第80話 ふわっとちゃんの、ファインダー越し
日曜日の朝。
窓の外は、しとしとどころか、ざあざあと遠慮なく雨を叩きつけていた。
開店前のカフェ・ラフォーレ リーヴルス。
カウンターでは、沙織がタオルで手を拭きながら、ぽつりとこぼす。
「この雨じゃ、今日はお客さん来なさそうだなぁ」
詩音は一瞬だけ外の雨を見てから、手元の帳簿に目を戻した。
「そうだね……今日は、本棚整理メインかな」
雨音を背景に、静かな一日が、そっと始まろうとしていた。
午前10時ちょうど、いつも通りにラフォーレ・リーヴルスはオープンした。
店内にはまだ誰の姿もなく、BGMだけがぽつんと空間を満たしていた。
──カラン、コロン。
ドアのベルが鳴って、詩音たちの声が揃う。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、昨日ずっと写真集を眺めていた、あの“ふわっとちゃん”だった。
薄いラベンダーのワンピースに、生成りのざっくり編みのニットベスト。
足元はアイボリーのスニーカーで、肩には帆布の巾着バッグ。
店の入り口で、ていねいに傘のしずくを払ってから、傘立てにそっと立てかける。
(昨日とは服が違うけど……やっぱり、ふわっとしてるなぁ。
…肩から胸のラインまでの“柔らかさ”が、空気みたいに揺れてる)
詩音はそう思いながら、ちらりとその姿を目で追った。
レジに向かった“ふわっとちゃん”は、沙織の案内でブレンドコーヒーを注文。バイブベルを手に取ると、昨日と同じソファ席へと歩いていく。
席につくと、店内をゆっくり見渡しながら、ふわりと笑みを浮かべた。
しばらくして、テーブルの上でバイブベルがカタカタと震える。
“ふわっとちゃん”は静かに立ち上がり、カウンターへ向かった。
「ごゆっくりどうぞ〜」
ユキが営業スマイルで声をかけると、“ふわっとちゃん”は言葉の代わりに、すこし首をかしげるようにして、にこっと笑った。
時間が経つにつれて、店内には何組かのお客さんがぽつぽつとやってきて、少しずつカフェらしい賑わいが戻ってきた。
けれど、外の雨は相変わらず。窓ガラスに打ちつける音が、静かなBGMに混じって響いてる。
詩音は、本棚の整理のために店の奥へ向かった。
ふと目に入ったのは、あの子──“ふわっとちゃん”。
昨日と同じ場所で、同じように、写真集『風のあとを、歩いて』を静かにめくっていた。
ページを一枚、また一枚。
そのたびに、ふんわりとした笑みがこぼれる。昨日とまったく同じ佇まい。まるで時間が止まったかのようだった。
でも、ひとつだけ違った。
それは、詩音の気持ち。
昨日は、声をかけるのをためらってしまったけれど──
今日は、なんとなく、吸い寄せられるようにその子のそばへ歩み寄っていた。
気がつけば、口が動いていた。
「……その本、いいですよね」
手をそっと前で組んだまま、少し斜め後ろからその子に声をかけた。
“ふわっとちゃん”は、ゆっくりと顔を上げて、詩音を見た。
そして、少し首を傾けて──にこっと笑った。
開かれていたページには、木漏れ日の差し込む森の小径。
その写真を見つめたまま、小さな声で言った。
「……うん。風が、やさしいんだよね」
──それが、彼女の最初の言葉だった。
その言葉は、すっと詩音の胸に入ってきた。
──まさに、その感覚。
初めてこの写真集を見たとき、自分が抱いた気持ちと、どこか重なるようで。
「わかる……なんか、ふわって包んでくれる感じっていうか」
ふたりの言葉が、不思議と、やわらかくつながっていく。
「“さみしくない風”って感じなの」
そうつぶやいたふわっとちゃんに、詩音は思わず声を弾ませた。
「そうそう、それ! なんか、すごいなあ……」
自分の中にあった想いを、きれいに言葉にしてもらえたような、不思議な快感。
ふわっとちゃんがページをめくる。
そこに現れたのは、雪をかぶった山々を背にした、ぽつんと建つ山小屋の写真。
「お家がね……“よく来たね”って言ってる」
「わかるよ、それ!」
思わず身を乗り出した詩音の目が、みるみる輝いていく。
そしてページがめくられ、草原の中を歩く少女の後ろ姿の写真が現れた。
「これ、私、一番好きな写真なんだ」
