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不思議学園 短編集

天敵と執着と本心と

作者: 吾桜紫苑

 今までの不思議学園シリーズと違ってブラックです。

 翔視点。

 ……翔が物凄く捻くれてので、その辺を許せる方のみお読みください。

 本人から伝え聞いたという電話でのやり取りを聞いた俺は、様々な思いを心の奥に押し込み、しみじみと言った。

「ふーん……空瀬がその選択をするとは思わなかったねえ」

「ええ、私も聞いた時は驚いたわね」

 頷いて、咲希はコーヒーを一口飲んだ。俯いた拍子に、長い髪がさらりと揺れる。


 咲希の腰まである見事な黒髪は、横髪を少し残して巻き上げられていた。絹のような光沢の放つ髪が緩やかにカーブを描いて結い上げられる様は、咲希の纏う凛とした、それでいてどこか儚い空気を華やかに見せている。

 どうやら咲希は、学校では髪を下ろし、私服で外出時は髪を結うと決めているらしい。冷たく見える程に整った面差しが柔らかく見えるしこっちの方が可愛いから、普段からこうしていれば良いのに。


(……まあ、そうなると男子達も黙ってはいないか)


 咲希はいつも雪音を手放しに褒めているけれど、その雪音と並んでも引けをとらない。小さい頃から哉也ばかりが注目されていたから見目の自己評価が異様に低いけど、存在感の違いってだけで外見の優劣はない。

 空瀬と付き合い出してからどこか不確かだった輪郭がしっかりした咲希は、端から見てても加速度的に綺麗になっていく。遅まきながら咲希に目を付ける虫がこれ以上ちょっかいを出してきても面倒(勿論それを潰す為に動かなきゃならないという意味で)だし、学校では冷たく見えるくらいで丁度良いのかもしれない。


「翔?」

「うん?」

 怪訝な声に返事を返せば、咲希が瞬いた。

「珍しいわね、翔がぼうっとしているの」

「んー、ちょっと考え事」

 咲希に見惚れてたなんて露とも悟らせずにはぐらかせば、咲希が半目になる。

「悪巧みの間違いでしょう?」

「悪巧みとはまた穏やかじゃないなあ。単に、空瀬と哉也がどういうやり取りをしてこうなったのかなって考えてたんだよ」

「ああ」


 上手く誤魔化されてくれた咲希が小さく頷いた。日本人形のような整った面がふっと真剣な表情になり、唇が動いて言葉を紡いだ。


「哉也がどうやって空瀬先輩を引き入れたのかは私も聞いてない。元々空瀬先輩、哉也を利用するつもりだったのよ」

「だろうね、その方が空瀬らしい。まあ、哉也がそれをひっくり返したって言うのは納得だけどさ」

「そう?」


 咲希が小首を傾げる。ガラス玉のように透き通った光を映す瞳に不思議そうな色が浮かんでいるのを見て、小さく笑った。


(……本当に、表情が出るようになったなあ……)


「咲希は相変わらず哉也の評価が低いなあ。哉也は空瀬の口車に乗せられて利用されるタマじゃないだろ」

「まあ、哉也が大人しく誰かに従うなんて事あり得ないか。空瀬先輩の事嫌いだし、尚更」

「けど、だからといって空瀬が哉也に従うとも思ってなかった、と」

「だって意外でしょう?」

 そう言って肩をすくめる咲希は、今度は呆れの様な色を浮かべている。おや、と思うより先に、その理由が語られた。

「空瀬先輩、理由聞いても『気が変わった』の一点張りなのよ。その気の変わった理由を聞きたいのに」

「あはは、空瀬らしいな。……それにしてもさ」


 ここ——セイファートでの会談が始まってからずっと思っていた事を、わざと切った言葉を身構えて待つ咲希に投げ掛けた。


「まだ『空瀬先輩』なんだ? 付き合ってるのに」


 咲希の頬がうっすらと朱に染まる。それに気付いてないのか、表情は変えず素知らぬ態度で返してきた。

「先輩は先輩だもの」

「琴音は名前で呼んでるじゃないか、哉也の事」

「2人は元々名前で呼び合ってたでしょうに。どっちも名字嫌いだからって」

「まあね。で、咲希はいつから空瀬の事を名前で呼ぶのかな。卒業後?」

「さあ」


 しれっと返してくる様子に、必死で笑いを噛み殺す。再会した頃の仮面のようだった咲希ならいざ知らず、ちゃんと表情が出るようになった今も尚、これで幼馴染みである俺を誤魔化せると思っているのが面白くてたまらない。


(空瀬は人目憚らず咲希って呼んでるし、咲希も空瀬に迫られて2人きりの時は名前で呼んでるって情報くらい、手に入れてるんだけどねえ。とっくに琴音の前でうっかり呼んでるんだろ? それで惚けられると思ってるんだから、咲希も詰めが甘いよなあ)


 今それを告げても良いけど、これはもっと楽しいタイミングが後々ありそうだ。からかうのに最高の瞬間まで、騙された振りをしておく事にしよう。


「ドライだねえ。ま、空瀬がああだから丁度良いのかな」

「え? 空瀬先輩もそんなべったりじゃないわよ」


(………………ああ、うん)


 うっかり遠い所に魂を飛ばしそうになるのをギリギリで引き戻し、にっこり笑って粘る。


「いやいや、こうして咲希と2人でいることだって、俺にしてみれば命懸けだけど? 男の嫉妬って怖いよ」

 咲希の表情が微妙なものに変わる。妙なものを見るような眼差しを俺に向けつつ、さらりと宣った。

「……空瀬先輩に限ってそんな事気にする訳無いじゃない。逆に怖いわよ、翔と密談してるだけで本気になる空瀬先輩って」


(……俺はそれを本気で言ってしまう咲希が怖いデス)


 天然ここに極まれり。時折哉也がげんなりした顔をするのも無理は無いなとつい思ってしまった。

 ……その容赦のなさと迅速に闇に葬る様子から「魔王降臨」と呼ばれ学校中が戦く空瀬の本気は端から見ていると非常におもし……心強いけれど、本気を出す理由である咲希本人がこれでは、空瀬も報われない。


