第83話 その土曜日が、来た。
例の週末、土曜日がやってきた。
10月に入ったばかりの、爽やかで穏やかな朝。時刻はまだ9時ごろ。
ラフォーレの駐車場に、白地にエンジ色のラインが走る古めかしいマイクロバス、三菱ふそう・ローザが、ゆっくりと駐車場に入ってくる。
丸目のライトに、小さめの窓がいくつも並ぶレトロな車体。
側面には、筆文字で力強く「加輪隅産業」の文字が記されている。
ラフォーレ店内では開店準備の真っ最中。
「……あれ、そうじゃない?」
カウンターを拭いていた沙織が、ふと手を止め、ガラス越しに駐車場を指差した。
「そうかも……ごめん、ちょっと見てくるね」
詩音がエントランスに向かう。
レジにいた敦子店長も、ちらりと外を見て、「ほんとに来たのね」と呟いた。
そして、レジ開けをユキに頼むと、詩音を追って店を出る。
ふたりが駐車場に出ると、ちょうどマイクロバスの運転席側のドアが、
「ギイィ……」と古びた音を立てて開いた。
その隙間から、ひとりの男が降りてくる。
真っ赤なメジャーリーグチームの野球帽に、Tシャツとチノパンというラフな服装。
茶色がかった色付きのメガネをかけていて、表情はよく見えない。
けれど、なんとなく“只者じゃない感”だけは、じんわりと伝わってくる。
背が高く、がっしりとした体格。年のころは――70歳は超えていそうだ。
その大柄な体を、のしのしと言わんばかりの足取りでこちらへ向かってくる。
「加輪隅社長……本当にいらしたんですね」
敦子が微笑みながら声をかける。
(あの人が加輪隅社長なんだ……ブランシェで見た写真より、ずっとデカい感じ……)
詩音は少し気圧されつつも、じっとその姿を見つめていた。
加輪隅社長はふたりの前でぴたりと足を止めると、帽子を脱ぎ、
「鈴原さん。この度は、大変申し訳ございませんでした」
と、深々と頭を下げた。
その大きな体がきれいに90度折れ曲がる。
白髪まじりの頭皮が、朝日に照らされてキラリと光った。
「そんな、社長。頭を上げてください」
敦子は少し戸惑いながらも、笑顔でそう言った。
「無事に、お客様にお渡しできましたので」
「そう言ってもらえると……」
加輪隅は、頭だけを少しもたげて、こちらを見た。
「それに、あの日は――この子が頑張ってくれたんですよ」
そう言って、詩音の方へ顔を向ける。
「小豆沢詩音っていいます。この度は……」
詩音が改まって挨拶しかけたその時、
「あぁ、小豆沢さん。あなたがいろいろ電話をくれた方でしたか。本当に申し訳なかった」
加輪隅はもう一度、深々と頭を下げた。
「今日はお詫びの印といっては何ですが、しっかり演奏して、お店を宣伝しますので……どうか勘弁してやってください」
「社長さん、そんな、気にしないでください。――というか、今日、楽しみにしてたんです」
詩音がにっこりと笑う。
加輪隅は顔を上げ、メガネ越しに優しく笑った。
「ありがとうございます、小豆沢さん。最高のを、お届けしますからね」
そのまなざしは――どこか、子どもみたいに人懐っこかった。
店内からガラス越しに、駐車場の様子を見ていた沙織と、アルバイトのくるみ。
大柄な爺さんが、敦子や詩音と話しているのが見える。
そのうち敦子が駐車場の隅を指差しながら、何かを説明しているようだった。
「何、話してるんですかね?」
「さあ、段取りとかかなぁ……」
やがて、大柄なお爺さんがバスに戻ると、マイクロバスを一度バックさせ、
カウンター席のある壁面のほうへと向きを変えて停め直した。
そのとき、車体がゆっくりとこちらに向かって進んできたのを見て、沙織が思わず声を上げる。
「うぉ、こっち来た!」
「突っ込まれそうでしたねぇ〜」
くるみは、なぜか楽しそうに呑気に笑っている。
しばらくして、バスのドアが開き、ぞろぞろと人が降りてくる。
みんな、見るからにお年寄りの爺さんたち。
降りるなり、腰をさすったり、背中を叩いたりと、それぞれに身体をほぐしている。
「おい、なんか……大丈夫か?」と沙織。
「老人会のバス旅行みたいですね〜」と、くるみが呑気に笑う。
数えてみると全部で9人……いや、バスの中にまだひとり、白髪の人が残っている。
大柄なお爺さんがもう一度バスに乗り込み、その最後のひとりを引っ張るようにして連れ出していた。
「え、なんかもめてるんですかね?」とくるみ。
「いや……そうは見えないけどね」と沙織は目を細めた。
バスを降りたお爺さんたちは、手慣れた様子で二手に分かれる。
車体を境にして、駐車場の広いほうがお客さん側。
数人がそちらへ回り、機材の設営を始めた。
加輪隅が指示を出しながら、にぎやかにPA機器や譜面台、ドラムセットが運び出されていく。
「今日は、段差ねぇから助かんな〜」
