輝ける草原
燃える夕日をみて、僕はちっとも嬉しくない。侘しさも懐かしさも何もかもどうせ作り上げられた偽物だからだ。こんな光景の裏側が、僕にははっきりと想像できる。格好の付かない醜い笑顔でこちらをちらちら伺って、美しさとはかくあるべきと堂々言うのだ。僕は本物を知っている。不出来な偽物にこうもじっと見詰められれば、嫌な汗が絶えず流れる。睨み返すのも馬鹿馬鹿しくて、非常に弱い心で立っていた。
救ってくれたのは騒がしいバスだった。その事に気が付いたのは外が徐々に赤くなり始める頃だ。さっき汗だくで乗ってきた男は、寒さからか、今では半袖のシャツからはみ出た肘を、やたらと激しく摩っている。身動ぎひとつ満足に出来ないほど混んでいるものだから、彼の周りの乗客達が怪訝な顔をする。偶然座れただけの僕が、それについて何を思うにしても無責任だ。彼からは、意識的に目を逸らす。田畑を幾つか見送って、垂れる稲穂やら刈り取られた野菜の寂しい様子を、僕は呆然と見ていた。
街に入って、田畑がビルや飲食店に変わっていく。明かりも増えて、次第に騒がしい繁華街になるだろう。車内に再び目を移すと、人が随分と減っていた。まだ、彼は寒そうに肘を抱えて、騒がしく訴えているものだから、妙に心配になってくる。運良く座れた人達が彼を見ていることに気がついた。その目からは、もうなんの害も無いはずの彼を疎ましく思う気持ちが溢れていた。土地柄か、それともただそういう時代だと言うのか、とにかく僕にはそれが耐えられなかった。僕の心には、たった一つの輝ける世界がある。
ようやく終点に辿り着いて、僕も降りなければいけなくなった。蒸しかえるような熱い空気はまだそこら中に潜んでる。顔から順に吸い付いて、身体を包んで燃やしだす。受け入れて、仕方なく歩き始める。駅は高くそびえていて、あの稲穂とは対照的だと思った。近付けば近付くほど高くなるビル群を、次第に馬鹿に出来なくなる。結局近付かないと、僕はこの聡明さに気が付かないままなのだ。しかし、どうだろう。僕たちはこれに近付いて、その結果これに支配されたから、これを聡明に見ざるを得なかっただけなのかもしれない。
そこまで辿り着いて、やはりこの反例を思い出す。それは少年時代の草原だった。あの草原はどれだけ遠く離れても決して見劣りすることがない。
遠くの方まで果てしなく広がる一面の芝生。その端には雲ひとつない青空が混ざりこんで、その境界線を曖昧にする。くるぶし程に伸びた芝生が時々僕の皮膚を撫でて擽った。石も岩も全くなくて、砂利や砂だらけの地面。所々が滑やかな斜面になっていて、そこを滑って降ることもできた。しばらく駆け回って、地面も空も分からなくなるほど疲れたら、決まって芝生の上に横たわった。それからずっと遠くの空を眺めていた。永遠の無邪気をここに納めていた。ずっと、それはもうずっと永遠の孤独だった。心地よい風に身を任せて、自分の存在もここへ溶かしてしまいたい。穏やかな輝ける少年の日々をこの草原に大切にしまっている。
輝ける草原には、僕の悩みを決して持ち込めない。思い悩むところでは無いからだ。所謂ひとつの決まり事として、ここへ出入りする時は孤独をひとつ手土産に持って行くことにしていたのだ。輝ける草原を決して穢さぬように、そのひとつの決まり事を守っている。悩み事なんかいつだって、くだらない期待やら未来やらが混じっているに決まっているのだ。そんなもののせいで、決して、あの過去の世界が汚れてはいけない。そこは僕に内包されている美の具現化でなければならないし、そうでなくなったら僕は僕を見失うだろう。
時の流れは、あの土地を美の具現化として完成せていた。十年ほど前に、急に立ち入れなくなって、それから、今は小さなスーパーマーケットになっている。愕然とした。次々に運ばれる資材の列を、僕は遠くから恨めしく見つめることしか出来なかった。スーパーマーケットの開店日には多くの人が訪れた。その中に惨めなままの僕がいる。入場口へ向かう人々の流れに逆行して、溢れ出す涙を拭きながら虚しくとぼとぼ帰った。夢と、理想の世界はあっという間に奪われていたのだ。小さな反抗として、あれ以来スーパーマーケットの敷地を踏んでは居ない。