(ま、空瀬は咲希が側にいさえすれば良いのか)


 取り敢えずそういう事にして、やや強引に話を戻した。……これ以上咲希に惚けられると、平然としていられる自信がない。


「そう? 分からないもんだよ、恋愛は。……さて。という事は、今後は哉也が指示を出せば空瀬が動くと考えて良いんだね。俺はこれまで通りだけど、咲希は哉也が借り返せって言ってたし、当分は哉也に見える場所で動く?」

「…………ええ、そうね」

 途端物凄く嫌そうな顔で頷く咲希に、少しだけ吹き出してしまった。

「ははっ、そんなに嫌? 哉也に使われるの」

「翔も人使い荒いけど、借り返せって言う時の哉也の容赦の無さは酷いもの。翔だって知っているでしょうに」

「まあね」


 一も二もなく頷く。哉也は普段俺に散々人使いが荒いと文句を言うけれど、1度使うと決めた時はそれはもう、ほんっとうに遠慮無くこき使う。実の妹である咲希や、嫌いだと躊躇いなく公言する空瀬相手なら尚更だろう。


「けどまあ、そこは素直に使われなさい。七夕の件でみんなに心配かけた自覚はあるだろ? それに、空瀬と付き合えてるのは、本当に哉也のお陰だよ」

「…………分かってるわよ」


 拗ねたような口調で答えて、コーヒーを飲む咲希。あの1件は本当に肝を冷やしたけれど、乗り越えた今こうして子供っぽい面も見せてくれるようになった。とても安心したけれど、だからこそ寂しいというか。


(分かってた事では、あるけどな……)


「じゃあ文句言わない。大体、琴音なんて本気で泣く寸前だったよ? 2度とあんな馬鹿な真似はしないように」


 冗談めかした口調ながらも半ば以上本気で言うと、咲希は1度視線を下に落とした。少し間を置いて顔を上げた咲希は、改まった表情で姿勢を正す。


「……あの時は混乱して、考え無しの行動を取りました。迷惑かけてごめんなさい」

 そう言って、咲希は綺麗な一礼を見せた。頭が下がった拍子に目に入った緑色の簪にざわつく心を宥めて、柔らかい声を心がけて答える。

「迷惑とは思ってないさ。心配したけどね。哉也も口では迷惑だ貸しだと言ってるけど、哉也なりに心配してたよ」


 顔を上げた咲希は、俺の言葉に曖昧な表情を浮かべた。やや視線を彷徨わせながらも俺を見上げ、ぽつりと言う。


「それは……無いと思うけど。でも……その、心配してくれて、ありがとう」


(……ああ、うん。琴音も良い仕事なのか余計な真似なのか分からない事をしてくれるよね……)


 殊勝な態度で訥々とした口調、上目遣いのおまけ付きのありがとうは、ちょっと琴音に八つ当たりしたくなるくらいの破壊力だった。珍しくあの空瀬がフリーズしたという琴音情報も納得出来る、というか良く手を出さなかったな。


「はい、どういたしまして」

 危うく本心をさらけ出しそうになる表情筋を叱咤し、さらりと返した。コーヒーを飲んで、揺れた内心を立て直す。


 それから俺達は、今までのやり取りを忘れたように真剣な打ち合わせをした。哉也に告げずに動いてきた分、報告出来る場所は少ない。メールは見られるのを警戒して使っていないから、セイファートでの密談は貴重な機会だ。

 特に最近は、咲希が空瀬と付き合いだして、その状況変化に慣れる為としばらく待っていたので尚更間が空いている。互いに報告し合う事は沢山あった。


 空瀬と付き合っている咲希が、唯一俺と2人きりで話す空間。それを惜しまないと言えば、嘘になるけれど。俺の本心を知った上でこの密談を黙認しているだろう空瀬の事を考えれば、複雑な思いが込み上げもする。


(それでも少しでも引き延ばそうとして意見交換を持ちかけるんだから、俺も大概だよなあ……しかも内容が内容で、相手はものすごーく事務的なのに)