アンプを抱えていたのは、大内さん。トランペットとフリューゲルホルンを担当している。
「ずっと前に吉田ちゃん、つまずいちまったからな」
加輪隅が豪快に笑いながら振り返る。
バスの近く、ステージ裏になる位置では、キーボードの三宅さんがガサゴソと準備をしていた。
「これ出さなきゃ、はじまらんわな」
そう言いながら、車体側面の上のほうにセットされたロールスクリーンを引っ張り出す。
スクリーンには、ヴィンテージアイボリーの下地に、濃紺の筆記体で「Swing Brass」のロゴ。
その下に小さく「Since 1973」の文字。
サックスとトロンボーンのシルエットに、五線譜を舞う音符、ヴィンテージマイクの影――
なんとも洒落た背景が、風にふわりと揺れた。
「おう。これがねえと、スイング・ブラスがはじまらんからな」
加輪隅が、どこか誇らしげに笑った。
そんなステージとバスの車体を挟んだ反対側、公園側では、別の爺さんたちがテントを立てていた。
キャンプやバーベキューでよく見かける、ポップアップ式シェルター型のモスグリーンのテント。
その下には、これまたアウトドアでよく見る折りたたみチェアが人数分、次々と展開されていく。
それはまるで、バス裏の簡易楽屋。
動きはゆっくりだが、どこか手際のいいチームプレイだった。
「うぁー、キャンプみたい!」
外から戻ってきた詩音が、沙織の横で目を輝かせる。
「なんか手慣れてるね……」
沙織も感心したようにつぶやく。
その横では、いつの間にか、ひとり、ふたりと勝手にチェアに腰を下ろして休憩を始める爺さんたちの姿が。
「……歳には勝てない」
ユキが無表情でぽつりと呟く。
「あはは……」
沙織と詩音は、顔を見合わせて苦笑い。
そんな中、ふと視線を向けた詩音の目に映ったのは、楽屋設営に加わっているひとりの白髪の男性。
姿勢が良く、所作もどこか品のある――草薙栄三郎の姿だった。
(あ、あの人!カフェ・ブランシェのマスターだ!)
詩音は心の中でそっと呟いた。
◇◇◇
10時になり、カフェ・ラフォーレ リーヴルスが、いつも通りに開店した。
少しずつ、お客さんが店内に入ってくる。
──カランコロン。
「おはようございます」
その声とともに、普段着のメイが店にやってきた。
この日は休みで、お客さんとしての来店だった。
レジにいた敦子店長に声をかける。
「ライブ、本当だったんですね」
「そうね。しかも、かなり本格的よ」
敦子がにっこりと笑う。
メイは注文を済ませて、カウンター席に腰を下ろした。
目の前には、ステージと、バス。
バスを挟んでステージと反対側には、まるでキャンプでも始まりそうな光景が広がっていて、ふと笑みがこぼれる。
「いらっしゃい、メイちゃん」
詩音が寄ってきた。
「なんか、すごいことになってるね」
「だけど、もっとすごいことがあるんだよ!」
詩音は少し興奮気味に声をひそめた。
「ほら、あそこ。ブランシェのマスター来てるよ」
そう言って、テントのチェアに座る後ろ姿を指さす。
「あー! ホントだ」
メイも嬉しそうに声を上げる。
「なんかワクワクしてきちゃうよ」
詩音がはしゃいで言った。
「……あれ? でも、なんか元気なさそうじゃない?」
メイが、指差されたマスターの後ろ姿をじっと見つめながらつぶやく。
「そう言われると……」
詩音も、なんとなく違和感に気づいたようだった。
「こないだ、『音も出ませんよ』なんて言ってたもんね。大丈夫かな?」
メイがぽつりとこぼす。
そう話しているうちに、ブランシェのマスターはすっと立ち上がり、バスの中へと入っていった。
「集中力、高めてる……とか?」
「なら、いいんだけどね」
ふたりはそんなふうに言い合いながら、マスターの後ろ姿を見送る。
「マスターのサックス、聞いてみたいし。応援するっきゃないでしょ!」
詩音が気を取り直して笑った。
「そうだね」
メイもその笑顔に引きずられるように、少しだけ表情をほころばせた。
◇◇◇
外では、音出しや音響のチェックが始まっていた。
「もう少しボリュームくれるかな」
加輪隅は、何人か集まってきていたお客さんの前に立ち、大声で指示を飛ばしている。
スピーカーの音を聴きながら、手で空気を切るようにジェスチャーを交えつつ、音の響きを確かめていた。
「……こんなもんかな」
ふぅ、と息をつきながら、加輪隅は少し顔をほころばせた。
「カワ、やけに張り切ってるのう」
隣で一緒にチェックしていた小嶋さんが、ふっと笑う。
アルトサックスとクラリネットを担当する彼は、加輪隅と同じ72歳。
派手さはないが、いつも頼りになる存在だった。
「そうか? まぁ、うちのミスで、みんな巻き込んじまったからなぁ。偉そうなこと言えんけどな」
加輪隅が肩をすくめる。
「……栄ちゃんのことかい?」
