偏食悲劇
何だ。
ああ、おれがここにいる理由?
またそれか。
前も話しただろ。あれが全部だよ。何回話しても変わらねえ。なんでそんなに聞きたがるんだ?
……わかったよ。話せばいいんだろ?
べつに難しいことじゃない。あまりにシンプルだし、悩むことなんかじゃない。
要点はただひとつ。世間には吸血鬼がいるってことを認めることだけなんだ。
彼女と出会ったのは、そう。あまり思い出したくはないが、おれがいじめグループからリンチを受けたあとのことだった。当時受けてたいじめの一環でね。相手とタイマンで喧嘩するんだ。
でも向こうは四人が代わる代わる出てくる上に、こっちは変に反撃したら何されるかわかったもんじゃない。だから実質はただのリンチさ。向こうは「百人組手」って呼んでたけどね。四人しかいないのに。
それでおれはボコボコにされて、ひとり橋の下の河川敷に寝転がってた。
顔からは鼻血が出てたが、それは転んだ時にできた傷だった。やつらの攻撃は首から下だけ。基本に忠実ないじめってやつだね。
おれは今日のお務めが終わったことにホッとしつつ、すぐにやって来る明日に絶望してた。
それでもとにかく帰ろうと上半身を起こしたところに、彼女の姿を見つけたんだ。
確かに彼女の姿には何と言うか、現実感がなかった。体はやけに細いし、色だって抜けるように白い。
でもちゃんとN中の制服を着てたし、目の前に顔を近づけられた時、ちゃんと呼吸だって感じた。……まあ名前とか聞いてなかったのは失敗だったけど、でも何回も言ったろ? N中の在校生の写真見せてくれたら、すぐにわかるって。プライバシーとかわけわかんないこと言ってないでさ。あんな雰囲気の子、めったにいるもんじゃないんだから。
おれは上体を起こしたまま、しばらく彼女を見つめていた。確かに可愛いっていうのもあったけど、それ以上に奇妙な様子だったからだ。
倒れていたおれを見つけて駆けつけてきたにしては、なんだか変な表情だった。心配してるでも、状況を確認してるでもない。目を見開いたその表情は、まるで何かを見つけたって感じだった。まるで倒れてるのが身内だったとでもいうようにね。
しかしそんなおれの疑問に気づいたんだろう。
彼女はすぐに表情を取り繕うと、おれに駆け寄って来て「だいじょうぶですか?」とハンカチを取り出したんだ。
「帰る途中であなたを見つけたんです」
彼女はそう言ったあと、しばらくためらったのちに鼻血をぬぐってくれた。ゆっくりと丁寧に。一滴も残すまいとするかのようにだ。
それから彼女は、じっとハンカチを見つめていた。淡いブルーのそれにできた、どす黒い染み。彼女はそれを、まばたきひとつせずに凝視していた。
洗濯して返すよ、というおれの言葉に、彼女がハッと気づいて顔を上げた。慌ててハンカチを後ろに隠し、まるで子供みたいにぶんぶんと首を振る。中学生にしては大人びた雰囲気の彼女がそんなふうにするのはますます奇妙だったが、その時のおれはそれを追求する余裕がなかったんだ。ま、可愛い子でもあったからね。
もしかしてこれをきっかけに、なんて妄想も抱いていたのかもしれない。おれが読んでた小説では、それが定番だったし。
まあでも、違ったよ。ここから先は少しばかり展開が急だった。むしろ今だって整理がついてないくらいさ。だってあの状況で人が二人死ぬなんて、誰が想像する?
おれはふらつく足でどうにか立ち上がると、近くに放り出されてるカバンを拾い上げた。
それから彼女の方を振り返ると、彼女はまたハンカチを見つめていたんだ。さっきと同じ、まばたきひとつしない凝視でね。少し離れたところから見るそれは、何ともぞっとする光景だった。
ほんとはそこでその理由を、訊くつもりだったのかな。邪魔が入らなかったらね。そうすればもう少し違った展開になったろうし、おれもこんなところにぶち込まれることはなかった。もっと皆がハッピーになれるような、そんな話にできたかもしれない。
でも実際は違った。展開は急だった。
なんせ不意に、いじめグループの内の二人が河川敷に戻ってきちゃったんだからね。「百人組手」の最中に、財布を落としちゃったらしい。
ほんとあの時は、どうしようもなかったね。やつらはおれに財布を探すように命令すると、すぐに女の子に向き直った。
けど女の子は気づきもしない。その場に立ち尽くしながら、じっとハンカチを見つめていたんだ。その時はもう、ただの凝視じゃなかった。わずかに呼吸を荒くしながら、軽く汗ばんでさえいたかもしれない。そんな彼女に一人が手を伸ばすのと、彼女がハンカチに噛み付いたのは、ほとんど同時だった。
「見つけた」
確かに彼女はそう言ったよ。
なんで聞こえたのかはわからない。彼女とは五メートルは離れていたはずなのにね。おれの血を取り込むことで精神的にリンクするのかな。そんな設定のお話って、なかったっけ?