 内心で散々自嘲しつつ、俺はいつもの笑顔を仮面にして、咲希との時間を大事に過ごした。



***



 密談を終え、これから琴音に会うという咲希を琴音の家まで送り、俺は帰路についた。

 ……主目的は空瀬なのに素直にそう言えない辺り、つくづく兄妹だなあと思う。


「ふう……」

 小さく溜息をついて、心の中の屈託を取り払う。鈍っていた足に力を込め、自分の家へと向かった。


 どこにでもあるような、2階建ての一軒家。大きさは琴音と空瀬が住む家と大差ないだろう。4人家族が暮らすには十分な広さだ。

 門を通って階段を上り、ドアの前で1度立ち止まる。深呼吸を数度、気持ちを切り替えてから、俺はドアを開けた。


「ただいまー」

「おかえりなさい」


 挨拶に直ぐに返ってきた声に、自然と笑顔になった。外では見せない、彼女にだけ見せる、素の笑顔。


「ただいま、鈴。今日も可愛いね」


 笑顔を向けた先、冷たい程整った顔立ちの少女が嫌そうに顔を顰めた。


「中学生になったばかりの相手に何を口説いているのですが気持ち悪い。翔兄かけるにいは中学生の義妹を口説く変態だと高校に言いふらしますよ」


 外見の冷たさに恥じない毒舌。冴え冴えとした眼差しも相まって突き刺さるようなそれは、けれど毎日向けられていればただのコミュニケーションだ。


「大丈夫、大丈夫。学校ではちゃんと品行方正成績優秀、立派な兄貴やってるよ」

「その徹底した猫被りごと気持ち悪いです翔兄。いっそ1度死んでみませんか」

「やめとくよ。生き返れるとも思えないし、俺が死ぬと色々滞るし。鈴も悲しいだろ?」

「清々します」

「うわあ即答。相変わらず素直じゃないねえ」


 くすり、と笑いを漏らした瞬間、伸びてきた手を柔らかく掴んだ。悔しそうに顔を歪める義妹、中西鈴の手を痛めないよう気を付けながら、軽く力を込める。


「すーずー、俺の腕は普通の方向にしか曲がらないんだから、関節極めようとするのやめような。そういう所ばっかり咲希に似なくていいんだよ?」

 苦笑気味にやんわり窘めると、鈴はすっと目を細めた。

「……翔兄、咲希姉様と会ってきたのですね」

「ん? 俺、言ってたっけ?」

 義妹の勘の良さに舌を巻きつつ、手を離す。手を下ろした鈴は首を横に振った。

「いいえ。ただ翔兄は、咲希姉様と会った後は必ず同じやりとりをするので。分かりやすすぎて翔兄の頭が大丈夫か心配になる程です」

「そうだっけ? 自覚なかったな」


 嘘だった。いつもは言葉を工夫して楽しむ鈴とのやり取りが、この時ばかりは一辺倒なものになる。付き合わせて申し訳ないと思いつつ、何故か変えられない。

 鈴の前では上手に隠している不器用な自分が剥き出しになる。それに落ち着かなさを感じていると悟らせないよう、余りわざとらしくならないよう気を付けつつ話を逸らす。


「ところで、咲希が「咲希姉様」で俺が「翔兄」なのどうにかならない? 哉也も「哉也兄様」なんだから、俺も」

「翔兄様と呼んでくれ、何て言わないでくださいね鬱陶しい。私にとって兄様は哉也兄様だけですとこれも何度も繰り返したやり取りです」

「……冷たいなあ」

 とりつく島もない、とはまさにこの事だ。苦笑して鞄を上がり口に置いた。


 中学生なのにやたらと大人びている鈴には複雑な事情がある。訳あってここを離れていた俺は、遊びに来ていた哉也に協力してもらい、少々強引な方法で鈴を中西家に入れた。

 その手段が哉也曰く「最高にお前らしい腹黒さ」だったからなのか、単に俺の内面を見たからなのか、鈴はその時から俺に対してはこんな態度だ。同じく中身を隠さず接した哉也には物凄く懐いているのだから、俺としてはちょっと納得いかない。

 そして、高校で再会した咲希に事情は告げないまま引き合わせた時、鈴は以前を知る俺と哉也が驚く程すんなりと咲希に懐いた。咲希も懐く鈴に思う所があったのか、哉也と同じく猫かわいがりしてくれている。

 甘えるのが下手な鈴が子供らしく振る舞える相手がいるのは良い事だけど、その素直さをほんの少しでも俺に向けてくれても良いのに。それを言うと今みたいな毒舌の嵐だから、半ば諦めてもいるけど。

 あの2人には可愛がられ、俺相手に我が儘を言う。それが鈴にとって良いバランスなんだろうとも感じるので、最近は言われるのを分かっていてからかって遊んでいる。

 なんていうか、これはこれで可愛いんだよな。それを告げた哉也は「……お前もシスコンの変態か」なんて失礼な事を言ってくれたけど。


 のらりくらりと鈴の毒舌をいなす俺に業を煮やしたらしく、鈴がすうっと目を細める。


「似てるからという理由だけで咲希姉様の代用品として義妹にするような変態に、どうして優しくしなければならないんですか。私を知っていて尚優しく接してくれる哉也兄様や、実の妹のように可愛がってくれる咲希姉様と同じに扱ってもらえるなんて、よくもそんな図々しい事を考えられますね」


 冷たい声が、何よりも俺の心を抉る一言を発した。


「…………お前ね」

 続く言葉が直ぐには出てこず、溜息をつく。


 改めて鈴の顔に視線を向ける。肩に付くか付かないかで切り揃えた、絹糸のような真っ直ぐな黒髪。日本人形に似た整った顔。すらりと伸びた手足、中学生にしては高い身長。

 そして感情が表情に出ない所、外見に似合わず口が悪い所、その境遇に至るまで……確かに鈴は、咲希に似ている。


 けれど。


「何度でも言うけど、俺が鈴を中西の籍に入れたのは、咲希の代用品にする為なんかじゃない」

「でも、気付けば代わりにしていた。なら同じでしょう」

「……違うよ」


 平行線なやり取り。何度やっても同じ結果に終わる、いつもは軽く流せるそれが、今日は酷く重く感じられた。


(まあ、切り離せない俺が悪いんだけどさ……連想するなと言われても無理だろ)


 そんな情けなさも鈴が信じてくれない理由だと分かってる。それでも鈴の面影に咲希を探さずにはいられない自分がどれ程歪んでいるかなんて、言われなくても知っている。



 ——だから、俺は身を引いた。



「……翔兄?」

「ん?」


 ふいに呼びかけられて、靴を脱ごうと落としていた視線を上げる。目の合った鈴は僅かに息を呑んで、そっと言葉を発した。


「どうしたのですか?」

「何が? 鈴こそどうしたんだよ、いきなり」

 そう笑って見せ、改めて靴を脱ぎにかかった。その時、自分のものでない男もののスニーカーがようやく目に入る。

「あれ? 哉也……じゃないな。お客様?」

 家族にうんざりする度に泊まりに来る哉也かと思ったけれど、見慣れた幼馴染みのそれよりサイズが少しでかい。

「どちら様? 応対するよ」

 靴を脱ぎ終わり家に上がりながら尋ねれば、一拍おいて鈴から返事があった。

「……今の翔兄がですか?」

「うん? どういう意味?」


 また笑顔を浮かべて顔を上げれば、無表情な鈴の顔と対面する。


「私にさえその笑顔を作るような翔兄が、客人にまともな対応を出来るのですか?」

「……ごめん」


 咲希は勿論、哉也にさえも本心を悟らせない笑顔という名の仮面も、鈴には通用しない。分かっていて笑顔を作った俺は、とんだ道化だった。


「で、どちら様?」

 それでも義妹に客人の応対を任せるまで落ちぶれたくはないから、問いを重ねる。鈴は微かに眉を寄せ、それでも感情の読み取れない無表情を崩さずに答えた。

「翔兄のお知り合いです。池上、といいましたか」

「え、池上が訪ねてきたのか?」

 予想外の返答に、久々にびっくりした声を上げてしまった。そんな俺を見て、鈴は首を横に振る。

「帰り道に見かけたので、声をかけました。翔兄に訊きたい事はありませんかと誘ったら付いてきましたよ」

「成程、そういう事」

 それなら付いてくるだろう。池上はずっと、俺の本心を知りたがっていた。


(けどなあ……池上かあ)


