ひとつめのはじまり
彼女と別れたのは9月の終わり。秋にしては残暑の残る蒸し暑い一日だった。
「夏までに私たちの関係を真剣に考えて、8月が終わったら結果を話す。私たちが距離を置くべきなのか、このまま結婚すべきなのか」
彼女にそう切り出されたのは7月頃だった気がする。
僕は今考えると、多大な過ちを繰り返していた。
電話とかメールとか、彼女から別れを切り出すサインはいくつもあった。ふと寂しげな横顔や、僕の欠点をしてきする際の何かを押し殺したような顔、これからの二人の未来を話す時に見せるメールの文面。
別れを切り出すサインをいくつも見落としていた。いや、それに気づかない振りをしていたのかもしれない。
どんなことがあっても、二人はずっと一緒だと妄信していた。前世からつながっているような、まるで運命めいたものを感じていたような気がしていた。
別れた今だから言えるが、僕はそんなヒロイズムな関係に甘えていたのだ。
「甘えていた…。僕は甘えていたんだ…。本当はあの時にふたりの問題について真剣に話し合い、自分の欠点をちゃんと見直すべきだったんだ…」
僕は目の前の友人に泣きながら、嗚咽で喉をつまらせながら話していた。友人はうんざりしたような顔で僕に言った。
「それ、もう五度目。わかったからさ、もう忘れて前向きに考えちゃおうよ。女なんて星の数よ?いくら付き合いが長かったからって…」
「なにが星の数だ!彼女は特別だったんだ!中学から20歳になるまでずっと一緒だったんだ!彼女は月!いや、太陽だ!僕にとって欠けてならない存在だったんだ!それをお前は簡単に忘れろって言うけど、そんなことなんてできるわけないじゃないか!」
僕はジョッキを手に取り、すっかり泡の抜けたビールを喉に押し込んだ。勢いあまってビールは口から溢れる。
「ごほっ、ごほっ、彼女はさぁ、彼女はさぁ…」
「わかったよ。はいおしぼり」
「うん…ありがと…」
「鼻が垂れて汚いからそれも拭けよ」
「うん…」
「あ、もうそのおしぼり返さなくていいよ。お前が使え」
「うん…」
僕は改めて目の前の友人に感謝した。安いチェーン店の居酒屋の席で、彼はこうやって何時間も僕のたわごとに付き合ってくれていた。
昨日彼女から別れを切り出され、とても僕はその事実を抱えきることはできなかった。幼馴染の友人である正志を呼んで話を聞いてもらいたい一心だったのだ。
「しかし、あの美和ちゃんがねぇ。雄介と別れるなんて言い出すとはねぇ」
雄介とは僕のことだ。正志は僕の彼女、いやもう元・彼女になるのか、美和のこともよく知っている。何せ中学からの付き合いだ。僕らのイチャついている場面をいつも横で見て、内心どう思っていたのだろうか。
「高校でたらすぐ結婚するのかと思ってたんだけど、人生って分からないもんだね」
正志は煙草を一本とり火をつける。正志は高校生の頃から煙草を吸い始めて、それをいつも僕と美和がたしなめて…。
「ううっ、ぐっ、いつもお前の煙草を注意してたよなぁ…。うっうっ…」
僕は懐かしい光景を思い出し、また泣き出してしまう。正志はため息をつきながら泣き出す僕を見ているのだろう。そんな気配が伝わってくる。
「雄介…」
(ピロリーン)
突然、携帯のカメラ音が鳴り響いた。驚いて顔を上げると正志がにやにやしながら僕に携帯を向けていた。
「号泣する雄介くん、いただきましたっと」
「なんだよ!人が落ち込んでるのを楽しみやがって!」
「まぁまぁ、人に失恋はつきものだからさ。雄介もいい経験になっただろう?それにいつも、俺がフラれて落ち込んでるのをお前と美和ちゃんがからかって…」
途中まで言ってしまったと思ったのだろう。
「うっ、そうだよなぁ…。本当はお前がフラれて泣いてるのを僕と、僕と美和が、ぐすっ……」
またひとつ懐かしい光景を思い出し、僕は泣き出してしまった。正志は自分の発言が僕の涙腺を揺さぶったことをすまなく思ったのだろう。少し優しげな声色で言った。
「美和ちゃん、俺にいつも言ってたよ。さよならは終わりなんかじゃないって。さよならはいつも何かのはじまり、だって。そう慰めてくれたっけ」
正志は何かを懐かしむように虚空を見上げる。
何かのはじまり? 終わりははじまりだって?
