第77話 再び、あのカフェへ
第77話 再び、あのカフェへ
木曜日。
『幻の一号店探検隊』、いざ出発。
九月にしては、どこか秋の気配を感じさせる、さわやかな朝だった。
午前九時。町田駅の改札を抜けたところで、メイと詩音が足を止める。
「たぶん、こっちだね」
詩音がスマホを掲げ、地図アプリ「ゴーグルマップ」の画面をじっと見つめた。
グランドオープンのとき、敦子店長が送ってくれた住所を頼りに、カフェ・ブランシェの方向を確認する。
「じゃあ、行きますか〜。よいしょっと!」
そう言って、赤いリュックを背負い直す詩音。
メイはその背中を見ながら、ふと声を上げた。
「あれ?それって、ゴールメンのリュックなんだ」
「ゴールメン? あの、キャンプ用品の?」
「うん。なんか、作りがしっかりしてるなって思って」
「へぇ〜、そうなんだ」
メイがちょっと手を伸ばして言った。
「……ねえ、ちょっと背負ってみてもいい?」
「うん、いいよ〜」
詩音がリュックを外して渡すと、メイはゆっくり肩にかけてみる。
しっかりと体にフィットする感覚。背中のラインがやわらかく包み込まれる感じが、なんだか落ち着く。
──それに、ほんの一瞬だけど。
ふわっと、懐かしいような匂いがした気がした。
「……なんか、いいね。これ」
そうつぶやいたメイを見て、詩音が「あ」と声をあげた。
「メイちゃん、見てこれ」
詩音が指差したのは、ショルダーストラップのところ。
そこには、アルファベットのアップリケが、ちょこんと縫い付けられていた。
「K.K……?」
「イニシャル、かなぁ」
「でも……麗佳さんなら、R.K.じゃない?」
「じゃあ、違う人の、なのかな……」
ふたりは顔を見合わせて、しばらく首をひねる。
謎をひとつかかえたまま、再び歩き出す。
その先にある“幻の一号店”へ向かって──。
歩くこと、約三十分。
住宅街の一角で、ふいに開けたようなスペースが目に入った。
「……あ、あそこだよ」
詩音がすっと指をさした。
その先に見えたのは、焦げ茶色の木の壁に、小ぶりなガラス窓。
昭和の香りがふわっと漂う、どこか懐かしさを感じさせる建物だった。
店先には、小さな看板。
──『Branchée』。
「うん、間違いない。あのときも、ここだった」
懐かしむように呟く詩音。
「なんか……いい雰囲気」
思わずつぶやくメイ。胸の奥が、ほんのり高鳴っていた。
看板の下には、手書きの営業日と営業時間。
金・土・日 休業。今日は──木曜日。
「セーフだね」
メイが、ほっと息をついた。
「じゃ、入るよ……」
ちょっと緊張まじりの声で、詩音がドアに手をかける。
ゆっくりと開いたその扉から、小さな音が鳴った。
──カランコロン。
店内に流れていたのは、静かでやさしいクラシックのBGM。
奥のテーブルには、新聞を広げた年配の男性がひとり。
コーヒーをすすりながら、静かな朝を楽しんでいるようだった。
そしてカウンターには、見覚えのある姿があった。
白いシャツに、黒のベスト。
白髪と、口元にたたえた白いひげ。
そして、あの日と変わらない──やわらかな目元。
「おはようございます。あの……」
詩音が、少し控えめに声をかける。
その声に、マスターがゆっくり顔を上げて言った。
「いらっしゃいませ」
そして──
「あれ、この前の……ラフォーレのお嬢さん」
心の奥まで届くような、やさしい笑顔で迎えてくれた。
詩音が言った。
「この前は、お世話になりました。あの、これ……」
赤いリュックサックを、カウンター越しに差し出す。
「あぁ、わざわざありがとうございます」
マスターはそう言って、そっとリュックを受け取った。
「これね、娘が大事にしていたものでして。つい渡してしまって、あとから少し焦ってたんですよ」
その手つきは、どこか懐かしいものをなでるような優しさがあった。
「そうだったんですか……」
メイがぽそりと返すと、マスターは手前のカウンターを指しながら、穏やかに言った。
「まぁ、どうぞ。おかけください」
手のひらを返して、ふたりを促す。
「ありがとうございます」