 正直、今あの心底気に食わない男と会うのは勘弁願いたい。池上は珍しくも苦手な相手で、彼と2人きりで話す気にはなれない。


「あー……鈴の顔を立てたいのは山々だけど、追い返す方向で良いかな」

「駄目です」

「わあ即答」

 冗談めかしながらも嫌がっていると察しただろう鈴は、けれど構わず俺に背を向けた。

「翔兄は、彼にだけは答えねばなりません。後回しにするとは翔兄らしくありませんが、咲希姉様がつきあい始めた以上、お相手の友人である彼から逃げてはなりません」

「厳しいね」


 どこまでも大人びて、的確な判断をつきつけてくる。そんな所にさえ咲希の面影を見てしまう自分につくづく嫌気がさした。

 諦めを付けるべく溜息をついてから、鈴の背中に尋ねる。


「池上は2階?」

「ええ。翔兄の部屋に押し込みました」

「え、何それ酷い」

 勝手にあんな奴を自室に入れた義妹に苦情を申し入れるも、鈴は動じない。

「あんな柄の悪い男を客室に招くなんて出来ません。さっさと用件を終わらせて追い返してください、私も彼が嫌いなので」

「へえ……?」


 予想外の発言に驚いて鈴の背を見つめるも、鈴は振り返らなかった。すたすたと早足に台所に消えたかと思うと、階段に足をかけた俺に盆を押しつける。


「紅茶です。では手短にどうぞ」

「ごゆっくり、じゃないんだ」

「ゆっくりさせないでください」


 子供じみた要求に少し笑い、それを動力に重く感じる足を動かして自室へ向かった。

 部屋の前で1度立ち止まる。静かに息を吸って、吐く。鈴との会話で緩んでいた意識を張り詰め、心を何重にも覆って笑顔を作った。準備完了。


 ノックをして部屋を開けると、池上はキャスター付きの椅子に座っていた。ブレザーのネクタイを外しシャツのボタンを胸元まで開けている。粗野な格好が崩れた印象を与えずごく自然に見えるのは、滲み出る野性とも呼べるもののせいだろうか。


 研ぎ澄まされた牙と爪を隠す肉食獣。池上を言葉に表すなら、そんな感じだ。


 哉也もかなり身体能力が高いけれど、この男はその更に上を行く。恵まれた体躯、しなやかに鍛え上げられた筋肉。訓練された猟犬のような研ぎ澄まされた龍也の気配とも異なる猛々しさは、まさに野生の獣。

 けれど、この男は自ら望んで首輪を付けた。その鎖を、最も自分を上手く使ってくれる主人に——空瀬に握らせて。


「やあ、池上。久しぶりだね」

 にっこりと笑って挨拶し、俺は手に持っていた盆を池上の座る椅子近くにあったローテーブルに置いた。自分の分のカップを手に取り、もう1つを俺が部屋に入ってから睨み続けていた池上に手渡す。

「やっと来たか生徒会長」

「元だって。咲希と言い池上と言い、今の生徒会長は琴音だよ?」

「てめー程生徒会長らしい生徒会長もそういねえし、生徒会長で問題ねーよ」

「褒め言葉と受け取っておくよ」

 笑顔でさらりと言ってやれば、池上は露骨に顔を歪めた。

「……んっとに良い性格してやがる」

「お互いにな」


 軽く混ぜ返し、カップを持ったままベッドの端に腰掛ける。敵意を隠しもせず睨んでくる池上の視線を受け流して、俺はにこやかに口を開いた。


「それで、何の用?」

「てめーに用なんかねえよ。お前の妹に言われてきてやったんだよ」

「それはそれは。バレンタインもハロウィンも貰い物を廃棄する伝説の持ち主の池上は、中学生である鈴の誘いには乗る訳だ。そういう趣味なら伝説も納得だね」

「気色の悪い事を言うな、変態。単にお前に訊きたい事があっただけだ」

 心底嫌そうな顔で吐き捨てる池上を見て、悟る。


(鈴、上手いこと言いくるめたな……)


 簡単に付いてきたみたいな言い方をしていたけれど、これは余程上手くその気にさせたようだ。流石だ。


「訊きたい事、ねえ」

 池上に紅茶を渡しながら、その言葉を繰り返す。紅茶で口の中を湿らせ、出来る限りさらりと言った。

「まあ順当に行って、俺がどうして空瀬に協力したか、かな」

「ああ」


 池上の眼が危険な色を宿した。獲物に狙い定めた獣そのものの殺気を滲ませた目で俺を見据え、低い声を発する。


「——空瀬が香宮妹に目を付けたのは、ほぼ最初からだ。だが、今の形を求めたのはそれから少し経ってから。中西もその変化を見落とすとは思えねえ」

「まあね。それにしても、あれは驚いたな。今となっては懐かしい」

 そう言ってくすりと笑って見せれば、池上の視線がますますきつくなった。

「誤魔化すな。……何故あの時空瀬を排除しなかった? それどころかお膳立てを繰り返しやがって。一体何が目的だ」

「人聞き悪いなあ。琴音と一緒さ、面白がってたんだよ。何せあの咲希だからね。恋愛に関してはびっくりするくらい疎い彼女を落としていく様子、見ててとても楽しかった」


 流石の空瀬も時間かかったけどな、とまた笑って見せると更に空気が張り詰めた。池上は嫌いだけど、この煽られやすい性格は操作しやすくて楽しい。

 がん、と池上の拳が机を殴る。軋む音に微かに危惧したけれど、幸い割れる事はなかった。自制は残っているようで何よりだ。


「誤魔化すなっつってんだろうが。琴音と違うだろ、てめーは」

「そりゃあ、他人だしね」

「阿呆か。てめーは——最初からずっと、香宮妹が好きなんだろうが」


 ようやく核心に触れてきた池上に、笑みを深める。慎重に隠してきた俺の本心を嗅ぎ当てる嗅覚は大したものだ。七夕の件で平静を失った時にばれたものの、それまで気付いていたのは、池上を除けば哉也だけだったというのに。


