第71話 グランドオープン:エピローグ
グランドオープン初日が終わるころ、店の空気はすっかり落ち着きを取り戻していた。
夜8時すぎ。
カフェ・ラフォーレリーヴルスの更衣室では、スタッフたちが口々に感想を言い合いながら、にぎやかに帰り支度をしている。
少し疲れた表情の中にも、どこか満ち足りた笑顔が浮かんでいた。
「終わったー。なんか長かったような、あっという間だったような……」
着替えを終えた沙織が、ぐっと背伸びをしながらつぶやいた。
「でも楽しかったー!」
隣で詩音が声を弾ませる。
「今朝は、どうなることかと思ったけどね」
沙織が笑い混じりに言うと、詩音は照れたように頬をかいた。
ロッカーの奥から顔を出した明美が、タイミングよく声をかける。
「明日も、三部とも予約いっぱいらしいですよ」
「おおーっ、メラメラと闘志が湧いてきた!」
詩音が拳を掲げて叫ぶ。
「闘志って、誰と戦う気なのよ」
沙織が即座にツッコミを入れる。
更衣室に、自然と笑いが広がった。
◇◇◇
更衣室を抜けた控え室の出入口から、スタッフたちが次々と店の外へ出ていく。
メイも、詩音と並んで外に出ようとした、その瞬間——
「あっ、忘れ物……」
そう言って、踵を返した。
詩音は小さく手を振りながら笑った。
「じゃ、外で待ってるねー」
メイが再び店内に戻ると、照明はすでに落とされ、店内は柔らかな間接照明だけが灯っていた。
静まり返った空間の中で、レジ横のカウンターに鈴原店長の姿があった。スマホの画面を見つめている。
「あら、メイちゃん。忘れ物?」
「あ、はい。展示エリアのところに……」
そう言って足早に歩くと、展示エリア裏のテーブルに置きっぱなしだったサコッシュを手に取る。
帰り際、カウンターの店長に向き直る。
「店長、まだ帰らないんですか?」
「ええ。ちょっとだけ、片付けてからね」
「そうですか……。じゃあ、お先に失礼します。お疲れさまでした」
「お疲れさま。気をつけて帰ってね」
優しい微笑みとともに、店長が軽く手を振る。
メイはぺこりと頭を下げて、再び更衣室へと消えていった。
◇◇◇
もうすぐ夜の9時になろうかという時間。
カフェ・ラフォーレ リーヴルス店内——
落ち着いた照明のなか、カウンター席には私服姿の敦子が静かに腰を下ろし、スマホを眺めていた。
──カランコロン。
控えめな音を立てて、正面のドアが開く。
「……こんばんは」
「こんばんは、裕子さん」
立ち上がった敦子が、にこやかに迎える。
裕子は一歩店内に入ると、ふと目を細めた。
「あら、敦子ちゃん」
「今朝はありがとうございました。
麗佳さんから聞いてます。どうぞ、こちらへ」
「ありがとう」
ソファ席に通され、敦子がカウンターの奥に向かう。
「今、コーヒーお出ししますね」
「お構いなく……遅くまで大変ね」
「いえ、現場好きなんです、私。こういう時間も、ちょっと好きで」
ふっと笑う敦子。
その視線が、ふと窓の外に向く。駐車場に入ってくるヘッドライトが、店の壁を一瞬照らした。
「……戻ってきたみたいですね」
そう言ってカウンターへと向かい、カップを用意しはじめた。
──カランコロン。
控えめにドアベルが鳴った。
再びドアが開き、スーツ姿の麗佳が静かに入ってくる。
「遅くなった……」
「時間ぴったりね」
麗佳は軽く息をつきながら、ソファのそばにバッグを置いた。
少し遅れて敦子がコーヒーを運んできた。
「お疲れさまです、麗佳さん」
「ごめんね。遅くまで……ありがとう」
「いえ、大丈夫です。あとはお任せしても?」
「もちろん」
微笑み交わし、敦子はカウンター奥からバッグを手に取る。