ふたりは並んでカウンター席に腰を下ろした。
古い木の椅子は、ほんの少しきしむ音を立てたけれど、それもまた心地よかった。
「何かお飲みになりますか?」
「えっと……」
メニューを開いたあと、顔を見合わせるふたり。
「じゃあ、ブレンドをふたつで」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
マスターは手慣れた動きで、お湯を沸かし始めた。
静かに流れるクラシックの旋律のなか、カップの音と、お湯の沸く音が重なっていく──
コーヒーを待ちながら、メイは店内をそっと見回した。
カウンターと、小さなテーブルが二つだけの、こぢんまりとした空間。
壁には、水彩の風景画がいくつか並んでいて、どれもやわらかく、静かな空気をまとっている。
奥の棚には、丁寧に磨かれたサックスが飾られていた。
カウンターの中に目を移すと、古びた白黒写真が額に入れて置かれているのが見えた。
「ね。いいお店でしょ」
隣で詩音がぽつりとつぶやく。
「……うん」
メイは小さくうなずいた。
マスターはコーヒーを淹れながら、少し声を落として言った。
「加輪隅産業の件では、本当にご迷惑をかけました。申し訳なかった……。加輪隅も、近いうちに直接お詫びに伺うと話していました。私からも……すみません」
「いえ……そんな……」
詩音が首を振る。
そのとき、ふわりとコーヒーの香りが立ちのぼった。
「お待たせしました」
マスターが、湯気の立つカップを二人の前にそっと置く。
あたたかな香りがふたりを包んだ。
メイがそっとカップを手に取り、ひとくち。
「……あ、これ」
言葉がすぐに続かない。どこかで、飲んだことのある味。
詩音も一口飲んで、ふっと目を細めた。
「……うん。ラフォーレと同じ味がする」
マスターが穏やかに笑った。
「同じ豆で、同じように淹れてますからね」
その言葉と一緒に、柔らかな時間が流れた。
そんなとき、店の奥にいたお客さんが、そろそろ帰ろうかと席を立った。
新聞をたたんでゆっくり歩き、カウンター横のレジに向かう。
「マスター、若い子が来るなんて珍しいね。お孫さんかい?」
「いや、残念ながら違うんですよ」
ふたりのやりとりを聞きながら、メイはくすっと笑う。
「最近さ、長く座ってると腰が痛くてねぇ」
お釣りを受け取りながら、男性がぼやく。
「じゃあ今度、田中さん専用の分厚い座布団でも用意しときましょうか」
「ははは、やめとくれよ。また来週な」
「ええ、気をつけて」
マスターがにこやかに送り出す。
そんなやりとりを見ながら、メイは思った。
──なんだか、いいな。こういうの。
「すまないね、お嬢さんたち。ちょっとバタバタして」
マスターがこちらに向き直る。
「あの……わたし、詩音っていいます」
詩音が、ぴんと背筋を伸ばして自己紹介する。
「詩音ちゃん……かい」
「はいっ」
「私はメイです」
メイも少し照れながら名乗った。
「詩音ちゃんに、メイちゃん……ようこそ、カフェ・ブランシェへ」
マスターが穏やかに微笑んだ。
「ゆっくりしていってくださいね」
そう言うと、赤いリュックサックを手に取り、そっと奥の部屋へ下がっていった。
ふと詩音が、カウンターの奥の壁に目を留めた。
誰もいなくなった今、そこに飾られた一枚の写真が目を引く。
「ねえ、メイちゃん。あれ……たぶん、ここだよね?」
指さされたのは、店の前らしき場所で撮られた、古い白黒の写真。
数人の人物が並び、笑顔を浮かべていた。
「うん。建物の雰囲気、たしかに同じだね」
メイもカップを置いて、そっと頷く。
「真ん中が麗佳社長でしょ? その左がマスターで……隣の女性が、たぶんマスターの奥さんだと思う」
写真を覗き込むようにして、詩音が言った。
「じゃあ、この右隣にいる人は……?」
メイが指さしたのは、割腹の良い男性。陽気な笑顔で、両手を腰に当てて立っていた。
ちょうどそのとき、マスターがカウンターに戻ってきた。
「マスター、あの写真……ここで撮ったものですよね?」
詩音が声をかける。
