第68話 グランドオープン その①
グランドオープンの朝が来た。
朝6時の空気に、うっすら秋の気配が混じっていた。
カフェ・ラフォーレ リーヴルスの駐車場には、ステージ設営のトラックがすでに停まっていて、何人かの作業員が静かに準備を進めていた。
建物の裏手、スタッフ専用の出入口の前に、詩音がひとりで立っている。
今日の集合時間は7時だけど、それよりずっと早く来てしまった。じっとしていられなかったのだ。
郵便受けにそっと手を入れてみる。奥までぐいっと。
──何もない。やっぱり、ここにはないか。
「……うーん」
そうつぶやいたとき、背後から声がした。
「……あれ? 詩音?」
振り向くと、メイが立っていた。
いつものバッグに、いつもの服装。
だけど、その目には心配の色が浮かんでいた。
「おはよう、メイちゃん」
「おはよう……。なにか、入ってた?」
詩音は小さく首を横に振った。
「ううん。なんにも」
「……エントランスも、見てみようか」
そう言って、メイが先に建物の中へと入っていった。
二人は急ぎ足でエントランスへ向かう。
念のため、入り口のあたりに何か落ちていないか、しゃがんで確認してみた。床の隅、掲示板の下、マットの端……どこにもそれらしいものはない。
「もしかしたら、届いてるかもって……ちょっとだけ、期待してたんだけどね」
そう言って、詩音が笑ってみせる。だけどその笑顔は、どうにも頼りない。
「……うん」
メイは、何も言えなかった。
朝7時少し前。
ラフォーレのスタッフたちが、ひとり、またひとりと出勤してきた。
フロアのあちこちで、声が交わされている。けれど、いつもの活気とはどこか違う。
──どこか、しんとしていた。
カフェフロアでは、詩音が明るく振る舞おうとしていた。
無理に元気を出すのはよくないってわかってるけど、それでも今日は、どうしても空気を重くしたくなかった。
「おっはよー沙織ちゃん、今日も乗ってるかーい!」
いつもの調子で声をかけてみる。
「お、おはよう。……のってるぜー……?」
沙織は、なんとか合わせようとするけど、表情にはうっすら苦笑いが浮かんでいる。
そんな横で、ユキがぽつりと言った。
「無理、しないほうがいい。気の使いすぎは、体に毒」
「……ちょ、ユキ、そんなストレートに言うなってば〜!」
沙織があたふたとフォローしようとする。
詩音は少しだけうつむいて、小さな声で言った。
「……なんか、ごめんね。私、落ち込みすぎだよね。
引換券でって、切り替えたつもりだったんだけど……うまく切り替えきれてなかったかも」
その表情には、いつもの元気な笑顔はなかった。
「それだけ思い入れが強いってこと……」
ユキが静かに言う。
「昨日、メイちゃんも言ってたけど──その気持ちは、きっとお客さんにも伝わるって」
沙織が、ポンと詩音の肩をたたいた。
──でも、気持ちって、伝わるからこそ厄介でもある。
詩音の落ち込みは、気づけば店内のあちこちに染みこんでいた。
スタッフたちの表情は、どこかぎこちなく、声も少しだけ小さい。
ラフォーレのカフェフロア全体に、静かな不安が漂っていた。
そんな空気を、鈴原店長はすぐに察した。
「──さあ、グランドオープン、始まるわよ!」
パン、と手を叩いて、いつもより少しだけ大きな声で呼びかける。
「準備に入りましょ!」
「はい!」
スタッフたちが一斉に返事をする。
それでも、完全に空気を変えるには、まだ少し足りなかった。
どこか沈んだ空気を引きずったまま、スタッフたちはそれぞれの持ち場へと散っていった。
グランドオープンまで、もう時間はない。手を動かすしかなかった。
フロアの清掃、案内ボードの設置、POPの微調整。
いつもと同じ作業のはずなのに、どこかぎこちない。
メイも展示エリアの確認を終えていた。
あとは機材担当の太田さんと、朗読ゲストの槙原さんが来れば──段取りはすべて揃う。
そのとき。
店内に設置された、アンティーク調の固定電話が、コロンとした音を立てて鳴り始めた。
クラシックなベルのような、懐かしさのある着信音。