街の発展が僕にとっての悪夢になった。悪い夢なんだと思う度に、あの草原を思い出す。しかし同時に、あの草原に強く惹かれるようにもなった。もう二度と手に入らない空間であるからこそ、余計にあの輝ける草原は美しいものになったのだ。僕はある種、あの草原を神格化している。生活の中に潜む問題を、十分に解決した折には、あの妄想の輝ける野原へ出入りするようになった。それは単なる妄想の域を超え、魂の洗練の様な意味合いを持っているのだ。
ポケットが震えて、メールの着信が一件入る。山内先輩からだ。「駅に着いたら教えてね」それから続けて「私、お洒落してきたんだよ」兎に角、何かは返信しなればいけない。話を如何に逸らそうか。「夜なのでもう眠くなってきました」と渋々送れば、「気が早いね」と返ってくる。気持ちの悪い想像などしたくない。遠く、気高いあの草原から、僕はしばらく追放された。ずっと、嫌なんだと思う。僕は誰かと居るよりも輝ける草原の一部になっていたいのだ。あの世界はもう僕を待っていない、そう思う瞬間が一秒でも苦しいのだ。
改札前には人が多く、仕事帰りのピークタイムと言った感じだった。そこにポツンと山内先輩は一人で待っている。爽快な青いワンピースは彼女の穏やかな美しさに似合っていたし、長い髪を束ねて花のように付けているのも可愛らしかった。俯いていた彼女は不意に顔を上げる。僕なんかを見付けて喜んで駆け寄ってくる。既に逃げれないことなんか分かりきっているのだけれど、いずれはこうなる運命であったと自分を強引に慰めた。
「どう?」
「どうと言うのは?」
彼女は頬を膨らませる。鈍感なんだから、と言ったようにも感じた。僕は美しいと笑いかける事もできたはずだ。しかし、それは酷く無責任な言動であると理解できない訳でもなかった。気まずさに背中を押された言葉達。僕の喉元に突っかかって息が苦しくなる。結局、僕は無責任から逃げきれないのである。
あの自由で孤独な草原は、全く責任のない世界である。しかし、そこへ通う僕自身には責任が纏わり付いている。それは結果的にあの草原へ、くだらない責任の因子を、間抜けにも持ち込んでしまっているのでは無いか、と恐ろしくなる。輝ける草原への行き方を、その在り処を忘れてしまいそうになった。
光の多い街だ。空は真っ暗で、天地はひっくり返ってしまったのだろう。進めば進むほどに人は増えて、匂いも増えた。人というのもほとんど獣のようなものだったり、匂いというのも廃棄油や饐えた食べ物の悪臭ばかりだ。深く、深く、汚れた世界に身を投じる。歩けば歩くほど無駄に自分の首が絞まっていく。いつだってその通りだ。ずっと、ずっと、過去の方にばかり救いがある。自分の足で、自分の行動で、自分の意思とは裏腹に進まざるを得なくて、進めば進むほど自分の運命を呪わざるを得ない。選択なんて有ってないようなものだ。
テーブルに着いて、彼女と向かい合う。半個室の居酒屋だった。厚い木の板が僕らの間にあって、その領地を互いに探りあっているみたいだった。互いの目を見ては、またその領地に目を移す。下から覗いては、すぐに逸らす。飲み屋でできてしまう仕事の話なんか大したことじゃないのだろうと勝手に推測していたが、あまりにもよそよそしいものだからなんだか勘繰ってしまいそうになる。「そっちのプロジェクトの進捗は?」とか「長谷部さんはどう?」とか、そういうものが右から左に流れてきて、それを自由に見送った。お冷に付く水滴のひとつが、ゆっくりと落ち始める。次第に加速して他の水滴を吸収し、肥大化する。誰もあの水滴を止められなくなるほど暴走した様に見えた。その瞬間、肥大化した水滴は一気に勢いを落として、机に染み込む。それから少し間を置いて「私の元を離れて寂しい?」と山内先輩は冗談めかして言った。
