第65話 そして、2000年…
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2000年 春
麗佳たちは大学を卒業。
三人はそれぞれの道に進んだ。
裕子は就職してすぐ妊娠がわかり、さまざまな事情から退職。
奏恵は総合商社に就職し、数年後に社内恋愛の末に結婚。
麗佳は大手外食チェーンに就職した。
それでも、吹奏楽団ブランシェは続いていた。
子どもが生まれ、裕子と奏恵が顔を出す機会は減っていったが、代わりに創美高校の後輩たちが多く入団し、団は大きくなりながら、少しずつ実力をつけていった。
麗佳は、子どもを連れた二人と会う時間を、何より大切にしていた。
ある日――
奏恵が、入院したと聞いた。
裕子と連れ立って見舞いに行ったとき、奏恵はベッドの上で、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「大丈夫だよ、たいしたことないから」
「それならいいけど」と麗佳。
「ほんと、無理しすぎなんだから」と裕子。
窓の外を見ながら、ふと奏恵は話し出した。
「……ねぇ、覚えてる? あの文芸喫茶のこと」
裕子は頭の隅の方にあった記憶を呼び起こす。
「……ああ、あの感じの悪いとこ?」
裕子が苦笑する。
麗佳は黙って聞いていた。
文芸喫茶のことは覚えている。
それよりも、帰り道で見た情景。
銀杏並木で振り返った奏恵の笑顔が、まるで昨日のことのように浮かんでいた。
「実はね……」
奏恵が少し照れたように言う。
「二人は言ってなかったんだけど、去年、食品衛生管理者の資格取ったの」
「食品衛生管理者?」
裕子が首をひねる。
「作った食品を売ったり、簡単な食事を出せるお店が開けるってことだよな」と、麗佳。
「そうそう…」
二人の方を見ながら、少し照れくさそうに笑った。
「それでね、退院したら、会社辞めてカフェやろうかと思ってたんだ」
「そんなこと考えてたのか。全然知らなかった」
麗佳は少し驚きながら言った。
「麗佳って飲食の会社でしょ。恥ずかしくて言えなかったよ」
「そんなことないでしょ」と裕子。
「相談してくれれば力になれたのに」と、麗佳も言った。
「いや……言えなかったよ。できるかどうか、自信なかったし。もっと形にできてから、ちゃんと話そうと思ってたんだ」
また窓の外を見ながら、奏恵がぽつりとこぼす。
「思い続ければ夢は叶うって言うけどさ、叶わない夢だってあるんだよ……」
――その数日後、奏恵は旅立った。
***
あの子が旅立って、ニ年後。
私は大手の会社を辞めて、カフェを始めた。
何がきっかけだったのかは、自分でもうまく説明できない。
でも――
あの銀杏並木で笑っていた奏恵の姿が、ずっと胸の奥に残っていたのは、たしかだ。
独立を決めたあのとき、不意に思い出した言葉がある。
『夢見るの、得意じゃないから』
あのとき、奏恵はそう言っていたけど……
ほんとは誰よりも、夢に近づこうとしてたのかもしれない。
できるかどうかじゃない。
やろうとしたこと――それ自体が、あの子にとっての全部だったんだと思う。
葬儀のあと、彼女の夫から渡された手紙がある。
体調が急変して、出せなかったというその便りには、奏恵らしい優しい文字が並んでいた。
『あのカフェの話、いまだに考えちゃうの。笑っちゃうでしょ?
夢って、しぶといんだね』
「奏恵……私も、同じだよ」
三人の写真を、元の場所に静かに戻す。
そして、小さく息をついて、彼女はそっと立ち上がった。
デスクの端に置いてあったボルボの鍵を手に取る。
「……さて」
小さくそう呟いて、社長室を後にした。
ドアが閉まると、室内には静けさだけが残った。
ほんのりと漂うコーヒーの香りだけが、記憶の余韻を留めていた。
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