表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
85/139

第85話 スイングは、風に乗って


「いや〜、さすが総美高の吹奏楽部。見事でした!」


加輪隅の声が、マイク越しに会場へ戻ってくる。

演奏を終えた女子高生たちは、照れたようにぺこりと頭を下げ、拍手が大きく響き渡るなか、少し後ろに下がって控えめに立つ。


「どうです? あの顔つき。将来が楽しみですねぇ。……え? 見えなかった? 老眼ですねぇ、それは」


ぽつん、と誰かが吹き出したのをきっかけに、客席がくすくすと笑いに包まれる。

まるで場全体の空気が、一度ふわっとほどけたようだった。


女子高生たちは照れくさそうに、ひそひそと笑いながら加輪隅の陰に隠れたり、後ろを向いたりしている。

拍手はまだ鳴りやまず、彼女たちの頬もほんのり赤い。


そのステージ上、MCを続ける加輪隅の背後では——


「……そろそろ限界……」

「指が、つりそうじゃのう……」


大内さんと小嶋さんが、それぞれ手や肩をさすりながら、笑顔を引きつらせていた。

草薙はというと、無言のままペットボトルの水を飲み干している。のど仏だけが、ごくりごくりと動いていた。


「あららら〜」


いつもの調子で、鈴木さんがペットボトルを倒し、水をぶちまける。


「おい、またかよ! 楽器にかかるだろうが!」


堀内さんが険しい顔で声を上げるが、鈴木さんはケロッとした様子で床をタオルで拭きはじめた。


そんな喧騒のなか、ひとり静かに固まっていたのが——工藤さんだった。


ドラム椅子に深く腰をかけ、正面を向いたまま、まるで彫像のように微動だにしない。


「……工藤ちゃん?」


キーボードの三宅さんがそっと声をかけると、ようやく工藤さんの口が動いた。


「すまん。代わってくれ」


その声も、表情も、まるで波風ひとつ立たない。

淡々とスティックを置いたその手を、隣からスッと伸ばされた手が受け取る。


「んじゃ、最後はわしが締めようかね」


にやりと笑ったのはパーカッションの吉田さんだった。

いつの間にかスタンバイしていたようで、ひょいと工藤さんの後ろにまわり、椅子の背を軽く叩いた。


観客席からは気づかれない、静かな交代劇。

でも、たしかにバンドの空気が、少しだけ入れ替わっていた。


「せっかくなんで、女子高生にはもう少しお付き合いしていただこうかと……」


またもや加輪隅の無茶ぶりが飛び出す。

ステージに残っていた三人の女子高生たちは、えっ、という顔で一瞬だけ目を見合わせた。

だが、それを打ち消すように、会場のあちこちから拍手が湧き上がる。


「じゃあ、こっち来てくれるかい?」


三人の背後から、草薙が静かに、けれども断る余地を与えないような声で呼びかけた。

その声音には、不思議と圧がある。

それでも、ショートカットの子とポニーテールの子は、まんざらでもない様子で頷き、譜面台のほうへと足を運ぶ。少し遅れて、メガネの子も後に続いた。


草薙の譜面台を囲むように、三人が会場を背に並ぶ。

「ここはこうで……」

「この終わり方、いけそうか?」


草薙が短く説明を始めると、すぐに小嶋さんと大内さんも寄ってきて、加輪隅を交えての簡単な打ち合わせが始まった。

楽譜を指さしながら、ほんの数秒で音と動きの確認が進んでいく。


ベテランと若手、年齢差なんておかまいなしのセッション前の光景だった。


「いや、私もね、こんな展開になるなんて夢にも思いませんでしたけど……音楽って、ほんとに世代を超えるんですねぇ」


加輪隅がマイク片手に、どこか嬉しそうに語る。

会場からはまた、あたたかな拍手が湧いた。


その裏では——


「どうかな? 大丈夫そうかな?」


草薙が、柔らかな声で三人に問いかける。

すると、トランペットのショートカットの子が、自信たっぷりに笑った。


「はい。実はこの曲、小学校に演奏に行ったとき、やったばかりなんです!」


ポニーテールのサックスの子も楽譜を指さしながら、確認を入れる。


「ここのキメ、これで合ってますよね?」


「うん。でも、あんまり構えなくていい。自由に、楽しくやればそれでいいさ」


草薙のその一言に、三人の表情がほんの少しゆるむ。

けれど、ひとりだけまだ不安そうな顔をしていたのは、トロンボーンのメガネの子だった。


