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ななつめのはじまり (涼子とのはじまりと終わり)


 タクシーは涼子ちゃんの誘導に導かれ、涼子ちゃんのアパートの前で止まった。

 僕は財布を取り出そうとするが、涼子ちゃんに制され、仕方なく車外へ出た。


「へぇ。なかなかおしゃれなアパートだね」


 そう言うのが精一杯だった。涼子ちゃんはあれから泣き出したままで腕を放してくれそうにない。いったい何を考えているのか、涼子ちゃんの顔はうつむいたままで、表情から考えを読むことはできなかった。


 玄関のオートロックを手馴れた手つきで操作すると、扉が開いて『おかえり』とばかりに、僕と涼子ちゃんを出迎えた。涼子ちゃんは当然のように僕の腕を掴んで中に入ろうとする。


 ま、まずい。これはあまり倫理上よろしくない。正志が片思い中の女の子とキスをしただけでもよろしくないのに、その日のうちに家へお邪魔するなんて、よろしくないことこの上ない。


「涼子ちゃん、さすがにお家にお邪魔するのはよろしくないよ…」


 僕はその場に立ち止まり、徹底抗戦の構えをとった。いち男子として女の子にお持ち帰りされるわけにはいかない。どちらかと言えばお持ち帰りしたい性癖だ。いや、今はそんなことどうでもいい。


 涼子ちゃんは涙でつまったのだろう。鼻をさすりながら言った。


「服、汚れてるし、私が汚しちゃったから。洗濯機貸してあげる」

「いや、いいよ。もう遅いし」

「ううん。終電もないし、始発まで泊まっていって」

「いやいや、どこかの漫画喫茶で時間つぶすから大丈夫」

「ううん。三谷くん、汗臭いし、シャワーも浴びたほうがいい」

「いやいやいや、今は漫画喫茶でもシャワー浴びれるから」

「タオルとか持ってないでしょ? お風呂も貸してあげるから」

「いやいやいやいや」


 涼子ちゃんは巧みに僕のガードを解こうと腕を放さず、家を招きいれようとする。こんなことが正志にばれたらもう合わす顔がない。


「さすがにさ、まずいでしょ」

「うっく、ひっく……」


 涼子ちゃんがまた激しく泣き出した。

 アパートのオートロックの扉が閉じようとしては、僕らを感知してまた開く、という動作を繰り返していた。まるで『何してんだよ女が誘ってんだから早く入れよ』と、僕に言っているようだ。


「別に変なことしません。お願いだから、一緒にいてください」


 泣きながらこんな台詞を言われたら、もう武装解除するしかなかった。僕はうなずいてなすがまま、涼子ちゃんのアパートの中に持ち帰られた。






 シャワーを浴びてリビングに戻ると、涼子ちゃんがお茶を用意してくれていた。


「それ、お父さんが泊まる時用のパジャマなの。サイズが合っていて良かった」

「うん。何から何までありがとう」

「三谷くんの服、乾燥機もあるからあともう少しすれば乾くと思う」

「なんか、悪いね。本当にありがとう」


 涼子ちゃんの部屋は一人暮らしには勿体ないほどの1LDKだった。フロトイレ別々で、独立洗面台まである。この設備で場所がら考えると、家賃は僕の家の倍はあるんじゃないだろうか。

 物欲しげな様子で部屋を見渡していた僕に気がついたのか、涼子ちゃんが言った。


「実家のお父さんがね、家賃出してくれるの。生活費とかは自分で稼げって言われてるから、バイトしてるけど」

「へぇ」


 羨ましい話だ。こちとら実家からの仕送りはたまに届く野菜や果物のみだ。いや、それはそれでありがたいけどさ。


「三谷くんのモトカノさん、結構派手な人だったんだね」

「あ、さっきの人は美和…、モトカノじゃないんだよ」


 僕は慌ててマリアのことを説明した。途端に涼子ちゃんの顔が曇りだした。


「そ、そんな。私てっきり…。ああ、どうしよう。私すごい失礼なこと言っちゃった」

「あはは…。ごめんね。もっと早く言うべきだったのに。僕のほうから誤解だって伝えておくよ」

「うん…。迷惑かけるけど、お願いしてもいいかな」

「もちろん」


 沈黙が二人を包んだ。

 涼子ちゃんは沈黙の中「えっと…」「うんと…」などと呟いているが、あいにく僕もなんて場を盛り上げたらいいのか名案が思いつかない。


「じつはね…」


 涼子ちゃんが思いつめたように話を切り出した。


「ひとめぼれ、だったんだ」


 ひとめぼれ?


