幕間 - 追憶の情景1(挿絵有り)
目を覚ますと、そこは光一つない暗色の世界だった。
自分は今、ベッドに寝ているわけではないらしい。
かといって、座ってるわけでも立っているわけでもない。
ただ、全身を温かな何かに包み込まれているような不思議な感覚だった。
何故こんな状況になっているのか思い出せない。
思い出そうとしても、まるで頭にもやがかかったように、
直前まで自分が何をしていたかを思い出せないのだ。
いや、そもそも自分がどういう人間なのか、自分の名前は何なのか、
すべてがあやふやで思い出すことが出来なかった。
ただわかるのは、今この瞬間ここで包み込まれているという感覚だけ。
そしてそれがどうしようもなく心地良かった。
春先の陽気にまどろむより、さらに充足感を満たす何かがこの空間にはあった。
胸いっぱいの多幸感に、鼻腔、さらに肺の中まで満たされ、
まどろみに従い再び目を閉じようとして…
そこで自分が何かの液体の中に漬かっているということにようやく気づいた。
「ガボボッ!?」
このままでは溺れてしまう!
慌てて空気を求めて手足をバタつかせ、闇に覆われた空間の上部へと体を移動させる。
が、この空間はみっちりとこの生暖かい液体で満たされているようだった。
この空間は狭い上にドアも何もない。
つまりは、ここから脱出するにはこの壁を壊さなければならないということだった。
コンコンと壁の材質を確かめてみる。
闇色の壁はかなり硬質で、ちょっとやそっとでは壊れそうになかった。
ここがどこなのかわからない。
この壁が誰かの家のものだったとしたら、器物損壊で訴えられるかもしれない。
だがこのままでは溺れて死んでしまうかもしれないのだ。
もう2度と死ぬのはゴメンだ。
そう結論を出し、俺は目の前の壁を思いっきり殴りつけた。
どのくらい殴り続けただろう?
体は随分へとへとだし、硬質なものを殴り続けた手はズキズキと痛む。
そのかいもあって、先ほどまで周囲を支配していた闇色に、幾筋か光が漏れるようになった。
もう少しだ…
細かくひびの入った壁にラストスパートと衝撃を与えると、
「パキン」と甲高い音を立て、壁の一部が外に向かって吹き飛んだ。
同時に光の筋を零すだけだった目の前の隙間が、まばゆい閃光に包まれる。
すっかり闇に慣れていた為、目を潰さんと叩きつけられるその光量に思わず目を瞑った。
しかしこれだけ隙間が開けばもう十分だ。
俺は湧き上がる衝動にしたがって隙間に手をかけ、
そのまま外への障害を取り除くべく左右にメキメキと押し開いた。
闇色の壁を抜けたと思ったら、次は青紫の壁に包まれていた。
未だに目は光に慣れていない為か、周囲の様子はぼんやりとしかわからない。
しかし先ほどまでとは違い、周囲は光に満ち溢れ、空気もちゃんとこの身を包んでいる。
やっとまともに呼吸が出来ると思い、胸いっぱいに深呼吸をしようとする。
そこで肺が引きつるような妙な挙動を起こした。
肺に水が残っていたか?いや違うな。
まるで肺が呼吸の仕方を忘れていて、供給された空気に肺自体が驚いた。そんな感じである。
どうやれば呼吸の仕方なんて忘れるんだ?と、心の中で突っ込みつつ、
細かい呼吸で肺に空気を慣らしていく。
と、不意に自分の頭に巨大な手のような何かが覆い被さってきた。
突然の出来事に驚き、慌てて視線を上げると…
そこにはとんでもなく巨大な、褐色の女性が微笑んでいた。
「お、お前は!?」
その女性を見た瞬間頭のもやは一気に晴れ、俺はほとんどの記憶を取り戻していた。
自分がどこでどう生まれたか。どうやって生きてきたか。
どう笑い、どう悲しんできたか。
どう旅してきたか。
そして――どう死んでいったか。
そう、俺は目の前のラミアに殺されたのだ。
確かに殺されたはずだった。
では、今ここに生きている自分は何なのか?
「ホホホ、妾の事は憶えておるか?」
「ああ、忘れるはずがないじゃないか…んん?あーあ~」
なぜか引きつったように高い声が出た。
「うむ、問題なく成功したようじゃの」
ラミアは満足げに頷いた。
というかこいつ、こんなにでかかっただろうか?
