第97話 ありがとう、森のうたうきつねさん
10月27日。
カフェ・ラフォーレ リーヴルスの展示エリアには、朝から心地よい緊張感が漂っていた。
最終日を迎えたのは、『森のうたうきつね展』。
オープン以来、多くの人の心をあたためてきた展示だった。
その展示エリアに立つメイの姿は、どこかいつもより背筋が伸びて見える。
シックな黒の制服に身を包み、朝からずっと展示の前にスタンバイしていた。
「最終日は、関係者が来場するかもしれませんので、対応をお願いします」
ふれあい文学館からそう連絡を受けて、メイは前夜から気を引き締めていた。
その言葉通り、出版社の担当者や"矢鞠のおばあちゃん財団”の関係者、地域の文化推進団体の人たちなど──
次々と訪れる関係者の対応に追われ、午前中はほとんど座る暇もなかった。
さらには、「最終日だから」と聞きつけて訪れた一般の来場者も多く、普段よりもずっと賑わいを見せる展示エリア。
メイはひとり、慌ただしい時間の中で、それでもどこか満たされたような表情を浮かべていた。
◇◇◇
夕方。
来場客の波も一段落し、展示エリアにもようやく静けさが戻っていた。
メイがほっとひと息ついていたとき──
「こんにちは」
ふいに、やわらかな声が聞こえた。
振り返ると、入口に凛々花の姿。
「あ、凛々花ちゃん」
「メイちゃん……おつかれさま。見ていってもいい?」
「もちろん、どうぞ」
そう言って、メイは大げさに片手を広げ、展示エリアの中へとエスコートするようなポーズをとった。
凛々花はふわっと笑って、そのまま静かに絵本のコーナーへと歩いていく。
ディスプレイされた『森のうたうきつね』の絵本の表紙を見つめながら、ぽつりとこぼした。
「この絵本、私も読んだことあるよ」
「流行ったもんね。お母さんとかに読んでもらったの?」
メイがそう尋ねると、凛々花は小さく首を横に振る。
「ううん。買ってもらって……ひとりで見てた。まだ字が読めなかったから、ただ“見てた”だけだけど」
さらりとした口調。でもその言い方が、どこか凛々花らしい。
「でも、この絵本、好き」
そう言って、ディスプレイの中のコン太のイラストに目をやる。
「音痴のコン太が、一生懸命歌うところ……かわいくて、切なくて、でもなんか勇気出る」
「わかるなぁ……私も、好きだったんだぁ。怖がってる迷子の動物たちが、コン太の歌でちょっと安心してくのとか……あったかいよね」
「……動物の子ども」
凛々花がその言葉を繰り返すようにつぶやく。
そして、ふとメイの方に顔を向けた。
「メイちゃん……昨日のバイクの人」
「梓ちゃんのこと?」
「うん。……なんかね、目の感じが、少し似てた気がしたの。あのときの鹿と」
「鹿?」
「前に、山で撮ってたとき……カメラ越しに目が合ったの。ほんの一瞬だけ。でも──怯えた目をしてて」
そう言って、凛々花はメイの顔をじっと見つめ、ゆっくりと微笑んだ。
「分かんないけど……ちょっとだけ、似てた」
「……そっかぁ」
メイは、小さくつぶやくように答えた。
初めて梓と出会った、新和キャンプ場の記憶がふとよみがえる。
川辺に、ひとりで立っていた梓。
凛としていて綺麗だったのに、どこか空っぽな背中だった。
ただ立っているだけなのに──
あのとき、胸の奥がズクンと鳴ったのを覚えている。
──あのときの印象と、今の凛々花の言葉が、不思議と重なった。
「……ごめんね、仕事中に」
凛々花の声で、メイはふっと我に返る。
「あ、うん。大丈夫……」
その返事を聞き終えるより早く、凛々花は軽く手を振りながら、
「またね」
とだけ言い残して、展示エリアをあとにした。
