第87話 写真が紡ぐ、ふたりの糸
淳子と展示に使う写真を選んでから、数日が経った土曜日の朝。
メイはいつもの公園の道を、カフェ・ラフォーレ リーヴルスへと歩いていた。
今日は朝から勤務。午後には、展示の顔となる写真を最終決定する予定だった。
昨夜も遅くまで候補写真とにらめっこしていたせいで、まだ少しぼんやりしている。
目をこすりながら、裏口のスタッフ通用口に近づいたそのとき——
「うわっ!」
ガチャッと勢いよくドアが開き、メイは思わずのけぞった。
扉の向こうから飛び出してきたのは、いつものあのテンション。
「あ!おはよう、メイちゃん! 行ってくるねー!」
勢いよく駆けていく詩音。
「お、おはよう…」と答える暇もなく、彼女の背中は遠ざかっていった。
唖然としたまま控え室に入ると、制服に着替えたくるみがぽかんと立っていた。
「詩音、どうしたの?」
「店長に買い物頼まれて…私が行くって言ったんですけど」
そこへ更衣室から沙織とユキも出てきた。
「相変わらず鉄砲玉気質だな、副主任さんは」
「止められない飛び道具」
ユキの無表情な一言に、メイは思わず吹き出した。
(おかげで、眠気がふっ飛んだな)
制服に着替えたメイは、そのまま展示エリアへと向かった。
新しい展示の顔にふさわしい写真は、すでに二点に絞ってある。
一枚は──
紅葉の中、小さく後ろ姿で写る人物の写真。
公園のベンチにぽつんと座っていて、景色の中に自然と溶け込んでいる。
人の寂しさや、季節のうつろいを表そうとした、そんな一枚。
もう一枚は、屋外カフェで笑っている女性の横顔。
自然光が差し込む席、背景には緑。
“自然”を背景に、人物の心の動きを捉えようとした写真だった。
どちらも、綺麗で、洗練されていて、写真としては文句のない出来だった。
──だけど。
「……なんか、しっくりこないんだよなぁ」
メイはそうつぶやきながら、展示エリアの入口をくぐる。
今はまだ、『森のうたうきつね展』の展示が続いている。
空間を見渡しながら、新しい展示の風景を重ねてみる。
でも、どうしても上手く浮かんでこない。
未来のイメージが、そこに馴染んでくれない。
「……はぁ」
思わず、大きなため息がこぼれた。
◇◇◇
開店時間を迎え、カフェ・ラフォーレリーヴルスの営業が始まった。
土曜日ということもあり、朝から客足は早く、カフェフロアはすでににぎわっている。
展示エリアでは、開催中の『森のうたうきつね展』が、あと数日で幕を下ろす。
それを知ってか、朝から数人の来場者が足を運んでくれていた。
「このおばあちゃん、お孫さんとか、いらっしゃるんですか?」
一人のお客さんが、パネル前で写真を見ながらメイに尋ねた。
「いえ、実は……お子さんも早くに亡くされていて……」
メイは、いつものように説明を返す。
──でも、どこか気もそぞろだった。
言葉に、芯がない。
「ありがとうございます」とそのお客さんが展示エリアをあとにしたあと、メイはひとり、胸の内で反省していた。
(こんなんじゃ、ダメだよ……ちゃんとしないと)
気を抜いてるつもりはなかったのに。
でも、今朝から、ずっと心の奥に引っかかっている感覚が抜けない。
そんなふうに思っていた時だった。
ふと、入り口に気配を感じて、メイは顔を上げた。
そこにいたのは──
一人の女の子だった。
淡いブラウンのロングワンピースに、ゆるく揺れる髪。
どこか空気のように、静かでやわらかな存在感。
その子は、展示エリアの写真をひとつひとつ、時間をかけて丁寧に見ていた。
自然と、目が離せなくなった。
メイは、その子の立ち姿に、なぜか目を奪われていた。
すると──ふいに、その子が振り返った。
一瞬だけ、視線が交差する。
メイは少し戸惑いながらも、「いらっしゃいませ」と、軽く会釈を返した。
その子は、にこっと微笑んで、また静かに展示へと視線を戻す。
──なんだろう、この子。
初めて見るのに、なぜか心に引っかかる。
まるで風が通り過ぎたあとのような、
胸の奥にふわりと、何かが残る感覚だった。
メイはその子から、そっと目を離せずにいた。
その子の視線の先には、矢鞠のおばあちゃんの写真があった。
『森のうたうきつね』の作者。
白黒の一枚に映る、朗らかに笑ったおばあちゃんの顔が印象的だった。
メイはそっと歩み寄る。
声をかけようとした、そのとき──
その子が、ふわっとした声で尋ねてきた。
「写真、とってもいいですか?」
「あ、はい、どうぞ…!」
不意をつかれて、少し慌てながらも答えるメイ。
その子はバッグの中から一台のカメラを取り出した。
黒にシルバーの装飾が施された、どこか懐かしさのあるレトロなカメラ。
静かに構えると──
矢鞠のおばあちゃんの写真に、シャッターを一枚、切った。
パシャリ。
また、じっと展示写真を見つめている。
メイは、その子の隣に立った。
「……この写真、いい顔してますよね」
そう話しかけると、その子はふとつぶやいた。
「とても、寂しそう。」
「えっ……?」
思わず声が漏れる。
笑顔の写真なのに──どうして?
