第29話 エルドの方針
「ヴァーミリア様の元を逃げるように飛び出していったお嬢様が、
こんな所で一体何をしてますの?」
にこにこと表情を崩さないエルドに、ルナルナは思わず一歩後ずさった。
「べ、別に逃げたわけじゃない!お母様の許可だってもらってる。
俺はお母様との夢の実現の為に、世界を回ってるんだ」
その笑顔の圧力に負けじとルナルナは奥歯を食いしばり、
目の前の、最強のドラゴンたるエルドに食い下がった。
だが彼女はそのルナルナの言葉に首を傾げ、その笑顔に少し困ったような色を混ぜた。
「ヴァーミリア様が居ない時に抜け出しておいて、許可も何も無いでしょうに。
どうせそれだって事後承諾なのでしょう?ヴァーミリア様はお嬢様に甘いですし。
それにお嬢様がその夢を実現させるにしても、私には些か実力不足に感じますわ。
今のお嬢様は、ただ生まれ持った力を振り回しているだけに過ぎませんからね。
そもそも私、お嬢様が強くなる事にだって反対ですのよ」
エルドはその笑顔に有無を言わせぬ迫力を纏わせながら、
ルナルナの方へ一歩、その足を踏み出した。
ルナルナが生まれてから約3年間、
世界中忙しく飛び回るヴァーミリアに代わり、育児係を務めていたのがこのエルドである。
放任気味なヴァーミリアと違い、ルナルナを箱入りに育てたのも彼女の方針だった。
ルナルナがここまで魔術を覚えずにこられたのも、彼女の反対があったからであった。
エルドの育児方針は、とにかくルナルナをお姫様然と育てる事である。
「お嬢様は『融和』を目指すのでしょう?でしたら力は必要ありません。
力で従わせるのはただの『支配』ですからね。
それに露払いが必要でしたら、その全てを私が請け負いましょう」
これがエルドの言い分である。
確かに彼女にはそれだけの能力があるだろう。
だが彼女の言うがままにお姫様として育てられるのは、ルナルナが耐えられなかった。
事情を知るヴァーミリアも、意見が対立した時にはルナルナに味方した。
だがこのエルドはヴァーミリアの配下だが、ヴァーミリアよりもずっと年上なのだ。
ルナルナの教育方針について、ヴァーミリアに何を言われても曲げることは無かった。
ルナルナは表面上エルドに従うフリをしながら、逃げ出すチャンスを窺っていた。
そしてエルドがルナルナに山のような見合い話を持ってきた時、
ルナルナはついに耐えきれなくなり、生まれ育ったその地を飛び出したのだ。
いわば目の前の彼女から逃げる為に飛び出したようなものである。
だがルナルナはエルドに見つかってしまった。
このままでは彼女に連行され、魔界の果てで本物のお姫様にされてしまう。
そんな望まぬ未来予想図に、ルナルナの額に玉の汗が浮かんだ。
不意に、何者かがルナルナとエルドの間に立ちふさがった。
ルナルナはその見慣れた背中に、思わず声を上げていた。
「ポール!?」
常にルナルナの傍に侍り、彼女を守り続けてきた彼だからこそ、
彼女の心情を一早く理解したのだろう。
ポールは脇差を腰溜めに構え、ルナルナを守るように最強のドラゴンと対峙していた。
その様子に、エルドは笑顔を保ったまま少しだけ目を細めた。
「あらポール、しばらく見ないと思ったらお嬢様に付いてましたのね。
武士道の次は騎士道にも目覚めちゃったのかしら?
でも四天王のあなたとはいえ、私に勝てると思ってらっしゃるのかしら?」
寡黙な剣士はエルドの言葉を意に介すこともなく、その主を守るべく力を溜め続ける。
その彼の様子に、エルドはにっこりと微笑んだ。
「いいわよ、そんなモノで私を止められると思ってるのなら、かかってらっしゃい」
エルドは剣を構えるポールを気にする様子も見せず、平然とその歩みを進めた。
その刀の制空権にエルドが入った瞬間、ポールの右腕がブレた。
『ギィン!』
一瞬の閃光と、耳障りな金属音が至近から響き渡り、ルナルナは思わず目を背けた。
再び彼女が目を開けると、ポールの剣を片手で無造作に掴んだエルドの姿があった。
ルナルナがかすかにしか目で追えなかったポールの全力の一刀を、
エルドはその表情を崩すことなく受け止めたのである。
「そのままじっとしてるとあなたの愛刀が溶けてなくなるけど、いいのかしら?」
見ればエルドの掴んだ刃の部分がぶすぶすと蒸気でゆがみ、赤熱している。
ポールは慌てて刀を引き戻すが、その動きに合わせてエルドは間合いをつめた。
ポールの体にエルドの手が添えられた瞬間、彼の体はビクリと痙攣し、
そのまま彼はゆっくりと地に落ちた。
霊体である彼には、物理攻撃が一切通らない。
恐らくエルドは彼に対して魔力を使って何かをしたのだろう。
だがルナルナには、彼女が何をしたのかさっぱりわからなかった。
ただわかるのは、もう彼女を止められる者は存在しないという事だけだった。
ルナルナは、エルドを見た時点で既に火竜の鱗は諦めていた。
ルナルナを連れ戻したがる彼女が、旅の手助けをするとは到底思えなかった。
だからルナルナはこの場を逃れる事だけを考えていた。
「ディードリッヒ!」
