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祈りと怪物

掲載日:2026/04/04

物心ついた時の記憶がはっきりとある。すりガラス越しのような靄がしだいに鮮明になって、一度まぶたを閉じたんだ。次に見るものが忘れないものだと解っていたみたいに。ひらけた視界、こっちを見ている目玉は白い部分がところどころ少し黄ばんでいて、ああそうだ、この人は俺を取り上げた婆さんなんだった。


「身を八つ裂かれる苦しみの、あとに残るはしゃれこうべ」

婆さんがわらべ唄をうたっている。このうたは記憶のあちこちで聞いたもので、この最後には、覚えときんさいよ、と言われたようにも思う。

それから婆さんは、俺をジィっと見て、いつも目を逸らす。気を紛らわすみたいに。あとにして思えば、あれは俺を取り上げた時の癖なんだろう。なんてことはない、俺は死ぬべき子供だったのだ。


身体は肉を食べて大きくなった。卑しい心は誰かのこころを食べて大きくなった。身体が拡がっていくスピードに、俺はもう歩けなくなった。それでも拡がる肉体は、食べ物がなくて猫とネズミが喧嘩するアメリカのアニメのチーズのように穴だらけだった。薄闇に親しむのは心地がよくて、浅ましく大きくなった心は空虚に育っていく。

心はその穴に差し込むのにちょうどいい。

いたずらに身を裂く苦しみと心を千切ったはてに、なにがあるのか、当時の俺が知ったらなんと言うだろう。


「ぼん、ちょっとこっち」

食べ終わったスイカのヘタを捨てて縁側に上がったのを見計らうように婆さんは俺を手招きした。

「これからあるところへあなたを連れて行きます。いいですか、どんな珍しいもんがあったとても振り返ってはいけませんよ」

朝に降った雨の名残りが剥き出しの二の腕やらにべたりと纏わり付く。うんざりした心持ちだった。夏なんて扇風機の前か、それが無理ならばうちわ片手に風鈴の音でも楽しんでいればいいのに。まつげに絡まった汗を拭う。痩せた猫が干からびた水桶の底を一心に舐めている。灼かれるような日射しが容赦なくふって、気まぐれに通過したディーゼル車の黒煙をより暗くさせる。通り過ぎる時に、気づかれないよう息を強く吸い込む。この有害のにおいが俺は好きだった。大人になるというのは、排気ガスとともにあることだから。


連れられて来たのは村はずれにある小さな神社だった。年に一回詣るか程度の俺にだって異様なのはひと目で解った。泥棒が頻繁にあるために新しくされた賽銭箱の白木と、他のものの色合いのちぐはぐさも確かに目についたけれど、そんなことよりももっと、心臓が跳ね上がるほどの気味悪さを放つものがあった。

境内の一番大きな木に大人の男ほどの大きさの藁人形が吊り下げられていたのだ。

「殴りんさい」

俺に投げられた声は、音もその形も知らない人のそれだった。目を離せずにいる俺に振り向いた婆さんの表情は読めなかった。無理に読み取るならば、必死に涙を堪えているように見えたけど、本当にどうだったのかは解らない。婆さんの口が動く。感情のない音がする。じきにまたするのだろうと思った。目を細めて手をやると、藁人形にしては重量感のある手応えがした。

「そん人形には全部に米が詰めとる、頭も、手足、腹ん中も全部。全部の箇所から米が出てきょるまで殴りんさい」

暑さにゆらいだ熊蝉の鳴き声が、耳骨をなぞって蝸牛の中まで押し入ってくるようだった。米の詰まった藁人形は殴るたびちょうどサンドバッグのように枝を軋ませて揺れた。何度か殴りつけている内に、このままでは日が暮れると思った俺はぶら下がっている木の幹に人形を押し付けて殴った。拳が擦り切れたら手頃な石を掴んで、何度も何度も殴りつけた。喧嘩で人を殴ったことは中学の時にあったけれど、それとはまた違う感触をしていた。

「あとに残るはしゃれこうべ、もう解んろ?だから最後に頭なんよ」

軽薄な声がかかって、それを発したのが婆さんだと認めたくなくて、俺は必死に頭部を、石の尖ったところで抉るように手を動かした。

蝉の声はもうびっちりと鼓膜へばりついてしまって酸で焼くでもしない限り二度と取れないような気がした。


濡れた水桶を二つ抱えて井戸へ向かった。古い手押しポンプを動かすと、空気が水をかき混ぜる音と、重い金属の擦れる音がした。5回半で水桶に8割の水が入るから、そのまま桶を入れ替えてまた5回半。簡単な作業だが力はいるから、影になっているとはいえ炎天下の熱気に包まれれば嫌でも汗は浮かんだ。