『魔物の棲みか』で出会った時は、見上げるほどの身長差は感じなかったはずだ。
「どうやらそなたの身に何が起こったか理解できず、苦しんでおるようじゃのう」
「ああ、俺は確かにお前に殺されたはずだ。それだけははっきりと憶えてるからな」
「ではそなたがどうなったか、妾が順を追って説明してやろう」
彼女は俺の頭を撫でながら、楽しそうに目を細める。
おかしい。
彼女は自分を殺した人物である。
本来なら憎く思えてしょうがない相手のはずだ。
だが彼女に体を触れられて、なぜかそれを振り払う気が沸いてこない。
触れられた部分がじわりと熱を帯びてくる。
「そなたは妾が確かに殺した。
が、そなたの『魂』と『能力』を妾の身に捕らえ、
転生の秘術でもってそなたを新しく産み直したのじゃ」
「なっ!?」
俺は彼女の、そのあまりの衝撃的な告白に絶句した。
彼女の言葉をどこか取り違えてないか何度も反芻する。
いや、どこか聞き違えたに違いないと必死にあら捜しをする。
幾度かの堂々巡りの後、俺はある事を確かめる為、ゆっくりと視線を下げてゆく。
もし、彼女の言葉が本当であれば、俺の体は既に…
その視線の先には、まごうことなき蛇の胴体が横たわっていた。
そう。俺はもう既に、人間ではなくなっていたのだ。
あまりのショックに軽くトリップしかけた俺に、彼女はニヤニヤと声をかけてくる。
「ホホホ、安心せよ。そなたの『体』は確かに妾の娘となったが、『魂』は以前のまま。
すなわち他人のままじゃ」
うるさい、俺とお前がどういう関係だろうが、俺はもう人間じゃなくなってしまったんだ。
しかも魔物の女なんかに……女…
「して、そなたは以前の自分の『名前』を憶えておるかのう?」
「ふん、馬鹿にするな!名前なんて覚えてるに…」
言いかけて、ハタと止まる。
他のものはほとんど思い出せる。
だが、名前だけ。それに関わる記憶だけが、虫食いのように思い出すことが出来なかった。
「ホホホ、思い出せぬようじゃのう。
ならば妾が特別に、そなたにとびっきりの名前を授けてやろう」
「余計なお世話だ、ほっといてくれ…って、名付け……お、お前まさか!?」
そこで俺は彼女の狙いに気がついた。
名前は魔力を持つ。
万物は名付けられる事によって定義される。
すなわち、万物は名前を与えられる事によって、存在をその物へと定着させる事が出来るのだ。
ここで彼女の娘として名付けられてしまったら、俺の存在も彼女の娘として定着してしまうだろう。
彼女は俺のことを、文字通り名実ともに自分の娘にしようとしているのだ。
それだけは避けねば。
思い出すんだ。思い出すだけでいいんだ!
が、捻ろうがひっくり返ろうがどうしても自分の名前だけが出てこない。
そうこうしているうちに、彼女は俺の両頬を巨大な手でがっちりと固定し、瞳を覗き込んでくる。
「ほほう、そなたの力は瞳に発現したようじゃのう。まるで荒野を照らす2つの満月のようじゃ。
…よし、決めたぞよ!そなたの名前は――」
やめろ!やめてくれ!
俺は最後まで抵抗しようともがき、必死で名前を思い出そうとする。
だが俺の頭は彼女の手にがっちりと固定され、意識を逸らすことが出来ない。
「――ルナルナじゃ!
そなたは妾、ヴァーミリア=エルディレッドの娘、ルナルナ=エルディレッドじゃ!」
「な、なんて名前だ…」
名付けられてしまった…
しかもギャグみたいな名前だ。
月が二つでルナルナってどういう冗談だ?
というか、本当にこの名前で行くのか?
この名前で通すとか、生き恥以外の何者でもないと思うのだが。これは一生モンの罰ゲームか。
そして腹立たしい事に、このあまりに恥ずかしい名前が、ストンと俺の中に収まったのだ。
既に俺はこの恥ずかしい名前を、自分の名前として認識してしまっているらしい。
いっそ殺せ…
「と、言うわけで…」
今まで目の前で威圧感たっぷりに笑っていた彼女は、いきなりふにゃっと表情を崩した。
「キャー!ルナルナちゃん!私がママよ~よろしくねー!」
「うわ!?何だいきなり!く、苦しいから抱きつくなー」
いきなりの彼女の豹変ぶりに、俺は目を白黒させながら体をよじる。
っていうか本当に絞まってる!タップタップ!
さっきまでの彼女は高圧なクールビューティって感じだったのに、
今はただのちょっと痛いミーハー女子って感じになっている。
「ケホッ…いきなりキャラが変わりすぎなんだけど、何があったってんだ」
「だってぇ、魔王は面子が大事なんだもの。ああいう肩が凝る演技も必要になっちゃうのよ」
「お前、やっぱり魔王だったのか!」
死ぬ前の予想が当たっていた事が証明されてしまった。
あれ?ということは俺は魔王の…
「でも今は魔王じゃなくて母親と娘だもの、これからは思いっきり素で接しちゃうわよ」
やめろ、キスするな!すりすりするな!でもなんか嫌じゃない。何だこれ腹立つな。
「それからママの事『お前』なんて呼んじゃダメ!ほら言ってごらんなさい。マーマってね」
「も、もう勘弁してください……」
さらにノリノリで迫ってくる母親を名乗る魔王に、俺は涙目で首を横に振った。
その日、俺は魔王の娘になってしまった。
本編以外の話は一人称で行こうと思ってます。
10/4 挿絵を追加してみました。