まあとにかく、それがそのとき聞いた、最後の声だった。
それから先のことは、映像でしか覚えていない。シュール過ぎたせいかな。ハンカチをくわえた彼女が、目の前の二人の首を一瞬でねじ切るシーンなんて、なかなか見れるもんじゃないからね。
首からは派手な血しぶきが上がり、生首は無造作に転がされていた。そんな光景をバックに、彼女は必死にハンカチを、そこに付いたおれの血を吸っていた。瞳は沈む直前の夕日のように輝き、わずかに動く唇の陰からは、牙の先がのぞいていた。
おれが覚えているのはそこまで。
気がつけば、おれは自宅のベッドに横たわっていた。制服姿のまま、ズボンには草の切れっ端をつけてね。
そして翌日、おれはいつもどおり登校した。そうして日常をこなすことで、精神の均衡を取ろうとしたのだろう。
だがそんな試みも、昨日から二人の生徒が行方不明になっているというニュースで台無しになった。その二人とは、もちろん例の殺されたやつらだ。
それはショックであると同時に、喜ばしいニュースだった。事件そのものは異常だったものの、おれがいつも夢想してた現象、すなわちやつらがこの世からいなくなってくれるという状況が現実になったからだ。
その日の授業時間中、いきなり勢力が半減したグループのやつらは、おれにいじめをけしかけてくることはなかった。
だが標的とされて以来、もっとも穏やかだった時間は、放課後になったとたん終わりを告げた。
挨拶も終わり、帰ろうとしたところで、おれは二人となったいじめグループのやつらにいきなり呼び出された。内容は、行方不明のやつらについて。その尋問には、もちろん暴力がサービスされていた。
二人の内の一人、グループのリーダー格のやつは、妙に勘がよく、またそれを自覚していた。知らないと白を切り通すおれに不審なところを感じたのか、かなりきつい暴力を振るってまでおれに真実を吐き出させようとしてきたんだ。
それは学生で一般人のおれには、かなりきつい拷問だった。いや新米のスパイだってゲロっちゃうかもしれない。
だがそれでも、おれは知らないで通し続けた。だって、誰が信じる? 直に見たおれだって、まだ信じれてなかったのに。それにこれは言ってはいけない。相手が信じる信じないに関係なく、秘密にしておかなきゃいけないことなんだって、おれは何となく確信していたんだ。そういうもんだろ? この手の話ってさ。
結果、昨日に続いてぼろぼろになったおれは、しかし目的は果たすことができた。
そのまま抱え続けていた確信が現実となったのは、それから数日後のこと。
つまりおれは例の河川敷へと続く道端で、彼女と再会したんだ。
彼女は前と変わらない姿でそこに立っていた。ただ違うところがあるとすれば、その表情。
以前は生き別れた兄のように凝視していたおれを、嫌悪混じりの瞳で見つめていた。
おいおい何があったんだい? たった数日でさ。
そう言いたくなるような変化に戸惑っていると、彼女はおもむろに持っていたカバンを開き――少しためらってから――勢いよくそこに手を突っ込んだ。
「これを」
そう言って彼女が指先につまんでいたのは、紙袋だった。手のひらに少し余るくらいの大きさ。彼女はそれから必死に顔をそらし、腕をまっすぐ伸ばす形でおれに突き出していた。何だよその体勢。死んだネズミでも入ってんのかって、一瞬まじで考えちゃったね。
「開けてみて、ください」
困惑しつつも受け取ったおれに、彼女が言った。指先には硬い感触。恐る恐る中身を取り出すと、つまんだ指先にぶら下がっていたのは、ロザリオだった。そう。数珠、の先に十字架がぶら下がった、クリスチャンがお祈りをする時に使う道具だ。紙袋に入っていたのは、それだけだった。
「すみません、それ、しまってもらっていいですか?」
さらなる困惑の視線でロザリオを眺めていたおれに、彼女は言った。
「事情を説明するので、ついて来てもらっていいですか?」
そして一人先に行く彼女にしたがって、おれは河川敷へと下りて行った。疑問は解消しないどころか膨らんでいく一方だったが、むしろそのことが一層の期待を抱かせたからだ。
向かった先は例の場所。そう。おれと彼女が出会った、橋の下だ。
不意に目の前に浮かぶ、あの時の光景。あれほどまでに生々しい記憶の断片は、しかし現実の河川敷にはひとつも残されていなかった。遺体はもちろん、血の跡すらも見つけられない。ところどころに草の生えた、整備の悪い河川敷そのものだった。
そこで再びおれに向き直ると、彼女は怯えた瞳でおれを見つめ――深呼吸をひとつしてから――こう切り出した。
「わたしは、吸血鬼なんです。それも、ひどい偏食の」
それからの会話は少し長くなるので、事実だけを列挙しよう。
・彼女は吸血鬼である。
・彼女は偏食家で、これまで口にしてきた人間の血は、体が受け付けなかった。
