第93話 凛々花のキモチ
ある日の午後。
忙しさがひと段落したカフェ・ラフォーレ リーヴルスの控え室に、段ボール箱が積まれた。
紙とインクの匂い。ガムテープを剝がす“ペリ”という音。白手袋の内側に、薄い粉のさらりとした感触が残る。
今日、写真パネルが納品された。
控え室には、メイ、淳子、敦子、篠原――それに篠原が連れてきた文学館の若いスタッフが二人。展示設営でも力を貸してくれるらしい。
「じゃあ、一枚ずつ確認していきましょう」
篠原が軽く頷くと、若いスタッフのひとりが、控え室の隅に置かれた段ボール箱のひとつに手を伸ばす。
篠原は白手袋を取り出し、メイにも手渡してきた。メイは少し緊張した面持ちでそれを受け取る。
箱を開けると、緩衝材に守られて、木枠のパネルが姿を現した。A3サイズのパネル。写真は、冬の山を背景に、草原の山小屋の前で伸びをする男性の後ろ姿だった。
「なんか……いいですね」
思わずこぼれたメイの声に、淳子がうなずく。
「木製パネルにして正解だったわね」
「印刷面のズレや汚れがないか、よく見てください」
篠原が促す。
メイはパネルをそっと持ち上げ、光の角度を変えながらチェックする。
丁寧な印刷。色もよく出ている。淳子と目を合わせて、小さく頷き合う。
「大丈夫そうですね」
「次、いきましょうか」
パネルはもとの梱包材に戻され、次の箱が開けられた。作業は静かに、でもどこか誇らしげに進んでいく。
展示が、少しずつ“かたち”になっていく。
そんな予感が、控え室の空気に混じっていた。
「さて、次はこの大きいやつですね」
篠原がそう言って箱を手に取る。594mm×841mm、A1サイズの写真パネル。
他のパネルよりひと回り以上大きく、明らかに“主役”とわかる一枚だった。
「重たいから、ゆっくりな」
篠原と文学館のスタッフがそっと取り出す。
やがて、梱包材の間からゆっくりと全貌が現れる。
――木陰でしゃがみ込む女の子。
呼吸が、ほんの一瞬止まった。胸の奥をきゅっと摘まれる感覚。
同じ写真なのに、画角が変わるだけで空気の密度が違って見える。
「おお……」
メイの口から、感嘆ともため息ともつかない声が漏れた。
心の奥を、きゅんと掴まれるような感覚。
この写真が持つ雰囲気は、以前と変わらないはずなのに、大きな画角で見ると、不思議とさらに強く訴えてくるものがあった。
「光沢にしなかったところがいいわね」
敦子が言う。
「ですよね。存在感もすごくあるし……」
淳子も頷く。
控え室には、写真に向き合う人たちの、小さなざわめきと静かな感動が、ゆっくりと広がっていった。
その時、控え室のドアをノックする音がした。
「敦子店長、いますか〜?」
そっとドアを開けて、詩音が顔をのぞかせる。
「あ、詩音……」
メイが振り返ったその瞬間、詩音の視線が写真パネルに吸い寄せられた。
「うわー!すごい!これ、凛々花ちゃんのやつだよね!」
ぱたぱたと駆け寄り、メイの隣に並ぶ。
「めっちゃ、いいよ……」
「……だよね」
二人の間に、写真を見上げる静かな間が流れる。
やがて、メイがぽつりとつぶやいた。
「……凛々花ちゃんにも、見てほしいな」
「あ、来てるよ、凛々花ちゃん」
詩音が振り返る。
「えっ、そうなの?」
「うん。さっき来たばかりだけど……呼んでこようか?」
メイが淳子の方をチラッと見る。
「いいと思うわよ。ちょうどタイミングもいいし」
と、淳子が微笑む。敦子も隣で頷いていた。
「じゃあ、呼んできます!」
メイがそう言って、詩音と並んで足早に出口へ向かった──その時。
「詩音ちゃん、私に何か用があるって言ってなかった?」
背後から敦子の声。
「あっ……そうだった……」
詩音がぴたっと立ち止まり、気まずそうに反転する。
「じゃあ、わたしが行ってくるよ」
メイは軽く手を振り、控え室を後にした。
メイが店内をぐるりと見渡しながら歩いていくと、本棚エリアの一角に、見慣れた姿を見つけた。
ーー凛々花だった。
今日もまた、あの写真集──『風のあとを、歩く』を手に取り、ページをめくっている。
指先でページをなぞるようにして、じっと写真に目を落としていた。
「凛々花ちゃん……」
メイがそっと声をかける。
凛々花は、はっと顔を上げた。
その表情に、ほんの一瞬だけ“よぎるもの”が見えた気がした──でも、それはすぐに、いつもの微笑みに変わった。
「メイちゃん」
「えっと……この前の、あの写真。パネルになって、届いてるんだけど」