「……できるかなぁ」


小さな声に、小嶋さんがそっとその肩をポンと叩く。


「大丈夫じゃよ。命取られるわけじゃないからのう」


その笑顔は、まるで孫に向けるような優しさだった。

メガネの子は驚いたように一度目を見開き、それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。


そんな打ち合わせの輪を、加輪隅がステージ前方から振り返る。

無言のまま「いけるか?」と目で問いかけると、草薙がニヤリと頷いた。


ショートカットの子とポニーテールの子が、すっと親指を立てる。

少し遅れて、メガネの子も、ぐっと小さく拳を握った。



それを見届けると、加輪隅はくるりと会場の方へ向き直った。


「さぁ、いよいよ最後の曲です!」


途端に、「え〜〜っ!」という声が、あちこちからいくつも重なる。

あっけない終わりを惜しむような、子どもたちの素直な叫びに混じって、大人たちの笑いもちらほらと聞こえた。


「……これ以上やると、何人かが天に召されるので」


加輪隅が笑いながらそう付け加えると、観客からはどっと笑いがこぼれた。

ステージの上では、すでにおじいさんたちがいつもの配置に戻り、女子高生たちもさっと並び直している。

それぞれが加輪隅に目線で合図を送り、息を整えるように深くひと呼吸。


「それでは! 最後は、私たちが最近、テレワークで練習してきた“最新の曲”で締めましょう!」


そう言って、加輪隅は会場全体を見渡しながら、にっこりと笑う。


「みなさん! 歌って、踊って、楽しんでいきましょう!」

——『恋するフォーチュンクッキー!』


どよめきが起きると同時に、


チッ、チッ、チッ——


パーカッションの吉田さんがスティックでテンポを刻む。

次の瞬間、キーボードの和音が、スネアのリズムにぴたりと重なって、軽やかに空気を揺らす。

チャッ、チャッ、チャッ——

そこにアルトサックスが、滑り込むようにフレーズを差し込んだ。


♪ タラ・ララ〜


その音に、会場の空気がほんのわずか跳ねた。



「……『最新』って、十二年前の曲じゃん……」


カフェ・ラフォーレ リーヴルス店内のカウンターで、沙織がぽつりと漏らす。

その隣でユキは、変わらぬ無表情のまま、じっとステージを見つめていた。



ホーンセクションとトランペットが一斉に重なり、イントロが華やかに弾けた。

キーボードとサックスが作った軽やかなリズムに、今度は音の厚みと輝きが乗ってくる。

会場のあちこちで、「あっ」と小さく声が漏れ、すぐに手拍子と歓声が巻き起こった。


詩音も、そのイントロにすぐさま反応した。


「え、うそ! 小学校の運動会で踊ったやつじゃん!」


その声に、隣のメイもぱっと顔を上げる。


「私も! これ、お楽しみ会で踊ったやつだよ!」


メイの目がキラキラと輝き出す。

隣を見ると、すでに詩音は立ち上がって、リズムに合わせて小さく体を揺らしていた。

思い出したような動きで、軽くステップを踏み、笑いながら手をひらひらと振っている。



Aメロが始まる。


ステージでは、小嶋さんのアルトサックスが、柔らかく主旋律をリードしていた。


音に合わせるように、詩音のダンスも本格化する。

手のひらをひらひらとさせながら、足を交互に出してステップを踏む。

その動きに触発されたように、ラフォーレのアルバイト、くるみや亜里沙も笑いながら手拍子を始め、前方にいた子どもたちも真似してぴょこぴょこと体を揺らしはじめた。


演奏の端では、高校生トリオも必死に音にくらいついていた。

最近やった曲だけど、こんなに大勢の前で演奏するのはまた別物。

顔には緊張がにじむが、それでも音をつなぎ続けている。



そして、ステージの端。


工藤さんが、無表情のまま、椅子に座ってカスタネットを打っていた。

パチン、パチン。

まるで機械のように正確なタイミングで、空白を切り裂くように響くその音。


(……タンバリン、積み忘れたな)


吉田さんがスティックを動かしながら、心の中でそっとツッコむ。



「ドラムだった人、カスタネット持ってるんだけど」

沙織がまたボソッと笑う。

すると、隣のユキが、相変わらずの無表情でつぶやいた。


「……あのビート、すごすぎ」


沙織は思わず二度見した。


(えっ、そっちの視点!?)



