表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/142

第70話 グランドオープン その③


オープニングセレモニーが終わり、カフェ・ラフォーレ リーヴルスのエントランス前には、すでに多くの人が集まり始めていた。


京子や明美たちスタッフが、来店者の誘導に追われている。


掲げられた告知ボードには、


『本日はご予約制となっております』

『スマホのご予約画面、またはご招待状をご提示のうえ、お並びください』


と書かれていた。


行列の中には、梓の姿がある。ひとりで静かに立っていた。

その数人後ろには、詩音の母・裕子と姉の歌音の姿もあった。


やがて、時刻は午前10時ちょうど。


カラン、コロン──

エントランスのドアベルが軽やかに鳴る。


「お待たせしました。カフェ・ラフォーレ リーヴルス、ただいまグランドオープンです!」


店長の鈴原敦子が、晴れやかに声を響かせた。



店内には、次々とお客さんが入ってくる。

「わあ、かわいい……」「すてきな空間」──

あちこちから、感嘆の声があがる。


入口近くでは、沙織が明るい声で声をかけていた。

「先にご注文をお願いします。こちらのメニューをご覧くださいね」


お客さんたちは、メニューボードや手渡されたメニューを眺めながら、思い思いに選んでいる。

注文が決まった人から、レジに進んでオーダー。

レジ前にはすでに小さな列ができていた。


梓もその列の中にいた。

周囲のざわめきの中、ふと視線を上げると、カフェの奥で忙しそうに動き回る詩音の姿が目に入る。

テキパキと、でも元気よく。

その様子を見て、梓はどこかほっとした気持ちになる。


詩音とアルバイトのミホは、オーダーが終わったお客さんを順に席へ案内していた。

招待状や予約画面を確認しながら、丁寧に声をかけていく。


一方、梓はそんな案内の流れに気づかず、

空いていそうな席を探して、店内を見渡していた。


──さっきスピーチしていた社長さん。

奥のソファ席で、スーツ姿の来賓らしき人物と談笑している。

その近くはさすがに避けた方がいいな……と思っていたところへ、声がかかった。


「こちら、カウンターのお席はいかがですか」

ミホが笑顔で案内する。


席に向かう途中、梓はふと外に視線をやった。

ガラス越しの少し離れた駐輪場に、自分のレブル250が見える。


静かな雰囲気。落ち着いた空間。

──悪くないな。

梓は、そっと椅子に腰を掛けた。


◇◇◇


落ち着いた雰囲気のカフェフロアとは対照的に、厨房は開店直後の混雑で、まるで戦場のような騒がしさだった。


志麻や美智子、アルバイトの子たちは、次々に入るオーダーの処理に追われている。

レセプションのときにはなかったテイクアウト対応も加わり、予想以上の忙しさだ。


「……テイクアウトの忙しさ、ハンパないですね」

アルバイトのくるみが、トレイを抱えながら思わずつぶやく。


「このくらいで音を上げてたら、この先もっと大変だよ」

志麻がさらっと返す。声に焦りはない。

どこか落ち着いたその口調に、くるみは思わず「ですよね……」と苦笑いした。


一方、受け渡しカウンターでは、

アルバイトの虹香が、注文票とにらめっこしながらおどおどしていた。


その横では、ユキがまるで舞うように動いている。

出来上がったコーヒー、キッシュ、パフェ──

すべてを手際よく、お客さんに間違いなく、素早く渡していく。


「ユキさん、神……」

虹香は心の中でそうつぶやいた。



オーダーを終えた裕子と歌音は、スタッフに案内されてテーブル席へと向かった。


席に着くと、裕子はゆっくりと店内を見渡した。


落ち着いた色合いでまとめられた空間。