「じゃあ、戸締まりお願いしますね。お先に失礼します」
「ありがとう、敦子ちゃん」「お疲れさま」
二人の声に送られ、敦子は静かに店を出た。
◇◇◇
静まり返ったラフォーレの空間に、コーヒーの香りだけが漂っている。
ソファに並んで腰かけた二人は、しばらく無言のままだった。
カップを手にしながらも、ふたりとも口をつけないでいた。
やがて、裕子が静かに言う。
「……とても、いいお店ね。落ち着くわ」
間を置いて、麗佳が応える。
「……裕子には、ちゃんと見てもらいたかったんだ」
その言葉に、少しだけ口元をゆるめた裕子が、目を向ける。
「ええ。しっかり見させてもらったわ。
お店も、あなたのスピーチも」
言葉を継がない麗佳。
沈黙がひと呼吸、流れる。
「……ちゃんと届いたわよ。奏恵にも」
その言葉を聞いて、麗佳はわずかに目を伏せた。
「……そうかな」
肩の力が、少しだけ抜けるように。
そして、ほっとしたように、小さく笑みをこぼす。
張りつめていた空気が、かすかにぬくもりを帯びはじめていた。
そんな中、ふと思い出したように、裕子が静かに口を開く。
「そうそう──あなた、知ってたんでしょ? メイちゃんのこと」
「……ん? あぁ……。計画書で名前を見たとき、少しだけ引っかかった。
でも、確信したのはつい最近。姿を見て……」
裕子はふっと目を伏せ、静かにうなずいた。
そして、思い出すように続けた。
「そっくりよね、あのまなざし」
「……ああ。少し、動揺した」
麗佳はカップに視線を落としたまま、小さく息をついた。
「でもね、そっくりなのは、それだけじゃないの」
そう言って、裕子はバッグから一枚のカードを取り出し、テーブルにそっと置いた。
麗佳がそれを手に取る。
『本の匂いとコーヒーの香りの中で、ゆったりと本を読む——
そんな時間を楽しんでいただけたなら、うれしいです。
……MEI』
麗佳は小さく息をのむ。
「……これは……」
メッセージカードを読み終えた麗佳は、しばらく指先にその重みを感じていた。
それは言葉というより、静かに差し出された赦しだった。
心の奥で、そっと誰かの声がした。
『もう背負わなくていい。
形じゃなくて、想いをつないだことで──』
ようやく、あの子に笑って報告できる気がした。
麗佳は、静かに微笑んだ。
裕子が穏やかに口を開く。
「想いが、世代を超えた──摩訶不思議な出来事、ってところかしら」
「……現実主義者らしくない言葉だな」
「こう見えても、一応ポエム作家ですから」
ふたり、目を合わせて、ふっと笑った。
「でも、本当に驚いたわ。まさか、うちの娘と繋がってるなんて」
「……メイのこと、聞いてなかったのか、詩音から?」
「全っ然。もう、びっくりよ。なんで早く言ってくれないのよって」
「そう言われても困るだろうよ、詩音は。あの子、何も知らないんだから」
「まあ……それもそうよね」
ふたりの笑顔に、じんわりとあたたかさがにじんだ。
裕子がぽつりと言った。
「なんか──いいわね。あの子たちが、あの頃の私たちと繋がってるって思うと」
「私たちが……あの時、できなかった続きを」
その言葉を、やさしく諭すように裕子が受け止める。
「続きをやってるんじゃなくて、“その先”に進んでるのよ……あの子たちは」
麗佳は、静かに笑みを浮かべた。
「……その通りだな」
「もう、ちゃんと“渡した”ってことよ。あなたの夢も、奏恵の夢も」
「……ああ」
その言葉に、麗佳は深くうなずいた。
コーヒーの湯気が、静かに揺れていた。
その向こうで、夜の灯りがやわらかく滲んでいた。
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