Bメロに入ると、会場の空気がさらに動いた。


——ぼんやり聴いていたら〜♪


フレーズに合わせて、観客の肩が、足元が、つま先が、自然にリズムを取りはじめる。

子どもたちはますます元気よく、詩音は全力で踊り、メイの笑顔は崩れっぱなし。


スイング・ブラスのおじいさんたちも、体を軽く揺らしながらリズムを合わせている。



トロンボーンのメガネの子がふと、困ったように加輪隅を見た。


加輪隅は吹きながら、チラリとメガネの子にウインクする。


「だいじょうぶだよ」


言葉に出すことはなくても、そんな気持ちが宿っていた。


そしてまた、音がつながる。

さっきよりも少しだけ、メガネの子の音が大きく、まっすぐになっていた。



サビに入ると、誰ともなく声が合わさる。


——恋するフォーチュンクッキー〜♪


会場が手拍子と合唱モードに突入した。


吉田さんはクラップの音を思いきり弾ませ、加輪隅は小さなステップを踏みながら、まるで昔の舞台を思い出すように演奏していた。


「テレワークで合わせたって……かなり、まとまってる」

淳子がぽつりと呟く。

隣を見ると、敦子は「そうよね〜」と言いながら、いつの間にか手を振って踊っていた。


──そして、サビのおわり。


——♪ 人生 捨てたもんじゃないよね

あっと驚く奇跡が起きる〜♪


そのフレーズの直後、観客の手拍子がぴたりと決まる。


チャ、チャッ。


一糸乱れぬ、合いの手。

会場とステージ、タイミングもぴったりだった。



サビからの、Bメロ2回目。

——ここからは、女子高生たちの時間だ。


ショートカットのトランペットの子が、音を吸い込むようにして構える。

一拍、溜めて、音が放たれた。


——♪ カフェテリア 流れる music〜


その音は、まるでメロディを“言葉の代わりに吹いている”ようだった。

やや高めの音色が、空気の上をすうっと滑っていく。


すぐ隣では、ポニーテールのサックスの子が、軽やかな裏メロを添えていく。

音と音が重なって、まるで会話をしているようだった。


少し遅れて、メガネのトロンボーンの子が一歩前に出る。

ほんの一瞬、構えた手が小さく震えた。

けれど、出てきた音は、柔らかくて、深かった。


3つの音が重なる。


──カモンカモン カモン カモンベイビー。

——占ってよ♪


瞬間、全体がフルユニゾンで駆け抜けた。


♪ 恋するフォーチュンクッキー〜♪


観客の手拍子と歓声が、今度は爆発的に沸き起こる。

まるで誰かがスイッチを入れたかのように、会場のあちこちで体が動き、声が上がった。


前列で踊っていた詩音に続いて、メイもくるっと一回転。

淳子も「うふふ」と笑いながら、両手を肩の高さに上げてリズムに乗っていた。

気づけば、会場のあちこちで、老若男女、みんなが自然と踊っている。



——ステージの上。


サビパートが、穏やかに流れていく。


女子高生たちはもう、どこか安心したような表情。笑顔を交わしながら、音を重ねる。

メガネの子も、さっきまでのこわばった表情はどこへやら、柔らかな目元で息を合わせている。


加輪隅が、にやりとして、サイドステップを踏む。

トロンボーンを左右に揺らすと、それにメガネの子も合わせて動いた。

ポニーテールの子も、ショートの子も、吹きながら体を揺らす。


──まるで、おじいちゃんと孫たちが、一緒に遊んで笑っているみたいだった。


ホーンの響きはにぎやかで、温かくて、どこか懐かしい。そのユニゾンが、笑い声のように街角を包んむ。


会場全体が踊っていた。


その熱が、ステージに届き、ステージからまた跳ね返る。

ぐるぐると循環するそのエネルギーは、音を鳴らしているというよりも、空気を丸ごと揺らしていた。


ピッチがズレてもいい。

テンポがほんの少し遅れてもいい。

そのたびに、ベテランのおじいたちが、さりげなく、なにもなかったように包み込んでいく。


誰もつまづかないように。

誰も、取り残されないように。


