第76話 気になっていた、その先へ
送別会の翌朝。
朝から小雨がぱらついている。
カフェ・ラフォーレ リーヴルスの更衣室に、詩音が元気よく飛び込んできた。
「おはよー!」
すでに制服に着替え終えていた沙織が、振り返って笑う。
「おはよ、詩音。昨日はおつかれ」
「沙織ちゃんこそ、ありがとね」
「いやいや。みんな楽しそうだったし、やってよかったよね」
更衣室の中は、昨日までとは打って変わって静かだった。
詩音はロッカーを開けながら、ふと呟く。
「……なんか、広く感じるね」
「ね。あんなにぎゅうぎゅうだったのにね。朝は私たちと、バイトちゃんが三人だけだし」
沙織もあたりを見渡す。
「そっか……店長は?」
「本社で会議って言ってなかった?」
「あ、そうだったかも……。じゃあ、全部で五人かぁ」
「まあ、残された者で頑張らないとね」
沙織は軽く肩をすくめると、制服の裾を整えて店舗の方へ向かった。
「うん、頑張ろ」
詩音はブラウスのボタンをひとつずつ留めながら、小さく息を吐いた。
何気なくロッカーの奥に目をやると、そこに見覚えのある赤いリュックサック。
町田のブランシェで借りたものだった──栞事件のときの。
「……これも、返さなきゃな」
ぽつりとつぶやいた声は、誰にも聞こえていなかった。
◇◇◇
雨の平日の午前中。
店内には、ぽつぽつと数人のお客さんがいるだけだった。
詩音は、レジ横にある物販の棚を丁寧に整えている。
カフェ・ラフォーレ リーヴルスでは、オリジナルのグッズをいくつか販売している。
籐で編まれたアンティーク調の棚には、自家焙煎のコーヒー豆をはじめ、ロゴ入りのマグカップやカップ&ソーサーのセット、クリアファイル、そして──革製のしおりが並んでいた。
その栞は、落ち着いたこげ茶色で、「Café Laforêt Livres」の刻印が入っている。
これはこれでシンプルで素敵だけど、昨日、自分が受け取った“あの栞”とは、まったく別物だ。
詩音はその栞を整えながら、ふと昨夜のことを思い出していた。
送別会が終わって、矢鞠駅まで敦子と一緒に歩いた帰り道のこと。
──そういえば、あの時……。
記憶の断片がかすかに浮かびかけたその瞬間。
「いらっしゃいませ」
入口のドアベルが鳴って、詩音は反射的に顔を上げた。
二人組のお客さんが入ってくる。
心の中に渦巻いていたモヤモヤを振り払うように、詩音は笑顔でエントランスに向かった。
◇◇◇
夕方。
雨もすっかり上がり、店内には少しずつお客さんの姿が増え始めていた。
そんな中、更衣室から出てきたメイが店内に姿を見せる。
レジに立っていた沙織と目が合い、ふたりは営業中らしく控えめな声で挨拶を交わした。
「おはようございます」
「おはよう!昨日はおつかれ!」
「お疲れさまでした」
ほとんど口パクのようなやりとりのあと、メイは小さく手を振って、店の奥──展示スペースの方へ向かっていく。
通路を抜け、本棚のエリアに差しかかったところで、ひとりで整理作業をしていた詩音と鉢合わせた。
「詩音、おはよう。昨日はお疲れさま」
「あ、メイちゃん!」
詩音は手にしていた本を戻すのをやめて、顔を上げた。
「今日はこれから?」
「うん。11月の展示の下調べをしないとね」
「えっ、もう11月のことなんだ!」
「……うん」
少し驚いた様子の詩音に、メイは一拍おいて、どこかためらいがちな声で言った。
「詩音さ、仕事終わってからでいいんだけど、ちょっといい?」
「うん、大丈夫。実は、私も話したいことあるんだ」
詩音はそう言って、ふわりと笑った。
◇◇◇
仕事終わり。
いつものバーガーショップ。
「やっぱ、ここのフィッシュバーガーおいしいよね」