「流石空瀬の犬だね。主人の敵には鼻が利く」

 盲目的に従う池上を揶揄する言葉を発するも、獲物を目前にした獣は誤魔化されない。

「香宮妹の為なら何でも出来る中西が、何故空瀬にだけは何もしない? 確かに空瀬は中西如きに潰されねえが、それでも香宮妹の心証を悪化させるくらい出来ねえのかよ」

「出来るさ。咲希の事は子供の頃から知っている、根本的に信頼を失わせる事なんて簡単だ。今からでも出来るよ?」

 さらりと言ってのければ、池上は苦いものでも口に含んだかのような顔をした。

「……マジで出来んのかよ。ほんっと腹黒いな」

「どうも」


 礼を言ってまた紅茶を飲む。幾つかの返答パターンを考えるも、どれがこの男を1番早く引き下がらせられるか読めない。


(思考回路が本能寄りの動物って、操作はしやすいけど考えを読むのは案外難しいんだよなあ……ただの脳筋なら楽なんだけど、これで自制利くから厄介だ)


 肉食獣のように獰猛な本能を上手く操作し直感の優れた飼い犬として生きていく池上は、俺にとってなかなか厄介な相手だ。空瀬の側にいれば上手く回ると勘で悟って付き纏っているのが、更に厄介。ただの筋肉馬鹿じゃないのだ、こいつは。


「で、出来るのに何故しない?」


 追求を躱したいけれど、鈴に促されてしまった以上それも駄目だ。池上への誠意というよりは、可愛い義妹に免じて答えてあげる事にした。


「だって、咲希に嫌われたくないじゃないか」

「は?」

 シンプルすぎる答えに思考が止まったらしい池上に、分かりやすく繰り返してやる。

「咲希に嫌われたくないから。咲希は聡いからね、裏工作なんかしたら直ぐ気付く。気に入っていた空瀬を排除したら、咲希に嫌われるか、そうでなくても警戒されるだろ?」

 にっこり笑って駄目押しする。池上は一瞬眉を寄せ、直ぐに吐き捨てた。

「馬鹿にすんな。んな理由ではぐらかされるかよ、それこそ香宮妹じゃあるまいし」


(おや、勘が良い)


 ここで誤魔化されていれば良かったのに。内心哀れに思いつつ、俺は答えた。



「それは咲希を過小評価してるよ。咲希は興味無いから追求しないだけだ。そうやって甘く見てるから、大事なご主人様を奪われたんじゃないか?」



 瞬間、視界が回った。鈍い衝撃が背中を襲い、息が強制的に吐き出される。



「……はぐらかすなっつってるだろうが。何が狙いだ」



 凶暴な色を宿した顔が近い。襟元を掴む手にやたら力が入っているのを見る限り、禁句だったようだ。



 ベッドに引き倒して首を押さえる池上は、獲物に爪をかけた獣そのものだった。獰猛な色を宿す瞳を至近距離に眺めつつ、いたぶるように笑みを浮かべる。



「ふうん? 空瀬至上主義のお前も、咲希の事は素直に祝福出来ないか。成程ね、それで俺の所へ来た訳だ」

「……黙れ」



 唸るような声にふっと笑った。


(俺の所に来たらこうなる事くらい、分かってただろう。鈴の甘言なんかに乗せられて、馬鹿な奴)


 組み伏せる者と組み伏せられる者、追い詰めているのは果たしてどちらか。体勢は不利のまま、唄うように嘲りの言葉を重ねる。



「自分だけの主でいて欲しいのに、空瀬は咲希を追いかけるばかり。それでも空瀬の為にって、邪魔な咲希と空瀬がくっつく手伝いをしてきたのか。健気だねえ」


「黙れと言っている」


「だから俺が気に食わなかった。邪魔な筈の空瀬が咲希に言い寄るのを手伝ってる姿が、自分の鏡を見てるようで嫌だったんだ?」


「黙れ……それ以上言うんじゃねえ……!」



 襟元を掴む力が更に強くなり、息が詰まる。やや潰れた声を押し出し、ぎりぎりの所で止まるオロカナ獣に、最後の一押し。



「もしかしてこれ、傷の舐め合いのつもり? 相手の意思を優先した結果執着先を失った者同士、慰め合おうとでも思った? だとしたらご愁傷様。俺はね——」



 そこで言葉を切り、ぎらつく瞳目掛けて、黒く醜い、俺そのものである嘲笑を向ける。



「——お前のように、ご主人様がいないと何も出来ないような駄犬じゃない」



 がつん、という音と共に目の前に星が散った。頭を揺さぶられた時特有の感覚に顔を顰めた瞬間、腹部に重い一撃が入る。流石に呻き声が漏れた。


「ぐっ」

「てめえに、てめえなんかに、何が……!」

「翔兄!」


 声を聞いた瞬間、体が勝手に動いた。声に反応したか僅かに緩んだ首元の手を逆手に掴み、関節を極める。痛む体に鞭打って足を振り上げ、掴んだ手を起点に回転をかけた。

 巨体が宙を舞い、大きな音と共に叩き付けられる。壁際のベッドでの攻防だったせいで、池上は見事に壁に衝突した。崩れ落ちる様子を尻目に、ベッドから滑り落ちるようにして床に座り込む。


