幕間 - 追憶の情景7
あの旅人の魂を『転生の秘術』で変質させ、封じ込めた卵を産み落としてから、
およそ50日の時が経とうとしていた。
私自身初産だったので、色々と心配な部分はあったが、経過はおおむね順調だ。
現在私がいるのは、魔王城の地下にある土で覆われた、薄暗い穴倉のような場所だ。
ラミアの卵を孵化させるには、なるべく気温の変動が少ない環境作りが必要になる。
何しろラミアは変温体質なのだ。少しの環境変化が死産へと繋がってしまうのだ。
そして、産まれた卵は、約30日の間は絶対に動かしてはいけない。
この期間は卵の内部で体が1から形成される、最も重要な時期なのだから。
それこそ、この期間に卵をひと転がしするだけで、中の子供は簡単に死に至るのだ。
とにかく細心の注意を払いながら、片時も離れずに卵を守り続ける。
それが連綿と受け継がれてきた、ラミア族の卵の孵し方なのだ。
恐らくこの子が孵化するまでには、早くとも後60日はかかるだろう。
既に卵の内部ではおおまかな体の形成が完了しており、
ここからは、完成した体を成長させる時期に入っているはずだ。
これは人間で言うところの、大体赤子から幼年期にあたる時期だろうか。
魔物の中でも特に成長の早いラミアは、卵から孵る時には既に成体となって出てくる。
これは雑食のラミアが、それぞれの『食事』の消化機能を備えるため、
外に出る時は成体まで成長していた方が都合が良い為だ。
体の形成が終わっているということは、
そろそろこの子の自意識が目覚めていてもおかしくはない。
ラミアの幼生体は結構卵の内部を自由に動ける為、
人間で言う所の胎動も、そろそろ感じられるかもしれない。
そう思うと私は無性に嬉しくなり、クリーム色の細長い卵を優しく撫でた。
自意識のある子供が、何十日も卵の中に閉じ込められていて、果たして平気なのか?
それは、そういうものだと本能が知っているから心配はないのだ。
ラミアの幼生体は、中を満たす栄養たっぷりの液体を吸収して体を成長させてゆく。
そして養分を吸収しつくした頃には、蛇の胴体もしなやかに成長している。
その恵まれた筋力を用いて、ようやく硬い殻を破ることができるのだ。
逆に言えば、その方法以外では割れない程に、ラミアの卵は硬い。
仮に好奇心で外に出たいと望んでも、子供の力で殻を割ることはまず叶わない。
そのうち好奇心は睡魔へと変わり、暗いゆりかごの中で、外を夢見て眠るのだ。
理想を言ったら、あの『勇者様』と結ばれて、こうやって子供を作るのが夢だった。
巣の連中が聞けば鼻で笑われそうな程の純愛だけど、
今更彼女達と分かり合おうとは思ってないので気にはしない。
そもそも、私が『魔王』の座に就いたのに、未だ挨拶ひとつ寄越さない連中なのだ。
彼女達には、適度に『エサ』でも送っておけばそれで良いだろう。
私の夢を笑ったあの連中は、『食事』という現実だけを受け取っていれば良いのだ。
夢を見ても良いと教えてくれたのは、他でもない『勇者様』だった。
叶える勇気を持つことが出来たのは、まさしく彼のおかげなのだ。
彼の大きな手に導かれたから、あの地獄のような日々から抜け出せたのだ。
私達はそれぞれの夢を叶える為に、別れなければいけなかった。
でも、彼は最後に約束してくれたから、私はそれが辛いとは思わなかった。
それぞれの夢が叶ったその先に、二人の約束も叶うと信じていたから。
――しかし、彼は帰ってこなかった。
私の夢、すなわち『魔王』の座に就いてから、もう20年の月日が経ってしまった。
そして彼が『狂魔王』を討ったのは、それよりも更に前の話なのだ。
私はいつ彼が現れても約束を果たせるよう、『魔物』と『人』の融和に奔走してきた。
しかし、彼が私の前に現れる気配はまったくない。
それどころか彼の存在を証明する足跡すら、そのほとんどがこの世界から消えていた。
それはまるで、世界そのものが彼の存在を抹殺したかのように。
今も、彼に繋がりそうな情報を掴めば、僅かな希望を頼りにそれにすがりついた。
