第86話 焦点の合わない風景
おじいさんバンド、スイング・ブラスのストリートライブの翌日。
午後三時過ぎ。
この日、ふれあい文学館でのイベント手伝いを終えたメイは、その足でカフェ・ラフォーレ リーヴルスへと向かっていた。目的は、十一月から始まる展示エリアの構想を、もう少し形にしてみること。
──あのとき、メイの自宅で第2回キャンプ計画の話をしていたときのこと。
詩音がふと見せてくれた一枚の写真。
トレーを胸に抱えて少し横を向いた、なんでもない仕草の詩音が写っていた。表情も、ごく自然だったのに、不思議と目が離せなかった。惹かれてしまった。
作られた美しさじゃない。
何気ない瞬間にこそ、“自然”の魅力は宿る──
そんな感覚が、胸の奥でひとつ、形になった気がした。
「自然のよさを押しつけるんじゃなくて、ありのままを伝える展示にしたい」
そう思えたのは、きっとあの写真のおかげだった。
──とはいえ、まだふわっとしたイメージしかない。
具体的に何をどう見せたらいいのか、そこまでは掴めていない。
できることなら、あの写真を撮った凛々花ちゃんと話してみたい。
そんな気持ちを胸に、メイは小走りで、ラフォーレのドアをくぐった。
社員用入口から控え室へ入ると、中ではアルバイトのくるみがちょうど休憩中だった。
「あ、メイさん。おはようございます〜」
テーブルの上には食べ終わったばかりのキッシュのプレート。くるみはアイスコーヒーのストローを口にしながら、にこっと笑った。
「おはよう、くるみちゃん。
今日、どう?忙しい?」
メイが声をかけると、くるみは肩を軽くすくめて言った。
「まあまあですね。日曜日なんでそれなりに。でも、昨日のライブの後に比べたらぜんぜん楽です」
「だよね、昨日はすごかったもんね。スイング・ブラス、迫力あったなぁ……」
そんなふうに話していると、扉が開いて詩音が入ってきた。
「うひゃ〜、筋肉痛! 昨日のライブ、張り切りすぎたかも〜」
「詩音さん、めっちゃ踊ってましたもんね」
くるみが笑いながらそう返すと、詩音も笑ってうなずいた。
「あ、メイちゃん。おはよう!」
「おはよう、詩音」
詩音は賄いのキッシュプレートをテーブルに置きながら、ふとメイの顔をのぞくように見る。
「メイちゃんは大丈夫? 私、手のひらがまだジンジンしてる〜」
「あはは、私も。手拍子、全力だったもんね」
「くるみちゃんは?」
「私は何ともないです〜」
肩をすくめるくるみに、詩音はおおげさに言った。
「おおっ、これが“ふたつ違い”の現実か…!」
「いや、それは関係ないと思うけど……」
メイは苦笑いしながら首をかしげた。
ひとしきり笑ったあと、メイはふと思い出して口を開く。
「そういえば……凛々花ちゃん、今日来てる?」
「それがね、昨日も今日も顔出してなくて」
「そっか……ちょっと聞きたいことあったんだけどな。写真のこととか」
メイの声に、ふと名残惜しそうな響きが混じった。
「あ、凛々花ちゃんが撮った写真、見る?」
詩音が、ぽんと思い出したように言った。
「うん、見たい」
メイがうなずくと、詩音は立ち上がって控え室の棚へ向かった。上に置かれていた白い封筒を手に取り、振り返って「はいっ」とメイに差し出す。
「ありがとう」
封筒を受け取り、メイはそっと中身を取り出した。中には2L版の写真が何枚も収められていた。
写っていたのは、自然な店内の一瞬や、スタッフたちのふとした表情。どれも構えたところがなく、それでいて、どこか語りかけてくるような力を感じさせる写真たちだった。
(すごく……ステキな写真。こういうの、展示にできたら)
写真を一枚ずつめくりながら、メイは無意識に息をのんでいた。
「凛々花ちゃんの連絡先って、わかる?」
写真を見ながら、メイは詩音に聞いた。
「それがさ……聞いてないんだよね、連絡先」
「そっかぁ……」
残念そうに呟いたメイに、詩音がそっと言葉を添える。
「十一月からの展示のことだよね。あんなに来てたのに、最近はパタッと顔出さなくなっちゃって」
詩音の言葉を聞きながら、メイは封筒をそっと閉じた。
写真はどれも魅力的だったけれど、それだけでは足りない気がしていた。
なにかが、決定的に足りない。
──新しい展示まで、あまり時間がないのに。
じわじわと、焦りのような感情が胸に広がっていく。
そんな時、不意に頭に浮かんだのは、あの人の顔だった。
森のうたうきつねの展示で、いろいろと助けてくれた人。
──葛城書店の店長、柳森淳子。
「……淳子さんに、相談してみようかな」
ぽつりと漏れたメイの声に、詩音がすぐに笑顔を向ける。
「それ、いいんじゃない? 淳子さんなら、きっとアイデアくれるよ」
その言葉に、メイはうなずいた。
「うん……そうしよう」
何かを振り切るように、メイはしっかりと答えた。