天井が高く、どこか開放感がある。

カウンター、テーブル、ソファー──

さまざまな席が、それぞれの過ごし方に寄り添うように配置されている。


そして、カフェフロアのすぐ隣には、本がぎっしりと並ぶ本棚の空間が広がっていた。

壁一面を覆う大きな棚に加え、通路をつくるようにいくつかの本棚がゆるやかに配置されている。

その並びは、まるで森の小径のようだった。

流れるBGMはバッハの《主よ、人の望みの喜びよ》 。まるで店全体の呼吸を整えているような、穏やかな音色だった。


「……素敵なお店を作ったわね」


裕子は心の中で、ふっとつぶやいた。


そんなことを思いながら、店内を見回していたときだった。

テーブルに、鈴原店長がやってきた。


「いらっしゃいませ。お久しぶりです」

丁寧に頭を下げる。


裕子はふっと微笑んで返す。

「久しぶりね。……とても良いお店じゃない」


「ありがとうございます。今日はごゆっくりしていってくださいね」

にこやかに一礼すると、他のお客さんの対応へと向かっていった。


鈴原店長がいなくなったあと、隣の歌音が身を乗り出して裕子に聞いてきた。


「えっ……ここの店長さんと知り合いなの?」


「ええ。高校の吹奏楽部の後輩よ」


「そうなんだ。でも……歳、けっこう離れてるよね?」


「吹部のOGとOBでやってた楽団があってね。そこで知り合ったの」


そう答える裕子に、歌音はへえ、と頷きつつ、どこか感心したような表情を見せる。


そのとき、今度は柳森さんが、こちらに気づいて近づいてきた。


「裕子先輩。お久しぶりです」


「淳子ちゃん、久しぶりね。元気だった?」


「はい、おかげさまで。書店のほうも順調です」


「そう。よかったわ」


「今日は、ごゆっくりしていってくださいね」


「ありがとう」


そのやりとりを見ていた歌音が、ぽつりとつぶやく。


「……お母さん、なんかすごいかも」


◇◇◇


カウンター席で、梓はひとり、コーヒーをゆっくりと味わっていた。

冷房の効いた店内は少しひんやりしていて、

そのぶんガラス越しに差し込む陽射しが、静かに体を温めてくれるようだった。


そこへ、メイがこちらに気づいて駆け寄ってくる。


「梓ちゃん!」


「……あ、メイ。なんか、忙しそうだな」


「みたいだね。私は展示エリア担当だから、カフェのほうはあまり分からないけど」


「……そうなんだ」


一拍おいて、メイが少し表情をやわらげて言った。


「梓ちゃん、栞のこと……ありがとう」


「いや、別に。たいしたことじゃないよ」


「ううん。詩音、自分のせいで栞が渡せなくなったって、ずいぶん落ち込んでたから……

本当に喜んでたよ。ありがとうね」


「……詩音、そんなふうに思ってたんだ」


ぽつりとつぶやいた梓に、メイが笑顔で続ける。


「そうそう。後で、展示エリアでイベントがあるから、よかったら見に来て」


「わかった。見に行くよ」


「じゃあ、また後で」


軽く手を振って、メイは忙しそうに立ち去っていった。


梓は、その背中を目で追いながら、ふと思った。


──制服、似合ってるな。

きちんと仕事してる、そんな感じがした。


メイの背中を目で追っていた梓の耳に、急に後ろから声が飛び込んできた。


「梓ちゃん、コーヒーだけ?」


びくりと肩が動く。詩音だった。


「あぁ、詩音か。おどかすなよ」


「ごめーん。でもさ、コーヒーだけなんてもったいないよ!」


もう、目がキラキラしている。


「うちのね、『夢見るパフェグラス』、すっごくおいしいんだから! 映えるし! 絶対オススメ!」


メニューを指しながら、勢いそのままに詰め寄ってくる。


「そうなんだ……」


梓はそう答えつつ、心の中で(甘いの、ちょっと苦手なんだけどな……)と呟いた。