しかし、そのすべてが彼の元までたどり着くことはなかった。
20年という年月は、『魔物』の寿命を考えればそれほど長い期間ではない。
しかし『人』にとっては、決して短い時間ではなかった。
これだけ手を尽くしても、やはり彼だけが見つからない。
もしかしたら、彼は本当にもう……
と、こんなことを考えてはダメだと、私は頭を振る。
他の誰が諦めようとも、他ならぬ私が諦めてどうするというのだ。
例え陰で仕事中毒と言われようとも、例え行き遅れと言われようとも、
私は頑なに彼を待ち続けるのだ。
その結果、例え生涯独り身を貫くことになったとしても、
私は最後の最後まで、彼への想いを宝物として持ち続けられるのだ。
誰も理解してくれなくても、それが私の望む幸せの形なのだ。
まぁ当然、彼が無事に帰ってきてくれるのが一番なんだけど。
そんな経緯もあって、私は『勇者様』以外になびくつもりは欠片もなかった。
だからあの日、辺境の『魔物の棲みか』でその旅人を見つけた時は衝撃的だった。
その旅人は、まさに私と『勇者様』の描いた夢を体現したような人物だった。
彼はボロボロに使い込まれた小さな弦楽器をかき鳴らし、楽しそうに歌っていた。
彼の周りではゴブリンやオーク等、知性の低い魔物達が楽しそうに囃し立てていた。
よく見れば『ボス』であるゴブリンリーダーまでもが、彼らに混じって歌っていた。
そこには、『魔物』と『人』の垣根は一切存在しなかった。
そして、この光景こそが、私と『勇者様』の夢見ていた理想の世界なのだと。
同時に、こんな人物が一介の旅人であることに、私はある種の歯痒さを感じていた。
この能力をもっと上手く使えば、『魔物』と『人』はより親密になるのに、と。
気付けば私は、彼を魔眼の力で拘束していた。
少々行き過ぎかもしれないが、彼を逃がしてはいけないと、私の勘が告げていたのだ。
そしてその時、丁度自分が『転生の秘術』を使える時期であることに思い当たった。
あの禁断の秘術を使えば、彼を問答無用で魔物側に引き込むことが出来るのだ。
彼が私の娘になれば、その夢の体現のような能力を思う存分発揮してもらえるのだと。
彼の魂を取り込みながら、やはり先走り過ぎたのではないかという思いが胸をよぎる。
何かを見落としているような、何かとんでもないことをしでかしてしまったような、
そんな言いようのない不安感が、ほんの一瞬だけ私を包んだのだ。
そしてそれは、おそらく彼への罪悪感なんだと私は結論付けた。
なにしろ思惑はどうあれ、何の罪もない彼の『人』としての人生を奪ったのだ。
私の下した判断に、当然彼の意思などひとつも入っていなかった。
彼には恨まれても仕方がないし、あるいは私を母親とは認めてくれないかもしれない。
しかし彼の声を聞いて、魂に触れて、私はそれでも上手く行くような気がしていた。
彼はきっと、そんな私も許してくれるのではないかと。
彼の心には、魂には、魔物に対する垣根が存在しなかった。
そして同時に、彼はとんでもなくお人好しだった。
彼はそんな所が、あの『勇者様』と良く似ていた。
そう、彼は少し『勇者様』を髣髴とさせる雰囲気を持っていたのだ。
顔や魔力の気配などは『勇者様』と似ても似つかない。
そもそも彼からは、『勇者様』と違ってほとんど魔力を感じなかった。
しかし、それでも彼と『勇者様』は、どこか似ていると私は感じたのだ。
実際の『勇者様』は、彼よりもっと凛々しくて頼もしいのだけどね。
ああそうだ、いい事を思いついた。
彼が私の娘になったら、彼女を『勇者様』との子供だと思って育てよう。
彼に禁忌である『転生の秘術』を使い、魔物側に引き入れたのは私の打算だったけど、
そんなことは関係なしに、大事な子供として愛情をいっぱいに注ぐのだ。
彼は『魔物』と『人』の差に苦しむことがあるかもしれない。
しかし、そんなことを気にしていられないほどに構ってあげるのだ。
私は例えどんな形になっても、彼の有り様が、そのお人好しの魂が大好きなのだから。
そんな、彼と出会った時の事を思い出していると、卵に『コツン』と反応があった。