そう言った詩音に、ふわっとちゃんは少しはにかむようにして、ぽつりと話し出す。
「……お姉さんは……?」
「“しおん”だよ」
詩音はそう言って、自分のネームプレートを指でつまみ、やわらかく笑った。
「しおんちゃんは、この写真のどこが好き?」
そう言って、凛々花は写真集を挟んだまま、下から覗き込むように聞いてきた。
「うーん……なんかね、この女の子が、楽しそうに草原を歩いてるところ……でも、ちょっと違うんだよね」
詩音は、言葉を探すように空を見上げる。
「きっとこの子は、遠くに見える山に向かってるんだと思う。手が届かないくらいの山に。でも、それでも頑張って、進んでる感じがするんだよね……あ〜、なんかうまく言えないけど」
熱を帯びた言葉が口をついて出るが、どこかまとまらない。
そんな詩音を見て、凛々花がふわりと微笑んだ。
「それって……雲の向こうにある音を探して、歌ってる子、みたい」
「……あー、そうそうそう! それが言いたかったんだぁ! そんな感じだよねっ!」
ふたりは思わず顔を見合わせて、写真集の上で、にこっと笑い合う。
「私ね、凛々花っていうの」
詩音のほうを見て、ゆっくりと、ふわっとした口調で言った。
「凛々花ちゃんかぁ。私ね、ずっと心の中で“ふわっとちゃん”って呼んでたんだよ」
「ふふ……ちょっと、うれしいかも」
「よろしくね、凛々花ちゃん!」
詩音は、はじけるような笑みでそう返した。
◇◇◇
まだ雨は、窓ガラスを叩くようにザアザアと降り続いていた。
お昼を過ぎたあたりから、客足は次第に遠のき、午後1時を回る頃には、店内にお客さんの姿は見えなくなっていた――ただひとり、“ふわっとちゃん”こと、凛々花を除いては。
アルバイトのくるみが、使い終わったテーブルを拭きながら、通りがかったミホにぽつりと言う。
「誰もいないなんて、初めてよね……」
「いや、まだお客さんいるから……」
ミホが小声で返す。
くるみはハッと目を見開いた。
ふと視線を向けると、窓際のソファ席。静かに本を閉じた凛々花が、外の雨を見ていた。
「静かすぎて、わからなかった……」
肩をすくめたくるみに、ミホは小さく笑って通り過ぎていった。
レジ裏の影で、敦子店長と詩音がこそこそと、楽しげに話している。
「……ってことなのよ〜。詩音ちゃんはどう思う?」
「いいんじゃないですか? なんか、楽しそうだし」
「そうよね。本当に来るかどうかは分からないけどね」
「もし来たら……面白いですね〜」
くすっと笑いながら、詩音はレジカウンターへと戻る。
と、そのとき。
「……あっ」
そこには、レジ前にすっと立つ凛々花の姿があった。音も気配もなく現れたので、詩音は思わず声を漏らす。
「凛々花ちゃん、いらっしゃいませ〜」
驚いたように言いつつも、すぐに笑顔に戻る。
「ご注文かな?」
凛々花は、手にしていたレトロっぽい小さなカメラを、そっと胸の前に持ち上げながら、ゆっくりとした口調で言った。
「……あの、写真。撮ってもいいですか?」
「あ、いいよー!」
詩音は勢いよく笑顔でピースサイン。
「……ちがうの。お店の写真、撮ってもいい?」
「……お店の、写真?」
ピースのまま、固まる詩音。
そのまま数秒、時が止まる。
そんなやりとりを聞いていた敦子も、レジ裏から顔をのぞかせた。
「構いませんよ──ただね、いくつかだけ、気をつけてほしいことがあるの」
いつもの優しい笑顔で、穏やかに言う。
「はい」
凛々花は、小さくうなずく。
「まず、他のお客さんの顔が写らないようにね。それと、フラッシュは禁止。カウンターの中もNGです」
「……わかりました」
「それから、あまり場所を取っての撮影も避けてもらえると助かるかな。もっとも、今はお客さん、あなた以外いないけどね」
「……なるべく、気配で撮ります」
「気配……?」
少し困惑した敦子だったが、すぐに目を細めて笑った。
「ええ、そうね。気配、大事だわ」
敦子が微笑むと、凛々花は一呼吸おいて、ふっと目線を上げた。
「それと……もしできたら、みなさんの“いつもの顔”を、一枚ずつ、撮らせてもらえますか?」
声は相変わらずゆっくりで、柔らかい。
「なるべく気づかれないように。そっと……気配で、撮ります」
