第96話 変わらぬ景色、揺れる思い
平日の夕暮れ。
小豆沢家のバーベキューから、数日が過ぎていた。
テレワークを終えた梓は、自室で静かにキャンプ道具の手入れをしていた。
手に取ったのは、小さなシングルバーナー。
キャンプを始めた頃、「小さくて安い」というだけで選んだものだ。
使い勝手は、お世辞にも良いとは言えない。頼りないゴトクに、不安定な火力。
冬場には着火しにくくなるし、ツマミも回しづらい。
──それでも、不思議と手放せずにいた。
「……よく使ったなぁ」
ぽつりとこぼしながら、火力調整のツマミを回してみる。
少し重たい感触。内部の部品がどこか摩耗しているのかもしれない。
「一応、まだ使えるけど……ちゃんと料理するなら、そろそろ考えたほうがいいか」
料理は嫌いじゃない。
でも、ソロに慣れてくると、つい手を抜いてしまう。
最近はもっぱらお湯を沸かすくらい。凝ったメニューを作る気力は、あまり湧いてこなかった。
「……明日、マウントワンでも覗いてみるか」
そうつぶやいて、梓はバーナーをそっとケースに戻した。
◇◇◇
翌日。
午後の陽射しが少し傾きかけた頃。
梓のホンダ・レブルは、矢鞠市内にあるアウトドアショップ「マウントワン」へと向かっていた。
店の駐車場にバイクを止め、ヘルメットを脱いで店構えを見上げる。
入口のディスプレイは季節や新商品によって時折変わるものの、もう何度も足を運んでいる店だ。
棚の配置も、売り場の導線も、すっかり頭に入っている。
店内に入り、いつものようにバーナーコーナーへ直行しようとした──そのとき。
ふと、視界の端に入ったディスプレイが、足を止めさせた。
店の中央に設けられた展示スペース。
そこには、4〜5人用のドーム型テントが設営されていた。
前室には木製のローテーブル。
その両脇に、カラフルなローチェアがふたつ、向かい合うように並べられている。
(このローチェアって……)
メイたちが持っていたのと、同じチェアだ。
さらに、ラックにはステンレスのマグカップと、少し大きめのクッカーが整然と並んでいる。
誰かと過ごすアウトドアを、そのまま切り取ったような展示。
梓はしばらくその光景を見つめていたが、やがて小さく息をつくようにして視線を逸らした。
まるで、何も見なかったかのように。
そして、バーナー売り場へと歩を進めた。
棚には、さまざまなシングルバーナーがずらりと並んでいる。
梓は一つずつ、その特徴を目で追っていった。
「あ、これ……昨日スマホで見たやつだ」
手に取ったのは、スウェーデンの老舗メーカー製。
コンパクトで高火力、デザインも無骨でかっこいい。
──けど。
「OD缶に直付けだと、ちょっと不安定かもな」
バーナーを元の位置に戻し、別の棚へと視線を移す。
ふと、一台のバーナーが目に留まった。
火元とガス缶が分かれた分離型のモデル。
超軽量ながら、ゴトクにはしっかりとした安定感がある。
スペックをざっと見ても、火力に不足はなさそうだった。
「……悪くないな」
思わず、つぶやく。
ただ、ひとつ。点火装置は付いていない。
ライターやマッチを使うタイプだ。
その隣に並んでいたのは、同じメーカーのタイプ違いのモデル。
こちらも分離型だが、使用するガス缶はCB缶タイプ。
そして、点火装置が標準で付いている。
──点火装置。
正直、今までは「いらない」と思っていた。
一人なら、多少の手間も気にならない。
火がつかなければ、つくまでやるだけだ。
でも。
「あれ? 火つかないよー!」
そんな声が、ふと脳裏に浮かぶ。
その隣で、ため息をつきながら自分がチャッカマンを差し出す姿まで──。
「……面倒くさ……」
そう言いかけて、思わず自分に苦笑する。
──いや、違う。面倒くさいのはきっと、そう言いながらどこか嬉しがっている自分のほう。
誰かが隣にいることを、想像しているなんて。
そんなつもり、なかったはずなのに。
梓は小さく息をついて、口元をわずかに緩めた。
「……さて、どうするかな」
もう一度、並んだバーナーに目を戻す。
その中で、点火装置付きのモデルに貼られた値札が目に留まった。
──特別価格・30%オフ。
(ここのメーカー、めったにディスカウントなんてしないのに……マウントワン、やるなぁ)
ちょっとだけ、口元が緩む。
もちろん、割引に惹かれたわけじゃない──たぶん。
本当の決め手は、たぶん別にある。
でも、それを素直に認めるのは、なんだか癪だった。
「……ま、こっちでいっか」
呟くようにそう言って、梓は点火装置付きのバーナーを手に取る。
商品を軽く持ち上げ、パッケージの感触を確かめたあと、そのままレジに向かおうとした。
──そのとき。