「えぇ、部内は随分がらんとしちゃって、三枝のやつも高畑部長も寂しがってました」
「そう、寂しかったんだ」
「仕事は相当やりにくくなったかもですね」
次々に料理が並べられて、僕と山内先輩の距離は更に遠くなったように感じた。湯気の向こうに山内先輩の顔が見える。遠くからでもはっきりと分かる鼻筋に、ベージュにラメのアイシャドウ、唇に塗られた艶やかなグロス。思わず目を背けてしまう。山内先輩は運ばれてくる料理を一つ一つ喜んで、箸を長く持った。餃子をひとつ、器用に挟んで持ち上げる。その様子がまるで鶴の嘴のようで、魅入ってしまった。思ったより小さな餃子を三口に分けてゆっくり食べて、それを豪快にビールで流した。僕の視線に気付いた彼女は、口元を手で隠して、照れ臭そうに微笑んだ。
「やっぱり、言って置かなきゃいけないことがあって」と、切り出したのは僕だった。山内先輩が幸せそうなのがとても見ていて辛かったのだ。彼女は箸を置いて、手を机の下に隠す。それから、真剣な顔をして、「はい」と頷いた。
「僕、ノンセクシャルなんです。人に恋愛できないんですよ。悩んでいて、いや、悩んでいる訳ではないんですけど、とにかく女性との恋愛はできなくて、いやその男性とも当然なくって、なんでしょうね。僕何が言いたいんでしょう。とにかく、そのノンセクシャルなんですよ。本当に、とにかく……。」
山内先輩は終始黙って聞いていた。それから、ひとつ大きく息を吸って、止めて、それから大きなため息を吐いた。身体の力を全て抜いて、ヘタレてしまったようだった。
「そっか」
弱々しい声だった。いつもの彼女の様子では、ありえないほど頼りなかった。それから直ぐに立ち上がって、顔を両手で覆い隠した。またひとつ、わざとらしいほどに大きな溜め息を吐いた。
「ありがとうね、残りは食べていいから。私もう帰りたくなっちゃった」
心臓が揺れる。出口へ向かう山内先輩を僕は目で追い掛けた。横顔が一枚の静止画の様だった。涙で崩れるメイクが散りゆく花によく似ている。心を締め付けられる様な、弱々しい哀しみの顔だった。純粋な悲劇の表情だった。瞳の奥には怒りも憎しみもない。気高い気持ちの死を、受け入れた目であった。
僕は恋に近付きすぎた。山内先輩の背中を見て、そう思った。恋に近付き過ぎてしまったから、高尚に感じざるを得ないのだ、と。いつの間にか立ち上がっていた足を慰めて、ゆっくりと座り込む。山内先輩だけが居ない向かいの席を、眺めながらビールを飲んだ。ビールを飲む山内先輩を思い出す。思い出して、目を瞑る。暗闇の中、僕の身体だけがたったひとつここにある。
目を凝らしてみれば、いずれ遠くに輝ける草原の入口が見えてきて、気が付くとそこに立っているはずだった。しかし一向に、目を凝らしても、果てしない暗闇が明けなかった。僕はもう十分に孤独なはずだった。孤独のままで生きる事ができたのだ。しかし、あの草原は現れない。もうどの様な草原であったのか、突然全く想像がつかなくなったのだ。あの無辜の世界を見失った。とうとう僕は自分の過去から永遠に追放されてしまったのだ。
激しい振動に目を覚ます。店員が不機嫌なままこちらを覗き込んでいた。既に呆気にとられていた僕にとっては、そんなことは些事である。しかし、とにかく僕は身支度を整えて、急いで店を後にする。もちろん、それは草原の為だった。とにかく僕は草原を取り戻さなくてはいけなかったのだ。駅へ向かい、電車に乗り込み、逸る心臓を抑えながらまた目を瞑る。ずっと真っ暗なまま、見失った草原の雑草一本発見できなかった。
家の最寄り駅より一つ手前で、わざと降りる。僕が行くべき場所は案外家より遠い場所であるからだ。いや、本当は、最寄り駅で降りた方が早いだろう。しかし、どうにも心の準備をしなくてはいけないのだ。一つ手前の駅は、全く見覚えのない駅だ。当たり前のことだが、こんな駅で降りたことなど無い。随分ともの哀しい、薄っぺらな駅だ。畳縁のようなコンクリートが一本、退屈に伸びているだけのホームだった。階段を駆け上って、改札口をでる。独特なガス臭さはどの駅も共通で、ほんの少しだけ安心感があった。
