第88話 やさしい風が残したもの
カフェ・ラフォーレ リーヴルスの控え室。
細長いテーブルを挟んで、メイと淳子が並んで座り、その向かい側に凛々花がちょこん、と腰かけていた。
膝には、例のレトロなカメラ。両手でそっと抱えるようにして、にこにこと微笑んでいる。
展示写真の最終決定を、今日は淳子と詰める予定だった。
けれど──さっき初めて会ったばかりの凛々花に、“無謀”とわかってて同席をお願いしたら、
「いいよ」
あっさり返ってきた。
その軽さと、ふわっとした笑顔に、メイはまだちょっとだけ現実感が追いついていない。
メイには、その存在ごと、やさしい風みたいに思えた。
「なるほどね。メイちゃんが推すのもわかるわ……」
タブレットの画面をのぞき込みながら、淳子が静かに頷いた。
「どれも、なんか…引き込まれる感じ。静かなんだけど、目が離せなくなるっていうか」
メイもつぶやくように言葉を添える。
凛々花がそっと画面をスワイプする。
表示されたのは、メイがさっき展示エリアで見たあの一枚。
ーー木陰でしゃがむ女の子の写真。
大学の課題で撮影したという作品だ。
「これを、メインにしようと思ってて…」
メイがそう言うと、淳子が目を細めた。
「うん、いいわね。こういう“人の自然な雰囲気”って、本当に撮るの難しいのよ。構えさせない空気というか…それが写真に出てる」
控え室に、少しだけあたたかい沈黙が流れた。
「そういえば、ラフォーレの写真も撮ったって言ってたわよね」
ふと思い出したように、淳子が顔を上げる。
「はい、確か……そこの棚のところの封筒に入ってると思います」
凛々花が棚を指さすと、淳子が立ち上がる。
「ちょっと見ちゃおうかしら」
軽くつぶやいて、棚へ向かう。
「ああ、これね」
白い封筒を見つけると、淳子は中の写真を取り出して、一枚ずつめくりはじめた。
大判のプリント写真。どれも、空間と人が自然に溶け合っているような構図だった。
「へぇ〜……なんか、写真が語りかけてくる感じがするわね」
そう言いながら、数枚目でふと手が止まった。
目に映ったのは、店内を見渡す敦子の横顔。
その表情は、優しさと芯の強さが同居するような、どこか包み込むようなものだった。
「……敦子先輩だ」
ぽつりとつぶやいた淳子は、少し遠くを思い出すような目になった。
「高校のときの、トランペットのパートリーダーだった頃を思い出すわ……」
しばらく写真を見つめたあと、ふと視線を凛々花に向ける。
「凛々花ちゃん……で合ってるわよね。
写真、いつから撮ってるの?」
「うーんと……話しはじめたのは、中学生のころ、かなぁ」
凛々花は、カメラを胸に抱えたまま、やわらかく微笑んで言った。
「……話しはじめた?」
思わずメイが小さくつぶやく。
凛々花はにっこりして、一度だけうなずいた。
「中学生かぁ……なんか、行く末がちょっと恐ろしいわね」
淳子が冗談まじりに笑った。
控え室の空気が、少しやわらかくほどけた。
「あとは、どの写真を使うかなんですけど……」
メイが言いながら、タブレットの画面をスワイプする。
その手元を、淳子がメイの後ろにそっと立ち、少し体を傾けて覗き込んだ。
「どれもいい感じじゃない。全部使わせてもらっちゃえば?」
「でも……他のカメラマンさんのもあるし……」
声のトーンが少し落ちる。メイは画面を見たまま、言いづらそうに言葉を濁した。
「ふふっ。私に気を遣ってるのかしら?」
淳子がメイの横顔を見て、からかうように微笑む。
ふいに目が合い、メイは戸惑いながらも苦笑いを返した。
「全然大丈夫よ。メイちゃんの意見、私は賛成よ」
その言葉に、メイはふと顔を上げる。
視線の先には、やわらかくてあたたかい笑顔があった。
「……淳子さん」
自然とこぼれたその声に、メイの緊張もほんの少しほぐれていた。
その時——
コン、コン、コン。
軽やかなノックの音とともに、明るい声が響いた。
「失礼しまーす!」
コーヒーを乗せたトレーを手に、詩音がひょっこり顔をのぞかせた。
「これ、よかったらどうぞ〜」
「まあ、詩音ちゃん。ありがとう」
「あ、いえいえ〜」
笑いながら、詩音はテーブルにカップを並べていく。
ふわっと立ち上る香ばしいコーヒーの香り。控え室の空気が、少しやわらかくなる。
「はい、凛々花ちゃん」
凛々花の前にも、丁寧にカップが置かれる。
「ありがとうございます」
凛々花はいつものふわっとした声で、やさしくお礼を言った。
「カフェはどう? 忙しい?」とメイ。
「うん、ピークはちょっと前に落ち着いたかな〜。……で、写真、決まったの?」
「うん、あとちょっとだけどね」
「見たい見たい〜!」
詩音はテーブルに手をついて、身を乗り出す。
メイがタブレットを差し出すと、画面をのぞきこんで声を上げた。
「わー……なんかこれ、動き出しそう」
「これ、やばい……なんか涙出そう……」
「これこれ、見て! これヤバくない!?」
一気に控え室がにぎやかになる。