・しかしおれを見つけその血の匂いを嗅いだ瞬間、これまで感じたことのない渇望に襲われた。
・我慢できず口にしたおれの血によって、吸血鬼本来のパワーを得た彼女は、興奮のあまりあいつらを殺してしまった。
・吸血鬼にとって人間の血は、パワーを取り戻すためのガソリンのようなものである。成長そのものは他の食事によってまかなうことができる。
・死体は仲間が処理してくれた。こうした事態に慣れている彼らは、きちんとネットワークを作り上げているらしい。
「でもわたしは、吸血鬼の力なんか求めていません。だからあなたには、あのロザリオを肌身離さず持っていてほしいのです」
そう言って彼女は、嫌悪の瞳をおれのカバンに向けた。
いわく、ロザリオを掲げれば吸血鬼は近づくことができないし、またそれを手にしながら攻撃すれば、吸血鬼に傷を負わせることができる。ちなみに十字架が付いてれば何でもよく。現にそのロザリオもそこらで買った安物だったらしい。
以前のことは初めての経験だったので、つい我を忘れてしまった。だが普通の人間として生活したい彼女は、二度とあのような真似はしたくないらしい。
だから常にロザリオを持って、わたしに血を吸わせないようにしてほしい。吸血鬼の本能的欲求はすさまじく、またいつ強烈な渇望を覚えるかわからないのだから。これが彼女の説明と、それに基づく要求だった。
どうだ? 信じられないだろ? でもおれはあのシーンを、実際に目の前で見てるんだ。道具も使わずに人の首をもぎ取る光景は、それくらいの秘密がなければ困る。むしろその説明によって、ようやくあの光景にリアリティが与えられたと言ってもいい。
だから彼女の説明を聞いたおれは、それを受け入れることにした。
けれどその前にひとつだけ、とおれは彼女に言った。
もしそうしてほしいというなら、そうしよう。
ただしその前に、その吸血鬼パワーを使って「残りの二人」も片付けてくれないか、おれはそう言ったんだ。だってそうだろ? あいつらさえいなくなれば、おれは平穏な生活が送れるんだ。
吸血鬼に狙われるリスクを引き受けろというなら、それくらいのことはしてくれてもいいんじゃないか?
だがこの公平な提案は、彼女によって拒絶された。
確かにあなたの状況には同情するが、わたしは二度と力を使いたくない。だからその望みを叶えることはできないってね。
おれは納得できなかった。しかし、またも展開は思ったのと違っていた。さらなる説得を行おうとした矢先、例の二人が現れたんだ。「残りの二人」がね。
グループのリーダーいわく、やつらはずっとおれを見張ってたらしい。疑惑が晴れないからって。どんな根性だよね。っていうか、何でちょっと正義の側に立ってる感じなんだよ。
そしてついに疑惑の尻尾をつかんだらしいと判断した彼らは、ここに来て姿を現したというわけだ。
おれはパニックになり、また同時に興奮もしていた。
これはチャンスだったからだ。
ここで彼女にやつらを殺してもらえば、すべては円満に解決する。おれは平穏を取り戻し、彼らはしかるべき罰を受け、彼女は人間として暮らせる。
だからおれは頼んだ。もう一度だけ、おれの血を飲んでくれと。そうすれば約束は守ろうと、そう言ったんだ。
しかし彼女はまたも拒絶した。もう絶対にあんなことはしたくないと、おれの要求を断りやがったんだ。
「残った二人」は、秘密を問いただそうと近づいてくる。彼女は何度言っても聞き入れようとしない。
その理不尽に我慢できなくなったおれは、気がつけば彼女を殴りつけていた。その拳の中に感じた、硬い感触。彼女がくれたロザリオだった。
彼女が言うとおり、効果は抜群だった。まあ女の子を全力で殴れば、たいていはそうなるのかもしれないけど。地面に這いつくばった彼女に、おれはさらなる攻撃を加えた。立ち上がろうとしたところをもう一度殴り、蹴りつけ、何度も踏んだ。その途中、不意に手のひらに痛みを感じた。力を込めすぎたのか、安物のロザリオは握り壊してしまい、その破片が手に食い込んでたんだ。
突き破った皮膚から流れ出る赤い液体。おれが持っている、唯一の武器。おれは割れたロザリオの先端でその傷を広げると、それを彼女の口に押し付けた。
……けど、必死のお願いもそこまでだった。
力づくで止められたからさ。そう、例の残った二人にね。
急に訳のわからないことを叫んだと思ったら、いきなり女の子をぼこぼこにし出した。傍目には、そうとしか映らなかったみたい。
でも違うんだ。理由はちゃんとある。彼女の傷の治りが遅いのも、ロザリオを手にしながら殴ったからだ。
な? 今度こそ信じてくれるだろ?
おれが訳もなく暴力を振るうわけないんだよ。あいつらじゃないんだからさ。少なくともこの町には吸血鬼っていう存在がいて、今も普通の顔して暮らしてるんだ。
な? 調べてくれよ。それともあれか、あんたも吸血鬼なのか?