めったに鳴らない電話だけに、その場にいたスタッフたちの視線が一斉に集まった。
近くにいた明美が、落ち着いて電話を取る。
「はい、カフェ・ラフォーレ リーヴルスです」
少しの間、受話器の向こうの声に耳を傾ける明美。
そして、受話器を手で覆いながら、近くの鈴原店長に目を向けた。
「店長……なんか、“うちの荷物が届いてる”って言ってるみたいですけど……」
「ありがとう、代わるわね」
鈴原店長がスムーズに受話器を引き継ぐ。
「はい、店長の鈴原です。……はい、こちらカフェ・ラフォーレ リーヴルスですが──」
周囲のスタッフたちが、さりげなく手を止めて耳を傾けた。
沈黙が、空気をふっと張りつめさせる。
「……そちらに届いているんですか? はい……はい、わかりました」
その言葉に、詩音がすばやく反応した。
足早にカウンターに近づき、店長のそばへと寄っていく。
鈴原店長は受話器を口元から少し離して、詩音に小声で伝えた。
「──うちの栞、どうやら“町田”のお店に届いてるみたいよ」
鈴原店長の声に、詩音の目の色が変わった。
カフェフロアにいたスタッフたちも、一斉にざわめき出す。
詩音が壁の時計に目をやる。午前8時を少し過ぎたところだった。
「私、取りに行ってきます!」
そう言ってスマホだけを手に取り、エントランスへ向かって走り出そうとする。
「待って、詩音ちゃん!」
鈴原店長が、電話口に「少々お待ちください」と言ったあと呼び止めた。
「今でれば、オープンに間に合うから」
そう言って走り出す、詩音。
「待て、詩音。落ち着け!」
別の声がビシッと飛んできた。
美智子だった。
その声に、詩音はピタッと動きを止める。
空気が止まったような数秒。
まるで誰かが息を呑んだかのように、フロアの空気が張り詰めていく。
騒ぎを聞きつけ、メイも展示エリアから急いで駆けつけてきた。
鈴原店長は電話の相手に「あとでかけ直します」と伝え、受話器を置いた。
「町田って言っても、そのお店は駅からけっこう歩くの。片道だけで30分はかかるわ」
往復にかかる時間、交通の便、そしてグランドオープンの準備──すべてを考えれば、無謀とも思える距離だった。
それでも、詩音はためらわなかった。
「それでも……やれるだけやってみたいんです」
「必ず、セレモニーまでには戻ってきます。だから、行かせてください!」
深々と頭を下げる詩音。その声は、どこまでも真っ直ぐだった。
その姿を、メイは見つめていた。
──まるで、太陽みたいな詩音が、いまは彗星みたいに一直線に突き進んでる。
(……あんな真剣な顔、見たことない)
気づけば、メイも体が動いていた。隣に並び、詩音と一緒に頭を下げる。
「出しゃばりかもしれませんが、私からもお願いします」
続いて沙織も一歩前に出た。
「店長、詩音の穴は私がカバーします」
「私、3倍速で動きます」
ユキも静かに、けれど確かな意志で言った。
他のスタッフたちも次々と声をあげていく。
「わたしも手伝います!」「何でもやりますから!」
言葉が重なり合い、フロアがほんのりとあたたかくなっていく。
鈴原店長は、ふっと笑みを浮かべ、美智子と視線を交わした。
「──絶対に無理はしないこと。それだけ、約束して」
「はい! ありがとうございます!」
詩音の顔に、ようやく笑顔が戻る。その笑顔に、周囲からもホッとした声が漏れた。
詩音はくるりと向きを変えて、エントランスへ走り出す。
「場所はスマホに送るから!」
「うん! 行ってきます!」
カラン、コロン。
ドアベルの音が、なぜかいつもより澄んで聞こえた。
店の中に残されたスタッフたちは、自然と前を向いていた。
「──さあ、詩音が戻ってくる前に、準備を仕上げるよ!」
美智子のひと言に、再び活気が戻ってくる。
「はいっ!」
スタッフたちが一斉に動き出す。さっきまでの空気が、嘘みたいだった。
その様子を見届けてから、鈴原店長はそっと目を細めて、小さくため息を吐いた。
(……でも、なんでよりによって“町田のお店”だったのかしら?)
