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第91話 名もなき場所


木曜日の午後。


カフェ・ラフォーレ リーヴルスの控え室には、穏やかな空気が流れていた。

十一月から始まる写真展。その最終打ち合わせが、今まさに進められているところだった。


集まったのは四人。展示責任を任された、わたし・平瀬メイと、店長の敦子さん、それに葛城書店の淳子さん。

そしてもう一人、ふれあい文学館から応援に来てくれた、篠原修一さん。

温和な笑顔がよく似合う、六十三歳の男性だ。文学館ではイベントの広報や展示の設営を担当していた方で、今は定年後も嘱託として働いているらしい。

わたしとは何度か現場で顔を合わせていて、今回も展示の準備をお願いしたのだ。淳子さんとも以前一緒に仕事をしたことがあるらしく、控え室の空気もどこか和やかだった。


資料の紙をめくる音と、カップの揺れる小さな音。

篠原さんは鼻歌まじりにページをめくりながら、「いやぁ、これは楽しみですねえ」と、ちょっと嬉しそうに言った。

四人で囲んだテーブルの上には、わたしが準備した展示計画の資料と、スケジュール表。進行役は、わたし。


テーブルの上の資料に目をやりながら、わたしは姿勢を少し正した。


「資料の1ページ目に書いてありますとおり、今回の展示テーマは――“ふれる、なじむ、自然”です」


一拍おいて、控えめに説明を続ける。


「ここでいう“自然”は、山や川、森、風といった“環境としての自然”と、

もう一つは、人の感情やしぐさ、ふとした反応などの“飾らない姿”のこと。

このふたつがふれあって、なじむときに生まれる――そんな“ありのままの空気感”を、写真を通じて感じてもらえたらと思っています」


「ほう……なかなか面白そうな写真展ですなぁ」

と、篠原さんが顎に手を当てながら、ニコニコと頷いた。


「苦労したんだよね、メイちゃん」

横から淳子さんがそう言って、ちらりとこちらを見た。


「いえ……淳子さんにも、ずいぶん助けていただいたので……」

照れくささを隠すように、わたしは資料をめくりながら話を続けた。


「なお、今回の展示では、それぞれの写真の世界観に合った本を、一冊ずつ展示します。

これもまた、“ふれる、なじむ”の一つのかたちとして、写真と本を並べてご覧いただけるように。

本の選書は、淳子さんにお願いしています」


「本はもう、選び終わったの?」と敦子さん。


「ええ、メイちゃんには、もうリストを渡してあるわ」

と、にっこり笑う淳子さん。


「まだ……全部読みきれてないんですけどね」

思わず苦笑いしながら、わたしは返した。



その後も、展示会場のレイアウトや装飾の話、日程や搬入作業の確認など、ひとつずつ打ち合わせは進んでいく。


「以上の流れで、10月27日から設営を始める予定です」


「篠原さん、よろしくね」

敦子さんが声をかけると、


「はい。うちの若いのが何人か応援に来ますから、あっという間に終わりますよ」

篠原さんは、どこか得意げに笑った。


「えーと……こんなところですが、何かご質問などありますか?」


わたしがそう切り出すと、


「この写真パネルの搬入とチェックなんだけど、篠さんも来てもらえるのかしら?」

と、淳子さん。


「もちろん。開梱から検品まで、任しといてください」

心強い返事に、空気が少し和らぐ。


こうして、展示に向けた打ち合わせは、終始なごやかな雰囲気のまま、無事に締めくくられた。


◇◇◇


「メイちゃん」


資料をまとめていた手が止まる。

顔を上げると、淳子さんがこちらを見ていた。


「カメラマンさんへの展示の説明の件だけど、他の方たちには、私の方から伝えておくから。

メイちゃんは、凛々花ちゃんの方、お願いね」


「はい。凛々花ちゃんには、私のほうから直接話しておきます」


その名を口にした瞬間、自然と頭に浮かんだのは、あの木陰の写真。

しゃがみ込んだ少女の背中と、その奥に揺れていた、淡い木漏れ日の記憶。


「でもホント、凛々花ちゃんのおかげで、いい写真展になりそうね」


ふっと目を細めながら、淳子さんが呟いた。


「そうですね……」

言葉を返しながら、わたしは資料の角を揃えた。


「私も、頑張らないと」


言葉にすると、背筋が少しだけ伸びる気がした。

気負いじゃなくて、静かに火が灯るような――そんな感覚。


その眼差しを見ていた淳子さんが、少しだけ、口元をゆるめた。

穏やかな微笑みが、そこにあった。



控え室に静けさが戻る。

誰もいなくなった空間で、メイはひとつ息を吐いた。