「わかってるよお姉ちゃん」
頼みの綱はディードリッヒの『転移魔術』のみである。
彼の魔術さえ発動すれば、少なくともこの場からは問答無用で逃げられるだろう。
しかしディードリッヒはルナルナの前へ躍り出て、エルドと向き合っていた。
「違う!俺とお前が飛ぶだけで良い」
「だってまだ鱗を手に入れてないよ。最悪お姉ちゃんだけでも飛ばすから」
彼も目の前の相手がどれほどの者か感じ取っているのだろう。
いつもの余裕の表情が、今はどこにも見当たらなかった。
「相手が悪すぎる、諦めて飛ばしてくれ!」
「でもそれじゃあ、お姉ちゃんが旅を続けられなくなっちゃうじゃん」
「命の方が大事だ!ここは一度引くよ」
困惑するディードリッヒにルナルナは断言する。
こうしてる間にも彼がエルドにやられかねない、とルナルナは鋭く視線を移した。
しかし当のエルドは、二人を目の前になにやら考え込んでいるようだった。
「その子のこの感じ、魔物…じゃないですわね。もしや魔人ですか?」
「そーだけど、だから何?」
ディードリッヒはルナルナを守るべく立ち塞がりながら、キッとエルドを睨み返す。
その彼の様子に、何故かエルドは笑顔で塗りつぶした圧力を少しだけ緩めた。
「へぇ、お嬢様もやりますわね。短期間でこんな面白い子を味方にしてるなんて」
「…何が言いたいのさ?」
突如変わった彼女の雰囲気に、ルナルナは警戒しつつも懐疑的に問いかける。
「そんなに警戒しないでください。
お嬢様は勘違いしてるようですが、私、お嬢様を連れ戻すのはもう諦めてますのよ」
「へ?」
エルドの思いもかけぬ言葉に、ルナルナは間の抜けた声を出してしまった。
「ここで連れ戻した所で、お嬢様はどうせまた私の目を盗んで逃げ出すのでしょう。
お嬢様が無謀で頑固で、言い出した事は決して曲げない事は存じてます。
そんな所まで、あなた達二人はそっくりですからね」
自分が誰と比べられているのかわからなかったが、
予想外のエルドの言葉を、ルナルナはあっけにとられながら聞いていた。
「ただね、今回は落とし所が見つからなくて困ってましたの。
でもそれもたった今見つかりましたわ」
エルドはそう言って、ディードリッヒの頭の上にポンと手をのせた。
完全に虚を付かれたディードリッヒは、慌ててその手を振り払おうとするが、
エルドに触れられているだけで、彼はなぜか全身から力が抜けて動けなくなっていた。
「この子は面白い力を持っているわ。でもまだまだ全然力不足。
あなた、お嬢様を守れるくらいもっと強くなりなさい」
「うー、言われなくたってお姉ちゃんはボクが守るよ、だからこの手を離してよ!」
「ほら、これだけで動けないでしょう?だから力不足と言ってるの。
こんなんじゃ魔力をちゃんと扱える相手には通用しないわよ」
耳元で優しく呟くエルドに、ディードリッヒはゾクゾクと背筋を震わせた。
「安心なさい、あなたは私が鍛えてあ・げ・る」
「「えっ?」」
エルドの言葉にルナルナとディードリッヒは目を丸くする。
「お嬢様に強くなられたら困るけど、あなたが守る分には問題ないわ。
私が直々に、特別メニューで鍛えてあげるわ」
エルドの言葉に、今度はルナルナが声を上げた。
「ちょっと待て、俺に強くなられたら困るってどういうことだよ?」
「あら、私そんな事言いましたかしら?オホホホ」
エルドは口に手を当ててわざとらしく笑った。
しかしその仕草は誰がどう見ても怪しかった。
「ダメだよ、大体ボクが居ない間、誰がお姉ちゃんを守るんだよ?」
ディードリッヒの慌てた様子に、エルドは彼の肩口をむぎゅりと抱きしめた。
「あら、この子ってばもうお嬢様の立派な騎士なのね。かわいー!」
「うわっ!ちょっと離してっ!」
未だ身体を上手く動かせないディードリッヒは、目を白黒させて声を上げる。
「…でもね、どんな立派な志を持っていても、力が無ければそれはただの虚勢。
覚えておくことね」
彼の耳元で優しくそう呟くと、ポンと肩を叩いてようやく彼を解放する。
「とはいっても、確かにポールだけでは少々心許ないですし、
そうですわね。いっそのこと四天王全部呼び寄せましょうか」
エルドは笑顔でそんな提案をする。
その言葉にルナルナはヒキッと顔を引きつらせた。
「四天王を!?か、勘弁してくれよ。あいつ等絶対いらないトラブル招くだろ!」
「あら、お嬢様は人間と魔物の融和を目指してるんでしょう。
だったらアレと人間の擦り合わせくらい、なんて事ないでしょう?
大丈夫、お嬢様だったらきっと出来るって、私信じてますわ」
実に良い笑顔を浮かべるエルドに、ルナルナは早くも頭痛がしてきた。
絶対逃げ出した事を根に持っているだろう、と心で突っ込むルナルナだった。
「お嬢様、帰る家はいつでも私が用意してますから、
つらくなったら遠慮せずに飛び込んで来てくださいね!」
さあ!と両手を広げて突き出されたその彼女の柔らかそうな胸は、
ルナルナの目には地獄門にしか見えなかった。
時系列に少々矛盾があったので、過去の話の数字をちょっとだけいじりました。