だけど、詩音はまったくお構いなし。


「絶対美味しいよ! 今日、半額なんだよ? なんなら私、おごってもいいよ!」


「いや、おごらなくていいって」


「ほんと? でもさ、絶対後悔させない美味しさだから!」


「……あー、わかったよ。頼めばいいんだろ」


押し切られた梓がそう言うと、詩音は満足げに笑った。



しばらくして──


梓の目の前に、その“夢見るパフェグラス”がドーンと置かれていた。


背の高いグラスには、旬のフルーツとヨーグルトムース、アールグレイのゼリーが層になって重ねられている。

トップには、星型のクッキーとミントが添えられ、小さな金のピックが飾られていた。


確かに──映える。

けれど、それ以上に、丁寧につくられた感じが伝わってくる。


「……こりゃ、甘そうだな」


ぽつりとつぶやきながら、スプーンを入れる。

ひと口、口に運ぶ。


──思ったよりも甘くない。

というより、甘さがやさしい。


二口、三口と食べ進めるうちに、気づけば手が止まらなくなっていた。


案外……いけるかも。そう思ったとき──


「……梓」


名前を呼ぶ声がして、後ろを振り向いた。


そこには、ちょうど通りがかった美智子が立っていた。


「美智子さん……こないだは、どうも」


口の中のアイスを慌てて飲み込みながら、梓は立ち上がる。


「来てくれたんだな。ありがとう」


「いえ……」


美智子の視線が、梓の前のパフェに向かう。


「……梓も、パフェとか食べるんだな」


その言い方に、少しだけ笑みが混じる。


「いや……これは、その、詩音が……」


珍しく、梓が少し照れた。


「ふーん。詩音、ね」


そう言って、美智子はどこか感慨深そうに微笑んだ。


「まあ、ゆっくりしてってくれ」


「……はい。ありがとうございます」


そう答える梓の姿に、美智子は言葉にはせず、静かに思った。


──梓、あんな顔するようになるとはな。


◇◇◇


開店から一時間ほどが経つと、

厨房も店内も、少しずつ落ち着きを取り戻していた。


テーブル席では、裕子と歌音が、コーヒーとサンドイッチを口にしていた。


裕子の視線の先、店内の奥。

そこには、来賓と思われるスーツ姿の男性ふたりと並びながら、麗佳が出口へ向かって歩いていく姿があった。

丁寧にお辞儀をしながら、ひとりずつ見送っている。


「……相変わらず、忙しそうね」


ふっと微笑んだ、そのときだった。


「お母さん、お姉ちゃん、いらっしゃい!」


明るい声とともに、詩音がテーブルにやってきた。


「あ、詩音……」と歌音が笑顔で返す。


「楽しんでくれてる?」

詩音は裕子に向かって聞く。


「ええ。……今日はお招きくださり、ありがとうございます」

わざとらしく、少し芝居がかった口調で言う裕子に、


「いえいえ、どういたましまして!」


詩音もそれに乗っかって、ふざけたようにぺこりと頭を下げた。

が、途中でちょっと噛んでしまい、照れ笑い。


顔を上げた詩音は、背後に立っていた女の子の肩に手を添えると、そっと前に押し出すようにして言った。


「お母さん! こちら、私の友達のメイちゃん」


メイは、そっと一歩前に出て、きちんと頭を下げた。

「はじめまして。平瀬メイです」


その瞬間、裕子の表情がわずかに揺れた。


──平瀬……メイ?


「メイちゃん、久しぶり」

と、歌音が声をかける。


「久しぶりです。浴衣の着付けの時以来ですね」


「そうだね。今日、制服似合ってるよ」


「あ、ありがとうございます……」


ふたりの会話が交わされる中、

裕子の耳には、どこか遠くの音のようにしか届いていなかった。


……お母さん、どうしたの?