「ええ、そうです。これは、このお店が最初にオープンしたときに撮った記念の一枚でね」
「この一番右の方って、どなたなんですか?」
マスターは写真に目をやりながら、ふっと微笑んだ。
「この、がっしりしたのがね……加輪隅明夫。今回、ご迷惑をお掛けした、加輪隅産業の社長です」
「えぇー、あの『栞事件』の!?」
驚く詩音。でも、写真の彼はどこか人懐こくて、親しみやすそうな表情をしていた。
──なんだか、あのトラブルの当事者って感じがしないなぁ……と、詩音は思った。
「もう十三年ほど前になりますかね。みんな、今より少しだけ若かった」
マスターがふっと懐かしむように呟く。
「麗佳さんのスタートは、ここからなんだね」
詩音がメイのほうを見る。
「うん……このお店が、一号店だったんだ」
メイは、コーヒーの香りをふわりと感じながら、しみじみと答えた。
そのやりとりに、マスターが穏やかに言葉を挟む。
「まぁ、そういうことになるけどね。けれど、いちど手放した店だから……“一号”というより、“ゼロ号店”かもしれないな」
「なんで、手放しちゃったんですか?」と、メイが首をかしげる。
「私にも詳しいことはわからないけど……加輪隅と、いろいろ話をして決めたみたいだったよ」
「加輪隅さんって、そんなに麗佳さんと親しかったんですね」
詩音が不思議そうに口にする。
マスターは洗い物をしながら、小さくうなずいた。
「小さい頃から、よくヤツには懐いてたからね。ああ見えて、経営の腕も悪くなかった。いろいろ相談していたようだよ」
メイも詩音も、じっとマスターの話に耳を傾ける。
「……あの頃の麗佳は、必死に何かを追いかけていた。目の色が違ってたよ。
人にはね、生きていく中で、『ここが踏ん張りどころだ』って時がある。きっと、あのときの彼女は、そんな真っ只中だったんだろうね」
──踏ん張りどころ。
メイは、心の中でその言葉を繰り返した。
(麗佳さんは……どんな気持ちで、あの会社を始めたんだろう)
ほんの一瞬、静けさが店の中に満ちる。
「……ああ、すまないね。年寄りの戯言みたいなことを、つい口にしてしまって」
マスターが少しだけ照れたように言うと、
「いえ。なんか……うれしいです」
メイが笑った。
「そんな話、聞けるの、うれしいです」
そんな話をしていた時だった。
ふと詩音が、店の奥の棚を見てつぶやく。
「ねえ、あのサックスって……麗佳さんのですか?」
「いや、あれは私のなんですよ」
マスターが笑みを浮かべながら答える。
メイが少し驚いたように身を乗り出した。
「マスターも、音楽やってたんですか?」
「まあ、遊びですけどね。仲間内で、バンドみたいなのを組んでいて」
「サックスって、かっこいいですよね!」
詩音が目を輝かせる。
「映画の中のジャズバーとかで、渋い人が吹いてるイメージ!」
「ははは、カッコいいかどうかは分かりませんが……音楽は好きでしたね」
マスターの声に、どこか懐かしさが滲む。
「実はね、加輪隅もそのバンドにいたんですよ。トロンボーン担当で」
「えっ、そうなんですか?」と詩音。
「意外と仲良しだったんですね、加輪隅さんと」
「……まあ、腐れ縁ってやつでしょうかね」
マスターは肩をすくめた。
詩音は両手を口元に当てて、サックスを吹く真似をしながら聞いた。
「今も吹くんですか?」
「いやぁ……もう息が続かないかも。音も出るかどうか」
そう言って、少しだけ目を細めたマスターの顔には、あたたかい時間を思い出すような、柔らかい表情が浮かんでいた。
そんな話を聞きながら、メイは店の奥のサックスを改めて見てみる。
すると、サックスの横に、小さな写真が立てかけてあるのに気づいた。
山々が広がる背景に、ぽつんと祠が写っていた。
「……あの写真って、山の上ですか?」
「ええ、北アルプスの槍ヶ岳ですね。若い頃に登りまして。高校時代は山岳部でしてね」
「うわ、おじいちゃんと一緒だ」
詩音が顔をぱっと明るくする。
「そうでしたか。おじいさんも山男でしたか」
「そうなの。おじいちゃん、よく歌ってたよ」
詩音はどこか懐かしむように言った。