さっきまでの静けさが嘘みたいに、笑い声が広がっていく。
そんな詩音とメイを、淳子はまるでやさしい先生のように目を細めて見つめていた。
凛々花は手元のカップをそっと口に運び、ほんわかと微笑んでいる。
そこには、小さな控え室の中にだけ流れる、“特別な”あたたかさがあった。
◇◇◇
会議は思ったよりもスムーズに進み、採用が決まった写真は全部で9枚。
その中で、メインビジュアルには——
あの『木陰でしゃがんでいる女の子』が選ばれた。
「おつかれさま〜」
大きく背伸びをしながら、淳子がひと息つく。
「凛々花ちゃん、長々と付き合わせちゃってごめんね」
メイが申し訳なさそうに声をかけると、
「ううん、大丈夫」
凛々花はいつもの調子で、やわらかく首を振った。
そして、そっとバッグを手に取って立ち上がる。
「……でも、そろそろ帰らないと」
「あ、ごめんね。本当にありがとう」
メイが頭を下げると、淳子も続けた。
「何かあったら、また連絡させてもらうわね」
「はい、わかりました〜」
凛々花はにこっと笑いながら答えた。
控え室を出て、店内へ。
レジに立っていた詩音が声をかける。
「凛々花ちゃん、もう帰っちゃうの?」
「うん。また来るね」
軽やかにそう言って、凛々花は出口へと歩いていった。
メイと淳子は、そっと手を振ってその背中を見送る。
——が、エントランスの手前で、凛々花はふと足を止めた。
そして、くるりと振り返る。
こちらを見て、小さく手を振ったあと、再び向き直ってそのまま外へと出ていった。
その仕草が、メイにはなぜだか、とても不思議に思えた。
ひとつひとつの動きが、誰かと話しているような、そんなふうに見えたからだった。
◇◇◇
その日の夕方。
カフェ・ラフォーレ リーヴルスの裏手。
メイは背中を反らせて、大きくひとつ伸びをした。
今朝の張りつめた気持ちが、嘘みたいに軽くなっていた。
「メイちゃ〜ん、お待たせ〜」
スタッフ通用口から、私服に着替えた詩音が元気よく出てきた。
「お、なんかスッキリした顔ですな」
からかうように笑いながら近づいてくる。
「うん。展示、だいたい決まったし」
メイも思わず笑顔になる。
「なんかさ、お腹すいちゃった」
「だよね〜。お昼、たまごサンドひとつだったし」
「じゃ、ごはん行こっか!」
詩音が提案すると、ふたりは自然と駅の方へ歩き出した。
「何にする? 梓ちゃん、昨日は焼きそばだったって言ってたよ」
「それ、詩音が変なRain送ったせいでしょ」
「え〜? あれ面白かったじゃん」
「そうかなぁ……」
冗談まじりの会話が、夕方の道にほんのり響く。
空気は、やわらかく、どこか優しかった。
◇◇◇
その頃、ラフォーレの店長室。
敦子と淳子が椅子に腰を下ろし、ゆったりと話していた。
「どう? メイちゃん……ずいぶん苦戦してたみたいだけど」
「ええ。でも、すごく成長してます。ちょっと、びっくりするくらい」
穏やかな笑みを浮かべて、淳子が答える。
「淳子ちゃんのおかげね」
「いえ、それは……敦子先輩のお店がすごいんです。
なんていうか、人をつなげてくれる場所というか……育ててくれるというか」
「ふふっ。麗佳さんの肝入りだから、かしらね」
静かに微笑む敦子。
あたたかな言葉のやりとりに、店長室の空気もやわらかく染まっていった。
◇◇◇
場所は変わり、広瀬梓の自宅。
テレワークを終え、ノートパソコンをパタンと閉じる。
ひと息ついて、スマホを手に取る。
Rainを開けば、メイと詩音とのグループチャット。
最近は、夜になると決まって詩音からメッセージが届く。
『今日の晩ごはんは何?』
昨日は、なんとなく『焼きそば』とだけ返した。
その後に続いたメッセージたち。
『メイ:私は冷凍の餃子だよ』
『詩音:うちはレバニラ炒めだったんだよ』
『メイ:明日仕事なのにヤバくない?』
『詩音:牛乳のんだもん!』
その履歴を眺めて、思わずクスッと笑う。
何気ないやり取りが、少しだけあったかい。
そんな時、スマホがブルッと震えた。
また詩音からのRain。
『今日の晩ごはんは何?』
「またかよ…」
そう思いながらも、『まだこれから』と返す。
すぐに画像付きのメッセージが届いた。
『うちらはこれだよ!』
写真には、ハンバーグステーキの前に、ぴょこんと二つの顔。
メイと詩音が、半分ずつフレームに映り込んでいた。
楽しそうな笑顔が、こっちまで伝わってくる。
『料理、あまり見えてない』
そう返すと、大きな『どんまい!』のスタンプ。
ふっと、笑いがこぼれた。
間をおかずに、またメッセージが届く。
『詩音:キャンプ計画会議、やるよー』
『メイ:梓ちゃんも、よかったら来てね』
「仕方ないなあ……」
口の中でつぶやいて、でもその声は、ちょっとやわらかかった。
まんざらでもない自分に、気づいている。
『行けたら行く』
そう打ち込んで送ると、画面の明かりがふわっと揺れて、
またひとつ、笑みが浮かんだ。
ここまで読んでくださってありがとうございます!