桶を両手に持って後ずさると、待っていた人がすっと足早に井戸へ向かった。今のように混み合う時期になると、どうしても人を待たせてしまう。大荷物の俺を心配してか、こちらを見ていた色白の少女が俺に気づくと眉を下げると薄く笑いかけた。

「暑いでしょ、これ、ハンカチ濡らしておいたから」

「婆さん、暑いだろうな」

「そうね、だからばあさまの喉が乾かないように、きっちりと水掛けてあげなさい」

無縁仏へ参る時になんとなく目線を上にすると、線香があげる白煙が入道雲へ溶けていくところだった。一番高い位置に建てられた一等兵の文字と五芒星が彫られた縦長の石にはクーデターを起こした人の名前が入れられており、その犯人が一等兵だったかと考えて少ししてから同姓同名かと気がついた。茹だった頭はろくな思考をせず昔日の兵士の後ろ、旧墓地のある方角へ腰の折れて小さくなった老婆がささやかな量の花を手に登っていくのが見えた。


今日は村で行われる盆踊りがあるらしく、窓からはいつもより慌ただしい人々が見えた。その忙しなさに流されるようにあっという間に夕暮れの時刻が訪れ、まだ薄青い空にはややズレた祭囃子が櫓の高い風に運ばれて四方へと飛んでいく。

熱気を纏う風が吹けばとうもろこし、フランクフルト、焼鳥、それから綿あめのかすかな甘さと炭の焼ける特有のにおいに唾液が湧いてきて思わずのみこんだそれは唾液腺を刺激するだけだった。

師範の資格を持つ叔母の鳴らす篠笛の音が落ちてくる。踊っている人達を尻目に目当ての屋台を探し歩いた。これこそ祭りの楽しみだなあとしみじみ思う。見ているだけで満腹になりそうだったが、それではもったいないので店に並んだ。特徴的な鉄板の上で、たこ焼きがくるくると焼き上がっていくのは目にも楽しい。

「はいよ、150円ね」

「有難うございます」

容器の入ったビニール袋は、持ち手の部分までほかほかとあたたかくて、粉末状の鰹節はなんとも言えず食欲をそそり提げた形でも歩くたびに揺れて薫ったそれが鼻孔をさした。熱いうちに食べようと袋から出そうとした時、誰かが倒れるのが端のほうで見えた。急いで倒れた肩を支えるとその人は、大丈夫ですすみません、とこぼした。

「うち、身体弱いから貧血気味にでもなったんかな」

情けなさそうに笑う声がかなしくて、あまり強く触らないようにしながら身体を起こすと、そのまま近くの石段に腰掛けさせた。

「すみません、俺なんかが助けちゃって……他にも女の人とか、たくさんいたのに」

「なんや、そんなこと気にしとらんのに!」

弾かれるようにこちらを向いて笑った顔に、俺は見覚えがあった。

「あの……あなたとどこかで会った気がするんですけど、俺に見覚えとかってありますか?」

「なんや、結局ナンパしよるんやったらさっきのセリフ台無しやっち」

彼女は面白そうに薄く笑っていて、俺はやっと思い出していた。ああこの人は、墓参りの時、俺に笑いかけた人だ、と。


「うちいちご飴買いたい」

その言葉に従ってそこそこの列が出来た店に並んだ。彼女が着ている紺地に紫陽花の柄が白抜きされた浴衣を見ていると、視線に勘付いたらしい彼女は少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。

「綺麗じゃろ?おばあちゃんから貰った浴衣なんよ、空襲で焼けてまわんように防空壕の中に更に穴掘ってに埋めとったんやって」

「そうなんだ、着れてよかったね」

ぎこちない返事の俺を見かねたように列はどんどん捌けて、彼女の番がやってきた。彼女はがま口の小銭入れから代金を支払うと、受け取った飴を俺に向けて自慢げに笑うと美味しそうに一口齧った。