返答に迷うメイをよそに、彼女はまた言った。
「笑ってるけど、寂しそう。」
少し間を置いて、ぽつりと続ける。
「……笑ってるけど、まわりに誰もいないから、かな」
そう言って、再びメイの方を見て、にこっと笑った。
ふわっとしてるのに、
どこか芯のあるものが見え隠れする。
感情が置いていかれるような、不思議な感覚。
メイは、その言葉の余韻に、しばらく動けずにいた。
「今撮った写真……見ますか?」
ふいに差し出された言葉に、メイは少し戸惑いながらも答えた。
「……いいんですか?」
その問いに、彼女はにこっと笑ってうなずく。
カメラを掲げ、手元のモニターを操作しはじめた。
メイはそっと近づき、その画面をのぞき込む。
差し出されたカメラのモニターには、さっき撮った一枚が映し出されていた。
矢鞠のおばあちゃんの写真が、画面の中央に小さく写っている。
そのまわりには、ぽっかりと余白のような空間が広がっていた。
──誰も近づけなかった、あの人の距離感。
──有名になったがゆえの、静かな孤独。
そんな空気を、まるごと写し取ったような写真だった。
光はやわらかく、けれどどこか陰りがある。
おばあちゃんの笑顔は同じなのに──
何かが、まるで違って見えた。
(同じ笑顔なのに……どうしてこんなに違うの?)
言葉が出てこない。
ただ、静かに胸の奥がざわついていた。
その時──
ダッ、ダッ、ダッ──
廊下から、けたたましい足音が近づいてくる。
「メイちゃん!いる? 来てるって!」
詩音が声とともに、勢いよく展示エリアに飛び込んできた。
中に人がいると気づき、「あ、失礼しました!」と慌てて言いかけたそのとき──
「凛々花ちゃん!!」
その声に、
「え?」と聞き返すメイ。
「え?」とびっくりする詩音。
「え?」と面白がる凛々花。
三人の声が重なって、展示エリアの空気が一瞬、固まった。
──メイは笑顔も固まったまま。
(この子が、凛々花ちゃん……なんだ)
頭の中に風が吹き抜けたみたいに、メイの思考が真っ白に飛んでいった。
その静けさを破ったのは、詩音だった。
「凛々花ちゃん、久しぶり〜!」
満面の笑顔でまっすぐ歩み寄る。
凛々花は、にこっとしたまま首をかしげた。
「おじいちゃんライブの後、全然見なかったから、どうしちゃったのかなって」
目の前まで来た詩音がそう言うと、凛々花は少しだけ考えるような顔をして──
「……よかった」
ぽつりと、やわらかく呟いた。
けれど、その言葉は詩音には届かない。
「あんなに来てたのに……もー、心配しちゃったよ!」
詩音が続ける。
「今週、大学の課題で忙しかったから……」
「そっかぁ、なら良かったぁ!」
詩音の明るい声が空気を包み込んだ。
少しずつ、展示エリアの空気も落ち着きを取り戻していた。
「あ、そうそう」
思い出したように詩音が声を上げ、凛々花の背に手を添えて、くるりとメイの方へ向ける。
「メイちゃん、こちら、伊藤凛々花ちゃん」
呆気にとられていたメイは、ハッと我に返ると、あわてて姿勢を正した。
「あ、平瀬メイっていいます。よろしくお願いします」
少し緊張した面持ちで、ぺこりと頭を下げる。
すると、すぐに返ってきた言葉。
「……メイちゃん」
いきなりの呼びかけに、思わずメイのまばたきが止まった。
(えっ、いきなり下の名前!?)