「何をしているんですか、馬鹿!」

「珍しくストレートだね、鈴らしくもない」

 くすりと笑った瞬間ずきりと頬が痛み、口の中に鉄の味が広がった。当然と言えば当然だが、殴られた拍子に切れたようだ。

 駆け寄ってきた鈴を片手で引き寄せつつ、池上を観察する。背を強か打ったらしく咳き込んでいるが、投げ技のダメージ以外は無傷のようだ。そっと安堵の息を吐き出す。


(間に合ったか……)


 鈴の悪癖として、暴力を振るう相手に容赦を失うという点がある。あのまま俺が動かなければ、鈴はおそらく今手に持っているフォークを池上に突き立てていただろう。


(腕くらいならいいんだけどねえ……優秀な妹を持つと大変だ)


 躊躇いなく眼球に突き立てただろう凶器をしっかり回収しながら、鈴に向き直る。


「話し合いの途中に勝手に入ってきたら駄目だろ。もう少しで終わるから、俺に用事があるならその後ね」

「翔兄に用なんてありません。手を離して下さい、私が用があるのはその男です」

「駄目。ほら、鈴は出て行きなさい」

 きっぱり言いきると、鈴は半ば以上本気の殺気を込めて俺を睨み付ける。なかなかの迫力だけど、哉也のマジ切れに慣れた俺には通用しない。動じずに鈴を部屋の外へ出した。


 閉まったドアをしばらく観察するも、鈴が戻ってくる気配は無い。胸を撫で下ろしつつ、態とらしい笑顔と共に振り返った。


「やれやれ……背高い割にカルシウム足りてないな。暴力反対」

「……どの口が言いやがる……!」


 未だ腹の虫が治まらないらしい池上は、それでも声に抑制が戻っている。ベッドの上で壁にもたれた池上を見やり、俺はにこりと笑って見せた。


「池上? 俺はね、実は性格が悪いんだ」

「ああ知ってる、たった今再確認した」

「そうか、それは良かった。——そんな性格の悪い俺が、咲希の為とはいえ、そう素直に協力すると思うか?」


 池上がすっと息を吸い込む。推し量るような眼差しを受け止め、笑顔のまま続ける。



「池上が言った「お膳立て」っていうの、的確な表現だよ。俺はね、ずっと空瀬を試してた。咲希に相応しいか、咲希が選んで幸せになれるか。いろんな場面でいろんなお膳立てをして、空瀬がどうこなすか試してたのさ」

「……端から協力する気なんざ、無かった訳だ」

「寧ろ失敗するのを今か今かと待っていたよ。咲希の性格は独特だから、普通の判断で行動してたら直ぐに信頼を失う。あの子は許容範囲狭いからね」



 今俺は、きっと物凄く嫌な笑顔を浮かべているだろう。その証拠に、池上がこっちを化け物か何かを見るような目で見ている。


(……可哀想に)


 俺に嫌われたばかりに、下手に鼻が利くばかりに、幼馴染みにも悟られぬよう厳重に隠している歪みを見る事になってしまった池上は、本当にカワイソウだ。



「ずっと待ってたよ、空瀬が失敗するの。5月の騒動なんて、良いチャンスだったんだけどなあ。咲希が空瀬を好きなんて噂が立てば、浮き足だって事を急いてし損じると思ったのに……空瀬はどこまでも俺の期待を裏切った」



 そこで1度言葉を切り、無事だった紅茶を一口。丁度良く温くなっていて、傷にも然程滲みない。

 微動だにせずこちらを凝視する池上に、嫌な笑顔のまま尚も続ける。幾重にも隠す本心の、「その一部」を。



「空瀬が目を付けている間は、他の男も寄ってこない。そういう意味では便利だよね、彼。咲希も良い影響を受けてたし、虫除けも兼ねてたんだけど……油揚げをさらう鳶になってくれるとは、つくづく厄介な奴だよ」



 すうっと、池上の目が細まる。抑制された敵意を孕んだ冷たい眼差しが心地良い。



「……つまり中西は、昔も今も空瀬の味方になる気はねえんだな」

「いや? もう味方だよ。空瀬は哉也の下に付いたからね」

 にっこりと笑って否定する。毒気を抜かれた様子の池上に、残酷な言葉を投げ掛けた。

「俺は哉也と咲希の味方だから、空瀬が哉也の駒である間は仲間だよ。それに、咲希の彼氏だ。咲希が幸せでいられるよう、最大限空瀬の味方をする」


(だから、お前の敵はもうどこにもいない。俺が空瀬の味方である以上、お前は俺に手を出せないだろう?)


 行き場のない敵意を燻らせ、植え付けた種を芽吹かせれば良い。身の内に育つ憎しみを誰かに悟らせる事も出来ず、苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、それでも尚怨敵を前に牙を剥けないまま、大事なひとの側に立ち続けろ。



「それで? 池上はどうするつもりなんだ? 咲希も哉也の味方だからね、空瀬はもう完全にこちら側だ。哉也と俺は空瀬の味方であると同時に空瀬を使い続ける。ご主人様に付き従い俺達の下に付くか、背を向けてご主人様を失うか。さあ、どっちを選ぶのかな?」



