第70話 グランドオープン その③
オープニングセレモニーが終わり、カフェ・ラフォーレ リーヴルスのエントランス前には、すでに多くの人が集まり始めていた。
京子や明美たちスタッフが、来店者の誘導に追われている。
掲げられた告知ボードには、
『本日はご予約制となっております』
『スマホのご予約画面、またはご招待状をご提示のうえ、お並びください』
と書かれていた。
行列の中には、梓の姿がある。ひとりで静かに立っていた。
その数人後ろには、詩音の母・裕子と姉の歌音の姿もあった。
やがて、時刻は午前10時ちょうど。
カラン、コロン──
エントランスのドアベルが軽やかに鳴る。
「お待たせしました。カフェ・ラフォーレ リーヴルス、ただいまグランドオープンです!」
店長の鈴原敦子が、晴れやかに声を響かせた。
店内には、次々とお客さんが入ってくる。
「わあ、かわいい……」「すてきな空間」──
あちこちから、感嘆の声があがる。
入口近くでは、沙織が明るい声で声をかけていた。
「先にご注文をお願いします。こちらのメニューをご覧くださいね」
お客さんたちは、メニューボードや手渡されたメニューを眺めながら、思い思いに選んでいる。
注文が決まった人から、レジに進んでオーダー。
レジ前にはすでに小さな列ができていた。
梓もその列の中にいた。
周囲のざわめきの中、ふと視線を上げると、カフェの奥で忙しそうに動き回る詩音の姿が目に入る。
テキパキと、でも元気よく。
その様子を見て、梓はどこかほっとした気持ちになる。
詩音とアルバイトのミホは、オーダーが終わったお客さんを順に席へ案内していた。
招待状や予約画面を確認しながら、丁寧に声をかけていく。
一方、梓はそんな案内の流れに気づかず、
空いていそうな席を探して、店内を見渡していた。
──さっきスピーチしていた社長さん。
奥のソファ席で、スーツ姿の来賓らしき人物と談笑している。
その近くはさすがに避けた方がいいな……と思っていたところへ、声がかかった。
「こちら、カウンターのお席はいかがですか」
ミホが笑顔で案内する。
席に向かう途中、梓はふと外に視線をやった。
ガラス越しの少し離れた駐輪場に、自分のレブル250が見える。
静かな雰囲気。落ち着いた空間。
──悪くないな。
梓は、そっと椅子に腰を掛けた。
◇◇◇
落ち着いた雰囲気のカフェフロアとは対照的に、厨房は開店直後の混雑で、まるで戦場のような騒がしさだった。
志麻や美智子、アルバイトの子たちは、次々に入るオーダーの処理に追われている。
レセプションのときにはなかったテイクアウト対応も加わり、予想以上の忙しさだ。
「……テイクアウトの忙しさ、ハンパないですね」
アルバイトのくるみが、トレイを抱えながら思わずつぶやく。
「このくらいで音を上げてたら、この先もっと大変だよ」
志麻がさらっと返す。声に焦りはない。
どこか落ち着いたその口調に、くるみは思わず「ですよね……」と苦笑いした。
一方、受け渡しカウンターでは、
アルバイトの虹香が、注文票とにらめっこしながらおどおどしていた。
その横では、ユキがまるで舞うように動いている。
出来上がったコーヒー、キッシュ、パフェ──
すべてを手際よく、お客さんに間違いなく、素早く渡していく。
「ユキさん、神……」
虹香は心の中でそうつぶやいた。
オーダーを終えた裕子と歌音は、スタッフに案内されてテーブル席へと向かった。
席に着くと、裕子はゆっくりと店内を見渡した。
落ち着いた色合いでまとめられた空間。
天井が高く、どこか開放感がある。
カウンター、テーブル、ソファー──
さまざまな席が、それぞれの過ごし方に寄り添うように配置されている。
そして、カフェフロアのすぐ隣には、本がぎっしりと並ぶ本棚の空間が広がっていた。
壁一面を覆う大きな棚に加え、通路をつくるようにいくつかの本棚がゆるやかに配置されている。
その並びは、まるで森の小径のようだった。
流れるBGMはバッハの《主よ、人の望みの喜びよ》 。まるで店全体の呼吸を整えているような、穏やかな音色だった。
「……素敵なお店を作ったわね」
裕子は心の中で、ふっとつぶやいた。
そんなことを思いながら、店内を見回していたときだった。
テーブルに、鈴原店長がやってきた。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです」
丁寧に頭を下げる。
裕子はふっと微笑んで返す。
「久しぶりね。……とても良いお店じゃない」