その言い回しに、敦子は小さく吹き出しそうになったが、すぐに真面目な顔に戻る。
「ふふ。気配撮影ね……でも、うちの子たち、カメラが苦手な子もいるかもしれないから」
凛々花をまっすぐ見て、やさしく続けた。
「必ず、ひとりずつ声をかけてあげてね」
「……はい。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げると、凛々花はくるりと振り返り、静かに店内へと歩き出した。
その背中に、軽く手を振る敦子。
「……なんか、不思議な子よね」
そう呟いて詩音の方を見ると──
詩音は、カウンターの中でまだピースサインのまま固まっていた。
「行っちゃった……」
「ふふ、撮ってもらえなかったのね」
敦子はくすっと笑った。
◇◇◇
店内には、お客さんの姿はなく、静けさだけが満ちている。
その空間の中で、凛々花はカメラを手に、音もなく歩いていた。
スッと構えて、カシャ。
また歩き、しゃがんで、カシャ。
手慣れた動きで、静かに数枚を切り取る。
「なんか、しなやかに撮るねぇ」
沙織がぼそっと言う。
「ええ……そこに“いる”のか“いない”のか、分からないくらい自然ですね」
隣にいたくるみも、感心したように目で追った。
本棚コーナーでは、ユキが一人、黙々と整理作業をしていた。
いつもの営業スマイルは鳴りを潜め、完全な“作業顔”になっている。
けれど、その背後に人の気配を感じた瞬間——
ピタリ、と動きが止まり、一瞬で営業モード。
表情が切り替わる、まさに職人芸。
「……苦しくないですか?」
声の方を見れば、凛々花がカメラを胸元に抱え、こちらを見ていた。
ユキはにこっと笑って返す。
「えっ? どうかしましたか?」
「あ……ごめんなさい。あの、写真、撮っていいですか?」
「はい、いいですよ」
変わらず営業スマイルのまま答えるユキ。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた凛々花は、そのままシャッターを押すでもなく、静かに向きを変えて歩き去っていった。
……ポカン。
一瞬だけぽつんと取り残されたユキは、ふと我に返ると、何事もなかったように無表情に戻り、本棚の整理に戻っていった。
◇◇◇
テーブルを拭いていたアルバイトの虹香のところへ、ふわりと凛々花が現れる。
「写真、撮っていいですか?」
「はい、どうぞ」
にこっと笑ってポーズを取る虹香。
「ありがとうございます」
そう言ったかと思うと、凛々花はカメラを構えることもなく、そのままスッと立ち去ってしまった。
……え?
虹香は思わず、ポカンとその背中を見送る。
ちょうどそのとき──
カランコロンとエントランスのベルが鳴る。
「雨、すごいねー!」
傘をたたみながら、女性の二人組が入ってきた。
そのあとにも、もう一組。さらに一組。
ようやくカフェらしいざわめきが、店内に戻ってくる。
◇◇◇
受け取りカウンターでは、沙織がコーヒーの準備をしていた。
そこへ、音もなく凛々花が近づく。
「写真、いいですか?」
「うん、いいよ」
沙織が笑顔を向けたそのタイミングで、コーヒーが出来上がってきた。
「9番のお客様、お待たせしました」と声をかけ、コーヒーの乗ったトレーを渡す。
お客さんが去ったあと、凛々花が小さく言った。
「コーヒー、笑ってたね」
「……え? 笑うって何?」
ぽかんとする沙織に、凛々花はふわりと微笑んで、ぺこりと頭を下げると、そのままくるりと背を向けて歩いていった。
その後も、凛々花は静かに、店内を回っていく。
スタッフひとりひとりに、声をかけて、丁寧に。
けれど、誰も「撮られた」という実感がないまま──
彼女は空気のようにそこにいて、気配だけを写真に残していくのだった。
◇◇◇
ホールをゆっくりとラウンドしていた詩音に、ふとソファ席から声がかかる。
「詩音ちゃん、撮っていい?」
顔を向けると、凛々花が、いつものふわっとした笑顔でこちらを見ていた。
「うん、大丈夫だよ!」
詩音は迷いなく、にこっと笑ってピース。
だが──凛々花はカメラを構えることなく、ただその笑顔を見てにこっと返しただけだった。
(……あれ?)