 ——それが出来ないのなら、消えてしまえ。



 長い沈黙が部屋に下りた。池上は表情1つ浮かべないまま、微動だにせず俺を見据える。俺もまた身動ぎ1つせず、にこやかに池上の返答をただ待ち続ける。


 2人の間に流れる異様な空気を打ち破ったのは、不自然な程抑揚のない池上の声。



「……俺は、空瀬の味方だ。これまでもこれからも、ずっと」



 ——それが、答えか。



 込み上げた悦びそのままに、俺はにっこりと笑った。

「それじゃあ、俺達の味方だな。これからよろしく、池上」

「…………」


 無言のまま、池上は俺の差し出した手を握る。微かな震えを隠せない手を直ぐに引っ込めて、池上はやおら立ち上がった。ベッド下に座る俺の横を通り過ぎ、ドアへと向かう。


「……帰る」

「そう。じゃあ、またな」


 再会を示唆する挨拶に、ドアノブに手を伸ばしていた池上の肩がぴくりと揺れる。けれどそれ以上の反応は示さず、池上は部屋から出て行った。



 玄関のドアが開き、閉まる音。それが聞こえて随分経った後、俺は体の力を抜いた。


「ふー……」

 大きな溜息を聞きつけたかのようなタイミングでドアが開く。入ってきた鈴に、にっこりと笑った。


「何だかんだ言って顔を見に来てくれる鈴に癒されます」

「殴られてついに気が触れましたか。その腫れ上がった顔で咲希姉様の前に出て咲希姉様を心配させかねない大馬鹿者に釘を刺しに来ただけです」

 いつもの3倍増しくらいに冷たい声。どうやら相当頭に来ているらしい。

「流石にそんな事しないよ。鈴だってこうなる可能性を想像して、3連休前の今日を選んだんだろう? 3日もあれば治るさ」

「鏡を見て同じ台詞を言えるものなら言ってみなさい」


 ずいっと突き出された手鏡で顔を見れば、ちょっとぎょっとする顔になっていた。確かに、これはちょっと休みの間だけでは治らないかもしれないな。


「相変わらずの馬鹿力だなあ、池上……」

「馬鹿力と分かっていて挑発して殴らせた翔兄は真性の馬鹿ですね」

 俺の前に座り込み、持参した救急箱を開けつつ吐き捨てた鈴の言葉に、痛む顔を苦笑の形に歪めた。

「おや、聞いてたの? お行儀悪いな」

「少しドアを開けたのは翔兄でしょう。聞かせた、の間違いですね」


 ぴしゃりと言って、鈴は消毒液を染み込ませたガーゼを強く頬に押し当ててくる。どうやらこっちも切れていたらしく、びりびりと染みた。

「いたっ。鈴、もうちょっと丁寧に——」

「何故あんな言い方をしたのですか」

 俺の苦情をものともせず、鈴は淡々と問う。せっせと手当てしてくれる素直じゃない義妹に心の中で感謝しつつ(何せ口に出したらもうやってくれない)、俺は空とぼける。

「池上の事嫌いだから、我慢出来なくてつい」

「幼馴染みや思い人相手に化け猫の皮を被り続ける翔兄が何をほざきますか。誤魔化すならもう少しまともな嘘をつきなさい」

「手厳しいなあ」


 のんびり笑う俺に、鈴の目が据わる。殴られた腹部を容赦なく押され、流石に悶絶した。


「いっ、ちょっ待て鈴っ、本当っ、に、痛いっ!」

「自業自得です」

「痛っ! わ、かった、言うっからっ……! も、やめっいった!」

「……大馬鹿者」


 低い低い声で罵倒し、鈴はようやく手を離してくれた。ぜえぜえと息を弾ませる俺に冷たい眼差しを向けつつ、紫色になった腹に湿布を貼ってくれる。


「さっさと話しなさい」

「少しは怪我人を労って……いやごめん、ちゃんと話すから」


 湿布の上から僅かに圧力をかけられ、慌てて謝った。また痛い思いをするのは勘弁だ。


 冷めた眼差しで促してくる鈴から視線を外し、どこを見るでもなく言葉を紡いだ。


「何故、か……。言葉にするのはちょっと難しいんだけど……謝罪、かな」

「何をしたんですか」

 一寸の躊躇もなく俺の非を断じる声に苦笑しつつ、傷に負担がかからないようゆっくり喋った。

「したというよりは、する。哉也が『香宮』と向き合うと決めた以上、使えるものは何でも使う。空瀬と池上には危険な橋を渡ってもらう事もあるだろう。それの前払いだな」


 哉也が空瀬とどんな話をしたのか、俺は知らない。けれど、空瀬に触発されて哉也がようやく覚悟を決めたのは確かで。……『香宮』を敵に回す事は、とても危険だ。


「空瀬は身を守る術が無いから、その分危険は全て池上に降りかかる。空瀬の為にもなるとは言え、俺達の為にそんな目に遭わされるのは剛腹ものだろうからね。そのお詫びに殴らせてやったのさ。……ま、多少いじめたのは否定しないよ」