音楽がうまいとか、正確とか、そういうのじゃなかった。


ただ、そこに流れていたのは、間違いなく──“幸せな空気”だった。


そして、最後の音が鳴り終わったとき。

ほんの一拍の静寂を挟んで、拍手が、会場を満たした。


どこからともなく、自然に、力強く、惜しみなく。


笑顔とともに、音楽は幕を閉じた。



──拍手が、止まらなかった。


演奏を終えた女子高生たちを、加輪隅と草薙が手招きする。三人はステージ中央へと進み、横一列に並んだ。


ショートカットの子とポニーテールの子が、笑顔で手を振る。

メガネの子は、観客席をゆっくりと見渡す。

あちこちから手を振る人たちの笑顔が目に入るたび、胸の奥が熱くなる。込み上げてくるものを抑えきれず、そっと顔を手で覆って、うつむく。

それに気づいた隣のポニーテールの子が、体を寄せ、震える肩にそっと腕をまわした。


「……もぉ〜泣かないでよ」


そう言いながら、自分の目元も潤んでいる。

そこにショートの子が、二人に向き直り、ぎゅっと抱きしめる。


三人の小さな輪の中で、つぶやいた。


「……最後まで、しっかりね」


──その言葉を合図にするように、もう一度整列する三人。

息を合わせて、深々と頭を下げた。頭上から、惜しみない拍手が降り注ぐ。


顔を上げて、スイング・ブラスのメンバーたちに軽く会釈をした。

加輪隅がマイクを手に取り、笑顔で言った。


「総美高校の皆さん、ありがとう!」


三人は手を振りながら、観客の中へと戻っていく。


「そして……会場のみなさんも。今日は、本当にありがとうございました!」


スイング・ブラスのメンバーたちも、それぞれの席で頭を下げたり、手を振ったり。和やかな空気のまま、ステージは終わり──かけた、が。


「アンコール!アンコール!」


どこからともなく湧いたコールが、波のように広がっていく。

気がつけば、詩音もメイも声を張り上げていた。

敦子も淳子も、笑いながら手を叩いている。

声と拍手が重なり、会場全体が一つのうねりになっていた。


帰りかけていた加輪隅の足が、ふと止まる。

ふぅ、と小さく息を吐き、肩越しに草薙を振り返る。

草薙は、ゆっくりと頷いた。


──それだけで、空気が変わった。


堀内さんが静かに立ち上がり、エレキからウッドベースへと持ち替える。

鈴木さんが、サックスを外し、ホルンを構える。

吉田さんは、工藤さんにスティックを手渡すと、自分は定位置のパーカッションへ戻った。


準備は整った。

加輪隅が、にやりと笑う。


「いっちょ見せますか、本気のスイング・ブラスを」



工藤さんが、スティックを軽く鳴らす。


──タン、タン、タンッ。


その合図とともに、空気が切り替わる。


高らかに響き渡るホーンの音。

重なる低音が、しなやかに波のうねりをつくる。


それまでの朗らかな雰囲気が嘘のように、ピリッと張りつめた空気。

でも、重苦しさはない。


——『In the Mood』


誰もが一度は聞いたことのある、スウィングの定番中の定番曲だ。

だけど、スイング・ブラスの手にかかると、その曲の雰囲気はひと味もふた味も違った。


「あ、この曲、知ってる!」


手拍子の詩音が言うと、

「私も!でもこの曲、こんなにカッコよかったっけ?」と、メイが返した。


「確かに、なんかカッコいい!」

詩音の笑顔がはじけた。


ホーンが刻むスイング。

ピアノが跳ね、ベースがうねる。

草薙のテナーが、先頭を切って走り出す。

キレがいい。なのに、どこか余裕がある。

その音だけで、“ベテラン”という言葉が浮かぶ。


「入り、完璧……!」

「しかもテンポ、攻めてる」

敦子と淳子は、ほとんど同時にそう言うと、顔を見合わせた。

「……やば」

「ヤバい」

二人の目が、興奮の色で輝いた。


一瞬のブレもない。

個々の音がくっきりしているのに、全体がひとつの波のよう。

全員が“自分の音”で支え合っている。

その感覚が、見ている者にも伝わってくる。