口の回りがべたつくくらい食べ進めた時、不意に声がした。

「おい藍原!お前の母ちゃん呼んでるぞ」

同い年くらいの背の高い男は彼女を藍原と呼んだ。彼女がいちご飴を地面に落としてしまって、ああこの子の名字かと思い至るまで少し時間が掛かった。

「ごめんな、うち時々指先から力抜けてまうんよ……君は気にせんで。呼ばれとるみたいやから、行ってくる」

藍原さんの落としたものに群がった蟻が、溶けた飴に足を取られ無様に蠢き続けるのを俺はじっと見ていた。


婆さんの49日が終わる前に、俺の夏休みが明けた。学校に行く気は相変わらずなかったけれど、思いつきで着た学ランが少し短くなっているのがちょっと嬉しくて、外に出ることにした。母さんは、まだまだ暑いんだから水くらい持っていきなさいよ、と笑っていた。

歩いているうちに、かすかに波音がするのが解った。音の鳴っている方角へ足を進めると、次第に潮風が独特な肌触りとともに鼻腔をくすぐった。


藍原さん……?と俺が声をかけると、こちらを向いた目が丸く開かれた。

「なんなん?きみもひとり?」

少女はこちらを覗き込むと落ちてきた前髪を鬱陶しそうに耳へかけた。

頷いてみせると、怪訝そうだった顔を一変させて明るく笑った。

「学校は?もしかして行ってないん?」

曖昧に返事をにごす俺を尻目に、じゃあ一緒だ、とまた笑うのだった。

「そんなら毎日ここ来てえよ。毎日やなくても、出来るだけ。うち、すぐに忘れっちから、そん度にきみのこと教えてもらえたらいいなあて」

なんのことか解らないまま突っ立っている俺を強く見てから自分の隣を叩いた。それがどうしてかは解らないけど、あの日の俺には不愉快だった。だから従うのも癪で鞄ひとつ分の距離を開けて座った。藍原さんは俺と同い年で、やっぱり学校には行っていなかった。彼女は病気のせいで一日経てばその日のことをほどんど忘れるのだといっていた。だからか、と俺はひとり思っていた。

海で話すようになってもう2週間が経った。俺たちはいつものように半壊した海の家の、一番ちょうどいい柱に腰掛けた。他愛もない話を30分ほどして、ふと沈黙が訪れた。穏やかに打ち寄せる波の音が優しい。遠くで汽笛の音が響いている。身体を動かした時に、どちらともなく手が触れ合って俺は思わず大げさなくらいに肩をすくめた。

「ご、ごめん藍原さん……その、嫌とかじゃなくて」

「なんなそれ、別にかまわんのに」

まあでもそんな言うんやったら、考えあるんよ。

藍原さんが見たことのない表情で笑った。

「ここ触ってみて。うちのここもう半分くらいしか感覚残っとらんの。なんのこつかもわからんような病気やっち、先生が言うとった。忘れよるのもそう。脳がちょっとずつ壊されよる病気なんやって。なあ触って。ほんとは指も足も、他んとこもわからんようになっとるけど、ここがまだ一番わかるとこなんよ」

藍原さんが俺の手を持ち上げようと動いて、身じろぎをしてからそっと動かした。視界には強い眼差しがあってその視線に射られる獣を俺は連想する。指の腹がなめらかな頬をなぞって唇へ落ち着いた。端のほうが少し荒れていて、他の部分との感触の対比が鮮やかだ。指が沈んでいく柔らかさの奥には確かな弾力があって、全力で走った後とはまた違う心臓の異様な跳ね方と熱を持ち始めた顔をさとられないためになるべく彼女の口元を見ないようにした。

その次に、ぬるく濡れた感触が指先に触れた。その違和感に肩を震わせると、藍原さんは逃げようとする俺の手をやわく掴んだ。ささやかな力とは裏腹に懇願されているのを感じてしまって、こわばっていた腕から力を抜いた。ゆるく開かれた口の中、白い歯、その奥に、赤くぬらつく舌は俺を離さなかった。

指紋の溝を埋めるように舌が細やかに滑る。全体で包まれるといくつもの味蕾のこまやかな凹凸が削り取るような感覚を生んで、背筋を痺れさせていく。気づかないうちに隙間のあいた口から声にならない音があとからあとからこぼれて、ああ俺は多分この暑さに当てられてどこか馬鹿になってしまったんだ。