「ありがとうございます。今日はごゆっくりしていってくださいね」
にこやかに一礼すると、他のお客さんの対応へと向かっていった。
鈴原店長がいなくなったあと、隣の歌音が身を乗り出して裕子に聞いてきた。
「えっ……ここの店長さんと知り合いなの?」
「ええ。高校の吹奏楽部の後輩よ」
「そうなんだ。でも……歳、けっこう離れてるよね?」
「吹部のOGとOBでやってた楽団があってね。そこで知り合ったの」
そう答える裕子に、歌音はへえ、と頷きつつ、どこか感心したような表情を見せる。
そのとき、今度は柳森さんが、こちらに気づいて近づいてきた。
「裕子先輩。お久しぶりです」
「淳子ちゃん、久しぶりね。元気だった?」
「はい、おかげさまで。書店のほうも順調です」
「そう。よかったわ」
「今日は、ごゆっくりしていってくださいね」
「ありがとう」
そのやりとりを見ていた歌音が、ぽつりとつぶやく。
「……お母さん、なんかすごいかも」
◇◇◇
カウンター席で、梓はひとり、コーヒーをゆっくりと味わっていた。
冷房の効いた店内は少しひんやりしていて、
そのぶんガラス越しに差し込む陽射しが、静かに体を温めてくれるようだった。
そこへ、メイがこちらに気づいて駆け寄ってくる。
「梓ちゃん!」
「……あ、メイ。なんか、忙しそうだな」
「みたいだね。私は展示エリア担当だから、カフェのほうはあまり分からないけど」
「……そうなんだ」
一拍おいて、メイが少し表情をやわらげて言った。
「梓ちゃん、栞のこと……ありがとう」
「いや、別に。たいしたことじゃないよ」
「ううん。詩音、自分のせいで栞が渡せなくなったって、ずいぶん落ち込んでたから……
本当に喜んでたよ。ありがとうね」
「……詩音、そんなふうに思ってたんだ」
ぽつりとつぶやいた梓に、メイが笑顔で続ける。
「そうそう。後で、展示エリアでイベントがあるから、よかったら見に来て」
「わかった。見に行くよ」
「じゃあ、また後で」
軽く手を振って、メイは忙しそうに立ち去っていった。
梓は、その背中を目で追いながら、ふと思った。
──制服、似合ってるな。
きちんと仕事してる、そんな感じがした。
メイの背中を目で追っていた梓の耳に、急に後ろから声が飛び込んできた。
「梓ちゃん、コーヒーだけ?」
びくりと肩が動く。詩音だった。
「あぁ、詩音か。おどかすなよ」
「ごめーん。でもさ、コーヒーだけなんてもったいないよ!」
もう、目がキラキラしている。
「うちのね、『夢見るパフェグラス』、すっごくおいしいんだから! 映えるし! 絶対オススメ!」
メニューを指しながら、勢いそのままに詰め寄ってくる。
「そうなんだ……」
梓はそう答えつつ、心の中で(甘いの、ちょっと苦手なんだけどな……)と呟いた。
だけど、詩音はまったくお構いなし。
「絶対美味しいよ! 今日、半額なんだよ? なんなら私、おごってもいいよ!」
「いや、おごらなくていいって」
「ほんと? でもさ、絶対後悔させない美味しさだから!」
「……あー、わかったよ。頼めばいいんだろ」
押し切られた梓がそう言うと、詩音は満足げに笑った。
⸻
しばらくして──
梓の目の前に、その“夢見るパフェグラス”がドーンと置かれていた。
背の高いグラスには、旬のフルーツとヨーグルトムース、アールグレイのゼリーが層になって重ねられている。
トップには、星型のクッキーとミントが添えられ、小さな金のピックが飾られていた。
確かに──映える。
けれど、それ以上に、丁寧につくられた感じが伝わってくる。
「……こりゃ、甘そうだな」
ぽつりとつぶやきながら、スプーンを入れる。
ひと口、口に運ぶ。
──思ったよりも甘くない。
というより、甘さがやさしい。
二口、三口と食べ進めるうちに、気づけば手が止まらなくなっていた。
案外……いけるかも。そう思ったとき──
「……梓」
名前を呼ぶ声がして、後ろを振り向いた。
そこには、ちょうど通りがかった美智子が立っていた。
「美智子さん……こないだは、どうも」
口の中のアイスを慌てて飲み込みながら、梓は立ち上がる。
「来てくれたんだな。ありがとう」
「いえ……」
美智子の視線が、梓の前のパフェに向かう。
「……梓も、パフェとか食べるんだな」
その言い方に、少しだけ笑みが混じる。
「いや……これは、その、詩音が……」
珍しく、梓が少し照れた。
「ふーん。詩音、ね」
そう言って、美智子はどこか感慨深そうに微笑んだ。
「まあ、ゆっくりしてってくれ」
「……はい。ありがとうございます」
そう答える梓の姿に、美智子は言葉にはせず、静かに思った。