「ああ。千歳一遇っていうかさ。これもまた、なにかの縁ってやつで」
「……あまり乗り気には見えんかったがのう」
「まあ、それはそれで」
加輪隅は笑って、
「来ただけでよし!」
と、声に力を込めた。
◇◇◇
ラフォーレ リーヴルスの店内に、外の楽器の音がわずかに漏れ聞こえてくる。
いつもと違うその気配に、スタッフもお客さんも、どこかそわそわしていた。
レジでは、来店した女性客が首をかしげながら尋ねる。
「何かあるんですか?」
「今日、11時ごろからストリートライブがあるそうですよ」
敦子店長が、やわらかく答える。
一方、外のライブ会場では、設営とセッティングが完了した様子だった。
店内では、詩音がフロアをまわりながら、時折ガラス越しにちらりと外の様子をうかがう。
ステージにいた爺さんたちは、ひと通りの準備を終えたのか、バスの中へと引き上げていった。
(そろそろ、準備できたみたいだなぁ……)
詩音は、落ち着かない様子で窓の外を見つめる。
ステージ前には、何やらいつもとは違う空気を感じて、少しずつ人が集まりはじめていた。
◇◇◇
10時30分ごろ。
店内に、マイクを通して敦子店長のアナウンスが流れた。
「お客様にご案内いたします。
このあと、11時ごろより、当店の横スペースにて、“スイング・ブラス”によるストリートライブが開催されます。
ご希望のお客様は、どうぞそのままお席をお使いいただいたまま、ご自由にご覧ください」
その声を聞いて、ぽつぽつと席を立ち始めるお客さんたち。
テーブルに荷物を置いたまま、カップ片手に店の外へ出ていく姿も見える。
メイもゆっくりと席を立ち、周りを見渡した。
気づけば、客席には誰もいなくなっていた。
「誰もいなくなっちゃったわね」
立ち上がったメイに、敦子が笑いながら声をかける。
「……そうですね」
メイは少し苦笑いを浮かべた。
外へ出てみたい気持ちはある。でも、自分だけタイミングがずれてしまったような気がして、なんとなく動きづらい。
「お店のことは、私とユキで見てますから。みんな、行ってきてください」
沙織がそう言って、にこりと笑う。隣でユキも、無言でうなずいていた。
「え、いいの!? 沙織ちゃん!」
詩音が驚きつつも、嬉しそうに声を上げる。
バイトの子たちも顔を見合わせて、自然と表情がほころぶ。
敦子はそんな様子を一瞬見つめて、ほんの少しだけ悩んだあと――
「……じゃあ、お願いね」
と、沙織たちに微笑みかけた。
◇◇◇
すでにステージ前には、かなりの人が集まっていた。
駐車場の端のほう、少し離れた位置に立っていた敦子に、声がかかる。
「そろそろ始まりそうですね、敦子先輩」
振り返ると、そこにいたのは葛城書店の店長・柳森淳子だった。
「あら、淳子ちゃんも来てたのね」
「ええ。だって、聴きたいですから……麗佳さんのお父さんの演奏」
淳子は、目を細めるようにして言った。
「その話も、知ってたのね」
「なんとなく……ですけど」
にこっと、控えめに微笑む。
詩音とメイは、店舗寄りの最前列に陣取っていた。
「ヤバい、あのステージ。バックのスクリーンとか、カッコよすぎ」
もう興奮が抑えきれない様子の詩音。
「……うん、なんか、ワクワク止まらないかも!」
メイも思わず笑顔になる。
ラフォーレのバイトの子たちも、今か今かといった表情でステージを見つめていた。
そのとき――
ステージの袖、正確にはバスの裏側から、
爺さんたちがぞろぞろと現れる。
白いシャツに黒のベスト、そして胸元には、ヴィンテージ風の金縁ブローチがおそろいで留められていた。
下は、チノパンにスラックス、ジーンズと、思い思いのパンツスタイル。
足元もスニーカーから革靴までバラバラだが、
そのどれもが“自分らしい”といわんばかりのスタイルだった。
そんなステージ衣装で、スクリーン背景の前にずらりと並んだ爺さんたちに、
拍手と同時に、少しのどよめきが広がる。
「あんなおじいさんがやるの?」
「……大丈夫なのかな」
戸惑い交じりの声が、観客のあちこちから聞こえてくる。
だが――
スイング・ブラスのメンバーたちは、それをよそに、淡々と自分の持ち場についた。
「まあ、いつものことじゃよ」
アルトサックスを抱えた小嶋さんが、誰に言うでもなくつぶやく。
華奢な工藤さんはドラムセットに腰を下ろし、静かに首をぐるりと回す。
後方では、草薙栄三郎がテナーサックスを手に、バスの陰に身を寄せるようにスタンバイしていた。
その少し前。
ハンチング帽を被った加輪隅が、トロンボーンにふっと息を吹きかけ、
ふいに、くるりと振り返って言う。
「──さあ、いきますか」
加輪隅はにやりと口角をあげた。
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