刑事の蔵金と名乗った警察官は、気多玉署【刑事課】の警部補である。名前を蔵金佳希という。昭和四十二年生まれの四十八歳、独身、身長百六十六センチと小柄ではあるが、体重は優に百キロを超えており、どうみてもあと十年以内に、がん、脳卒中、心臓病といった、いわゆる三大疾病を起こすことは確実とみられる生活習慣病の代表選手の典型的な体型の持ち主である。そしてまた蔵金刑事は体型的な問題点の他に、彼の脳内には思考的な問題点も持っている。

だいたい世の中には勘違いをしている輩というのが、少なからずもいるものではあるが、蔵金刑事の場合は、勘違いも甚だしく、自分をあの『踊る大捜査線』に出てくる、カッコいい刑事と見た目も中身も同じであると勘違いをしているところである。

蔵金刑事は、いつも濃い紺色のスーツに白いワイシャツ、そしてだらしなく締めた赤いネクタイ、その上にまだ十月だというのにモスグリーンのモッズコートを羽織っている。

そして手にはなぜか扇子を持っている。これは、刑事は扇子を持っているものだという彼の勝手な思い込みからであって『踊る大捜査線』とは何の関係も無い。あしからず。

そして蔵金刑事の頭は、毛多霊神社のある気多玉署の警察官の中で彼だけひとり、なぜか毛多霊神社の祟りを受けているらしく、すでに頭頂部の一部と後頭部を残して、大きく衰退してしまっている。蔵金刑事の頭髪はサザエさんに出てくる波平さんの頭を思い出してもらうとわかりやすいと思う。ただし、波平さんは頭頂部には毛は一本であったと思うが、蔵金刑事はもう少し残っているのが多少の救いかも知れない。

蔵金刑事の頭髪は毛多霊神社の祟りを受けているとお話させていただいたが、そもそも蔵金刑事は毛多霊神社に参拝もしたことは無いので、本来ならば祟りもご利益も何もないに違いないと思われるのであるが…… いや、そもそも気多玉町で生活をしていながら、毛多霊神社に参拝したことが無いこと自体が祟りの対象なのかも知れない。まあ、どちらでもいいことではある。

さてこの何とも言い難い格好の勘違い刑事を前にして小村正一は

「小村正一といいます。この店とアパートなどを経営しております」

と、至極まともに答えている。蔵金刑事は、今頃になって噴き出してきた汗をモッズコートのポケットからしわくちゃの手ぬぐいを取り出して拭きながら、

「そうですか、ではさっそく現場に行ってみましょう。案内をお願いします」

「こっちへどうぞ、あっ、速弥太さんも一緒に来てごしない」

「こちらの方は? 」

「はい、わしと一緒に景山さんを見つけた、毛多霊神社の神主さんです」

「初めまして、気多玉署の刑事の蔵金です。どうしてまた神主さんがここに? 」

「はい、実は…… 」

臼井速弥太は今朝から景山加奈の死体を発見するまでのことを、要点をまとめて、簡単に蔵金刑事に説明をした。

「そうでしたか、そうすると殺されていると思われる被害者は、毛多霊神社の巫女の景山加奈さんなんですね? 」

「そうなんです」

「わかりました。さっそく現場に行ってみましょう」

「こつらです」

正一と速弥太が先頭に立って歩き出した。蔵金刑事と畑木巡査は後に続いた。正一は景山加奈の部屋の前まで行くとドアを指さして、

「この部屋が景山さんの部屋です」

「わかりました。さっそく入ってみましょう」

蔵金刑事はドアノブにゆっくりと手を伸ばし、ノブを回したが、

「おや、鍵がかかっていますね」

「はい、警察の方が来られるまで、入らん方がいいかと思いましたので、鍵は開けちょりません」

「そうすると何ですか? あなた方二人は窓から覗いただけで、倒れている景山加奈さんが死んでいると判断したんですか? 」

蔵金刑事の問いに速弥太が答えた。

「そうです。だってあれだけたくさんの血が流れているんです。当然死んでいると思ったもので…… 」

「そうですか、わかりました。で、小村さん、この部屋の合鍵はありますか? 」

「はい、ここに持ってきちょります」

正一はそういうと合鍵を蔵金刑事に見せた。

「合鍵はずっと小村さんが…… 」

「はい、今朝からずっとわしが持っちょりました」

「小村さん、ドアを開けてください」

蔵金刑事にそう言われると、正一は合鍵でドアを開けた。蔵金刑事と畑木巡査が中に入ると、正一と速弥太も恐る恐る後に続いた。

 部屋はドアを開けると半畳ほどのたたきになっており、景山加奈のものと思われる靴が脱いである。その奥が一段上がって、また半畳ほどの床になっており、玄関マットが敷かれていた。

 部屋と部屋との間には襖があり、その襖を開けると十畳ほどのフローリングのワンルームの部屋になっていた。

 『レジデンス・コムラ』は外見はおんぼろアパートであるが、部屋の中は綺麗にリフォームされていて、最近の若者受けする内装になっている。フローリングの床にはピンクのカーペットが敷かれている。これは景山加奈の好みなのであろう。

 部屋の奥には一間ほどの掃き出しの窓がある。

 この部屋にはこの窓の他には、キッチンに喚起のための窓とユニットバス内の小窓しかない。キッチンの窓とユニットバスの小窓には防犯のためのステンレス製の面格子が取り付けられておりこの窓からの出入りは出来ない。

 部屋の奥にはベッドが置かれている。ベッドの置かれている壁には女の子らしく、小さなぬいぐるみや小物、またおみやげにもらったのであろうか小さな民芸品、それからフォトスタンド等の置かれた棚があった。ベッドの横にはサイドテーブルがあり、テーブルの上には、ランプの他、景山加奈の物と思われるバッグが置かれている。その横にはアクセサリートレイがあり、中には景山加奈が身に付けていたブレスレット、指輪等の他に、景山加奈が乗っている車のキーが入れてあった。

 景山加奈はベッドではなく、カーペットの上に頭を窓の方に向けて床のほぼ中央にあおむけに倒れていた。

 景山加奈は帰宅してからくつろいでいたのであろう、薄手の白いタートルネックのセーターに黒のスポーツウェアのパンツを履いていたが、衣服に乱れは認められなかった。

 また、部屋の中も荒らされた様子も、争った形跡も無かった。

 しかし、景山加奈の白いセーターの豊かに盛り上がった胸には刃渡り四十センチほどの細かな装飾を施した古めかしい太刀が刺さっていた。そしてその傷口から噴き出した血は、景山加奈の白いセーターとピンクのカーテンを赤黒く染めていた。

 景山加奈がすでに事切れていることは、素人目にも判断できた。



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