「……またね」
手を振り返しながら、メイは小さくつぶやいた。
そして心の中で、ふと思う。
そういえば、はじめて凛々花ちゃんと会ったのも、この場所だったっけ。
あの時も、ふわっとした不思議な子だと思ったけど……。
──凛々花ちゃん。
あの子には、いったい何が見えてるんだろう。
◇◇◇
午後8時。
カフェ・ラフォーレ リーヴルスの営業が終了し、展示エリアにも静寂が訪れていた。
メイは、ゆっくりと深呼吸をひとつ。
『森のうたうきつね展』──その幕が、今、静かに下りた。
展示エリアを歩きながら、ひとつひとつのパネルや展示物に目をやる。
壁に架けられた「矢鞠のおばあちゃん」の近影。
棚には、コン太を模したキツネのオブジェ。
ガラスケースには、手書きの原稿や、使い込まれたペン。
どれもが、この展示のために丁寧に準備してきた、思い入れのある品々だった。
──グランドオープン前。
右も左もわからないまま、手探りで始めた展示の準備。
オープニングイベントも重なって、毎日がてんやわんやだった。
「……ほんと、バタバタだったな」
ひとりごとのように言って、ふっと笑みがこぼれる。
そして──何より。
何かを言葉にしようとしたそのとき。
「おつかれーメイちゃん!」
元気な声が、展示エリアに響き渡った。
「おつかれさま……」
振り向いたメイが、少し照れくさそうに笑う。
詩音がすたすたと歩いてきて、展示エリアをぐるりと見渡した。
「この展示も、終わっちゃうんだね」
「……うん」
メイは少し間を置いてから言った。
「ねえ、詩音。覚えてる? ここで、初めて一緒に仕事したときのこと」
「うん、覚えてるよ。メイちゃん、脚立から落ちて、パネル倒して……きつねのオブジェが頭に当たってた」
思い出し笑いをこらえきれず、ぷっと吹き出す詩音。
「えー、パネルは倒してないよ。事実誤認だよ!」
「だって、バッチーンって……」
「落としただけ! 倒したんじゃないから」
メイがむきになって反論する。
「詩音だって資料ぶちまけて、私に怒られるかヒヤヒヤしてたし」
「……あれはね、あんなところに工具箱置きっぱなしにした人の罠だから!」
詩音がぷくっと頬をふくらませ、口を尖らせて言い返す。
メイも負けじと、睨み返すように目を細める。
ふたりの目がぴたりと合ったまま、しばしの沈黙──
次の瞬間、どちらともなく、ぷっと吹き出した。
ふたりの笑い声が、静まった展示エリアに広がった。
しばらく笑い転げて、ようやく落ち着いたころ。
詩音が、ふうっと息をついて、ぽつりとこぼした。
「いろんなこと、あったね。最初は、ふたりとも敬語だったし」
「……そうだったね。たった三ヶ月前なのに」
メイは、少しだけ遠い目をして、展示の方を見つめた。
「……この展示がなかったら、今みたいに普通に話せてなかったかもね」
「……だよね」
詩音がそっと応える。
ふたりは並んで、展示エリアを黙って見つめた。
しばらくして、メイが言った。
「さてと。明日は朝から、入れ替え作業始まるし……」
「だね。帰ろっか」
ゆっくりと明かりを落とし、展示エリアをあとにする。
その足取りは、どこか軽やかだった。
「ねぇ、言っとくけど。パネル、倒してないから」
「えー、倒してたよ、多分」
「いや、落としただけ!」
「それ、倒したのと同じじゃん!」
「大違いですぅー!」
ケラケラと笑い合う声が、閉店後のカフェ・ラフォーレ リーヴルスの店内に響いていた。
その様子を、展示棚の上のきつねのオブジェが、どこか誇らしげに見守っているようだった。
ここまで読んでくださってありがとうございます!