「きみのこと全部は覚えておけんけど、指のひとつならいけるかなあ」

滲むような微笑みに手を引かれ、付け根まで迎え入れられた口内は温かかった。喉を軽く突いてしまいそうなほど深く咥えられて、苦しさなのだろう、彼女の目は潤んでいた。それをみとめた瞬間、一気に喉が乾いていくのを感じた。俺の、というよりは本能から呼び起こされる加虐心めいた衝動を抑えようと小さく頭を振った。壁にぶつかると指が湿って、感覚が鈍くなった気がするのは、もしかするとふやけてしまったからだろうか。上顎はざらざらとしていて、あぁ藍原さんも俺と同じように出来た人間なんだと思考が別の方向に行こうとする。

内頬の肉は唇よりも抵抗が少なくてこんな感触もあるんだなとどこか上の空な俺を責めるようにずっと熱い舌がもぞ、と絡んだ。緊張と興奮で焼き尽くされて胃は空っぽなのに吐いてしまいそうだった。

藍原さんの顔が像を結べないほど近い。こんなにも欲を煽る姿なのに彼女からは鈴蘭のような軽く爽やかで水っぽい匂いがしていて、ああ、気が、狂いそう。

すうっと頭を抱えた掌から指先にかけてが明らかに色を持った動きだから彼女が誘おうとしているのが明確に解ってしまって、さっきから勃起していたそこが嫌でも充血する感覚がした。熱っぽく水分量と粘度の多い涙に瞳を沈めた目でこちらを見る藍原さんがなにをしようとしているのか、直感的に解った時には俺は彼女の両肩を押していた。あの日俺に声をかけてくれた女の子は、想像よりもずっと薄い肩をしていた。

「藍原さん、違うんだ、俺は……だめだって、これ以上は」

「なんで?うちのこと嫌い?」

「そうじゃなくて、その、俺じゃだめだよ……」

「うちはきみがいい……またきみのこと忘れるんやったら特別なことも一緒に忘れたい」

瞳がぎらりとこちらを眺めながら薄く細められる。楽しいのだろう。俺は彼女のための玩具なのだけど、その玩具の分際でこんなにも喜んでしまうことを罪深く思う。やわらい両手が俺の頬を包む。今日何回目なのかもう解らないけれど、これ以上どう熱くなるんだというほど熱い顔にまだ熱が集まるのが解った。

頷きたくない。頷きたくないのだけど頷いてしまいたい。もっと近づきたい。潮風に晒された髪の匂いに触れて、肌を埋めて、肺の底まで満たすほど余すことなく暴いてしまいたい。喉を鳴らし、無様なほどに欲情しながらも葛藤を繰り返している俺のすぐ横に大きな音を立てて空から降ってきたものがあった。

落ちてきたのは鳥だった。生きてはいたけど、そう長くは持たなそうな印象がした。探してみても目立つような傷は見当たらなくて、さっきまでのことが白昼夢のように藍原さんは心配そうに鳥を見ていたし、俺も先刻とは別の種類の胸騒ぎを覚えていた。


暦の上では秋でも、まだ夕刻は長い尾を引いていた。

俺は一人で墓地に来ていた。可愛らしい巻き尾を持った、尻尾を振らない野良犬が通り過ぎる俺には目もくれず、ゴミ捨て場を漁っている。風がざらりと吹く。重い空気にたくさんの花の甘く複雑なにおいが交じる。玉砂利のしかれた墓道を走る。石が擦れ合って笑い声をあげる。雑木林からは途切れ途切れに猿の鳴き声がする。カラスが色合いの崩れた空を飛びたっていく。

眼前に広がる廃墓地は意外なほどに整って見えた。

おそらくよその、新しい墓地から抜き取られた仏花はこの暑さで萎れ、饐えたにおいを放っている。湯呑みに入れられた水の表面には斑模様の黴が浮かんでいた。

「思いは強ければ強いほど届きやすくなる。その人が触りやすくなる。やり方なんてのは実はどうだっていい、ただ助けたいその人一人だけを思ってやりんさい」

婆さんの言葉を反芻させて、俺は湯呑みに手を伸ばした。外側ははねた土がまんべんなくついていて元は上等そうなのに手触りはざらざらとしていた。息を止めて一口で水を飲みきる。腐ったそれの纏わり付くような感覚が食道にまで残っている。花を掴むと、水と溶けた繊維のぬるついた感触が手指に張り付いて印のように糸を引いた。

茎のほうからいく自信はなかったから、花をまず口に含んだ。花びらは繊維の筋が口に残り、甘ったるい紙切れを噛んでいるような錯覚がした。花粉のくさいような、粉っぽいにおいが鼻先でひどく膨らんで舐めると細かい粒子に噎せて、いつまでも舌に残った。

