第79話 その子がいた風景
土曜日の朝。カフェ・ラフォーレ リーヴルスの更衣室。
「おっはよー!」
ドアが開くなり、詩音が元気よく飛び込んできた。
ちょうど着替えていた沙織が、ちらりと振り返る。
「今日も元気だねぇ」
「そうかな〜?」
鼻歌まじりにそう返しながら、詩音は沙織の隣のロッカーを開ける。
「なんかいいことあった?」
「えー、ひ・み・つ・だよ〜」
──昨日、キャンプの計画立てたなんて、言えないよ。
にこにこ顔でそう言う詩音を見て、沙織がニヤッとする。
「へぇ〜、キャンプ、行くことにしたんだ」
「えー!? なんで知ってるの!? 沙織ちゃん、エスパー!?」
真顔で驚く詩音。
「いや、今、そう言ったじゃん」
「えー! うそ!?」
顔を見合わせるふたり。
…ユキがすっと登場し、ぽつりと一言。
「詩音さん、隠し事は苦手なタイプです……」
そのまま、更衣室を出ていく。
「ユキ、いたんだ……」
沙織がぽつりとつぶやいた。
◇◇◇
土曜日の店内は、朝から賑わっていた。
平日は一人でコーヒーを飲みながら本を読むお客さんが多いけれど、週末になると様子が変わる。
友人同士と見られるグループや若いカップル、年配のご夫婦など、客層がぐっと幅広くなるのだ。
さらに店は、大きな公園の入り口に面した立地。テイクアウトの注文も多い。
この日はどうやら、公園でイベントがあるらしく、朝からテイクアウトのお客さんが次々とやって来た。
かなりドタバタはしたものの、スタッフみんなでなんとか切り抜けた。
グランドオープンから数えて、二回目の週末。
少しずつだけど、応援スタッフがいなくても様になってきていた。
◇◇◇
午後1時半を過ぎたころ。
ひと息ついた詩音は、返却ワゴンの本を元の棚に戻していた。
ふと、本棚エリアの奥に目をやる。
一人の女の子が、じっと写真集を見つめていた。年の近そうな、白いストライプのふわっとしたワンピースにブラウンのグルカサンダル。
小柄でほっそりしているのに、輪郭はやわらかくて──空気みたいな雰囲気のある子だった。
「……ふわっとしてる子だなあ」
そんな言葉が、ふいに頭に浮かんだ。
彼女が手にしていたのは、「風のあとを、歩く」。
──あ。
詩音の胸が、軽く跳ねた。
大好きな一冊。たった一枚の写真で、一日の気持ちが救われるような、そんな本。
その子は、ページを一枚ずつゆっくりめくっていた。
ときどき、かすかに笑っているようにも見える。
(……わぁ、なんか、嬉しい)
声をかけたい。どのページが好きか聞いてみたい。でも──
(ダメダメ、今はきっと“ひとりの時間”だもん)
詩音は小さく肩をすくめて、本棚に向き直った。
他の本棚への整理もひと段落して、再びさっきの場所を通ると、あの子は、まだ同じ場所にいた。
(あ、さっきのふわっとした子、まだ見てるんだ…)
同じページを、しばらく見つめたまま…少し笑みを浮かべてるようにみえる。
(あの、ふわっとちゃん……ただの写真集好きってわけじゃないのかも)
そんなふうに感じたのは、気のせいじゃなかった気がする。
◇◇◇
夕方。
ようやく店内に、ゆったりとした空気が戻ってきた。
返却カウンターのあたりで、沙織と詩音が話している。
「沙織ちゃん、休憩取った?」
「取ったよ。今はユキが休憩中かな」
「そっか。今日は忙しかったしね。バイトちゃんたち、大丈夫だったかなぁ」
「かなりしんどかったみたい。くるみなんか、『泡、吹きそうです…』って言ってたし」
そう言って、沙織がクスッと笑う。
「頑張ってたもんね、くるみちゃん。今度会ったら、褒めてしんぜよう」
詩音も笑顔で言う。
「それよりさ、詩音。あのS1のソファ席の子、いるじゃん?」
言われて詩音がちらっと振り返る。
あの写真集を見ていた"ふわっとちゃん"が、ソファにすっと腰を下ろし、膝に文庫本をのせている。きれいな姿勢で、指先だけが静かにページをめくっていた。
「あ、さっきの子……どうかした?」
「朝からずっといるみたいなんだよ」
「朝から? コーヒー一杯で?」
「ううん、いろいろ注文はしてくれてる。でも、開店からずっとだって。ユキが言ってた」
「へぇ……」
再び"ふわっとちゃん"に視線を戻す詩音。
彼女は、文庫の文字を追いながら、ほんの少し口元をゆるめていた。
沙織がぽつりと言う。
「楽しそうに読んでるよね。本、好きなんだろうなあ」
「楽しそう……なのかなぁ」
詩音の口からこぼれたひと言に、自分でも少し驚く。
そう言ったあとで、もう一度、表情を見た。
たしかに微笑んでいる。でもそれが、本の内容によるものなのか、それともただの癖のようなものなのか、うまくつかめない。
──あの笑顔、なんだろう。楽しそう、に見えて……なんか、ちょっとだけ、遠い。
その"ふわっとちゃん"は、午後5時すぎに店をあとにした。
「ありがとうございました」というスタッフの声に、変わらずにこにこと笑って、軽く会釈し、ゆっくりとエントランスを出ていく。
詩音も、その背中に向かって言った。
「ありがとうございました……」
でもその言葉は、どこか宙に浮いたまま。
──不思議な感じの子だな。
言葉にならない何かが、まだ胸のどこかに残っている。
カランコロン……
ドアのベルの音が、なんとなく寂しく聞こえた。
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