◇◇◇
──翌日、葛城書店。
メイは大きめのトートバッグを肩にかけて、自動ドアをくぐった。ドアが静かに開くと、店内に広がる紙とインクの混ざったやわらかな匂いが、ふわっと鼻をくすぐる。
ぐるりと視線を巡らせると、店長の柳森淳子が、ワゴン什器──“シマ”と呼ばれるエリア──の前で、しゃがみ込むようにして作業をしていた。
「こんにちは」
メイが声をかけると、淳子は手を止めて顔を上げた。
「あら、メイちゃん。いらっしゃい」
いつもと変わらない、やさしい笑顔。
「新刊のPOPですか?」
「ええ。新刊だから、なるべく早めにね」
ワゴンに並ぶ数冊の本には、それぞれ手書きのPOPが添えられていた。カラフルなペンで描かれた文字とちょっとしたイラストに、本の内容や魅力が簡潔にまとめられている。
「こういうのって、淳子さんが書いてるんですか?」
「んー、私だったり、うちの子だったり。これは私のだけどね」
「これ見ると、つい読みたくなっちゃうんですよね」
「まあ、うれしいこと言ってくれるじゃない」
淳子がにこっと笑う。
そしてそのまま、ふとメイの顔を見て、少し声を落とした。
「で、今日は何を聞きにきたのかしら?」
「えっ?」
メイは少し目を丸くした。
「だって、『わたし、困ってます』って顔に書いてあるもの」
そう言って、またニコッと笑う淳子。
「……はぁ……」
思わず下を向いてしまうメイ。けれど、ひと呼吸おいて、顔を上げた。
「淳子さん……ちょっと、お話してもいいですか?」
「もちろん。ちょっと中で話そうか」
淳子は近くのスタッフに軽く指示を出しながら、奥を指さした。
メイは小さくペコリと頭を下げて、“Staff Only”のプレートが貼られた扉へと歩いていった。
ドアを開けて中へ入ると、パーテーションで仕切られた細い廊下が続いていた。右手のドアに「応接室」のプレート。中の部屋というのは、きっとここだ。
──何度か来たことがある。
メイはそう思いながら、軽くノックしてドアを開けた。
中は、小さな応接スペース。書店のバックヤードとは思えない、落ち着いた北欧風のインテリアで整えられていて、とても居心地がよさそうな空間だった。白木の家具と、植物のグリーン。それに、窓際のシェルフに並べられた数冊の洋書と、やかんのかたちをした陶器の置物。
──ああ、そうだった。
以前ここに通されたのは、ふれあい文学館の仕事で来た時。あの時は、ただ淳子さんと話すってだけで、ひどく緊張していたっけ。
そんな記憶がふっとよみがえってきて、思わず笑ってしまった、そのとき。
コンコンコン。
「お待たせ」
笑顔で淳子が現れた。
「すみません、忙しいのに」
「ううん、大丈夫。うちの子たち、優秀だから。私なんてもういらないって顔してるくらいよ」
手をすっとかざしながら、冗談めかして笑う淳子。メイも自然と笑顔になっていた。
「さあ、座って」
そう言われてメイがソファに腰を下ろすと、淳子も向かいの椅子に座った。
「で、何かあったのかしら?」
「十一月からの展示のことで……相談があって」
「ラフォーレの新しい展示のことね」
ぱらぱらと資料を手に取っていた手を止め、淳子が顔を上げる。いつもと変わらず、落ち着いたまなざし。淡々としているのに、ちゃんと向き合ってくれている。
その視線に背中を押されるように、メイはバッグの中から、展示のアイデアをまとめたノートを取り出した。
「“自然”っていうテーマで通したんですけど……」
「それ、敦子さんから聞いてるわよ。メイちゃん頑張ってるって」
「いえいえ……実は、最近まで、ちょっと迷ってたんです」
ノートを開きながら、メイはゆっくりと言葉を選んだ。
「最初は、“自然の美しさを伝える展示”にしようと思ってたんです。風景写真とか、アウトドア雑誌の紹介とか。でも、それって、なんだか自分の言葉じゃない気がして……」
ページをめくる。そこには、詩音の写真を見たあとに書き留めた、いくつかのメモの断片が並んでいた。
「この前、ある写真を見たんです。詩音が写ってる写真で……ただ、トレーを持って、振り向いてるだけの、なんでもない瞬間なんですけど」
言葉を止めて、メイはふっと息をのんだ。
頭の中に、あの時の感覚がよみがえる。
「でも、その写真の中に、空気とか、時間の流れとか……言葉にできない“自然なもの”が、たくさん詰まってたんです」
目を伏せながら、続けた。
「私、思ったんです。“自然”って、山とか森だけじゃなくて──誰かがふと気を抜いた瞬間の中にもあるんじゃないかって」
「そういう“人と自然のまんなかにある一瞬”を、写真で集められたらいいなって。
生活のすぐ隣にある“かすかな揺れ”みたいな…。
何かを説明するんじゃなくて、“ただそこにある”っていう感じを、展示できたらって」