ふとした違和感が、胸の奥に沈んでいく。
その時だった。
「うわっ、やばい!」
明美の声が、ひときわ大きく響いた。
「小田急──止まってます!!」
◇◇◇
肩で息をしながら、詩音は矢鞠駅のロータリーへたどり着いた。
全力で走ったせいで、呼吸がなかなか整わない。
だけど──それよりも、目の前の光景の方が信じられなかった。
「……え、なに、これ……」
駅前広場が、朝から異様な混雑でざわついていた。
土曜の朝とは思えないほどの人、人、人。
ざわめきと足音が、空気を押し流していた。
よく見ると、ハンドスピーカーを持った駅員が、ロータリーの一角で呼びかけている。
「──現在、事故の影響により運転を見合わせております。ご迷惑をおかけしております──!」
「……え?」
声は聞こえてる。なのに、意味が頭に入ってこない。
一瞬、体の奥から冷たいものがせり上がってくる。
その時、スマホが震えた。
画面には「沙織」の名前。
「……もしもし、沙織ちゃん?」
『詩音、電車止まってるって! 大丈夫?』
「うん、今、駅前……でも、ごった返してて……どうしよう……」
ふと目を向けた先、タクシーのりばには既に信じられないほどの列ができていた。
他のルートを使っても──絶対にセレモニーには間に合わない。
『店長が言ってたよ。もう無理しないでいいから、戻ってきなさいって』
その言葉に、詩音は立ち止まる。だけど、心がどうにも納得してくれなかった。
「でも、町田にあるんだよ。すぐそこに……届いてるのに……!」
『……仕方ないじゃん。電車が動かないんなら──』
「……わかってるけど……っ」
声が震える。悔しさがこみ上げてきて、どうしようもなくなってきた……
そのとき。
──聞こえてきた、別の声。
「おい、お前。何やってんだ?」
胸の奥にまで響くような、低くてよく通る声。
詩音は、はっとして顔を上げた。
そして振り返る。
そこに立っていたのは──バイクにまたがった、広瀬梓だった。
「……梓ちゃん? なんでここに……」
詩音がぽかんとした顔でつぶやく。
「なんでって……今日、グランドオープンだろ。呼ばれてたし」
梓は少しだけ照れくさそうに言った。
「でも、まだ全然早いのに」
「早く来すぎたから、あそこの公園でのんびりしようかなって……っていうか、お前こそ、なにしてんだよこんなとこで。制服着て」
「……あ、えっとね。今日配る予定だった栞が、間違って町田のお店に届いちゃってて。
で、それ取りに行こうと思ったら……電車、止まっててさ」
「町田のどこだ?」
「えっと……」
詩音はスマホを取り出し、画面を確認する。
「……鵜野森って書いてある」
「鵜野森、ね……」
梓は腕時計に目を落とした。
「セレモニーは10時からだよね? それまでに戻ればいいんだな」
そう言って、リアシートに括りつけてあったヘルメットを外すと、ためらいもなく詩音に手渡す。
「──詩音、乗れ」
「えっ……いいの、梓ちゃん!?」
目を丸くした詩音の瞳に、うるっと光るものが浮かんでいた。
「いいから。ほら、早くかぶれ」
詩音は急いでヘルメットをかぶろうとするが、あごひもの留め方がわからずもたつく。
「アゴ、上げて」
梓がさっと手を伸ばして、ストラップをカチッと留めてくれた。
バイクのステップを出して、先にまたがる梓。その後ろに、恐る恐る詩音が跨がる。
──でも、初めてのバイク。どうやって座ればいいのか、ちょっと不安。
「それで大丈夫。しっかりつかまってろよ」
そう言うと、梓はエンジンをかけた。
ブロロロ……低く唸る音が広がり、バイクが静かに動き出した。
