とおつめのはじまり (マリアとの朝)
中学・高校の登下校の道はいつも美和と一緒だった。お互いテニス部だったし帰る時間は同じ。おまけに学校公認のカップルということもあって、誰も僕たちの間に割り込んでこようとはしなかった。
『明日も晴れそうだよね』
美和がそういって夕焼けを見て言った。眩しそうな笑顔がたまらなく愛おしい。
その時、これは夢なんだって気がついた。
だって現実の僕は大学生になっているし、美和に別れ話を切り出されてこんな光景を見ることはないのだ。美和が何か言っているが、僕には聞こえない。夢の中で美和の笑顔は写真のように固まっていた。
ありふれたいつもの日常の風景だった。高校を卒業して、美和が専門学校へ、僕は大学へ進学した。お互いの時間のタイミングが合うことが少なくなり、いつしか心はすれ違ってしまった。
学校の帰り道。夕焼けに照らされた君を見ているのが、たまらなく好きだったよ。
ゆっくり、美和も、周りの景色も闇につつまれていく。夢が終わるのを感じた。できることならこのまま目が覚めなければいいのに。ずっと君がいた記憶の中で生きて行ければいいのに。涙がいつの間にか溢れ出していた。
「泣き虫ね。こいつめ」
マリアが僕の頬をつねり、夢の中に現実がフレームインしてきた。
ゆっくりと横を向くと、マリアが子供を見つめるような優しい微笑みをたたえていた。
マリア、聖母のようなそのたたずまい。何もかもが美しく完璧だった。
「美和ちゃんとの夢、見てたの?」
背筋がひんやりと冷たくなるのを感じた。この聖母は他人の夢も見ることができるのか。
「うわごと言ってたよ。美和、みわぁーーって」
マリアはベッドにうつぶせに寝転がっている。シーツは背中までしかかかっておらず、滑らかな肩のラインがたまらなくセクシーだ。
「失礼ちゃうわよね。こんないい女を抱いた後に、他の女の夢を見るなんて」
マリアが頬を膨らませて抗議してきた。
僕は頬の涙をすくってマリアに詫びた。
「ごめんなさい。なんか、昔の夢みちゃって」
「ダメ。許さない。罰として雄介くんにはジェラートでも奢ってもらうから」
マリアはベッドから一糸まとわぬ姿で飛び降りた。モデム並のスタイルがそこにあった。誘うようなヒップラインがまぶしい。
「先にシャワーいってくるね。その後、また出かけましょ」
シャワー室へ消えていったマリアを見送り、僕も自らの着替えを探した。廊下やテーブルに散らばったその様子は、僕とマリアの激しい情事を物語っていた。
僕はやけに冷静だった。俗に言う賢者モードなのか、マリアという素晴らしい女性を抱いた、という男としての満足感なのか。ホテルに入ってからその後をゆっくり思い返してみる。美和とは味わったことのない激しいセックスだった。ただひとつ足りないものがあるとすれば、お互いを愛おしく気持ちだろうか。
いや、僕はマリアに美和に感じたことのない感情を抱き始めていた。それは言葉に表せないほど複雑な感情で、僕の頭からつま先までを行ったり来たり繰り返していた。
シャワー室からマリアが出てくる。その美しい体にバスタオルが巻かれていて、僕は少しがっかりする。
「はい。雄介くんも浴びておいで」
そういうマリアの体を抱いて、僕は黙って口づけを交わす。
「なぁに? 一度抱いたら積極的になるのね」
マリアは挑戦的に笑みを浮かべ、なおも唇を貪ろうとする僕の顔にタオルを押し付けてきた。
「はい。おしまい。続きはまた今度」
「……はい」
僕は仕方なくシャワーを浴びた。あぁ、僕はなんてゲンキンな男なんだ。夢で美和との淡い思い出を見るくせに、マリアという目の前の対象に欲情してしまうなんて。
シャワーを浴びて外に出ると、もうマリアは服を着込み、目元のメイクを直していた。時刻を見るともう午後4時だ。今日の授業を完全にすっぽかしてしまった。
「17時からお店なの。雄介くんも着替えて。私、出勤前にどうしてもアイスが食べたい気分なの。ほらほら急いだ」
マリアに急かされて支度を済ます。携帯を見ると「一応代返しておいたぜ」と、正志からメールが入っていた。持つべきものは親友だな。正志よ、ありがとう。