──梓、あんな顔するようになるとはな。
◇◇◇
開店から一時間ほどが経つと、
厨房も店内も、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
テーブル席では、裕子と歌音が、コーヒーとサンドイッチを口にしていた。
裕子の視線の先、店内の奥。
そこには、来賓と思われるスーツ姿の男性ふたりと並びながら、麗佳が出口へ向かって歩いていく姿があった。
丁寧にお辞儀をしながら、ひとりずつ見送っている。
「……相変わらず、忙しそうね」
ふっと微笑んだ、そのときだった。
「お母さん、お姉ちゃん、いらっしゃい!」
明るい声とともに、詩音がテーブルにやってきた。
「あ、詩音……」と歌音が笑顔で返す。
「楽しんでくれてる?」
詩音は裕子に向かって聞く。
「ええ。……今日はお招きくださり、ありがとうございます」
わざとらしく、少し芝居がかった口調で言う裕子に、
「いえいえ、どういたましまして!」
詩音もそれに乗っかって、ふざけたようにぺこりと頭を下げた。
が、途中でちょっと噛んでしまい、照れ笑い。
顔を上げた詩音は、背後に立っていた女の子の肩に手を添えると、そっと前に押し出すようにして言った。
「お母さん! こちら、私の友達のメイちゃん」
メイは、そっと一歩前に出て、きちんと頭を下げた。
「はじめまして。平瀬メイです」
その瞬間、裕子の表情がわずかに揺れた。
──平瀬……メイ?
「メイちゃん、久しぶり」
と、歌音が声をかける。
「久しぶりです。浴衣の着付けの時以来ですね」
「そうだね。今日、制服似合ってるよ」
「あ、ありがとうございます……」
ふたりの会話が交わされる中、
裕子の耳には、どこか遠くの音のようにしか届いていなかった。
……お母さん、どうしたの?
詩音の声に、はっと我に返る。
「あ……ごめん。平瀬メイちゃん、ね。よろしく」
なんとか平静を装いながら言葉を返す。
メイはもう一度小さく会釈をすると、続けた。
「このあと、展示エリアでイベントがあるので、よかったら見に来てください」
「ありがとう。見に行かせてもらうわ」
そう言ってメイの顔を見た裕子の中に、
たしかな“記憶”がよみがえる。
メイの目。
まっすぐで、飾り気がなくて──
それでいて、どこか光と翳が同居するような、不思議な静けさをたたえていた。
奏恵も、そんな目をしていた。
……間違いない。あの子は──あの平瀬メイちゃんだわ。
◇◇◇
展示エリアはすでにお客さんでいっぱいだった。
椅子の並ぶ前方には、小さな子どもを連れた親子の姿。
後方には立ち見の大人たちがずらりと並び、会場はほどよい熱気に包まれていた。
その隅の一角に梓。
反対側の壁際には、裕子と歌音の姿もあった。
やがて所定の時間になると、メイがマイクを手に、ステージに現れた。
「本日は、カフェ・ラフォーレ リーヴルスにお越しいただき、ありがとうございます」
「ちびっこのみなさん、こんにちは」
「こんにちはー!」
子どもたちの元気な声が返ってくる。
「元気がいいね。じゃあこれから、オープンイベント『森のうたうきつね』朗読会を始めます」
拍手が起こる。
「みんな、この絵本、知ってるかな?」
「これはね、矢鞠のおばあちゃんっていう人が描いた絵本なんだよ」
「今日はこの本を、“すみれお姉さん”が読んでくれるよ」
メイの声はやさしく、落ち着いていた。
レセプションで何度か経験を積んだせいか、その表情には、以前のような緊張は見えない。
笑顔を浮かべながら子どもたちに語りかける姿に、梓はふと微笑んだ。
──あの新和キャンプ場で、おどおどしていたメイが、
こんなふうに、堂々と前に立って話している。
「……いい顔してるな」
ぽつりとつぶやく。
「では、今日読み聞かせをしてくれる、槙原すみれさんをご紹介します。すみれさん、どうぞ!」
再び拍手。
すみれがステージに現れる。
「こんにちは。槙原すみれです。今日はよろしくお願いします」
「すみれさんは、矢鞠市出身のナレーター・声優さんで──
アニメ『鬼頭の剣』の“タミコ”役をやってる人だよ」
「知ってるー!」
前列の女の子が叫ぶ。
「おっ、知ってるんだ!じゃあこれから、“タミコ”が絵本を読んでくれるんだね」
「やったー!」
「楽しみ〜!」
子どもたちが、わっと沸いた。
「……では、すみれさんの準備もできたようなので、さっそく始めましょう。お願いします!」
会場の照明が少し落ち、
プロジェクターのスクリーンに、絵本の表紙が映し出される。