詩音の声に、はっと我に返る。


「あ……ごめん。平瀬メイちゃん、ね。よろしく」


なんとか平静を装いながら言葉を返す。


メイはもう一度小さく会釈をすると、続けた。


「このあと、展示エリアでイベントがあるので、よかったら見に来てください」


「ありがとう。見に行かせてもらうわ」


そう言ってメイの顔を見た裕子の中に、

たしかな“記憶”がよみがえる。


メイの目。

まっすぐで、飾り気がなくて──

それでいて、どこか光と翳が同居するような、不思議な静けさをたたえていた。


奏恵も、そんな目をしていた。


……間違いない。あの子は──あの平瀬メイちゃんだわ。


◇◇◇


展示エリアはすでにお客さんでいっぱいだった。

椅子の並ぶ前方には、小さな子どもを連れた親子の姿。

後方には立ち見の大人たちがずらりと並び、会場はほどよい熱気に包まれていた。


その隅の一角に梓。

反対側の壁際には、裕子と歌音の姿もあった。


やがて所定の時間になると、メイがマイクを手に、ステージに現れた。


「本日は、カフェ・ラフォーレ リーヴルスにお越しいただき、ありがとうございます」

「ちびっこのみなさん、こんにちは」


「こんにちはー!」

子どもたちの元気な声が返ってくる。


「元気がいいね。じゃあこれから、オープンイベント『森のうたうきつね』朗読会を始めます」


拍手が起こる。


「みんな、この絵本、知ってるかな?」

「これはね、矢鞠のおばあちゃんっていう人が描いた絵本なんだよ」

「今日はこの本を、“すみれお姉さん”が読んでくれるよ」


メイの声はやさしく、落ち着いていた。

レセプションで何度か経験を積んだせいか、その表情には、以前のような緊張は見えない。


笑顔を浮かべながら子どもたちに語りかける姿に、梓はふと微笑んだ。


──あの新和キャンプ場で、おどおどしていたメイが、

こんなふうに、堂々と前に立って話している。


「……いい顔してるな」


ぽつりとつぶやく。


「では、今日読み聞かせをしてくれる、槙原すみれさんをご紹介します。すみれさん、どうぞ!」


再び拍手。

すみれがステージに現れる。


「こんにちは。槙原すみれです。今日はよろしくお願いします」


「すみれさんは、矢鞠市出身のナレーター・声優さんで──

アニメ『鬼頭の剣』の“タミコ”役をやってる人だよ」


「知ってるー!」

前列の女の子が叫ぶ。


「おっ、知ってるんだ!じゃあこれから、“タミコ”が絵本を読んでくれるんだね」


「やったー!」

「楽しみ〜!」

子どもたちが、わっと沸いた。


「……では、すみれさんの準備もできたようなので、さっそく始めましょう。お願いします!」


会場の照明が少し落ち、

プロジェクターのスクリーンに、絵本の表紙が映し出される。


その横で、メイはまっすぐに舞台を見つめていた。

にこやかに──けれど、どこか真剣な眼差しで。


そんなメイの姿を、裕子はじっと見つめていた。


──そして、ふっと。

ひとつの記憶が、胸の奥からよみがえってきた。


── 十五年前。

奏恵の葬儀の日。


弔問客が引きあげ、祭壇の周りが静けさを取り戻した頃。

裕子は、ひとり祭壇の前に立っていた。


白い花に囲まれた、遺影の中の奏恵。

その笑顔だけが、変わらずそこにあった。


あまりにも突然だった。

まだ、何も受け止めきれていなかった。


「なんで……?」

「どうして……?」


言葉にならない言葉が胸の奥でぐるぐると渦を巻く。

涙すら、出てこなかった。


「……じゃあ、またね」


心の中でそうつぶやき、振り返ると──

そこに、小さな女の子が立っていた。


黒いワンピースを着た、七歳のメイだった。


彼女はまっすぐに、祭壇の上の遺影を見つめていた。


両手をぎゅっと握りしめ、歯を食いしばっている。目元には、今にも大粒の涙がこぼれそうだった。


裕子はそっとしゃがみ込み、

「メイちゃん……」と声をかけながら、背中に手を添えた。


けれど、メイはなにも言わなかった。

まっすぐに、あの笑顔の写真を見つめていた。


涙をこぼさず、ただ小刻みに震える小さな肩。

その姿はまるで、“泣く”という感情に、全身で抗っているかのようだった。



──あの子がね。

立派になったわ。


今、目の前で子どもたちの前に立ち、

笑顔を浮かべながら、朗読会を支えている姿を見つめながら──


裕子は静かに、その記憶を重ねていた。


◇◇◇


読み聞かせイベントは、大盛況のうちに幕を閉じた。


子どもたちは満足げな表情で、

「コン太、がんばったね」「よかった〜」と口々に話しながら、

親と手をつないで楽しげに退出していく。


裕子と歌音も、その流れに合わせるように、静かにその場を後にした。


「お姉ちゃん、ありがとー!」


通りがかりの女の子に声をかけられて、メイは手を振りながら笑顔で応える。


会場に残っていたのは、梓ひとりだった。


腕を組んだまま、ほんの少しだけ微笑んで立っている。

そこへ、メイがゆっくりと歩み寄ってきた。


「梓ちゃん。来てくれてありがとう」


「……メイ、すごいじゃないか。少し驚いたよ」


「そうかなぁ……でも、ちょっと緊張した」


「いや、堂々としてたよ。とてもよかった」


メイは照れくさそうに笑い、梓もそれに応えるように目を細めた。


あたたかく、穏やかな会話がそこにあった。