戸惑うメイをよそに、凛々花はあどけない笑顔のまま、少しだけ首をかしげた。
「よろしく…です」
まっすぐこちらを見て、にこっと笑うその顔に、メイはなんだか不思議な感覚を覚えた。
「え、で? どんな課題だったの?」
詩音が興味津々とばかりに話を振る。
「えっと……写真とレポートを出すの。“一過性の美しさ”じゃなくて、“継続して存在する時間”について……」
「いっかせい……? けいぞく……のじかん?」
詩音が人差し指をあごに当てて、ポカンとした顔になる。
凛々花はふっと笑って、小さく問いかける。
「……写真、見る?」
「見る見る!見たい!」
はしゃぐ詩音に、凛々花はちらりとメイのほうを見る。メイも思わず笑って、軽くうなずいた。
「うん、私も見てみたいです」
凛々花は肩からバッグを下ろし、丁寧な手つきでタブレットを取り出す。
「……あんまりすごいのじゃないけど」
そう言いながら起動したタブレットの画面を、両脇から詩音とメイがのぞき込む。
ほんのり甘い香りが、そっとメイの鼻先をくすぐった。
タブレットに映し出されたのは──
木陰でしゃがんでいる女の子の、後ろ姿の写真だった。
──
風の止んだ、森の中の午後。
薄曇りの空が、枝の隙間から、にじむように光を落としている。
その木陰に、ひとりの女の子が腰を下ろしていた。
顔は見えない。こちらに背を向けて、落ち葉をじっと見つめている。
──何をしているのかもわからない。
──なぜそこにいるのかもわからない。
けれど、その一枚には、妙に“時間”の気配があった。
止まっているようで、でも確かに流れている。
風の音さえ聞こえてきそうな、静かな静けさ。
──
メイは、胸の奥から込み上げてくるものを、どうにも抑えられなかった。
「……なんだろう、この写真」
正直、構図は甘いし、ピントもわずかに泳いでいる。
けれど、それでも──目が離せなかった。
森の匂いさえ伝わってくるようだった。
静けさの中に、誰かの“時間”があって、
それが、ちゃんと写真の中に“残ってる”ように思えた。
撮ろうとしたんじゃなくて──写った。
そんなふうに、思えた。
メイは、言葉を失っていた。
「なんか、いいね。この写真」
詩音のひとことに、凛々花はふわりと微笑んだ。
「ね、メイちゃん」
凛々花の顔越しに、詩音がメイをのぞき込むようにして言う。
その声にハッとして、メイは慌てて返す。
「……うん。なんか、“場の空気”そのままっていうか……自然に、存在してるっていうか……すごい」
言葉はしどろもどろ。だけど、そう口にした瞬間、心の中にかかっていた厚い雲が、一気に晴れた気がした。
その様子を見て、詩音はすべてを察したように笑う。
「……メイちゃん、なんかあるでしょ?」
メイは一瞬たじろぎ、詩音はニヤッと笑って言う。
「迷ったときは、ストレート勝負だよ!」
「ああ……」
声ともため息ともつかないリアクション。
でも、詩音の声に背中を押され、メイは一歩後ろに引いて、胸に手を当て、ひとつ深呼吸をした。
そして、凛々花の方を見ながら──少しずつ、言葉をこぼす。
「あの……この写真、展示の“顔”に……できたらって、思って……」
「いいですよ」
凛々花の声は、カラッとしていた。
一瞬、空気が止まる。
「えっ、いいの?」
あまりにあっさりした返事に、メイは目をまん丸にする。
「うん。この子たちも、きっと喜ぶと思うから」
タブレットの画面に目を落としながら、ふわっと微笑む凛々花。
「この子たち…?」
不思議顔のメイに、凛々花は「あ、写真のこと…」と付け足した。
「よかったね、メイちゃん!」
詩音が勢いよく言う。
「……うん」
メイは心の中で思いきりガッツポーズしたけれど、緊張が一気にゆるんで、体はふにゃっと動けなくなった。
「ありがとうございます……」
それが、ようやくしぼり出せたひとことだった。
たった一枚の写真が、静かにふたりを結びはじめた。
ここまで読んでくださってありがとうございます!