ようやくひと段落――そう思った矢先、ドアが開いて、詩音がひょこっと顔をのぞかせる。


「メイちゃん、おつかれさま〜」


「おつかれさま。どうしたの?」


「うん、紙ナプキンが足りなくなっちゃって、ちょっと取りに」


奥の棚に向かいながら、手慣れた様子で箱を引き出すと、振り返って言った。


「ねえメイちゃん、今日マウントワン行けそう?」


あ、と思い出す。

先日のキャンプ計画会議で、梓にレクチャーされた買い出しリスト。

今日の仕事終わりに、詩音と下見に行く予定だった。


「うん、大丈夫。たぶん、仕事終わりに行けそう」


「そっかー、よかった!」


ふとメイが思いついたように言う。


「そういえば、凛々花ちゃん今日来るかな……?」


「うーん、どうだろ。最近は来たり来なかったりだけど、昨日は来てたよ。どうして?」


「今回の写真展のこと、ちゃんと説明しておきたくて。展示のね、方向性とか」


「そっか、メイちゃん展示責任者だもんね。大変だ〜」


詩音はニッコリしながら、軽やかに言った。


「まあね。『森のうたうきつね展』の時は準備期間もあったし、勢いで押し切れた感じだったけど……今回はいろいろ詰めることが多くて」


「でもさ、それってメイちゃんが“いい展示にしたい”って思ってる証拠だよ」


そのひと言に、メイはふっと笑った。


「ありがとう。頑張るよ」


「よし、行かなきゃ!またね!」


詩音はナプキンの箱を抱えて、小走りに控え室を出ていく。

その背中に、メイがひと声かけた。


「がんばれ〜」


扉が閉まる。

気配がすっと消えたあと、メイは背筋を伸ばして小さくひと息。


「……よし」


気合いと、ちょっとしたプレッシャーと。

その両方を抱えながら、控え室をあとにした。


◇◇◇


展示エリアに足を運んだメイは、その奥にある、小さなパーテーションで仕切られた一角へと向かった。

控えスペースのようなつくりだが、私物は一切置いていない。けれど、不思議と落ち着くその『小部屋』は、自然とメイの居場所になっていた。


他のスタッフが入ってくることもほとんどなく、ちょっとした隠れ家のような場所。

静けさと、わずかな明かり。考えごとをしたり、本を読むにはちょうどいい。


メイは手にしていた淳子セレクトの本を、そっと開いた。


ーー『風景万葉』


凛々花の撮ったメインビジュアルの写真『木陰にしゃがみ込む女の子』に合わせて、

淳子さんが選んでくれた本だ。


——

朝の光が、湯気のかたちを透かしていく。

午後の廊下に落ちた木漏れ日が、静かに揺れる。

夜の白湯は、言葉のないやすらぎを連れてくる。


ひとは、そんな小さな風景に包まれながら、

今日という一日を、そっと受け取っているのかもしれない。

——


ページに流れる“静かな時間”が、胸の奥で静かに波紋を描いていくようだった。

凛々花の写真と、どこかで呼応している気がした。

あの木陰の少女もまた、風の声を聴いていたのかもしれない。


本に添えられていた選書POPのメモをふと見る。


『風景は語らずして、心を語る。

 この本はそんな“静かな声”を拾い上げる一冊です。

 写真の中の止まった時間と、どうぞ重ねて読んでみてください。』


目立たないけれど、心にそっと灯るような本。

「……さすが、淳子さんだなぁ」


小さくつぶやきながら、メイは静かにページをめくっていった。


『風景万葉』を読み終え、本を閉じる。

時計を見ると、午後4時を回っていた。


さてと……なんかコーヒーを飲みたくなったな。

カフェでひと息、入れようっと。


本をバッグにしまい、『小部屋』をあとにした。



カフェに向かおうと展示エリアを抜ける途中、本棚エリアにふと視線をやると、そこに凛々花の姿があった。


いつもと変わらない、ふわっとした佇まい。

手にしているのは写真集『風のあとを、歩く』だった。ページをめくるその指先と、わずかに浮かんだ笑み。

何気ないその光景に、メイはなぜか懐かしさを覚えた。


──昔、こんなふうに誰かを見たことがあったような……そんな錯覚。


そのとき、凛々花が顔を上げ、メイに気づいて微笑む。


「こんにちは、メイちゃん」


「こんにちは」


メイも小さく笑って近づいた。


「その写真集……詩音も好きなんだよね」


凛々花は、にこっと笑ってうなずく。


そこへ、タイミングよく詩音がやってきた。


「あ、メイちゃん、ここにいた〜!」


メイを探していたらしく、ほっとした顔で近づいてくる。


「あー、凛々花ちゃんと一緒だったんだ〜」


「どうしたの?」


「うん、ちょっとだけ残業になりそうだからさ。終わったらちょっと待っててくれる?」