ああ、ようやく彼……いや、彼女の自意識が目覚めたらしい。
その事実に、私の表情は自然と綻んでいた。
彼女と実際に対面出来るのは、まだ当分先のことになるだろう。
けれど、この硬い殻越しのコミュニケーションというのも、また良いものだ。
卵から『コツンコツン』反応があるたび、私はその外側から優しくなでる。
彼女がおねむになるまで、ただそんなやり取りを繰り返す。
それだけで、こんなにも温かく、愛おしい気持ちに包まれるのだ。
彼女がそこにいると実感できるだけで、たまらないほどに嬉しくなるのだ。
これから彼女が孵化する瞬間まで、何度もこの幸せのやり取りを繰り返すのだろう。
『コツンコツン』と届く、彼女のリズムに体を揺らしながら、私はそっと瞼を閉じる。
「さぁ、私はどこにも行かないから、今はゆっくりとお休みなさい」
彼女が殻を破り、初めて対面するその日を夢見ながら、私は小さく呟いた――
――はずだったのに。
数十分後、私はその『ありえない光景』を、ただ呆然と眺めていた。
先ほどまで蛇の胴体で守るように卵を包んでいたが、今はそれを解いていた。
下手に刺激すると、卵が割れてしまう危険があったからだ。
当然優しく加減して包んでいたので、通常ならばラミアの卵が割れる心配はない。
しかし目の前の卵は、その少しの刺激でも割れかねない状況になっていたのだ。
卵の内部からは、今まで感じたことのないような、猛烈な魔力が立ち昇っていた。
「ああ、だめよ……あなたが出てくるには、まだまだ早すぎるんだから」
『コツンコツン』と響く、彼女の発する音は、いつまで経っても止まらなかった。
そして、硬いはずの卵の表面には、既に大きなひびがいくつも走っていた。
次第にひびは大きな亀裂へと成長し、中を満たす液体がじわりと染み出してくる。
その様子に私はどうすることも出来ず、ただハラハラと見守ることしか出来なかった。
『パキン』という音と共に、小さな破片が弾け飛んだ。
同時に、卵から透明な液体がどばっと溢れ出る。
もう疑いようもなく、この子は今この瞬間に孵化してしまうのだろう。
まさか自意識に目覚めた瞬間に孵化してしまうなんて。
これは前世の魂と記憶を引き継ぐ、『転生』であるがゆえの弊害なのか。
本来ならば、この時期に本能に抗うことは出来ないはずなのだ。
もっと言えば、転生前の記憶自体しばらく育たなければ取り戻せないはずなのに。
そうしてる間にも、ばしゃばしゃと透明な液体が褐色の地面に黒いシミを広げてゆく。
ああ、それはあなたを成長させる為の大事な栄養だったというのに……
しかし覆水は盆に返らず。
大地へと零れたそれは、もう彼女を成長させることは叶わない。
これだけの養分を逃せば、恐らく彼女は成体に程遠いの姿で孵化してしまうのだろう。
せめて無事生きていけるだけの機能を、彼女の体が既に備えていることを祈りながら、
私は息を呑んで、彼女が孵化するその瞬間を待った。
『バシャン』
遂にクリーム色の卵が真っ二つに割れ、中から小さな小さなラミアの幼生体が現れた。
彼女はまだ外の光に慣れてないせいか、金色の瞳をしぱしぱと瞬いていた。
その体は私の遺伝子のみで作られた為か、私の特徴をそのまま受け継いでいた。
予想通り、彼女は孵化したラミアの平均的な成長具合とは比べるべくもなく、
その姿は明らかに小さく、そして幼かった。
ラミアの一番の特徴である、蛇の下半身を覆う鱗は、透けるように薄く柔らかそうだ。
上半身を覆う褐色の皮膚も、やはり通常のラミアよりずっとか弱く、敏感そうだった。
通常より何十日も早く孵化してしまった彼女は、やはり『未熟児』だった。
ただ、幸いなことに、今のところ生命活動を脅かす程の不具合は出ていないようだ。
彼女は息も絶え絶えに、体に纏った雫をぷるりと振り払っていた。
だが、問題はそんなところではない。
いや実際は目に見えないだけで、彼女の体には色々不具合があるのかもしれない。
しかし今現在、もっとやばいのは私の方だったのだ。
お分かりいただけるだろうか?