後ろから、ぎゅっと梓の背中にしがみつきながら──
「……梓ちゃん、ありがとう」
そうつぶやいた詩音に、梓がぽつりと返す。
「お礼は、時間に間に合ってからな」
バイクは、駅前の喧騒をあとに、走っていった。
土曜の朝のせいなのか、事故による運転見合わせの影響なのか、あるいは仕事とレジャーが入り混じる週末特有の流れか──道路は、どこもひどく混んでいた。
信号待ちの列のなか、梓は淡々とバイクを走らせていた。
車の後ろにきちんと並び、前のテールランプが赤くなるたびにスロットルをゆるめる。
そのとき。
詩音のスマホが震えた。
ポケットから取り出して画面を見ると、「メイちゃん」の名前が表示されている。
「……メイちゃん!」
詩音はスピーカーモードにして応答した。
「詩音、大丈夫?」
声の調子だけで、メイがどれだけ心配しているかが伝わってくる。
「あ、うん、今ね──梓ちゃんのバイクで町田に向かってるとこ!」
『……えっ、梓ちゃんが?』
「そう、たまたま駅前で会って……それで──栞、持って帰るから!」
その言葉とほぼ同時に、信号が青に変わった。
「うわっ──!」
バイクが加速し始めると同時に、詩音が思わず声をあげる。
反射的に、スマホを持った手ごと、ぎゅっと梓にしがみついた。
その手は自然と、梓の前──お腹のあたりにまわる。
スマホのスピーカーは、ちょうど梓の胸元あたり。
そこから聞こえてきたのは──メイの、少し大きな声だった。
『待ってるから!──でも、無理だけはしないでよ!』
その声が、梓の耳にしっかり届いた。
……きっと、それは詩音に向けた言葉だ。
だけど──自分にも言われたような気がして、梓の胸の奥が、少しだけ熱くなる。
(……わかってるよ、メイ)
心の中でそう返しながら、梓はスロットルを少しだけ開けた。
冷たい風の中、胸の奥だけがあたたかかった。
◇◇◇
国道に出た途端、渋滞の列がぐんと伸びていた。
信号が変わっても、前の車は数メートルしか進まない。
前の車のブレーキランプがずらりと赤く光る。
「……これじゃ、間に合わないな」
梓はそうつぶやき、すぐにミラーで後方を確認した。
詩音の体ごと、少しだけ重心がずれるのを感じる。
「──あんまり好きじゃないんだけどな、こういうの」
そう言って、右手で軽くスロットルを開けて、バイクをゆっくりと車の左側へ滑らせていく。
普段は決してすり抜けなんてしない。それが私のポリシー。
だけど、今だけは、それに反する。
車と縁石のあいだを、慎重に、それでも確かな速度ですり抜けていく。
狭いスペースを走り抜けるその動きに、詩音の腕がぎゅっと梓の体を抱きしめた。
「……詩音、あんまりぎゅっとするな。動きづらい」
「ご、ごめん……!」
そう言いつつも、手の力は抜けていなかった。
「……怖いか?」
「……梓ちゃんの運転だから怖くないけど……でも、やっぱり怖いかも」
「なんだそれ」
笑ってるのか、あきれてるのか。
そんな梓の声に、詩音の口元がふっとゆるんだ。
「大丈夫。でも……もうちょっとだけ、ぎゅってさせて」
「……わかったから、落っこちるなよ」
ひとことだけ、ぶっきらぼうに返して──
梓は、再びアクセルを少しだけひねった。
エンジンの音が低く響き、バイクは国道をすり抜けながら、目的地へと進んでいった。
◇◇◇
鵜野森の交差点を抜け、住宅街へと入る道にバイクを滑り込ませる。
梓はスピードを落とし、慎重にあたりを見回しながら徐行していた。
「多分、このあたりだと思うんだけど……」
詩音が背中越しにそう言いながら、スマホで地図を開く。