その横で、メイはまっすぐに舞台を見つめていた。
にこやかに──けれど、どこか真剣な眼差しで。
そんなメイの姿を、裕子はじっと見つめていた。
──そして、ふっと。
ひとつの記憶が、胸の奥からよみがえってきた。
── 十五年前。
奏恵の葬儀の日。
弔問客が引きあげ、祭壇の周りが静けさを取り戻した頃。
裕子は、ひとり祭壇の前に立っていた。
白い花に囲まれた、遺影の中の奏恵。
その笑顔だけが、変わらずそこにあった。
あまりにも突然だった。
まだ、何も受け止めきれていなかった。
「なんで……?」
「どうして……?」
言葉にならない言葉が胸の奥でぐるぐると渦を巻く。
涙すら、出てこなかった。
「……じゃあ、またね」
心の中でそうつぶやき、振り返ると──
そこに、小さな女の子が立っていた。
黒いワンピースを着た、七歳のメイだった。
彼女はまっすぐに、祭壇の上の遺影を見つめていた。
両手をぎゅっと握りしめ、歯を食いしばっている。目元には、今にも大粒の涙がこぼれそうだった。
裕子はそっとしゃがみ込み、
「メイちゃん……」と声をかけながら、背中に手を添えた。
けれど、メイはなにも言わなかった。
まっすぐに、あの笑顔の写真を見つめていた。
涙をこぼさず、ただ小刻みに震える小さな肩。
その姿はまるで、“泣く”という感情に、全身で抗っているかのようだった。
──あの子がね。
立派になったわ。
今、目の前で子どもたちの前に立ち、
笑顔を浮かべながら、朗読会を支えている姿を見つめながら──
裕子は静かに、その記憶を重ねていた。
◇◇◇
読み聞かせイベントは、大盛況のうちに幕を閉じた。
子どもたちは満足げな表情で、
「コン太、がんばったね」「よかった〜」と口々に話しながら、
親と手をつないで楽しげに退出していく。
裕子と歌音も、その流れに合わせるように、静かにその場を後にした。
「お姉ちゃん、ありがとー!」
通りがかりの女の子に声をかけられて、メイは手を振りながら笑顔で応える。
会場に残っていたのは、梓ひとりだった。
腕を組んだまま、ほんの少しだけ微笑んで立っている。
そこへ、メイがゆっくりと歩み寄ってきた。
「梓ちゃん。来てくれてありがとう」
「……メイ、すごいじゃないか。少し驚いたよ」
「そうかなぁ……でも、ちょっと緊張した」
「いや、堂々としてたよ。とてもよかった」
メイは照れくさそうに笑い、梓もそれに応えるように目を細めた。
あたたかく、穏やかな会話がそこにあった。
◇◇◇
時刻は12時半を過ぎ、
カフェ第一部の終了時間が近づいてきた。
すでに何組かの来客が帰り支度を終え、
それぞれエントランスへと向かっていく。
入り口付近では、詩音・メイ・沙織の三人が並び、
ノベルティの手さげ袋を一人ひとりに笑顔で手渡していた。
その前を、梓が通りかかる。
「梓ちゃんのおかげで、この中に入ってる栞、みんなにちゃんと渡せたよ。ホントありがとう!」
詩音が嬉しそうに声をかける。
「……もう、言うなって」
梓は少し照れたように笑って、手提げを受け取った。
その隣で、メイがふっと目を合わせる。
「梓ちゃん、またね。Rainするから」
「うん…」
軽く手を振るメイに、梓も小さく手を上げて応えた。
その後も、客たちは次々と帰っていった。
少しして、裕子と歌音がエントランスに現れる。
「お母さん、今日はありがとう」
詩音が明るく声をかけながら、手さげ袋を手渡す。
「どういたしまして」
裕子は笑いながら受け取った。
隣で、メイが歌音に手さげ袋を渡していた。
「また来てくださいね」
「ありがとう、メイちゃん」
そう返す歌音の声を、裕子は横で聞いていた。
そして、ふと目をやると──
手さげ袋を差し出すメイの横顔が、視界に入った。
何も言わず──いや、言えずにいた。
そして、ふたりはそのまま、エントランスを後にした。
外に出た裕子と歌音。
歌音は、手さげ袋の中を覗き込みながら歩いていた。
歌音が、細長い革の栞を取り出す。
濃い緑の細長い葉っぱの形をした革製の栞。
「……これ、おしゃれだね。お金かかってそう」
「そうね」
裕子はそれを横目に見ながら、少し上の空で返事をした。
「何か、カードも入ってるよ?」
歌音が封筒をあらため、そこから一枚のメッセージカードを引き出す。
手書き風の文字が印刷されたカードには、こう書かれていた。
『心と体が疲れたときは、本とコーヒーと私たちの笑顔で全力で癒します。
またのお越しをお待ちしています。
――SAORI』
「これ、スタッフが書いたのかな?
