第49話 夜魔の女王
エルドに背き、アイラと戦うことを決心したルナルナだったが、
彼女にはもう一つの懸念が残っていた。
それはアイラと戦う場合、この場所が非常にまずいと言うことである。
現在彼女達のいる場所は、小さな温泉街のど真ん中。
ルナルナ達が宿泊していた温泉宿の入り口前の、少し開けた広場である。
開けているとはいえ、少し先には雪化粧をした木造の建物が立ち並んでいる。
もし彼女達が全力で戦った暁には、周囲の建物はまず無事ではすまないだろう。
そしてさらに、背後の宿の中にはベルゼもいるのだ。
今現在、アイラは彼に対して救援を求めるような様子はない。
だが派手に戦えば、じきにベルゼにも気付かれ、状況は更に悪くなるだろう。
不利な状況に屈することなく、可能な限り抗うことを決心したルナルナだったが、
だからといって彼女は、好んで不利な状況を作り出したいわけではなかった。
目の前の事態に対し、望む成果を挙げる為に最善を尽くす。
ルナルナが決心したのはそういった覚悟なのだ。
その観点からしても、ここで戦うにはいささかリスクが高いと判断したのだ。
圧倒的な威圧感でもってルナルナ達にプレッシャーを掛けるアイラだったが、
彼女の様子は未だ緊張感に欠け、悪く言えば油断しているように見えた。
もしかすれば、隙を突いて手痛い先制攻撃を加えることだって可能かもしれない。
だがルナルナは、その隙を『戦いの場所を移す事』に使うことに決めた。
通常の状態なら、ルナルナに追いつける者はほとんどいないはず。
それだけの脚力を持っているという自負が、彼女にはあった。
だが、今回はアリスを伴ってアイラ達から逃れることが目的なのである。
ということは、当然場所を移すのも彼女を伴ってという条件が加わる。
いくらアイラが油断しているといえ、そこまで許容されるとは到底思えなかった。
だからルナルナは、現在行える最高速の移動法を使うことにした。
ルナルナは他の魔物には真似出来ない、ある一つの特技を持っていた。
それは、人化と解除を『息をするように』スムーズに行えることであった。
人化の法とは、魔力を代償に自分の望む姿に体を変化させる術である。
そしてその望む姿の中には『姿勢』までもが含まれるのだ。
すなわち――
「アリス、今から『ぶっ飛ぶ』から、少しの間歯を食いしばって顎を引いてな」
「へっ?」
ルナルナが片腕でアリスの腰を抱き、彼女の身が強張ったのを確認すると、
『跳躍寸前の、最大限の力を蛇体に込めたラミアの姿の自分』を想像する。
すると、次の瞬間にはルナルナの思い描いた通りの、
ギリギリと軋みが聞こえそうなほどに力を込めた、青紫の蛇の胴体が出現した。
ラミアの姿になったルナルナは、躊躇なくその溜まりに溜まった力を解放する。
と同時に、ルナルナはラミアの姿に比べて何倍も軽い人間の姿へと人化した。
ルナルナがラミアの姿を晒したのは、瞬きほどのごくわずかの間である。
その一瞬で、加速度だけをその身に受けたルナルナとアリスは、
煌々と月の輝く雪国の夜空を、文字通り砲弾の如くぶっ飛んでいた。
「ふえぇ!?」
「ふぎゃあぁああああああああぁあああああぁぁあぁぁぁぁぁぁぁ!!」
アイラの間の抜けた声は、一瞬で風切り音とアリスの叫び声に掻き消された。
この移動法。
ラミアの姿のままでも、ルナルナにはおよそ50m程の跳躍が可能であった。
それほどにラミアは瞬発力に優れた種族なのである。
その跳躍力を、人の姿に受ければ果たしてどうなるか?
結果、ルナルナとアリス二人分の重さをものともせず、
彼女達は宿から数百m先、街を抜けた白い雪原にまで到達していた。
数十センチと降り積もった雪を派手に飛び散らせながら、
ルナルナはアリスに出来うる限り衝撃を伝えないように着地する。
この方法を繰り返せば、もしかすればアイラを振り切ることが出来るのでは?