生まれたばかりの、小動物のその愛くるしさを。
たどたどしく危なっかしい、その仕草の持つ破壊力を。
恐らく彼女は、蛇の下半身の安定のさせ方をまだわかっていないのだ。
だから、先ほどより体勢がとても不安定で、とてもふにゃふにゃとしていた。
危なっかしく前後左右に傾く体が、私の中の庇護欲を無駄に掻きたてる。
でもダメ。
この衝動に任せて彼女を愛でてしまえば、きっと怯えられるし、最悪嫌われてしまう。
何事も最初が肝心なのだ。
静まれ!私の中の母性本能よ!
ヒッヒッフー、ヒッヒッフー…
今すぐ彼女を抱きしめたい。
ぎゅっと抱上げて、すりすりわしゃわしゃしたい。
そんな湧き上がる衝動をぐっと我慢しながら。
とてもとても我慢しながら。
彼女が転倒して柔らかい鱗や皮膚を傷つける前に、その頭をそっと押さえてあげた。
「お、お前は!?」
ガガーン!
鈴のような可愛い声で、娘にかけられた第一声が、まさかの『お前』呼ばわりだった。
やはり彼女は、既に『転生前の記憶』を取り戻しているのだろう。
というか、もしかして彼女は、自分がラミアに転生していることに気が付いてない?
……ああ、そういえば彼女が自意識が目覚めたのは、ついさっきのことだったのだ。
それならば仕方がないだろう。
私は彼女に今までの経緯を一から説明し、娘としての名前を与えた。
彼女の『人』の名前は、『転生の秘術』で魂を書き換える時、ついでに奪ってある。
彼の名は、とてもかっこいい名前だった。
正直名前負けしているかもしれないと、少し失礼なことを思ってしまったのは内緒だ。
でも私のつけた名前だって、即興で考えたにしては可愛くて良い名前になったと思う。
この名前、この子も気に入ってくれたら嬉しいな。
ともあれ、これで感情はどうあれ、彼女は私を母親と認識するようになったはずだ。
試しに、少しだけ激しめのスキンシップをとってみた。
彼女は、口では嫌がりながらも、その表情はまんざらでもない様子だった。
あらあら自覚はないかもしれないけど、あなたの尻尾、私に絡みついてるわよ。
その反応に私の心は温かくなり、頬も自然に緩んでしまう。
ああ、幸せってきっと、こういうことを言うのだろう。
うん。最初の心配なんて、やっぱり杞憂だったのだ。
私は既に彼女の事が大好きだし、
彼女だってそのうちきっと、私の事を好きになってくれるはずだ。
彼女とは、なるべくして家族になった。
今はそんな気さえするのだ。
耳元をくすぐる可愛い喚き声を聞きながら、
私は上機嫌に彼女を抱え、久しぶりの魔王城へと登っていった。