「もし、よかったら……一緒に見てもらえないかな。チェックも兼ねて……」
「うん。いいよ」
言い終わる前に、凛々花は、いつもと変わらない微笑みを浮かべながら、柔らかくうなずいた。
メイが凛々花を連れて控え室に戻ると、ちょうど詩音が敦子との話を終えたところだった。
「あ、凛々花ちゃん」
詩音が顔を上げると、凛々花はいつものように、にこっと笑って室内に入ってきた。
「これなんだけど……」
メイが指さした先、テーブルの上には一枚の大きな写真パネルが立てかけられていた。
その瞬間、凛々花の表情がふっと変わる。
笑顔のまま立ち止まり、目の前の写真をじっと見つめていた。
驚きとも戸惑いともつかないその表情。
控え室の気配が一段、静まる。
「凛々花ちゃん、どうかしら?」
問いが届くまでの、半呼吸のあと。
淳子の声にハッと我に返った凛々花は、まわりを見渡す。
敦子、篠原、そして二人の男性スタッフ。
みんなが心なしか、少し緊張した面持ちで彼女を見守っていた。
メイと詩音のほうに視線を向けると、詩音が小さくうなずいて微笑む。
それに促されるように、凛々花は小さく口を開いた。
「……うれしい、です」
たったそれだけなのに、声の温度がはっきり伝わる。
控え室の空気がふっとゆるんだ。
ホッとしたように表情をほころばせる淳子と敦子。
篠原がドヤ顔で言う。
「ほら、私の言ったとおり、大丈夫だったでしょ?」
「あら、篠さん、何か言ってたかしら?」と淳子がすかさず突っ込み、篠原が照れ笑いを返す。
場に穏やかな笑いが広がった。
メイはそっと凛々花を見つめながら言う。
「凛々花ちゃん……何かあれば、遠慮なく言ってね」
「ううん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
ふっと、メイの肩の力が抜ける。
「それならよかった」
凛々花は少しだけはにかんだように笑った。
「……こんな私の写真が喜んでもらえるなんて。
みんな、うれしそうで……だから、私もうれしい」
その顔は、いつもの笑顔とほんの少しだけ違って見えた。
驚きと戸惑いがにじむような、不器用な微笑み。
メイはその表情を、胸の奥で静かに受け止めていた。
「いい写真展になりそうだよね!」
隣で詩音が声を弾ませる。
「うん、いい写真展にするから」
メイがうなずくと、凛々花は一度視線を落とし、それからまた、いつもの微笑みに戻っていた。
三人は、肩を並べるように立っていた。
テーブルの上に置かれた〈木陰でしゃがむ女の子〉の写真を、そっと見つめながら。
◇◇◇
夕方。
仕事を終えたメイは、ラフォーレ裏の出入口の外で詩音を待っていた。
「お待たせ〜!」
明るい声とともに詩音が現れる。
ふたり並んで歩き出す。通りには、ほんのり秋めいた空気が流れていた。
「写真パネルのチェック、どうだったの?」
「もう、バッチリ。凛々花ちゃんにも見てもらえたしね」
「着々と進んでますな〜」
少しおどけて茶化す詩音に、メイはふっと笑ったあと、ぽつりと言った。
「あの大きな写真、見たとき……凛々花ちゃん、ちょっと嬉しそうに見えたんだけど……」
「うん。あのあと、お店出るときも、すごい楽しそうだったよ」
「……よかった」
その言葉とともに、メイの表情に少し安堵の色が浮かぶ。
「私ね、凛々花ちゃんがあの写真を見たとき……なんていうか、本当の感情に、ちょっとだけ触れたような気がしたんだぁ。
あの子って、いつも笑ってるけど……感情を出さないというか、しまい込んでるっていうか……」
「わかるなあ、それ」
詩音もうなずきながら続けた。
「ちょっとつかみどころがないっていうか……
でもね、なんとなく分かる気がするの。凛々花ちゃんが思ってること」
「そうなんだ」
「うん……まあ、ヤマ勘だけどね!」
いたずらっぽく笑う詩音に、メイがふっと吹き出す。
「詩音のカンは、けっこう外れるからなあ〜」
「えー! なにそれー! メイちゃんのいけず!」
頬をふくらませる詩音を横目に、メイが笑みをこぼす。
「……それはそうと」
詩音が思い出したように言った。
「そろそろ、第4回キャンプ会議やろ〜よ!
11月なんて、すぐ来ちゃうよ!」
「うん、そうだね。やろう、やろう」
ふたりの声が、夕暮れの歩道に重なる。
空には、ほんのり茜に染まる雲が、ゆっくりと浮かんでいた。
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