◇◇◇


時刻は12時半を過ぎ、

カフェ第一部の終了時間が近づいてきた。


すでに何組かの来客が帰り支度を終え、

それぞれエントランスへと向かっていく。


入り口付近では、詩音・メイ・沙織の三人が並び、

ノベルティの手さげ袋を一人ひとりに笑顔で手渡していた。


その前を、梓が通りかかる。


「梓ちゃんのおかげで、この中に入ってる栞、みんなにちゃんと渡せたよ。ホントありがとう!」


詩音が嬉しそうに声をかける。


「……もう、言うなって」


梓は少し照れたように笑って、手提げを受け取った。


その隣で、メイがふっと目を合わせる。


「梓ちゃん、またね。Rainするから」


「うん…」


軽く手を振るメイに、梓も小さく手を上げて応えた。


その後も、客たちは次々と帰っていった。


少しして、裕子と歌音がエントランスに現れる。


「お母さん、今日はありがとう」

詩音が明るく声をかけながら、手さげ袋を手渡す。


「どういたしまして」

裕子は笑いながら受け取った。


隣で、メイが歌音に手さげ袋を渡していた。


「また来てくださいね」


「ありがとう、メイちゃん」


そう返す歌音の声を、裕子は横で聞いていた。

そして、ふと目をやると──

手さげ袋を差し出すメイの横顔が、視界に入った。


何も言わず──いや、言えずにいた。


そして、ふたりはそのまま、エントランスを後にした。



外に出た裕子と歌音。

歌音は、手さげ袋の中を覗き込みながら歩いていた。


歌音が、細長い革の栞を取り出す。

濃い緑の細長い葉っぱの形をした革製の栞。


「……これ、おしゃれだね。お金かかってそう」


「そうね」

裕子はそれを横目に見ながら、少し上の空で返事をした。


「何か、カードも入ってるよ?」


歌音が封筒をあらため、そこから一枚のメッセージカードを引き出す。

手書き風の文字が印刷されたカードには、こう書かれていた。


『心と体が疲れたときは、本とコーヒーと私たちの笑顔で全力で癒します。

またのお越しをお待ちしています。

――SAORI』


「これ、スタッフが書いたのかな?

お母さんのは何て書いてあるの?」


「さあ、どうかしら」


裕子は自分の封筒を開き、カードを手に取る。

そこに綴られていた言葉を、静かに読んだ。


『本の匂いとコーヒーの香りの中で、ゆったりと本を読む——

そんな時間を楽しんでいただけたなら、うれしいです。

……MEI』


メイの書いたメッセージカードだった。



――あの、銀杏並木の道で奏恵が言っていた。


「本の匂いとコーヒーの香りの中で、ゆったりと本が読めるなんて……いいと思わない?」


「だからね……

もっと大きくて、もっと本があって、もっと自由な、そんなカフェ――やってみたいな」


その言葉が、いま、目の前のカードと重なる。


その一致に理由を求めようとしても、何ひとつ見つからなかった。


胸の奥が、少しだけざわついた。

けれど、ひとつ息を吐くと、不思議と心が静まっていた。


──こんなことって、あるのかしらね。


人の想いは、時として、理屈では説明できないことを起こす。


裕子はふっと微笑むと、ゆっくりと歩を進めていった。


◇◇◇


カフェ第一部のお客さんすべてを見送ったあとの、ほんの短いインターバル。すぐに第二部の受付が始まる。


詩音とメイは、ノベルティの手提げを渡し終え、店内へと戻ってきた。


「インターバル、レセプションの時より短いね。ちょっとバタつきそう」と詩音。


「うん。カフェの方は大変そう……こっちは、柳森さんのセミナーがない分、ちょっと余裕あるかも」とメイが答える。


そんな会話の途中、ふと、二人の前に姿を現したのは──麗佳社長だった。


「あ、麗佳社長。お疲れ様です!」


思わずピンと背筋を伸ばす二人。何度か言葉を交わしてきたはずなのに、その存在には、いまだに緊張してしまう。


「お疲れ様」


そう言って、ほんのり笑みを浮かべる麗佳。


その視線がメイへと向けられる。


どこか懐かしさをにじませるような、優しくて、あたたかい目。


──まるで、昔から知っていたかのような、そんなまなざし。


戸惑うメイの前で、麗佳は静かに言った。


「平瀬……メイさん。本当に、ありがとう」


それだけ言うと、肩のバッグをかけ直し、軽やかな足取りでエントランスの方へ向かっていった。


ぽかんとしたままのメイ。


「いま、メイちゃん……ありがとうって言われたよね?」

詩音が目を丸くして言う。


「……うん」


メイは小さくうなずいた。


「麗佳社長も、メイちゃんの頑張り、ちゃんと見てたんだね〜!」


詩音がにこにことうれしそうに言うけれど、メイの胸には、少し違う気持ちが残っていた。


──ありがとう、の言葉は確かにうれしかった。


でも、あのまなざしは──なんだったんだろう。


そんなふうに、心のどこかが揺れたまま、次の言葉に遮られた。


「さー! あんまり時間ないから、次の準備、チャチャッとしちゃうよ!」


店内に、美智子の快活な声が響いた。


詩音とメイは顔を見合わせて、同時に笑った。

それぞれの胸の中に、言葉にならない余韻が残っていた。



ここまで読んでくださってありがとうございます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