さっき鈴原店長から送られてきた位置情報を、地図アプリで表示させる。
ゴーグルマップのピンは、もうすぐそこ。
住宅街の道をしばらく進むと、角にぽつんと佇む、どこか懐かしい雰囲気の建物が目に入った。
「……あれじゃないか?」
梓がバイクを止めながら指差す。
看板には、少し色あせた筆記体でこう書かれていた。
『Branchée』
──ブランシェ。
どこかで見たことがあるような響き。
喫茶店らしき小さな建物。
「あっ……! あそこだ!」
詩音の声が少し上ずる。
その目は、しっかりと確信していた。
◇◇◇
バイクを店の前に停めて、詩音が先に降りる。
ヘルメットを外し、少し息を整えてから、店の前に歩いていった。
外の看板には、
『営業時間 AM7:00〜AM11:00』と書かれている。
「……短いなあ」と、心の中でつぶやく。
古びた木製のドアを、そっと開ける。
カラン、コロン。
「おはようございます──」
ほんのり冷房の効いた店内には、朝朝の光がすりガラス越しにやわらかく差し込み、コーヒーの香りと混ざり合っていた。
どこか懐かしいような香りだった。
中は、カウンターと二つの小さなテーブル席だけ。
こぢんまりとした静かな空間に、水彩の風景画がいくつか壁に飾られている。
カウンターの奥に目をやると、きちんと整えられた棚に白いコーヒーカップが並んでいた。
その横に置かれた、白黒の古い写真。
ぼんやりとしか見えないが、おそらくこの喫茶店の前で撮られたものらしい。4、5人の人が、笑顔で写っている。
ふいに、その写真の隣──深いベージュの暖簾の奥から、マスターらしき年配の男性が姿を現した。
「……いらっしゃい」
低く、穏やかな声だった。
白髪と白い口ひげ、優しげな目をしたその人は、70代に入ったくらいだろうか。
静かだけれど、柔らかく店全体を包み込むような雰囲気をまとっていた。
「……おはようございます。すみません、お客じゃないんですけど──」
詩音は少し恐縮しながら、言葉を続ける。
「ラフォーレ リーヴルスの小豆沢です」
「ああ、聞いてるよ。よく来たね」
マスターはにこりと笑った。
「ありがとうございます。あの、さっそくなんですが……栞って……」
「これだろう?」
マスターがカウンターの端を指差す。そこには、小ぶりな段ボールの箱が置かれていた。
「事情は聞いてるから。早く持って行きなさい」
「すみません、本当に……ありがとうございます!」
詩音は両手で段ボールを抱えた。
──思ったより、重い。
本革製のしおりが500枚も詰まった箱。3キロ近くあるだろうか。片手で持ち続けるのは、少しきつい。
するとマスターが、奥から大きな赤いリュックを持ってきた。
どこかくたびれて、味のある布地。けれど丈夫そうだった。
「これ、使いなさい」
「ありがとうございます……お借りします!」
詩音は段ボールをリュックに詰め込む。なんとか、ギリギリで収まった。
それを背負って、ぺこりと頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました!」
「気をつけて帰りなさいよ」
その声は、遠い昔からこの場所を見守ってきた人のように、穏やかだった。
マスターのやわらかな声に送られて、詩音は店を出た。
外では、梓がバイクの横で待っていた。
「お待たせ」
「今から出れば……9時半かな。十分、間に合うよ」
腕時計をちらりと見て、梓が言った。
「ありがとう、梓ちゃん」
詩音はにこっと笑って、スマホを手に取った。
「みんなに電話しとかなきゃ」
◇◇◇