欠けの目立つひびの入った墓石の前に跪いて、背を丸めて祈るような姿勢で一心不乱に花を食らい散らしていた俺は、きっと狂ってしまった邪教の信徒に見えたことだろう。

旧墓地の花をあらかた食べた俺は、新しい墓地まで降りてゴミを漁ってまた花を食べた。鼻に抜ける青臭さと腐った味が吐き気を呼び起こそうとする。きつく閉じた目から不規則に涙が溢れた。立ち上がって、ふらふらと水汲み場まで行き口を濯いで嘔吐する。当人にとっては祈りでもそれを端から見たら呪いに映ってしまうのも解る気がした。

野良犬が感情のない目で俺をじっと見てから吐瀉物を嗅いでいたけれど、すぐそれもやめて背を向けて去っていた。


波の音を聞きながら歩いた。空は軽やかな灰色で、湿気もさほど高くない今日は時折差し込む日差しに海はその水面を反射させて薄曇りの景色にはより綺麗に映えた。なんとなく悪いことをしている気がして、部屋に隠していたカッターナイフを今日は持ってきていた。このカッターは俺がはじめて自分で金を出して買った人にも自分にも向けられる武器だ。どうしてそんなものを求めたのかは解らないが、これでなにかを削り続ければ、いつか……それがどんなものかさえ解らないけれど、俺は自由になれるような、そんな気がしていた。

防波堤へ登って、細い道を歩いていると、白髪混じりの男の人が釣り糸を垂らしていた。数匹いた猫が散ったり、どっしりと構えたまま動かなかったりしていた。足音に反応した男の人が釣りざおを置いてこちらを見る。目を一瞬見張って、すぐに困ったように笑って、猫を撫でようとして失敗した。

俺は何度もこの目を見てきた。困惑の裏にはたいてい動揺と哀れみが揺れているのだ。そんなこと、選び取ったのは俺なんだから今更なにも思わないけれど。

「少年、今日は親と喧嘩でもしたのか?」

「え?」

「家にいなくてもいいのか?暑いだろ」

「それは……俺に言う前におじさんが考えたほうがいいんじゃないですか?」

防波堤の危なっかしい場所を歩いていた猫を抱き上げる動作に合わせて、生意気な台詞がこぼれた。大人しかったはずの猫が腕の中でもぞもぞと暴れた。

おじさんは苦笑いしながら首筋を掻いて、組合の刺繍のはいった帽子を被り直した。

「少年はこんなとこまでなにしにきたんだ?」

「別に……なにも」

「そうか、それなら猫でも構ってやれ。こんなとこに人なんざこねえから、こいつらまだ人には慣れてなくてな、すぐに引っ掻きやがるんだ」

そう言われたけれど猫たちはのんびりとして見えて、特に警戒しているようには見えなかった。試しに抱いていた子を下ろしてみると、俺の足元をくるりと一周回るとすとんと座り込んでしまった。おずおずと手を伸ばせば、すんすんと鼻を寄せて一旦止まっていたけれど、次に動いた時には指先を舐められていた。ざらざらとした藍原さんとは全く違う手触りが心地よかった。

「お前らにはあげられないっての。こいつにはお国の毒が溜まってるんだからな」

笑っているおじさんが釣った魚をバケツに入れながら群がった猫をいなすように撫でた。猫たちは抗議するように細い声をあげたりおじさんの背中に登ったり、バケツの縁をたしたしと叩いていた。俺から離れない猫を撫でながら、ポケットから薄く細長い金属を取り出す。興味を持ったのか尻尾がゆっくりとゆらぎだしたから、危ないよ、と小さく呟いた。

刃先を数センチ出して、掌を引っ掻いた。むず痒いような感触があるだけで、血は出なかった。猫は不思議そうに目を諌めて俺を見上げている。

野球の授業を思い出しながら肩を動かせば、それは綺麗な放物線を描きながら水面を叩いて飛沫をあげた。白い波に喘ぎながらカッターはゆらゆらと海の底へ沈んでいった。

おじさんの釣りあげた魚は結局猫に奪われていた。


仏壇に向かってからずっと心音がうるさかった。聞こえないかよりも、心臓自体が口から出てきてしまわないか心配してしまうほどだった。握りこんだ手の皮膚に骨の感触がありありとしていた。