窓際の席で、詩音がにこにこしながらパクついている。
(美味しいのは知ってるけど、さすがに昨日PAROで食べすぎた……)
メイはそんなことを思いながら、フライドポテトをひとつつまみ、ダイエットコークをストローでひと口すする。
昨日から、なんとなく気になっていたことがあった。
考えすぎかもしれない。
でも、下手に聞いて詩音を困らせたら……
そう思ってタイミングを計っているうちに、ずるずるここまできてしまった。
ただの好奇心。──でも、やっぱり少し気になる。
テーブルにカップを戻しながら、そっと声をかける。
「それでさぁ、詩音……」
「ん? なに?」
「私が気にするのも何なんだけどね……」
メイはゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「昨日、麗佳社長からみんなにプレゼントされたとき、栞の製作会社の名前、知ってるって言ってたでしょ?」
すると詩音は、もぐもぐしながらあっさりと答える。
「うん。私もそのことでメイちゃんに話そうと思ってたんだ」
(あれ……そうだったんだ)
悩んでいた自分が、ちょっとだけおかしく思えてくる。
「なんか、以心伝心って感じだね」
メイは思わず肩の力が抜けて、にこっと笑った。
フィッシュバーガーをゴクンと飲み込んだあと、詩音は身を乗り出してくる。
「実はね、その件で、昨日敦子さんに聞いたんだよ」
そう言って、詩音は昨日の敦子との会話を語りはじめた。
***
PAROの帰り道。矢鞠駅までの道中。
「敦子さん!」
詩音が後ろから声をかけると、敦子が振り返った。
「あら、詩音ちゃん。おつかれさま。
みんな、喜んでたわね……やってよかったじゃない」
「はい、そうなんですけど……」
少しためらいながらも、気になっていたことを切り出す。
「あの、さっきいただいた栞の製作会社なんですけど……」
「ああ、加輪隅産業さんね」
「それって、ノベルティの栞と同じところですよね?」
敦子は少し表情をゆるめて言った。
「あ、そのことね……いわゆる『栞事件』の真相ね。
詩音ちゃんにはもっと早く話さなきゃと思ってたんだけど、なんかバタバタしちゃって。ごめんなさいね」
「いえいえっ」
詩音は慌てて首を振る。
「加輪隅産業さんって、草加の革製品会社なの。
でね、そこの社長さんと麗佳さんのお父さんが、昔からの知り合いらしくて」
「麗佳社長のお父さんと……」
「そうなの。そんなこともあって、昔から革のものは全部、加輪隅産業さんにお願いしてるのよ」
(ただの業者じゃなかったんだ……)
詩音は思わず息をのんだ。
「でね、今回のしおり。あれは麗佳さんが、かなり前からお願いしてたみたいなの」
「前って、どのくらい前ですか?」
「私たちがノベルティを発注する、だいぶ前だって。
で、本社宛で発注してて、それはちゃんと届いたのよ」
「じゃあ、間違って送られたのは……」
「そう、私たちがノベルティを頼んだときに、先方が勘違いしちゃったみたい。
『麗佳さんのカフェ=町田の店舗』って思って、そっちに送っちゃったのよ」
***
「それが誤配送の原因だったのかぁ」
メイが言うと、詩音が続ける。
「そうなんだよ。でも、気になったのがさ……」
「町田のお店、だよね!」
「そうそう!それで、そのことも聞いたんだよ」
詩音はまさに“好奇心のかたまり”という顔で、身を乗り出しながら続けた。
***
「でも……どうして町田のカフェが、麗佳社長のカフェってなっちゃったんでしょう?」
詩音が尋ねると、敦子は小さく頷いた。
「たぶんね、あの町田のカフェが──“幻の一号店”だったからだと思うわ」
「幻の一号店……ですか?」