ピースした手をそのままに、詩音の笑顔が少しだけひきつる。
「ありがとう。あとで撮るね」
コーヒーカップを手に、凛々花は柔らかく微笑んだ。
「……うん、オッケー」
少し肩すかしを食った気分で、詩音はピースした手をそのまま振ってみせる。
(二度目はちょっと恥ずかしいかも……)
照れ笑いを浮かべながら、再びフロアを歩きはじめた。
しばらくして──
レジに立っていた敦子の前に、凛々花が静かに近づいてくる。
「店長、写真、いいですか?」
敦子は気づくと、にっこり笑って答えた。
「いいわよ〜」
……が、次の瞬間。
「ごめんなさい。もう撮っちゃいました」
ふわりと笑う凛々花。
「まぁ……もう? 見せてもらってもいいかしら?」
「はい、どうぞ」
凛々花は手に持ったカメラをそっとモニター表示に切り替える。
その画面には、店内の様子に溶け込むような、そんなスタッフたちの自然な表情が、さりげなく並んでいた。
「……すごいわね。これなら、みんなもきっと喜ぶわ」
「ありがとうございます」
そう言って、凛々花はぺこりと頭を下げ、また静かに、自分の席へと戻っていった。
◇◇◇
夕方。
あれだけ強く降っていた雨も、いつの間にかすっかり上がっていた。
「お先に失礼しまーす」
早番の詩音は、更衣室へと向かう前に、ちらりと店内を見渡した。
でも、凛々花の姿はもうなかった。
(凛々花ちゃん……もう帰っちゃったのかな)
そう思いながら、更衣室の扉を開けた。
◇◇◇
着替えを済ませて、スタッフ用の通用口から外に出る。
ふと視線を店のエントランスの方へ向けると──
そのすぐ先に、凛々花が立っていた。カメラを手に、じっと画面をのぞき込んでいる。
「凛々花ちゃん!」
詩音が小走りで近づくと、凛々花は顔を上げた。
「あ、詩音ちゃん。お仕事終わったの?」
「うん。今日は早番だから……写真、チェックしてたの?」
「うん。見る?」
「見たい、見たい!」
そう言って、詩音は隣に並んで覗き込む。
モニターに映し出されたのは──
コーヒーの乗ったテーブル。その奥には、誰もいないカフェの静かな風景。
整然と本が並ぶ棚。
ガラス窓の外を、雨粒がつたっていくカウンター席。
凛々花のカメラに切り取られたラフォーレの景色が、そこに静かに映し出されていた。
「なんか……素敵な写真ばかりだね」
感心したように画面を追っていた詩音の目に、ふとユキの写真が映る。
横顔は無表情のまま──だけど、手には本を抱え、棚に戻している仕草がどこか柔らかかった。
「この人、とても楽しそう」
凛々花が静かに言う。
「え、そうなの?」
詩音も思わずじっと見つめた。
一見すると、いつものユキと変わらない。けれど……なんだか、違って見える。
(……たしかに、楽しそう)
そのあとは──
キラキラと笑顔でテーブルを拭く虹香。
お客さんにコーヒーを渡す沙織の、やわらかい表情。
どれも、ふわりとした温かさが滲み出ていた。
「あ、これ……私だ」
トレーを抱えて、ちょっと横を向いている自分の姿。
思っていたより、自然な笑顔。
「わあ……なんか、私じゃないみたい」
「詩音ちゃんは、カフェ、好きだもんね。分かるよ」
凛々花が、にこっと笑う。
画面をスクロールすると、最後の一枚。
それは敦子の写真だった。
レジ前に立ち、店内を見守るようにやさしく目を細めている。
「……ママみたいな風が流れてる」
凛々花が、ポツリと言う。
「なんかわかるなぁ〜それ」
詩音が笑うと、ふたりの間にふわっと風が通ったようだった。
「これさ、みんなに見せたいな!」
「いいよ。準備しとくね」
凛々花は、ゆっくり笑ってうなずいた。
◇◇◇
ふたりは並んで歩きながら、駅へと向かう。
「凛々花ちゃんち、どこなの?」
「南前田だよ」
「あ〜、あのでっかいショッピングモールがあるとこね?」
「うん。ウチの近く……」
「へ〜、そうそう、ずっと前だけど、あそこでさあ……」
笑い声まじりの会話が、夕暮れの空にほどけていった。
ここまで読んでくださってありがとうございます!