そんなことない。美和と別れた僕のこれからなんて何も想像できない。終わりは終わりでしかないんだ。もうこの先の人生に意味もないんだ。美和が、彼女が全てで、街の景色も美しい何もかもが彼女の背景だった。
美和と過ごすことが人生の意味、そのものだったんだ。
「美和は、僕の人生そのものだ!美和との終わりは僕の人生の終わりじゃないか!」
僕は大声を出して机を叩く。枝豆の殻が小さく跳ねる。
「おいおい。落ち着けって、わかってるよ…。だからそんな大声出すなって」
正志は慌てて僕を制する。気づかない間に僕は立ち上がって枝豆を投げていた。
「どうせ、お前も内心笑ってるんだ! 僕の人生の終わりを笑ってるんだ!」
ふいに強い力が後ろから首にかかった。
「あっ…」
目の前の正志が青ざめた表情を浮かべている。子犬のような弱々しい表情で僕の後ろを見つめている。
なんだ。そのチワワみたいなきゅーんとした顔はなんだ。そしてこの首にかかる強い力はなんだ。僕はゆっくり後ろを振り返った。
「お兄ちゃん。随分楽しそうやね。枝豆、こっちにも飛んできたで」
そこには強面の男が数人立っていて、にやにやしながら僕を見つめていた。いや、目は、目は笑っていない。首を掴んでいた男が突然吼えた。
「ごちゃごちゃ騒がしいんじゃ!このクソガキが!」
瞬間、目の前に拳が閃いた。次の瞬間はそれが目の前にクローズアップされ、強い衝撃を顔面に受け派手に吹っ飛ばされた。席の奥まで飛ばされて皿やコップが吹き飛び、ガチャンと耳障りな音を立てる。誰かの悲鳴が遠くで聞こえた。
「す、すみません。迷惑かけたんなら謝りますから、やめてください!」
正志が僕と男たちの間に立ちはだかった。
口の中を切ったようだ。口の中で血の味が広がり、ようやく僕の左頬を襲った衝撃の痛みが湧き上がった。
「い、痛い! なんで! なにすんだ!」
「さっきから煩いわ、お前らの枝豆が飛んでくるわ、迷惑なんじゃボケが!」
男たちは正志にも殴りかかった。力なく正志は僕と同じように席の奥まで飛ばされる。
僕たちは喧嘩をするような人種じゃない。中学高校テニス部のごく平凡な人種だ。それは理不尽な暴力の前ではこうも無力なのか。僕の中でふつふつと怒りが湧き上がってきた
店員が飛んできて男たちを制した。
「お、お客様!や、やめてください!」
男たちは僕と正志を殴りつけ、満足気な表情を浮かべすんなり店員に従った。
「なぁに煩い子供のしつけじゃ。もうなんもせえへんから安心し」
僕はその男達のへらへらした表情を見て、ぷつんと何かが切れてしまった。
「上等だてめら! やってやんぞ!」
僕は吼えて男たちに飛び掛った。拳と蹴りを叩き込んだと思う。男たちは激昂して怒鳴り、店員はやめてくれと叫び、僕は、そう僕は、どうなったんだろう…。
気がつくとゴミ捨て場に寝ていた。全身がなんだか火傷したように熱く痛い。がんがんと何かが頭で鳴っているように傷む。なんだ。どうなったんだ。
「うっ…」
体を起こすと背中から右肩まで衝撃が走った。僕は居酒屋で喧嘩になって、それからどうなったんだ…?
何度周りを見渡してもビルのゴミ捨て場だ。正志は? 正志はどうした? 正志の姿もない。
この全身の傷み、喧嘩に、負けたんだろうか。
「見事な負けっぷり、ださいね」
ふいに誰かがそう言って。僕にペットボトルの水を差し出した。
僕はそれを受け取ろうとするが傷みのあまり手が上がらない。
それどころかペットボトルまでの距離感が掴めない。視界の左側が霞んでいる。誰かがそこにいるのだが、よくわからない。
「ほれほれ、飲みたまえ青年」
声は女性だ。その女性は僕の口に乱暴にペットボトルを押し込んだ。口の中に液体が流れこみ、僕は飲み込むと同時に咽てしまった。
ごほごほっと席をしながら僕は左前の女性を見上げた。鼻に香水と化粧の匂いがゴミの匂いとまじって何とも言えない香りだ。
「す、すいません」
「よいよい」
それは若い女性だった。僕より少し年上くらいだろうか? キャバクラ嬢の着るようなスパンコールドレスと、首までしかないボーイッシュな短髪。すらっとした細い腕が僕の背中を支えている。路地裏の街頭に照らされて、その全てが輝いて見えた。
「ようやく出会えたね。青年」
「…は?」
「何かのはじまりに」
彼女はそう言って笑った。僕は状況もわからず、ただ唖然としながら、その笑顔を馬鹿みたいに見つめていた。
それが僕とマリアの出会いで、そして、ひとつめの何かのはじまりだった。