一瞬、そんな考えがルナルナの頭を過ぎる。
しかし、その考えは甘いものであると、即座に突きつけられることになる。
「はぅ、いきなりびゅーんて飛んでっちゃうんですもん。ビックリしましたよぅ」
数瞬後、行く手を阻むような位置に、アイラはふわりと降り立ったのだ。
予想していたとはいえ、その到着はルナルナの予想よりもずっと早かった。
この様子では、例えルナルナ一人でも彼女を振り切れるかはかなり怪しかった。
ましてや彼女は天才である。
油断していた先ほどまでとは違い、同じ手を使えば今度こそ対処されるだろう。
やはり彼女を突破するには、正攻法に彼女に勝つしかなさそうである。
とはいえ、ルナルナにとって、ここまでの成果は決して悪くない。
当初の予定通り、町を抜けることに成功したのだ。
ここでなら全力で戦ってもほぼ問題ないし、今度こそ本当に一対一である。
ルナルナは目の前の彼女さえ倒せば、当面の障害は抜けられるのだ。
ふとルナルナは自分の胸元に強い圧迫感を感じ、視線を落とした。
跳躍する際ルナルナが腰を抱えたため、横抱きでしがみ付いていたアリスは、
半立ちの姿勢のままルナルナの胸に顔を埋め、ガタガタと震えていた。
ルナルナは、彼女に少し悪い事をしたと思いつつ、ポンポンとその肩を叩いた。
「お、お姉様…」
先ほどの移動がよほど怖かったのだろう。
彼女の目尻には涙が溢れ、充血した目でルナルナを見上げていた。
何故か呼び方も元に戻っている。
だがそこは些細な問題なので、ルナルナは特に気にせず彼女の涙を指で拭った。
「驚かせてゴメンな、アリス。
今からあいつを倒さなきゃいけないから、少しだけ離れていてくれないか?」
「あ、はい……」
アリスは震える体を何とか起き上がらせ、ルナルナに従ってゆっくり距離をとった。
彼女はちらりとアイラに視線を送ると、ぞくりと体を震わせた。
「ね、ねえお姉様……絶対、無理はしないでね」
一般人のアリスでも、今のアイラがどれだけ危険な存在なのかわかるのだろう。
それほどまでにアイラの放つ存在感は圧倒的であった。
だがそんなアリスの様子に、ルナルナは更なる闘志を掻き立てられた。
「ああ、大丈夫だ。俺が絶対何とかしてやるから」
この場を何とか出来るのは、ルナルナしかいないのである。
そしてここまできたら、もう引き返すことは出来ないのだ。
ルナルナは、微笑ましい物を見るような表情をしたアイラを睨みつけた。
「果ての地を目指した二人の愛の逃避行。そこに立ちはだかる新たなる追っ手。
…はうぅ、すっごく燃える展開なのですぅ」
「アイラお前、それ絶対わかってて言ってるだろ。つーか敵のお前がそれを言うなよ」
その言葉に、アイラは『ガガーン』と効果音の聞こえてきそうな表情を浮かべた。
「はぅ!私はお嬢様の敵なんですかぁ?こんなにこんなにお嬢様の事を想ってるのに、
お嬢様ってばとってもとっても酷いのです!」
あくまでとぼけ通すアイラにルナルナは頭痛を覚えながらも、最後の確認をする。
「どの口がそれを。じゃあお前は、俺達の事を黙って見逃してくれるのか?」
「あぅあぅ、それは駄目なのですよぅ。
私だってお嬢様とアリスさんの事を応援したいのは山々ですけどぉ、
でもでも、お外の世界はお城と違って危険がいっぱいで危ないのです。
だから私がお嬢様達を守ってあげるのですぅ」
「そう言うのをありがた迷惑って言うんだよ。それにやっとわかったんだ。
俺の目標の為にはやっぱり守られてるだけじゃ、弱いままじゃ駄目なんだってな」
「はぇ!?」
ルナルナのその言葉に、アイラは心底ビックリしたような表情を浮かべる。
「あれれ、でもそれだと、お嬢様はエルドさんの言いつけを…」
「ああ、俺はエルドに逆らうことにしたんだ。
だからお前やベルゼがエルドの指示で動く限り、俺はそれに抗わせてもらう」
ルナルナが強く言い切ると、一瞬スッとアイラの表情から色が抜け落ちた。
彼女の露わになった、少し大きめの闇色の羽がゆらりとはためく。
途端、強烈な悪寒がルナルナを支配し、彼女は思わず護身用のナイフに手をかけた。
「それぇ、本気ですかぁ?」
場を支配する緊張感に場違いな、ほわほわとした声。
しかしナイフの柄にかかったルナルナの手の平に、じわりと汗がにじむ。
「ああ、男……じゃないけど、二言は無い!」
今一度、ルナルナは目の前に立ち塞がる夜魔の女王を睨みつける。
「アリスさーん」
「ひ、ひゃい!?」
いきなり話を振られるとは思っていなかったのだろう。
アリスは引きつった表情と、それに見合った声でアイラの呼びかけに応じた。
「そこ、危ないですからぁー。もっと、も~~っと下がっててくださいねぇ」
「ひぃ!」
アイラにその表情を向けられ、アリスが恐怖に染まった声を上げる。
彼女は足をもつれさせながらもその場から駆け出し、かなり離れた所まで退避した。
これで人質の心配も無い、本当の意味での一対一になったのだ。
ルナルナが覚悟を決め、そして望んだ展開のはずであった。
そのはずなのに、ルナルナの全身を止めようのない震えが襲っていた。
震えを噛み潰すように奥歯に力をこめ、逸らしたくなる視線を強引に定める。
ルナルナの視線の先には、いつもとはまったく異質な笑みを浮かべたアイラがいた。
この時ルナルナは、今自分が男でなくて本当に良かったと思っていた。
もし男であれば、例えどんなに鍛えても、彼女の紫の瞳に抵抗できなかっただろう。
そう確信してしまえるほど、彼女のその笑みは危険なものであった。
「ふふ、うふふふ……
それじゃあ~、お嬢様のその覚悟。本物かどうか確かめさせてもらいますねぇ」
それはクイーンサキュバスの名に相応しい、
淫靡で妖艶な、本物の淫魔の笑みであった。




