第9話 いざ、伊豆へ
見事に晴れた日になった。
西伊豆に行くには、これ以上ないくらいのドライブ日和。
平日だから、朝の通勤ラッシュにちょっとだけ巻き込まれたけど、伊勢原を過ぎたころ、急に車の数が減った。
「ふぅ……やっと空いてきた」
慣れない渋滞は苦手だし、マニュアル車でノロノロ運転は正直つらい。
だから、この瞬間はちょっと助かった気がした。
久しぶりにエンジンをかけた“うちの車”。
一発でかかった。拍子抜けするくらい元気。
フランスのプジョー、白い208。
その中でも「GTi」っていう、ちょっと速いタイプなんだとか。
お父さんがそう言ってた気がする。
今朝は、久しぶりのマニュアル車で、最初はちょっとだけ戸惑った。
でも、エンストしたのは家を出るときだけ。
あとは、体が、足が、ちゃんと覚えてた。
(……あんなに、乗ってたんだもん)
メイはハンドルを握ったまま、遠くの空をちらっと見上げた。
大井松田の標識が流れていく。
◇◇◇
免許をとったのは、高校3年の夏。
誕生日を迎えてすぐに通い始めた教習所は、迷わずマニュアル車を選んだ。
理由は——ただ一つ。
助手席で見てきた、お父さんの姿に憧れていたから。
ギアを変えるたびに、エンジンの音がわずかに変わる。
優しくて、時に力強いその運転が、子どもの頃からずっと好きだった。
免許を取ったあとは、お父さんが“教官”役。
口うるさくて少しめんどうでも、運転の基本はそこで叩き込まれた。
短大に入ってからは、ひとりで夜ドライブに出ることも増えた。
江ノ島の海を見に行ったり、首都高に入って東京タワーを見に行ったり。
遅く帰ってきては、よく怒られた。
たぶん、普通の女子大生よりは、たくさん運転していたと思う。
……あの日までは。
ブォンッ——。
隣を、赤いスポーツカーが爆音で追い抜いていった。
音の衝撃で、浮かびかけた記憶はふっと霧散する。
◇◇◇
東名下り。山北町のあたりで道が二手に分かれる。
メイは、走りやすい右ルートへ。お父さんがよく「こっちがいい」と言っていたから。
深い山並み。いくつも続くトンネル。
視界に広がる濃い緑に、「自然」という言葉が頭に浮かぶ。
自然……山……キャンプ……
ぽつぽつと単語が跳ねて、昨夜見ていたアニメのシーンに重なった。
『……ゆるキャン△』
一昨日から見始めて、もうシーズン1を見終えてしまった。
なでしこがキャンプに夢中になっていくみたいに、メイも、じわじわと引き込まれていった。
『キャンプっていいな……』
でも、そんな気持ちを、なんとなくごまかしていた。
『おじいちゃんが骨折したんだよ、それどころじゃない!』……って顔して。
──ほんとは、すごく気になってたくせに。
そんな時だった。
ふいに、視界の向こうに——
……富士山。
雲の切れ間から、青空にそびえる白い頂。
あまりに突然で、息をのんだ。
なでしこも、大好きだったよね。富士山。
胸の奥に熱いものが広がり、言葉が出なかった。
◇◇◇
足柄サービスエリア。
家族で伊豆に行くときは、必ず寄っていた思い出の場所。
エンジンを切ると、静けさがいっそう濃くなった。
強張っていた肩が、ストンと落ちていく。
「ふぅー……」
深呼吸をひとつ。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「……やっぱり、この車、好きだな」
見た目は丸っこくて可愛いし、シンプルだけど、どこか特別に見える内装もいい感じ。
シートのステッチやメーターまわりの赤いアクセントも、ちょっとカッコいい。
それに、この車には……
胸の奥にふわりと何かが浮かびそうになる。
それをかき消すように、メイは急いでドアを開けた。
◇◇◇
休憩を終えて、再び走り出す。
沼津を抜けて伊豆縦貫道の終点。
この先は船原峠。昔はくねくね道だったけど、今はトンネルでだいぶ楽になったらしい。
青々とした木々が、窓の外を過ぎていく。
初夏の光に照らされて、緑がいっそう濃く映えた。
「キャンプは、自然の中で過ごす贅沢な時間」
ゆるキャン△のセリフが、不意に胸に蘇る。
「……ほんと、自然っていいな」
誰もいない車内で、そっと言葉を落とした。
長いトンネルをいくつか抜ける。
ハンドルを切るたび、もう完全に車の感覚を取り戻していた。
やがて土肥の町並みが見えてきて、ちらりと海が光った。
あと二十分もすれば、おじいちゃんの家に着く。
ハンドルを握る手は、少しだけ柔らかくなっていた。
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