ふと、壁に貼られた一枚のポスターが目に入った。
《さあ、行こう! 麓高原キャンプ場》
大きく開けた草原。その奥に、くっきりと富士山がそびえている。
雲のない空、テントがぽつんと一張り。
その横には焚き火台とチェア。
シンプルだけど、絵になる構図だった。
──あぁ、ここ。
メイと詩音が、次のデュオキャンプで行くって言ってた場所だ。
梓は、しばらくそのポスターを眺めていた。
「……あのふたり、楽しみにしてるんだろうな」
心のどこかで、そう思う自分がいる。
誰かと行くキャンプなんて考えてなかったはずなのに、最近、ふと頭に浮かぶことが増えてきた。
さっきもそうだった。
あのとき、点火装置のことを考えて、自然と“誰か”の姿がよぎった。
──でも。
それをちゃんと認めるのは、なんとなく気が進まなかった。
ソロが楽。誰にも気を遣わなくていい。
そう思っている自分の中に、他人が入ってくる感じ。
ちょっと落ち着かないし、正直、まだ戸惑っている。
そんな頭の中を、「カフェ・ラフォーレ リーヴルス」の景色が、ふっとよぎっていった。
梓は苦笑いを浮かべた。
「……ま、たまにはラフォーレに顔出してもいいか」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
バーベキュー、結局行かなかったし。
いや、行けなかった。
初対面ばっかりの場所で、輪の中にいる自分が想像できなかった。
“仕事あるから”なんて、軽く嘘までついてしまったけど……
ちょっと、悪かったかなって思ってる。
ほんの軽い罪滅ぼしと、少しだけの“会ってみたい気持ち”。
それを自分の中で言い訳のように混ぜながら、梓は商品を抱えてレジへと歩き出した。
◇◇◇
午後4時。
西日が建物を斜めに照らしはじめた頃、カフェ・ラフォーレ リーヴルスの駐車場に、一台のバイクが滑り込んだ。
梓のホンダ・レブル。
バイク用スペースにすっと収まり、エンジンが止まる。
ヘルメットを脱ぎ、軽く頭を振る。
ショートヘアがふわりと揺れて、そのまま手ぐしで整える。
それから、正面に立つ店舗をゆっくりと見上げた。
「……グランドオープン以来、か」
ぽつりとこぼした声が、風に流れていった。
エントランスの扉を押すと、澄んだ音が響いた。
カランコロン──。
「いらっしゃいませ〜」
落ち着いたトーンのスタッフの声が店内に溶ける。
梓は軽くうなずきながらレジへと向かう。
そこに立っていたのは、詩音だった。
「いらっしゃいませ……って、えっ?」
一瞬ぽかんとしたあと、目を見開く。
「梓ちゃん!?」
驚きがそのまま声になった。
「……いいだろ、たまには」
梓はどこか気まずそうに、でも少しだけ得意げに答える。
憮然とした表情の奥に、ほんのり照れがにじんでいた。
その様子がツボに入ったのか、詩音はふわっと笑う。
「では、お飲み物は何にしますか〜?」
「ブレンド。ホットで」
梓はいつもの調子で答えると、渡されたバイブベルを手にカウンター席へ向かった。
座ったのは、駐車場がよく見える窓際の席。
目の前のガラス越しには、自分の愛車──マットフレスコブラウンのレブル250が映っている。
「……いい眺め」
声には出さず、心の中で小さくにやけた。
それにしても、この店。
グランドオープンのときは賑やかすぎてよくわからなかったけど──
濃い木目調のインテリアに、控えめな照明。
やわらかなBGMが静かに流れ、客たちの静かな話し声や、カトラリーのかすかな音が空間に心地よく馴染んでいる。
なんだか、やけに落ち着く。
そんなことを思いながら、ふと店内に目をやる。
平日の夕方。客はまばらで、店内にはほどよい余白があった。
その中で──ふと、あるひとりの女の子が目に留まる。
ソファ席。
薄いブルーのブラウスを着た子が、一冊の本を手に、にこやかにページをめくっていた。
その佇まいは、どこかふわっとしていて。
空気の流れが、そこだけほんの少し違うような、そんな雰囲気をまとっている。
やわらかく微笑んでいるその表情と、姿勢。
まるで、静かな光の中に座っているようだった。
──あれ……あの子……
記憶の奥に引っかかるものがある。
──そうだ、前に詩音が送ってきたグループ《Rain》の写真。
あのとき写っていたのが……たしか、この子だった。
梓は目を細めて、もう一度その子の姿を見つめる。
その瞬間──横から、ひょいっと詩音が顔を出してきた。
「ね、あの子が凛々花ちゃんだよ。
ほら、前にRainで送った写真に写ってた子」
「……ふーん」
小さくうなずく梓。興味があるのかないのか、どこか曖昧な反応だった。
そのときだった。
展示エリアの奥から、黒のシェフジャケット風の制服を着たメイが現れ、まっすぐソファ席のほうへ向かっていく。