大盛り上がりの会場。

さっきの女子高生三人組も、「ヤバい!」「すごいね!」と言いながら、手を叩きリズムを取ってる。


観客の一人が、小さく声を漏らす。

「……え、なにこの人たち……本物?」

その声に、誰かが「マジもんのやつだ」と応えた。


草薙が一瞬振り返ると、サックスの小嶋さんがすっと受け継ぐ。


ピアノの三宅さんが、余裕のあるタッチで絡み、その後ろで堀内さんが、ぐいっとリズムを牽引する。


阿吽の呼吸。誰も指示を出さない。

でも、全員が「今だ」と知っている。


音が絡み、重なり、爆ぜる。

高らかに吹き上げるホーン。

早乙女さんのトランペットがひときわ光る。


そして、そこにかぶさる草薙の異次元アドリブ。

抜群の間合い。


観客の手が、自然と拍手を打っていた。


──まさに、“本気のスイング・ブラス”。

誰もが見とれていた。


年齢なんて、ただの数字だった。

そこにいたのは、誇りを持った演奏者たち。

熟練の音が、会場全体を包み込み、揺らしていた。



演奏が終わると、誰もが笑顔で惜しみない拍手を送っていた。

こうして、スイング・ブラスのストリートライブは、静かにその幕を下ろした。


◇◇◇


楽屋代わりのバス裏のスペース。

演奏を終えたおじいさんたちは、見事にグロッキーだった。


小嶋さんはローチェアにもたれて足をだらんと投げ出し、三宅さんはブルーシートの上で大の字に。

工藤さんはというと、座ったまま正面を見据えて、ピクリとも動かない。


鈴木さんが飲もうとしたペットボトルは手元をすり抜けて地面に落ち、再び水たまりをつくった。


「あららら〜……」


でも、誰も突っ込む元気は残っていなかった。


唯一元気いっぱいな加輪隅だけが、いつも通りの笑顔で歩き回っていた。


「おーい、みんな、よかったよー!いやぁ、最高だった!」


そう言いながら、ひとりずつ肩をポンポンと叩いて回っている。


「お疲れ様でした〜!」


詩音とユキが、トレイに人数分のアイスコーヒーを載せて、バス裏の楽屋にやってきた。

その後ろから、メイも少し遠慮がちについてくる。


「加輪隅社長!これ、鈴原店長からの差し入れです!」


詩音がトレイを差し出すと、加輪隅がタオル片手に笑顔を向けた。


「いや〜ありがとありがと。なんか気ぃ遣わせちゃって……」


「いえいえ、とっても楽しかったです。ありがとうございました!」


詩音がぺこりと頭を下げると、加輪隅は汗を拭きながら、いつもの豪快な調子で笑った。


「小豆沢さんにそう言ってもらえるとは……やってよかったよ!」


その奥の方で、メイは、そっと草薙のそばに歩み寄った。

「マスター……」


目元に濡れたタオルを当てていた草薙が、それを外してメイに目を向ける。


「ああ……メイちゃん、だったかな?」


「はい。あの……すごくよかったです。ありがとうございました」


少しはにかみながら、メイは小さく頭を下げた。


草薙はゆっくりと姿勢を正し、にこりと笑った。


「そうか……ありがとう」


そして、ふと視線を遠くにやって、ぽつりと続ける。


「でもね、お礼を言うのは、私のほうなんだ」


「……え?」


メイが不思議そうに顔を上げる。


「演奏中、君たちの顔が見えたんだ。……私もね、ちょっと救われたよ。なんか、いろいろ吹っ切れた気がしてさ」


「……はい」


「だからね。お礼を言うのは、私のほうさ」


そう言って草薙は、どこか照れたように、けれど穏やかな笑みを浮かべた。



ユキは無言のまま、静かに工藤さんのそばへと歩いていく。


座ったまま正面を見つめていた工藤さんの視界に、その姿が入った。


「あの……感動……しました」


ユキは相変わらず表情を変えずに、ぽつりとそう言った。


工藤さんは一度、視線を遠くへ外してから、ゆっくりとユキのほうを見やる。


その口元が、ごくわずかに緩んだ――ように見えた。


それに気づいたユキの頬が、無表情のまま、ほんのり赤く染まった。