「“娘さん、よく聞けよ〜 山男に惚れるなよ〜♪”って。
で、おばあちゃんが、モテもしないくせに何言ってんの!って突っ込んでてさ」
その光景を思い出して、詩音はふふっと笑う。
メイもマスターもつられて笑った。
店内に、静かであたたかな笑い声がひとつ、ふたつと重なっていった。
「今も、山に登ったりするんですか?」
メイが聞いた。
「いやぁ……それも、もうだいぶご無沙汰でね。でも最近、運動不足が気になって、トレッキングとか、ソロキャンプなんかを少しずつ再開しはじめたところなんですよ」
「キャンプですか!」
詩音が身を乗り出す。
「ええ。お二人は、キャンプとかするんですか?」
「はい、いえ……あの、えーと、まだ行ったことはないんですけど」
メイが少し照れくさそうに答える。
「そうですか。ぜひ行ってみてください。
大自然に囲まれているとね……なんだか、いろんなものに諭されているような気がするんですよ。
悩んでいることも、気づけばちっぽけに思えてくる。若い頃はね、あの時間に何度も勇気をもらいましたよ」
マスターは、懐かしそうに目を細めた。
「わたし、富士山ドーンって見たいんです!」
詩音が元気よく言う。
「富士山、いいですね。
近くで見ると、特に冬の富士は、空気も澄んでいて感動しますよ」
マスターの言葉に、詩音の顔がぱっと華やいだ。
「キャンプで、これはっていう話、何かありませんか?」
メイが少し前のめりになってたずねる。
「そうですねぇ……」
マスターは少し考えたあと、口を開いた。
「たとえば、ランタン。オイルランタンひとつでもいいんですが、けっこう暗くてね。キャンプ場って、場所によっては本当に真っ暗ですから、少し明るめの灯りがあると安心ですよ。いまは軽くて明るいLEDのものもありますし」
「なるほど……」
メイがうなずく。
「それに──」
マスターの話は止まらず、そこからしばらく、キャンプの道具や思い出話に花が咲いた。
◇◇◇
「どうも、長々とお邪魔しました」
席を立ちながら、詩音がぺこりと頭を下げた。
「いえいえ。こちらこそ、遠くまでありがとうございました」
マスターは穏やかな笑みを浮かべる。
詩音が財布を出そうとすると──
「あ、今日は私に奢らせてください」
マスターがやんわりと制した。
「えっ、でも……」
詩音が遠慮がちに口ごもる。
「リュックサックを届けていただいたうえに、楽しい時間も過ごさせてもらいましたしね。加輪隅の件でも、ご迷惑をおかけしました。ほんの、気持ちです」
「……それじゃあ、お言葉に甘えちゃいます!ありがとうございました!」
詩音は素直に笑って頭を下げた。
店を出ると、朝よりも少しだけ陽射しが強くなっていた。
それでも、風はまだどこか柔らかい。
「また来ますね、マスター!」
詩音が明るく手を振る。
メイも、それに倣うように、小さく会釈した。
ーーカランコロン。
扉の音が静かに閉じる。
その音が消えるまで、マスターはカウンターの奥から、二人の背中を静かに見送っていた。
町田駅までの帰り道。
通りを歩きながら、メイがぽつりとつぶやいた。
「マスターも、キャンプやってるとはね」
「ね。しっかりしてそうなのに、食料忘れて、片道一時間歩いてコンビニ行ったとかさ、ちょっと意外だったよね」
詩音が笑う。
「蚊取り線香、落としてテントに穴開けた話も……」
メイも思い出し笑いをしながら言った。
その時。
詩音が急にメイの前に立ちふさがった。
「メイちゃん!」
鼻息が荒い。
「キャンプ、行こうね……ってか、計画立てよう!!」
片手をぐっと握って、空に突き上げる。
「お、おぅ……」
あまりの勢いに押されて、思わず小さく手を上げるメイ。
「よっしゃー!キャンプ計画、いくよー!」
詩音はひとりでテンションを上げながら、前を向いて歩き出した。
その背中を見つめながら、メイはふっと笑った。
そして、少しだけ早足になって──そのあとを追いかけていった。
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