「凛々花ちゃん、写真展のことでちょっと相談があるんだけど……」
そう声をかけながら、視線を上げたメイは──
ソファ席の先のほう、カウンター席に立っている詩音の姿に気づく。
「あ、詩音……」
ぱっと手を振るメイ。
その視線が、ふいに詩音の隣へとずれる。
──えっ。
そこで、ようやく梓の存在に気づいたらしい。
目を丸くしたまま、二歩、三歩と近づいてきて。
「なんで梓ちゃんがいるの?」
思わず出た素直な一言。
「……お前も、びっくりするのかよ」
梓はちょっとむすっとしながらも、ツッコミを入れる。
「だって、まさか梓ちゃんがここにいるなんて思わなかったし……」
「はいはい、どうせ私は引きこもりですよーだ」
わざとらしく肩をすくめてみせた梓に、メイと詩音は、思わず顔を見合わせてくすっと吹き出した。
その少し離れたソファ席から、凛々花がこちらを見ていた。
目が合うと、彼女はふわりと笑みを浮かべて、小さく会釈する。
梓も、軽く頭を下げて応える。
「ゆっくりしてってね」
メイはそう言い残して、凛々花のもとへ戻った。
「ごめんね、凛々花ちゃん。あのね、この写真のところなんだけど……」
そう言いながら、展示の資料を広げて見せる。
凛々花はページに視線を落とし、少し考えるような間を置いてから、柔らかな口調で何かを提案した。
その声色はあくまでふんわりしているのに、内容は的を射ているようで、メイは真剣にうなずいている。
「……ふわっとしてるわりには、しっかりしてるのかも」
梓は、そんな凛々花の横顔を見つめながら、気づけば目が離せなくなっていた。
仕草も、雰囲気も──どこかつかみどころがないのに、なぜか気になる。
そんな梓の様子に気づいたのか、隣の詩音が小声で言った。
「凛々花ちゃんの写真、今回の展示の目玉になるんだよ。すごいんだよ、あの子の写真」
「……そうなんだ」
梓は静かに応じる。
「……あ、これこれ!」
詩音はそう言って、スマホを取り出した。
「この前のバーベキューで、凛々花ちゃんが撮ってくれたやつ。送ってもらったんだぁ」
画面を見せられた梓は、そっと目を落とす。
そこには、メイと詩音が肩を寄せて笑っている写真が写っていた。
眩しいくらいの笑顔。
作っていない、素の表情。
その瞬間の空気がそのまま閉じ込められたようで──
ふたりの笑い声が聞こえてきそうなほど、いきいきとしていた。
今にも写真の中から動き出しそうな、そんな一枚。
「……どう? いい写真でしょ?」
詩音が得意げに言ったそのとき、ふと何かを感じたように顔を上げる。
視線の先には、レジに立つ敦子店長の姿。
微笑みを浮かべてはいるけど、その目だけがじわりと圧を放っている。
「やばっ……怒ってる! 梓ちゃん、またあとでね!」
詩音は慌ててスマホをポケットにしまうと、バタバタと持ち場へ戻っていった。
梓は小さく手を上げて見送る。
そのあと、ふとさっきの写真を思い返した。
自然に語りかけてくるような──そんな写真だった。
「あの子が、あんな写真撮るんだ……」
ぽつりと心の中でつぶやく。
視線を外に向けると、窓の向こうにレブルがさっきと同じように佇んでいた。
その変わらなさが、なぜか少しだけ、安心でもあった。
ふぅ、と小さく息を吐く。
ぬるくなったコーヒーをひと口だけ、口に含んだ。
◇◇◇
その夜。
梓はベッドの上に仰向けになり、スマホを片手に画面を見つめていた。
グループ《Rain》のトーク履歴。
指を滑らせてスクロールし、詩音が以前に送ってきた写真を開く。
マウントワンで撮られた一枚。
メイと詩音、そしてその横に、凛々花が写っていた。
ふわっとした笑顔。
今日、ラフォーレで見かけたときと、まったく同じ柔らかな笑みだった。
「……凛々花って子」
ぽつりと心の中でつぶやく。
なんだろう。
気のせいかもしれないけど、どこかひっかかるものがあった。
ふぅ、と息をつく。
その思いを振り払うように、バサッと上半身を起こす。
スマホをテーブルの上に置き、すぐ横の紙袋を手繰り寄せた。
中に入っているのは、今日マウントワンで購入したバーナー。
新品の箱を取り出し、そっと開封する。
脚を広げ、ゴトクを展開する。
日本製らしい安定感と、しっかりとした造りが手に伝わってくる。
「……今度は、ちゃんと料理でも作ってみるか」
小さくつぶやいた梓の脳裏に、ふと浮かんだ光景があった。
ひとりだけじゃない、誰かと過ごすキャンプ。
それはまだ輪郭のない、淡い想像だったけれど──
どこか、悪くない気がした。
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