見慣れない道をある程度歩けば、ようやく目的の場所に着く。あのスーパーマーケットだった。背に腹はかえられぬ、僕はここであの草原の手掛りを盗んでやるのだ。意を決して、足を踏み出す。案外なんてことなく、自動ドアが開いた。店内に流れる曲と、僅かに起こる空気の流動がありがちななんて事ないスーパーマーケットを演出する。若干効いている冷房が、僕の肌を刺激してくしゃみを呼び起こす。客に対する礼儀を知らぬ空気だ。
それから落ちているカゴを拾い上げて、あたかも買い物客を装った。それから矮小な店内を一周ぐるりと回って、その小ささに驚く。あの草原の半分の大きさもないように感じる。四角い部屋を丸く象ったのだろう。有効的であるというふうに評価するのは難しいのではないだろうか。なんて、大人気なく、どうにも批判したくなった。
「あら、懐かしい顔。久しぶり、こうき君」
聞き覚えのある声だった。正面には、背の低い女性が立っている。三角巾にエプロンを着けた正しく店員だった。知り合いだとは思う。けれど、どうにも誰だか思い出せない。取り敢えず笑顔で手を振ってみるけれど彼女は不思議そうな顔をした。
「君って笑顔で手を振るタイプだったっけ?」
「いいえ」
「だよね」
ようやく笑った彼女の目は細く、目を瞑っているようだった。「あやちゃん?」僕の中で一人の女の子の名前が浮かび上がる。
「そう、あや。宮本綾」
僕は彼女の名前しか思い出せないのだから、きっと、ずっと古い知り合い。霧の向こうにじんわりと浮かび上がる古城の様に、僕は彼女に対して何か底知れぬ恐怖心を感じた。彼女の顔は何処か山内先輩の様だった。つり目で、わざとらしいほどに真っ黒な短い髪は、全く山内先輩を連想させるものでは無いはずだった。しかし、目の前に居るこの宮本綾と言う人物を何故か僕は山内先輩に重ねている。
「もう閉店だし、少し待ってて。昔の話をしよう」
僕は彼女の事を一刻も早く思い出さなくてはいけなかった。
遠くで小さく誰かが話している。午後十時をまわった頃だろう。今日は随分長い一日だったと思う。会社で過ごした数時間はまだマシだった。それ以降がこんなにも僕の心を乱すのならば、永遠に会社に閉じ篭ってしまいたい。そうか、きっと僕には、とにかく未来が怖いのだ。過去には無垢な時間がある。それを変えずに居たかったのだ。あの宮本綾から、さっさとこのコンクリートの下に隠れた草原の欠片を盗んでしまおう。宮本だって、知っている筈だ。
「ごめんごめん」
黒い半袖のTシャツが、暗闇からぼんやり浮かび上がってきた。宮本から、如何にしてあの草原のヒントを得られるか、僕はそればかりその姿に求めていた。相槌も打たずに作戦を考える。不自然な会話は好きじゃない。無責任なままで進めたくないのだ。明確にお互いがあの草原を意識し始めるような話が必要だ。僕の一歩前を彼女は歩いている。敢えて抜かさず、横に並ばず、後ろにいた。湿った空気が辺りに充満して、田畑のカエルが喚きだす。
「あのスーパー、昔秘密基地だったよね。覚えてる?」
「あれ、なんで、君が知っているの?」
声が震えた。僕は綾の言葉に妙に納得してしまった。まるで、綾ちゃんが知っている事が当たり前のようにすら、感じていた。
「なんでって、私と君の、こうすけくんの秘密基地だったじゃん。私が転校しちゃって、その間に無くなっていたとはね。私の居ないうちに好き勝手しやがって」
振り返って、無邪気に笑う。僕はもう歩けなくなってしまっていた。立ち止まる僕を見て、綾ちゃんは不思議そうにしている。
「大丈夫?」
カエルが、やたらと激しく鳴いている。夏の夜にはこの音しかしなくて、いずれ全部のカエルは干上がって死ぬだろう。
「輝ける草原――僕の美しい永遠は、嘘の栄光に染まる前に、静かに消えてしまったんだ」