「三谷くんの顔見た時、なんかビビってきたの」


 どくんと僕の鼓動が早くなる。ひとめぼれ、かぁ。お米の名前にもなったようね。でもやっぱり魚沼産コシヒカリが圧倒的に美味しいよね、お米は炊きたてをラップで冷凍すると、長期保存も出来て解凍しても美味しくて便利だよね、なんてどうでもいい考えへ逃避したくなるが、その全てを無理やり打ち消して、僕は涼子ちゃんへ向き直った。


「だから、あんな、キス、とかしたの?」

「うん…」


 涼子ちゃんは耳まで真っ赤にして、慌てて言った。


「誰にでもあんなことしないよ。三谷くん、だったから…」


 困った。これは困った。正志の笑顔が頭をよぎる。『俺のことは合コンの神様と呼んでくれ』と、おちゃらけた笑顔が眩しい。神様、効果的すぎます。あなたの仕組んだ合コン、パーフェクトだったと思います。ただ、相手がよろしくありません。


「彼女と別れたばっかりで、こんなこと言うのは厚かましいと思うんだけど」


 涼子ちゃんがじっと僕を見つめた。メガネごしに隠れた濡れた瞳がセクシーだ。こ、これがよく言う肉食系女子なのか、なんて積極的なんだ。


「三谷くんと私、付き合ってみるとか、どうかな…」


 決定的なセリフを涼子ちゃんは切り出した。


 もう選択肢はイエス、そのままもう一度チュウ、そのままベッドへゴー。あるいはノー、据え膳も食べられない最低な男の出来上がり。どちらしかないじゃないか。


「えっと、気持ちはすごく嬉しい」


 僕はなるべく彼女を傷つけない台詞を探しながら言葉を紡いだ。


「でも、今はちょっと、そういうのは考えられないんだ」


 ちらっと涼子ちゃんの様子を伺う。じっと濡れた瞳がメガネごしに僕を見つめている。慌てて目をそらした。


「正志くんのことがあるから? 私、正志くんとは付き合ってないよ。全然タイプじゃないから」


 ああ、正志よ。今ここにお前がいなくて良かった。もう海へ連れていってあげるしかなくなる。


「それはない、といったら嘘になるけど」


 僕は涼子ちゃんを直視できないまま言った。


「今は、初めての失恋で、次の恋とか、女の子と付き合うとか、そういうのは考えられないんだ。もちろん涼子ちゃんの気持ちは嬉しいし、ありがたいなって思う」


 遠くでピーピーと乾燥機が終了した音が聞こえる。


「だから、ごめん」

「忘れさせてあげる」


 いつの間にか涼子ちゃんが手の届く場所に来ていた。顔を上げるともう涼子ちゃんの顔が目前。慌てて目線を下げると、いくじなしの僕を誘うように胸元がのぞいている。


「前の彼女のことも、忘れさせるてあげるから」


 涼子ちゃんはそっと僕の頭に手を伸ばし、自らのふくよかな胸に押し付けるように抱きしめた。

 瞬間、僕の野生が目を覚まし、この柔らかく細い体を抱きしめたい、肉欲のままに味わってしまいたい、という衝動が走った。そして同時に正志の笑顔も浮かぶ。いつも心配してくれて側にいる親友の笑顔が。


 そっと涼子ちゃんの肩に手をのばし、ゆっくりと距離を遠ざけた。


「ダメだよ。そんな簡単に男に体許しちゃうなんて」


 僕は涼子ちゃんの手を振り払い立ち上がった。


「気持ちは嬉しい。だけど、その気にはなれない。ごめん」


 ゆっくり乾燥機のあるダイニングへ向かった。乾燥機を開けて綺麗になった僕の服を取り出す。お父さんのパジャマを脱いでまだ少し湿っぽく温かい自分の服へ袖を通した。


 涼子ちゃんは先ほどの場所でうつむいて、僕に声をかけようとしなかった。


「洗濯、それからお茶とか、色々ありがと。…さよなら」


 うつむいた涼子ちゃんに背を向け僕はアパートを出た。彼女への罪悪感と、正志への義理を守った誇らしげな気持ちと、彼女を抱きたかった僕の野生などが入り混じり、もう頭の中はぐちゃぐちゃだった。



 扉を開けて外に出た僕を早朝の匂いが包んだ。空は少しほんのりと明るく、いつの間にか夜は明けていた。



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