 小さく笑う。単純なあの男で遊ぶのは、大層愉しかった。彼は本当に分かりやすく、掌の上で踊ってくれた。


「……翔兄、今物凄く悪人の顔をしてます」

「また随分な物言いだなあ」

 にこやかに嘯けば、鈴の目が半眼になる。

「翔兄が善人だなんて、咲希姉様でも言いませんよ?」

「寧ろ咲希は積極的に悪人説に同意するね」


 笑いながら肯定して、何となく鈴の髪に手を入れる。さらさらとした感触を楽しむ俺に、珍しく鈴もされるがままだった。

 少しだけ訪れた沈黙。それを愛おしむ間は然程おかず、鈴がぽつりと呟いた。


「……翔兄。まだ、哉也兄様と咲希姉様の事が、何よりも大切なんですね」

「命よりも」


 間を置く事すらせず即答すると、鈴の体が強張った。髪を梳いていた手を背に回し、宥めるように撫でた。


「軽々しい発言じゃないから、許して。……俺は哉也と咲希の為なら喜んで死ぬし、誰だって殺す。必要なら空瀬だって殺すだろうね。殺せないのは哉也だけだ」

「……咲希姉様も……殺せるんですね」

「それを咲希が望むならね」


 考えただけで心が凍り付きそうだけど、きっとその時が来たら、俺は咲希を殺す。


「……翔兄の周りの人は、翔兄が誰かを殺したら、悲しみます」

「そうだね。他の誰が何と言おうと、哉也は悲しんでくれる。……だから、出来るんだ」


 目を閉じて、命よりも大事な兄妹を瞼の裏に描く。彼等の笑顔を思うだけで何でも出来てしまう自分は、きっともう壊れているんだろう。



「……だから、身を引いたんだ」



 ぽつりと漏れた本音。誰にも言えないでいた、誰にも見えない心の奥の奥に沈ませたそれは、鈴だけは聞き流してくれるから。



「俺はね、自分がどんなに歪んでいるのか自覚してる。哉也と咲希の為なら本人達すら騙して裏切れるような男が、咲希を……幸せになんてしてあげられないからね」

「そんな事、ありません」


 否定する鈴の語尾が震えている。酷く強張った背中を何度も撫でながら、目を閉じたまま続けた。


「俺はね、咲希を逃がしてはあげられるよ。辛い時に逃避する場所、目を逸らす場所には最適だ。死すら与えてあげられるのは、咲希の周りでは俺だけだからね」


 でもね、と吐息だけで呟く。儚い少女の姿を想い、静かに言葉を繋いだ。



「逃げるばかりじゃ、偽りの平穏しか手に入らない。俺は、咲希には本当に幸せになって欲しいんだ。だから……咲希に表情を、笑顔を取り戻してくれた空瀬に、託した」



 高校で再会した当時、人形のように表情が変わらなくなってしまった咲希を見た時は、心臓が止まるかと思った。何があったのかは哉也から聞いていたけれど、それでも相当なショックだったんだ。


「俺は見守る事しか出来なかった。咲希を救ったのは、空瀬だ。……だからね。試しはしたけど、応援してたよ。まあ、途中で駄目だと思ったら、直ぐ排除しただろうけど」


 最後の方は笑いを混ぜる事で軽くしようとしたけれど、鈴は応じなかった。


「……咲希姉様は……辛い目に遭われたのですよね。殿方を受け入れられない程に。だから翔兄は距離を保ったのでしょう?」

「うん。哉也もあの頃は、自分の事で精一杯だった。……俺がいたら、どんな手を使ってでも阻止したのにな……」


 咲希は、哉也の腹違いの妹だ。父親が哉也の母親の優秀さから逃げる為だけに手を出した女性との間に生まれた。最初から祖母達に疎まれていた彼女は、咲希の母親が他の男と結婚したのを……させられたのを切欠に引き取られた。咲希が小学6年の時の事だ。


 そして咲希は……義父から虐待を受けた。


 母親も最初は咲希を庇っていたらしいけど、自身も虐待を受けて精神を病んだのか。ある時から彼女も手を上げた。唯一の味方を失った咲希は——自殺未遂をした。


 彼等がどんな思いで咲希を見ていたのかは、知らない。けれど咲希をそこまで追い詰めた2人には、きっと会わない方が良い。……何をするか分からない自分がいる。


 苦り切った俺の声を宥めるように、鈴がそっと尋ねてきた。

「咲希姉様は、哉也兄様のお母様と一緒に暮らしているのですよね?」

「そう。哉也の母さんには、礼を言っても言い足りない」


 哉也の母親は『香宮』に軟禁状態だったから、ずっと咲希の状況を知る機会が無かった。けれど咲希の自殺未遂で全てを知り激昂した彼女は、『香宮』を出て咲希を引き取り、今まで女手1つで育てている。

「哉也の母さんが味方をしてくれた事は、咲希の支えになってた。母親として見られなくても……ただ何もせずにいてくれるだけで、咲希には救いだったんじゃないかな」

「……翔兄様も、きっと咲希姉様の支えになっています」

 鈴の珍しい優しさにも、首を振る事しか出来ない。

「咲希は俺の事、『絶対に裏切らない哉也の味方』としか思ってないよ。油断ならないって付けたら完璧だな。自業自得だから文句は言えないけど」


 目を開けて、天井を見上げる。今の顔は、例え鈴にも見られたくなかった。



「あー……本当に、馬鹿だよなあ……。咲希と空瀬を引き合わせたの、俺なんだよ。空瀬なら、咲希とも渡り合える。咲希が少しでも心許せる人が増えたらって……まさかそのまま奪われるなんて、あの空瀬に限って、なんて思い込んでさ」



 顔が歪む。それでも笑顔のままな自分には、いっそ嗤いが込み上げてきそうだ。



「でも……目を離したら消えてしまいそうだった咲希がしっかりそこに立って、空瀬の隣で笑ってるの見て……負けたなって。俺に残った役割なんて、2人の橋渡しくらいだよ」



 哉也と咲希は、太陽と月のようだ。哉也はどこにいても強く輝き、咲希は哉也の側にいないと光る事が出来ない。……そうあるべきと、ずっと自分を定義していた。

 それが、空瀬に見出されて変わった。自分で考え、琴音の為に動いたり、俺達の為に無茶をして空瀬に怒られたり。子供のように説教されて落ち込む様なんて、小学生の頃だって見せてくれなかった。



 誰よりも綺麗で誰よりも愛している存在は、もう妹のようにしか関われない。それでも、俺が「心配していた」と告げて礼を言えるようになった咲希に抱いた愛おしさは、一生忘れない。



「空瀬が隣にいる咲希が、一生笑っていられるように。哉也が琴音を手に入れて、哉也のままでいられるように。2人が幸せでいられるように、俺の全てを懸けて守るよ。……歪んだ所なんてあいつらに見られないような場所でね」



 既に心に決めていた事を口にするのは、付けたつもりの踏ん切りがきちんと付いていなかった証拠だ。俺もまだまだ甘い。



 自分を戒めて、まだ鈍く痛む腹を庇いながら立ち上がった。

「手当てありがとう。さて、夕食作るな」

 どうせ傷が痛んで何も食べられないけれど、俺が作ったものを鈴が食べてくれるのを見ればひとまず満たされる。そうして自分を偽るのは、得意中の得意だ。


 黙って俺の言葉を聞いていた鈴は、立ち上がり笑いかける俺を見上げて、深い深い溜息をついた。


「……翔兄は、本当に、どうしようもないですね……」

「せめてそのどうしようも無いものを見るような眼差しはやめてくれると嬉しいな」


 鈴の心からの言葉も笑って受け流し、俺は鈴に手を伸ばす。握り返した小さな手を引き上げ、背を向けた。



「大丈夫、自壊するようなへまはしない。そんな事で哉也や咲希を悲しませたりしないから……鈴を1人にしないから、安心して」



 嘘臭い笑顔しか作れないこの顔を見せず、心配してくれた義妹に精一杯の真を告げて、俺は部屋を出た。

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