言い終えて、ノートを閉じる。
そして、正面を向いた。
「だから……そういう写真を撮ってる人、淳子さんの知り合いにいませんか?」
メイの言葉をひと通り聞き終えて、淳子は少しのあいだ黙っていた。手元のペンを指先で転がしながら、何かを噛みしめるように。
やがて、ふっと笑う。
「……なるほどね。らしいじゃん。
メイちゃんらしい」
「えっ……?」
「うん。たぶん他の人だったら、“自然”ってテーマを風景で固めると思うよ。でも、そこに“人の空気”を持ち込むって発想、なかなかない」
メイは小さくうなずく。少しだけ、肩の力が抜けたような表情だった。
「私ね、昔から写真展ってちょっと苦手だったの。綺麗なんだけど、なんだか“見る専用”のものって感じがして。触れないし、入りこめないし」
「……」
「でも、今の話を聞いてて、ちょっと違うなって思った。“見る”っていうより、“感じる”展示になるかもしれないって。写真を通して、見る人の記憶とか感覚とかが引き出されるような」
それは、まるで“読書”に近い感覚──
そんな言葉を、淳子は心の中でそっと飲み込んだ。
「で、そういう写真を撮る人、いるかもしれないわよ」
メイの目がぱっと上がる。
「直接の知り合いじゃないけど、地元の展示で見たことがあって。アマチュアだけど、空気の切り取り方がちょっと独特な人、何人か心当たりがあるの。声かけてみようか?」
「……いいんですか?」
「もちろん。今の話、私、けっこう好きだったし」
そう言って、淳子は引き出しからメモ帳を取り出した。
ペンを走らせながら、ぽつりとつぶやく。
「……メイちゃん、ほんと変わったわよね」
「えっ……?」
「前は、あんまり“前に出る”タイプじゃなかったのに。やるときはやるのね」
「い、いえ……そ、そんなことないです……!」
「ふふ。そう? じゃあ、私の勘違いってことで」
いたずらっぽく笑うその顔は、どこか優しくて。
その感じが、メイにはちょっとくすぐったかった。
◇◇◇
──数日後。
カフェ・ラフォーレ リーヴルスの控え室。
ノートパソコンを前に、メイと淳子が並んで座っていた。
「これ、常田くんの写真。近所の山で撮ったって」
画面には、色づいた木々の合間を歩く人物の後ろ姿が映っている。
「……きれいですね」
メイは目を細めながら、ゆっくり言葉をつむぐ。
「ただ、なんというか、“自然を見せてます”って感じがします」
「だよね」
淳子が別のフォルダを開く。
「これは? 夕暮れの浜辺。人は小さく写ってるけど、光の入り方がいいでしょ」
メイはしばらく黙って画面を見つめた。
柔らかな逆光。足元の波。風に揺れる髪。
「……うん。この空気、少し近いかも」
でも、どこか引っかかる。言葉にならない違和感。
ほかにも、焚き火を囲むキャンパーの笑顔。
星空の下で寝転ぶ若者。
どれも、構図は美しい。光も、色も、計算されている。
けれど──
「……うまく言えないんですけど、どれも“ちゃんとしすぎてる”気がして」
「写真としては、すごく素敵なんです。でも、見てる側の心が入る隙間がないような……」
「ふふ、厳しいな」
そう言いながらも、淳子は頷いた。
「でも、わかる。説明的っていうか、“ここがいいでしょ”って先に言われちゃってる感じ」
メイは小さく息を吐いた。
「でも、締切もあるし、そろそろ固めていかないとね」
「ええ……決めるのは、写真だけじゃないですから」
メイは、仮の候補として数枚をピックアップしたフォルダを開いた。
展示のベースに使えそうなものは、いくつか見つかってきている。
あとは──
「問題は、“展示の顔”なんですよ……」
「最初に目に入る一枚。キービジュアルになる写真ね」
「はい……そこが、どうしても決めきれなくて」
メイは肩を落としながら、画面を見つめた。
数枚の候補がデスクトップに並んでいた。どれも、完成された「正しさ」を纏っている。
「焦らなくて大丈夫。今日は“土台”をつくったってことで。
顔の一枚は、ゆっくり探していきましょ」
「……はい。少し、考えさせてください」
淳子がうなずく。
ひとまず選定作業は終わった。けれど、メイの胸の中には、わずかに消化しきれない感覚が残っていた。
◇◇◇
ラフォーレからの帰り道。
展示資料の入った重たいトートバッグを肩にかけ直しながら、メイは公園の中を歩く。
赤く染まった木々のあいだを、夕暮れの風がすり抜けていく。
「展示の顔、かぁ……」
ふぅっと、静かにため息をついた。
空気はどこか柔らかくて、でも少しだけ、心に引っかかる。
──何かが、まだ、足りない。
メイは立ち止まって、ほんの一瞬だけ空を見上げた。
薄紅色の雲が、静かに流れていた。
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