「うん。詩音ちゃんがしおりを取りに行ってくれたあのお店。カフェ・ブランシェ。
あれは、麗佳さんが最初に一人でやってたカフェなの」
「……じゃあ、あそこがルポ ドゥ レヴ社の一号店?」
「正確には、会社を作る前の話ね。法人としての一号店は、馬車道の“ル ルポ ド ニーチェ”。
だから、“幻の”って言われてるの」
「じゃあ、私が行ったブランシェは……」
「今はもう別のお店になってるみたい。噂ではね、麗佳さんのお父さんが趣味でやってるとか」
「えっ、えっ、お父さん!?」
詩音の脳裏に、あのカフェで見かけた年配のマスターの姿がフラッシュバックした。
「まあ、あくまで噂よ? 私も確かめたわけじゃないけど」
「なんだか……頭こんがらがってきました」
すでにほろ酔いの詩音の頭では、これが限界だった。
「そのへん、もっと詳しく知りたいなら……裕子先輩のほうが詳しいかもね」
「……待って、それって──」
「うん。裕子さん、高校からの付き合いだし」
詩音は一瞬、固まった。
「……えっ? お母さん?高校から? ちょ、えっ、えっ!?」
頭がぐるぐるして、言葉がうまく出てこない。
「知らなかったんだけど!?」
思わず声が裏返る。
「そっちの方がびっくりよ」
敦子は吹き出すように笑った。
***
「ちょっと待って……私もこんがらがってきた。
……っていうか、詩音のお母さんと麗佳社長って、友達だったんだ!」
メイが目を丸くして言った。
「うん。知り合いっていうのは聞いてたけど、まさか高校の同級生だったとはね……
お母さん、何も話してくれないんだもん」
詩音は少し口をとがらせながら言った。
「つまり……加輪隅産業さんが麗佳社長のことをよく知ってるから、
間違えて町田に送っちゃったってことなのかな」
「そういうこと、だよね」
「……なんか、間違っちゃうのは困るけど、
人と人のつながり……絆、みたいなのを感じるな」
「だよね〜」
詩音はアイスコーヒーをストローで飲みながら、ふぅっとひと息。
「でね、メイちゃん。赤いリュックサックのこと、覚えてる?」
「赤いリュック……ああ、詩音が梓ちゃんのバイクの後ろに乗ってきたときの?」
「そう。重たい栞を入れて背負ってきた、あれ。
実はね、ブランシェのマスターに借りたやつなんだよ」
「そうだったんだ……」
メイはちょっと驚いたように、でもどこか懐かしそうに言った。
「あの時はバタバタしてたから、気にも留めなかったけど」
「返さなきゃって思っててさ。それで──
ねえ、メイちゃん。一緒に行かない? カフェ・ブランシェ」
「え? 詩音、行くの?」
「うん。だって、借りたもの返さなきゃ。いっしょに行こうよ」
メイも思った。
麗佳社長の“幻の一号店”──どんなお店なのか、見てみたい気がした。
「……うん、行こう!」
「やったー!」
「明日の仕事終わりとかにする?」
「うーん……でもね、確か営業時間が午前7時から午前11時までって、看板に書いてあった気がするんだよね」
「ゴーグルマップで見てみたら?」
「それが、載ってないんだよ。ホームページも見当たらなくて」
「……じゃあ、午前中に行けそうな日にしようか」
メイはバッグからスケジュール帳を取り出し、予定を確認する。
「……今度の木曜日、休みなんだけど。詩音、予定どう?」
詩音もスマホで確認する。
「ちょっと待ってね……あ、私はその日遅番だから、午前中なら大丈夫!」
「じゃあ、決まりだね」
メイが手帳を閉じたのを見て、詩音はにっこり笑って指でOKサインを作った。
──こうして、ふたりの“幻の一号店探検隊”が、にぎやかに動き出した。
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