「うん、いいよ」


「あれ?マウントワンって、何時までだっけ?」


「たしか9時までだったから……大丈夫、間に合うよ」


「よかった〜!じゃあまたあとでね! 凛々花ちゃんも、またね!」


詩音はバタバタと慌ただしく戻っていった。


その背中を見送りながら──


「マウントワン?」


凛々花が、ぽつりと尋ねる。


「あぁ。アウトドアショップなんだ」


「ふーん……」


どこか不思議そうな口調の凛々花。

けれど、特に突っ込むでもなく、またページに目を戻そうとしたそのとき。


「あ、そうそう。凛々花ちゃん──ちょっとだけ、時間くれるかな?」


メイの問いかけに、凛々花はほんの一瞬だけ目を見開き──それから、にっこりとうなずいた。


「うん……いいよ」



ラフォーレの控え室。


メイと凛々花は、テーブルをはさんで向かい合っていた。

テーブルの上には、今回展示に使わせてもらう写真のプリントが数枚。簡易ではあるけれど、全体の構成がわかるようにメイが準備してきたものだった。


「えーっと、今回、凛々花ちゃんの写真を使わせてもらうにあたって……」


メイはそう切り出し、資料に目を落としながら説明を始めた。


対する凛々花は、ちょこんと椅子に腰かけて、メイの顔をじっと見つめている。

にこにこと、どこか無垢な笑顔。


(……聞いてるのかな)


メイは少しだけ不安になった。言葉は届いているのか、ただ頷いているだけなのか。そんなふうに思っていたそのとき。


「うん。任せる」


凛々花が、ぽつりと口を開いた。


「え?」


「メイちゃんに、全部任せるよ」


あっさりと言って、またニコッと微笑む。


「あ、ありがとう……」


拍子抜けというか、思わず気が抜けたようなメイ。

何かもっとやりとりがあると思っていたのに、それをすべて“預けられた”ような感覚に、少しだけ戸惑う。


──どうリアクションしていいのか、わからない。


そんな間の悪い沈黙が、ふたりの間にふわりと流れたそのとき。


コン、とドアが開く音。


顔を向けると、そこには詩音の姿があった。


顔を向けると、そこには詩音の姿があった。


「あ、詩音……」

メイが少し助かったような声で言う。


「あー、ごめん!邪魔しちゃったかな?」

そう言いながらも、気にせず奥の棚のほうへ進んでいく詩音。


「詩音、忙しそうだね」

「うん、なんかね、消耗品ちゃんと補充してなくてさ……」

ガサガサと棚を探る詩音を、メイと凛々花が並んで見ている。


「レジペーパーは……あった!」

小さな段ボールを引っ張り出しながら詩音が声を上げる。


「なんか、今日の詩音は、用務員のおじさんみたいだね」

ふと漏らすようにメイが言う。


「いやいや、用務員の“おねえさん”、だよ!」

ドヤ顔で胸を張る詩音。


「……用務員ってとこは、否定しないんだ」

メイが小さくぼやいた。


そのとき、詩音の視線がテーブルの上に向く。


「あ、これ、凛々花ちゃんの写真だ」

興味を引かれたように近づいてくる。


「うん……あ、そうだ。凛々花ちゃん、この木陰でしゃがんでる女の子の写真、タイトルって何かつけてあるの?」


「……ないよ」

凛々花がメイに向き直って答える。


「そうなんだ……無題って出すのもありなんだけど……」

少し照れながら、メイが言葉を続ける。


「私が考えたのがあるんだけど……」


「えー、聞きたい聞きたい!」

身を乗り出す詩音。

凛々花も、興味深そうに小さく首を傾げる。


「えっと……“名もなき場所”って、どうかな?」


「あー、それ、いーじゃん!ぴったりだよ、この写真に!」

はしゃぐ詩音が、凛々花の顔を見る。


「ね、凛々花ちゃん!」


凛々花の表情が、ふわっとやさしくほどける。


「うん……よろこんでるよ」

そう言って、写真に視線を落とした。


「……いいかなぁ」

メイが、そっと尋ねるように呟く。


凛々花は顔を上げ、メイを見つめてから、ゆっくりと笑顔でうなずいた。


その様子を見て、テーブルに肘をついた詩音がぽつりと呟く。


「名もなき場所……かぁ」


三人の視線が、自然と同じ一枚の写真に向かっていく。

その瞬間、やさしい風がふわっと吹き抜けたような、そんな空気が流れていた。


その瞬間、やさしい風がふわっと吹き抜けたような、そんな空気が流れていた。


「……あ、やばっ。戻らなきゃ!」

慌てて体を起こした詩音が、バッと振り向いて走り出す。


「詩音、レジペーパー!」

メイの声に、詩音がぴたっと止まる。


「あっ、忘れた!」

テーブルの上の小さな段ボールに手を伸ばしたその瞬間──


ゴンッ!