同じ頃のカフェ・ラフォーレ リーヴルス。
準備はほとんど整っていたけれど、どこか落ち着かない空気が店内に漂っていた。
スタッフたちは、それぞれ手を動かしながらも、心ここにあらずといった様子。
時計の針ばかりが気になってしまう。
そのとき──
メイのスマホが震えた。
「……詩音だ!」
メイがそう言うと、近くにいたスタッフたちが一斉に顔を上げて集まってくる。
「スピーカーにするね」
メイがスマホを切り替え、通話ボタンを押す。
「もしもし、今どこ?」
『あ、メイちゃん? 今、町田だよ──』
ちょっとだけ息が弾んでる声。それでも、はっきりと明るい。
『──栞、ゲットしたよ!』
そのひと言に、店内がぱっと弾けたように沸き上がる。
「やったー!」「ほんとに!?」
スタッフたちのあちこちから拍手や歓声があがった。
『今から帰るから!』
その声に、メイがにっこりと頷く。
それを聞いて、鈴原店長がすっと立ち上がった。
「──みんな、袋の中身、入れ替えるわよ!」
すぐに美智子が続く。
「手が空いてる人、手提げ袋をここのテーブルに並べて!引換券、抜き忘れないようにね!」
スタッフたちが一斉に動き出す。
空気が変わった。
ひとつの知らせで、チームが息を吹き返す。
さっきまで重たかった時間が、音を立てて動き出した。
◇◇◇
9時20分。
カフェ・ラフォーレ リーヴルスの駐車場では、特設ステージまわりの最終調整が進められていた。
本社スタッフたちが来賓席やスピーカーの確認をしており、司会者の女性がマイクを片手に打ち合わせをしている。
そんなざわめきの中、梓のバイクがエントランス前に静かに横付けされた。
バイクから降りた詩音が、リュックを背負ったままヘルメットを外す。
それを見つけて──
「詩音!」
「おかえり!」
メイと沙織が、駆け出すようにして店の中から飛び出してきた。
「ただいまー! これ、栞!」
詩音は背中からごそっとリュックを外し、沙織にまるごと渡す。
「うわっ、重たっ……!」
沙織はリュックを受け取りながら、笑い声まじりに小走りで店内へ。
その後ろ姿を見送りながら、メイが笑顔で振り返る。
「ありがとう、梓ちゃん」
バイクにまたがったまま、梓がゴーグルを額にずらしながら言う。
「……いや、たまたまいただけだし」
ぶっきらぼうなその言葉には、どこか照れくささがにじんでいた。
すると詩音が、思い出したように言う。
「ねえメイちゃん、聞いて聞いて! 梓ちゃん、さっき私のこと“シオン”って呼んだんだよ!」
自慢げな口調で、しっかりと覚えてるよと言わんばかり。
それから、くるっと梓の顔を覗きこみながら──
「ねー! ねー!」
「……え、あ、そうだったっけ?」
梓はさらりと、とぼけてみせる。
「え? 梓ちゃん、今、ちょっと照れた?」
メイがにやっと笑って言う。
「……いいから、お前たち、早く準備しろよ!」
そう怒鳴りながらも、どこかあたたかい口ぶりだった。
その声に、メイと詩音が同時に肩をすくめて笑ったその時ーー
「あ、そうだ!早く入れ替えないとだよ!」
詩音が思い出したように声を上げる。
「またあとでね! 本当にありがとう!」
二人はそろって、店内へと走っていった。
その背中を、梓はしばらく見送っていた。
ふう、と小さく息を吐き、空を見上げる。
ーー間に合って、よかった。
やわらかな風に髪が揺れた。
その瞬間、口元に、ほんの少し笑みが浮かんだ。
その風は、梓の心をそっとくすぐっていった。
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