マリアお目当てのジェラート店は新宿マルイの地下にあった。マリアはストロベリーとブルーベリーのダブルを注文し、
「お会計は雄介くんね。私以外の女を夢で見た罰」
と、それほど怒った様子もなく微笑んで言った。
僕はチョコレートを注文し、マリアとベンチに座った。店内は女子高生や主婦で溢れており、背広姿のサラリーマンなんかも見受けられる。なかなかの人気店のようだった。
「雄介くん。わりと良かったよ。私、本気になっちゃったかも」
「な、なにがですか」
「分かってるくせに」
マリアはストロベリーをスプーンでしゃくると、「あーん」と言って僕に突き出した。少々周りの目を気にしながらも、僕はそのスプーンを口にくわえる。甘いイチゴの果汁が口の中に広がった。
「おいしい」
「でしょ? ここのストロベリーは私のお気に入りなの」
「あの、マリアさん」
「なぁに?」
僕はひとつ咳払いをして尋ねた。
「せっかく、その、一線を越えたというか、一夜をともにしたんで、そろそろ本名くらい教えて欲しいなー、なんて」
マリアはそっぽを向いてジェラートを口に運んでいる。
「べ、別に名前なんてどうでもいいですよね。あはは…。すみません」
気を悪くしたのかと思い、思わずマリアから目を逸らした。
「ほれ。食べたまえ青年」
今度はブルーベリーのジェラートがのったスプーンを突きつけられた。
「はい。いただきます」
ぱくっとスプーンにくらいつく。ブルーベリーの酸味が心地よく口中に広がる。
「一度ヤったくらいで彼氏面しない、雄介くんの謙虚なとこ、私、嫌いじゃないな」
マリアは僕のチョコレートも勝手にすくい取り「おいちー」と甘えた声を出した。
「いいじゃない。名前なんてただの記号よ。それに、一度寝たくらいで教えてもらえるなんて思わないことね。考えが甘い。このチョコレートより甘い」
マリアは一人納得したように頷いた。僕もそれ以上追及するのを諦めた。
「この後、仕事なんですよね」
「そうよ。深夜までシフト。意外と働きものなのよ」
「マリアさんの仕事してるとこ、見てみたい気もしますね」
マリアは首を横に振り僕の淡い期待を打ち消す。
「同伴出勤なんかしたら、1時間焼酎飲むセットだけで3万はかかるわよ。もっと大人になってからいらっしゃい」
「大人になるまで待ってくれるんですか?」
「待たないわよ」
「そんなひどい」
「私だっていつまでもキャバ嬢やってるわけじゃないの。ちゃんと目的を達成したら辞めるわよ」
「目的って何ですか?」
マリアは少しすねたように上目遣いで僕を見た。
「キャバ嬢が一番嫌う、お客からの質問はなんでしょう?」
「えっ、いや、行ったことないんで分かりません」
マリアは意地汚そうなおっさんの真似をしながら言った。
「ねぇ、君みたいなかわいい子がぁ、なぁんでこの仕事してるのぉ」
マリアは真似をやめていつもの口調に戻った。
「いちいち理由なんか説明したくないっての。あ、別に雄介くんを責めてる訳じゃないのよ。ただ、キャバクラ行くようになっても、働いている理由は聞かないほうがいいかもね」
そう言った後、マリアは食べる手を止め、ぽつりと呟いた。
「それに、私の場合は特殊だしね…」
なぜだろう。その小さく呟いた言葉がやけに引っかかった。
後になって思えば、それはマリアからのサインだったのかもしれない。いつも女性からのサインは独特で、我々男性陣は読み取ることが困難だ。
ジェラートを食べ終え、3丁目の入り口でマリアと別れた。
「これ以上お店の側に行くと、お客さんに見られちゃうかもしれないから。ここでお別れしましょ」
「はい。また電話ください」
「うん。授業サボらせちゃってごめんね。さよなら」
マリアが何気なく言った「さよなら」という言葉が、不思議と僕の心をざわつかせた。
なぜだろう。
もう二度とマリアと会えない気がした。
「マリアさん」
「うん?」
「また会えますよね?」
「うふふ。雄介くんがそう望むなら、会えるかもね」
マリアはそう言って歌舞伎町の雑踏の中に消えていった。