婆さんの骨を盗むのは今日しかないと思ったのだ。49日法要は明日に迫っていた。つまり俺はぎりぎりに追い込まれてからやっと行動に移すしかない腑抜けなのだった。口にした骨は、味のしないウエハースのようだった。食感自体もよく似ていてたちまちに口の中の水分を奪うところや何故か上顎に張り付くところまで一緒だった。やっとのことで飲み込んでから少ししてから塩っぽい味が這い上がってきた。

この行いはかなしみをかなしみとして定義するためのものだった。それ以上であってはいけなかった。それなのに俺は婆さんの強さに縋ってしまった。明治の生まれで、震災も戦争も経験した強かな人だった。老いてなお気骨のある人だった。信心深い信徒でもあったが、俺が好んでいたのはそれをあまり押し付けたりしないところだった。学校に行かない俺にも以前と変わらず接してくれていた。

こうすることでなにかが変わるなんて、そんな都合のいいことがないことくらい解っていても俺にはそれしか手立てがないように思っていた。俺は弱いから、そんな俺では何度忘れても再び話しかけてくれる彼女と釣り合わないから。


藍原さんが海に現れなくなって2週間が経った時、彼女がいた場所には若く見えるが中年なのだろう女性が立っていた。

「ああ、きみが、あの子の言ってた……」

「すみません、いったいなんなんでしょうか」

「ごめんなさい、私、あの子の母の藍原礼と申します」

ぺこりと頭を下げられて、こちらも下げ返す。なんだか憔悴したような表情で、目の下には色濃いくまがあった。

「あの子が病気なのは、知ってるよね」

「……はい」

「ああ、責めたりはしないから心配しないで。……あの子ね、今起き上がれないの」

心臓が一際大きく跳ね上がる。聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない、聞きたくないのに足は根が生え固定されてしまったように動かせない。脂汗が背中を伝い落ちていくのをやけにはっきり感じていた。

「きみは新聞とか読んでる?最初は鳥が落ちてきたりだったんだけど、最近大きく取り上げられてるのよ……猫が踊っているのを見たことがある?」

言葉の意味をどうにか繋げた瞬間、俺の喉が奇妙に鳴った。見た、確かに見た、忘れようもない、あの日村はずれの神社に婆さんに連れられて行く途中、干上がった水桶へ顔を突っ込んだ姿勢で猫がするものではない、例えがたいうねうねとした四つ足の動き。どうして気が付かないふりをしていたんだろう。さっきからずっと喉がからからだった。

「あり、ます」

「そうね、そうよね……あの子ね、涎も飲み込めないの。呂律だって親なのに、ほとんど解ってあげられない。もしもあの記事の通りなら、あの子もきっと狂って死ぬんだわ」

最後の方はもう言葉というより音としても認識出来なかった。理性がそれを拒んでいた。ただ自分の発している発情期の獣のような荒い呼吸の音を他人もののように聞いていた。普段は目立たない火葬場の煙突が、黒煙を吐いてその存在を示していた。

しばらくしてからのことにはなるが、俺は2日かけて村中の家を虱潰しに見て回った。それなのに藍原という表札はどこにも見当たりはしなかった。


結局また海に来ていた。可能性を探しては殺す。醜いことに俺はもう疲れてしまった。

海に近いこの町で一生を終えるんだろう。逃げられない思い出が、音として、匂いとして、景色として息づくここで干乾びてすり減っていつか倒れていくんだと強く思った。死ぬべき時に死ねなかった罰として、最期の息をするその瞬間まで目を見開いて生きろ、と踏み付けた亡骸たちに足首を掴まれている気がした。

藍原さんはどこへ行ってしまったんだろう。目が見えないなら手を引いてあげなければ。耳が聞こえないのなら俺が掌に書いて教えよう。話せないのなら……どうしよう。祈りでは変えられないことだなんて、きっと解っていた。それでも捧げたかった。命では解決出来ないから、この心を。俺が藍原さんを強く思っていたことを。この身をすり減らし続けた行いの果てを。けれど、本当にこれは俺のほしかった自由なのだろうか。未来が今になっていく潮流は不完全な身体には速すぎてゆっくりとばらばらにされているようだ。うねる流れが俺を底へ連れて行こうとする。最暗黒に落ちてしまったら目は意味などないから、潰れてしまうに違いない。そうして俺は、見えない目に浮かべた最果てを目指して、そこでいつまでも迷い続ける。


ようやく渦から抜け出して辺りを見渡すと、なにも、何もなかった。ただ狂った猫が変な鳴き声をあげ続けていた。

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