トレイのアイスコーヒーを手に、詩音と一緒に配って回っていた加輪隅が、ふと目をやった。


バスの影。その向こうに、小さく身を寄せ合うようにして立っている三人の女子高生。


「ほら、ちゃんと言おうよ」

「いこ、もういこってば」


コソコソと話し合う声が聞こえる。


「あー、お嬢ちゃんたち!」


加輪隅の声に、詩音とメイもそちらを見た。


「あっ、お疲れさま〜!」

「ほんと、すごかったよ〜」


そんな言葉に、三人は手を横に振って照れ笑いを浮かべ、ぺこりと頭を下げる。


「今日は本当にありがとね。いろいろ無茶言ってすまんかったよ」


そう言って、加輪隅はテントの下へ三人を招き入れる。


三人は団子のように固まったまま、ゆっくりとこちらに近づいてくる。何か言いたげな表情が、その顔に浮かんでいた。


「ああ、パフェの約束だったよなぁ。そしたら――」


加輪隅が笑いながら言いかけた、その時。


「あの!」


ショートカットの子が、何かを振り払うように一歩前に出た。


その声に、加輪隅が少し驚いたように目を見開く。


「今日は、本当にありがとうございました!」


テント中に響くような声だった。


続けて、三人がそろって深く頭を下げる。


けれどそのあと、メガネの子だけが、ずっと顔を上げなかった。


「ちゃんと言うんでしょ?」

ポニーテールの子が、そっとメガネの子の肩を抱く。


よく見ると、メガネの子は下を向いたまま、震える肩を押さえるようにして、ぽろぽろと涙をこぼしていた。


「ありゃ〜……おじさん、無理、言っちまったからなぁ。すまなかったよ」


加輪隅が頭を下げかけた、そのときだった。


「ちがうんです!」


メガネの子が、ぐしゃぐしゃの顔で叫んだ。


加輪隅のほうは見ないまま、声を震わせて続ける。


「わたし……吹部、辞めようかと思ってて……

練習キツいし、ヘタだし、みんなの足、引っ張ってる気がして……」


加輪隅は、黙ってその言葉を受け止めていた。


「でも……今日、すごく楽しくて……

うれしくて……」


言葉がつかえて、しばらく声が出なかった。

けれど、懸命に顔を上げて、メガネの奥の瞳が、涙でにじみながらもまっすぐ加輪隅をとらえる。


「もう少し……頑張りたいって……思いました……!」


そう言いきったあと、堰を切ったように泣き出した。


その横で、ショートカットの子も、ポニーテールの子も、黙って肩を抱きながら一緒に涙を流していた。


加輪隅は、ゆっくりと大きな手を差し出し、そっとメガネの子の肩に置いた。


「……そいつは、よかった」


ニコリと笑うと、三人が少し落ち着くのを待ってから、ぽつりと話しはじめる。


「ありふれてるけどさ。音楽って、“音を楽しむ”って書くだろ?

長くやってると、そりゃ大変なこともある。

でもな──音が出たときの、あの感覚。あれにゃ、勝てんのだよ」


静かにうなずく三人。涙をぬぐいながら、メガネの子が小さく「はい」と返す。

その肩に、仲間たちの手がそっと重なる。


加輪隅は、にやりと笑って言った。


「それに……みんな、いい音、出してたぞ」


その言葉に、側で聞いていた詩音はとうとう耐えきれず、目を押さえてしゃくり上げた。


「小豆沢さん、この子たちに、ラフォーレでいちばん高いパフェ、食べさせてやってくれ」


「は、はいっ……!」


涙声で返事をする詩音に、さらに加輪隅が続ける。


「あ!飲み物もつけてやって!」


「はいっ!」


今度は泣き笑いしながら答える詩音。


その光景を、テントの下の椅子に腰かけたまま、スイング・ブラスのメンバーたちが、誰ひとり言葉を挟まず、静かに、穏やかに見つめていた。



こうして、スイング・ブラスのストリートライブは穏やかな余韻の中で終幕した。



ここまで読んでくださってありがとうございます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