つま先を思いきり椅子の足にぶつけてしまった。


「イタっ……!」


「大丈夫……椅子?」

メイがからかうように言う。


「椅子の心配かいっ!」

ツッコミながら、段ボールを片手に「またね!」と声をかけて、バタバタと控え室を出ていった。


扉が閉まったあと、メイはその方向を見つめながら、ふっと笑った。


「メイちゃん……」


「うん?」


「アウトドアショップって、何?」


ふいに凛々花が尋ねる。メイは一瞬戸惑って、すぐに笑った。


「ああ、さっきの“マウントワン”のことね。アウトドアショップっていうのは、キャンプ道具とか売ってるお店のこと。11月に詩音とキャンプ行くから、買い出しに行こうって話してたんだよ」


「ふーん……」

凛々花は少し考えるようにして、ぽつりと言った。


「……ありがとう?」


「え?」


“なんで疑問形なんだろう”と一瞬思ったけれど、その言葉は飲み込んだ。


「こちらこそ、凛々花ちゃん」


凛々花はそっと目線を下げて、にこっと笑った。


「……ゆっくりしてたところ、ごめんね。時間取らせちゃって。ありがとう」


メイがそう言うと、凛々花は「ううん」と首を振り、ゆっくりと立ち上がる。


控え室のドアの前まで歩いたところで、くるりと振り向き、小さく手を振った。

メイも笑顔で手を振り返す。


凛々花はにこっとして、それから店内へと戻っていった。


◇◇◇


午後5時半を回ったころ。

控え室の片隅では、詩音がノートパソコンに向かってシフト調整の真っ最中。


「……うーん。ここ、亜里沙ちゃんにお願いしたいけど、火曜はNGなんだよねぇ」

Excelの画面を睨みつけながら、ぽつりとこぼす。


その横では、メイが淳子チョイスの展示本をめくっていた。


「…っていうかさ、ラフォーレのAIシステム、早くこのシフト機能ちゃんと使えるようにならないかなぁ。希望休とか自動で組んでくれるって話だったのに〜」


「それ、この前のトラブルで、導入が先送りになったんでしょ?」

本を閉じながら、メイが返す。


「うん。でも、トラブル起きたのは本の管理システムだって噂だよ。シフトの方だけでも先に使わせてくれたら、かなり助かるんだけどなぁ……」

口を尖らせる詩音。


「ま、最後は私の“魔のシフト調整力”でなんとかするんだけどさ」


詩音が得意げに言うと、メイがくすっと笑った。


「でも肩こるーっ!」

詩音は肩をぐるりと回して、控えめに叫んだ。


──数分後。


「できたーっ!」

詩音がパチンと手を打つ。


「メイちゃん、着替えてくるから待ってて!」

そう言って、パソコンを閉じ、元気に更衣室の方へ向かっていった。


◇◇◇


詩音が着替えを終えるのを待って、メイと二人、店の外へ出た。

空はすっかり暗くなっていて、街灯の光が静かに路面を照らしている。


「暗くなるの、早くなったね〜」


そんなことを言いながら歩いていると、エントランスの先に人影があった。


スマホを見ながら立ち尽くすその姿に、メイが目をとめる。


「あれ……凛々花ちゃんじゃない?」


二人で歩み寄りながら声をかけた。


「凛々花ちゃん?」


凛々花は、声に気づいて顔を上げると、いつものようにふんわりと微笑んだ。


「どうしたの?」

メイが心配そうに尋ねる。


「マウントワン……行くんでしょ?」


ぽそっと、けれど自然に、凛々花はそう言った。


一瞬、言葉に詰まるメイと詩音。

その間も凛々花は屈託のない笑顔を浮かべている。


「もしかして……待ってた、とか?」

メイが探るように言うと、凛々花はニコニコとしてるだけ。


「凛々花ちゃんも行く?」と、詩音。


凛々花がメイの方を見る。

メイもやわらかく微笑んで、言った。


「一緒に行こうよ」


「……うん」

小さくうなずく凛々花。


そのまま、三人は並んで歩き出す。

凛々花を真ん中に、ゆっくりと。


「凛々花ちゃん、キャンプってやったことある?」


「……やらないよ」


「興味は?」


「……わからない」


「行ってみたら、好きになるかもよ〜?」


「行ったことない詩音が、何か言ってるし」


「およよっ」


「出たな、誤魔化しの“およよ”」


しばしの沈黙。ふふっと、凛々花が笑った。

穏やかで、どこかあたたかい空気が流れる。


そうして三人は、笑いながらマウントワンへと向かっていった。



ここまで読んでくださってありがとうございます!

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