お母さんのは何て書いてあるの?」
「さあ、どうかしら」
裕子は自分の封筒を開き、カードを手に取る。
そこに綴られていた言葉を、静かに読んだ。
『本の匂いとコーヒーの香りの中で、ゆったりと本を読む——
そんな時間を楽しんでいただけたなら、うれしいです。
……MEI』
メイの書いたメッセージカードだった。
――あの、銀杏並木の道で奏恵が言っていた。
「本の匂いとコーヒーの香りの中で、ゆったりと本が読めるなんて……いいと思わない?」
「だからね……
もっと大きくて、もっと本があって、もっと自由な、そんなカフェ――やってみたいな」
その言葉が、いま、目の前のカードと重なる。
その一致に理由を求めようとしても、何ひとつ見つからなかった。
胸の奥が、少しだけざわついた。
けれど、ひとつ息を吐くと、不思議と心が静まっていた。
──こんなことって、あるのかしらね。
人の想いは、時として、理屈では説明できないことを起こす。
裕子はふっと微笑むと、ゆっくりと歩を進めていった。
◇◇◇
カフェ第一部のお客さんすべてを見送ったあとの、ほんの短いインターバル。すぐに第二部の受付が始まる。
詩音とメイは、ノベルティの手提げを渡し終え、店内へと戻ってきた。
「インターバル、レセプションの時より短いね。ちょっとバタつきそう」と詩音。
「うん。カフェの方は大変そう……こっちは、柳森さんのセミナーがない分、ちょっと余裕あるかも」とメイが答える。
そんな会話の途中、ふと、二人の前に姿を現したのは──麗佳社長だった。
「あ、麗佳社長。お疲れ様です!」
思わずピンと背筋を伸ばす二人。何度か言葉を交わしてきたはずなのに、その存在には、いまだに緊張してしまう。
「お疲れ様」
そう言って、ほんのり笑みを浮かべる麗佳。
その視線がメイへと向けられる。
どこか懐かしさをにじませるような、優しくて、あたたかい目。
──まるで、昔から知っていたかのような、そんなまなざし。
戸惑うメイの前で、麗佳は静かに言った。
「平瀬……メイさん。本当に、ありがとう」
それだけ言うと、肩のバッグをかけ直し、軽やかな足取りでエントランスの方へ向かっていった。
ぽかんとしたままのメイ。
「いま、メイちゃん……ありがとうって言われたよね?」
詩音が目を丸くして言う。
「……うん」
メイは小さくうなずいた。
「麗佳社長も、メイちゃんの頑張り、ちゃんと見てたんだね〜!」
詩音がにこにことうれしそうに言うけれど、メイの胸には、少し違う気持ちが残っていた。
──ありがとう、の言葉は確かにうれしかった。
でも、あのまなざしは──なんだったんだろう。
そんなふうに、心のどこかが揺れたまま、次の言葉に遮られた。
「さー! あんまり時間ないから、次の準備、チャチャッとしちゃうよ!」
店内に、美智子の快活な声が響いた。
詩音とメイは顔を見合わせて、同時に笑った。
それぞれの胸の中に、言葉にならない余韻が残っていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます!




