第64話 1998年のこと
1998年 春。
どっぷりと日が暮れた矢鞠市民センターの音楽練習場から、練習の音が漏れてくる。
「はい、そこまで」
指揮の声とともに、楽器の音が一斉に止まる。
「……クラリネット。最後の音、指の動きが遅れてるぞ」
扉の向こうから、低くて落ち着いた声が響く。
ガミさん――坂上先生。私たちの高校時代の顧問で、今も吹奏楽団ブランシェを見守ってくれている人だ。
「余韻を残せ。音を止めるな。『止めたくなる』のは、自分の都合だって忘れるなよ」
裕子が目だけで「はい」と返し、楽器を構え直す。
ガミさんは、必要なことしか言わない。でもその一言一言が、今も私たちを支えている。
◇◇◇
練習後。
何人かは残って個人練を続けていた。
私たちはピアノの上に散らばった譜面を片づけながら、ひと息つく。
「まったく、ガミさんったら……相変わらず厳しいんだから」
裕子が苦笑混じりに言った。
――三田裕子。麗華と同じ総美高校吹奏楽部。中学時代からクラリネットをやってきた実力者でもある。
「今日はクラ、集中砲火だったな」
麗佳はスケジュール表に目を落としたままつぶやく。
「定年してるとは思えないわ。高校の頃も厳しかったけど」
「でも、ガミさんのおかげで全国大会金賞、取れたからな」
「そうね……でも、どれだけ練習が厳しくても、部が分裂しなかったのは、麗佳のおかげよ」
「いやいや、副部長の裕子がフォローと根回ししてくれたからだよ」
麗佳は顔を上げて、裕子を見る。
「そんなことないわよ……」
「あら〜、またお二人さん。褒め殺し大会ですか〜?」
ピアノの影から、ひょこっと顔を出してきたのは奏恵。茶々を入れながら、にこにこしている。
麗佳は彼女に笑い返しながら言う。
「そういう奏恵だって、ドラムメジャー、すごくがんばってくれただろ?」
「やめてー、そういうの無理。褒め殺し、返せないからー」
両手をひらひらと振って、ストップのポーズ。
プッと吹き出す麗佳と裕子。
--喜多原奏恵。麗華とは中学、高校も一緒。中学からオーボエ一筋で、彼女の奏でる音色は哀愁のある独特の雰囲気を持っていた。
騒がしい三人の横を、手ぶらの後輩たちが「お疲れさまでしたー」と言いながら通りすぎていく。
「おつかれ〜」
「今日は荷物置いて帰れるから、身軽ね」と裕子。
「ああ、今日と明日はこの部屋使えるから、楽器も置きっぱで大丈夫」
麗佳はスケジュールを確認しながら言う。
「こないだの町田のスタジオの帰りなんか、チューバの小豆沢先輩が、あの細い体で楽器持って歩いててさ。重そうだったもん」
「アイツはあれでいいのよ」と、裕子。
「おー、彼女ともなると発言が手厳しいっすねぇ〜、小豆沢夫人!」
「うるさいわね。殴るわよ」
裕子が殴るふりをすると、奏恵が「わー、暴力反対っ!」と叫んで、練習場の中央まで逃げていく。
麗佳は笑いながらそれを見ていた。
「でも、毎回練習場を確保するのって、案外大変よね」
裕子がこっちに向き直って言う。
「今は春休みだからいいけど、大学始まったら、そうもいかなわね」
「月末の茅ヶ崎音楽祭までに何回かここが取れたのは助かったよ」
その時、走って戻ってきた奏恵が尋ねる。
「来月の伊勢原パレードのマーチングって、どこで練習するの?」
「今探してるとこ。決まったら連絡網でまわすよ」
「でもさ、あの電話の連絡網、こないだミサちゃんとこで止まってたっぽいよ?」
「ミサ、最近バイトで帰り遅いらしいからな。順番、変えた方がいいかも……」
麗佳は手元の連絡網の表を眺めながらつぶやいた。
「……なんか、やることいっぱいね」
裕子がふと見つめた夜の窓ガラスには、三人の姿がぼんやり映っていた。
「でもまあ、こうしてみんなと音楽続けられてるだけでも、ありがたい」
週に2〜3回の練習と、神奈川県近郊で行われる音楽祭への出演。
それが、吹奏楽団ブランシェの活動だった。
あの頃はただ、仲間と音を重ねるだけで、それだけで充分だった。
◇◇◇
ある日の夕方、練習帰りの道すがら。
「町田のスタジオ、駅から遠いからキツいよね」
片手にクラリネットのケース、もう片方にカセットデッキをぶら下げながら、裕子がぼやく。
「この前聞いたんだけど、トランペットの鈴木くん、車買ったんだって」
「でも、あいつのってRX-7でしょ? 荷物なんてほとんど積めないよ」
「いっそトラックにでもしてくれればよかったのに」
本気とも冗談ともつかない口調で、裕子は小さく笑った。
「セブンはスポーツカーだからなあ……」
麗佳も苦笑いを浮かべる。
裕子は手を入れ替えるように、カセットデッキとクラリネットケースを持ち直しながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、ガミさんにデモテープ渡したの?」
「あ、そうだった!」
その言葉に、麗佳はハッとして立ち止まった。
ドスン。
その背中に、奏恵がぶつかる。
「わっ、麗佳、急に止まらないでよ。危ないじゃん」
「本読みながら歩いてる奏恵の方が、よっぽど危ないって」と裕子が笑う。
「だって、面白いんだもん」
「奏恵、いたのか……静かすぎて忘れてた」
冗談まじりに麗佳が言う。
「だって、本読みながらじゃ、しゃべれないからね」
そう言って、奏恵は笑った。
奏恵は無類の本好きだった。小説、詩集、エッセイ……とにかく何でも読む。
裕子も詩やエッセイをよく読んでいた。
一方の麗佳はというと、実用書や自己啓発本には目を通すものの、小説とはあまり縁がなかった。
そんな麗佳に、以前、奏恵が言ったことがある。
「それだって、立派な読書だよ。本から何かをもらえたなら、それだけで充分だよ」
――分かったような、分からないような。
そのときの麗佳には、そんな風にしか思えなかった。
こんなこともあった。
ある日の練習の合間。ふと見ると、奏恵がぽろぽろと涙をこぼしていた。
「……どうした、奏恵?」
心配になって近づいた麗佳が目にしたのは、膝の上に広げられた一冊の本。
「これ、感動するんだよ」
奏恵はしゃくりあげながら言った。
「『やればできる』『思いは叶う』――そんな言葉がね、まっすぐ心に届いちゃってさ」
本を読んで泣くなんて――
そんな姿を前に、麗佳は静かに驚いていた。
数日後のこと。
奏恵が一冊の小説を手渡してきた。
「このあいだの本、これね。……私って、夢を見るのがちょっと苦手なんだけどさ。
でも麗佳には、きっと合うと思うんだ」
言われるままに、麗佳はその本を手に取った。
タイトルは――『私、アイドル始めちゃダメですか』
(……なんだこれは)
思わず眉をひそめたくなるようなタイトルに、最初は戸惑いを覚えた。
それでも、ページを開いてみることにした。
———
主人公は、山あいの町に暮らす、少しぽっちゃりした女子高生。
歌が上手いわけでもないし、特別かわいいわけでもない。
だけど、彼女には夢があった。
――「アイドルになりたい」
笑われても、バカにされても、彼女は諦めなかった。
そんなある日、都会から転校してきた少女と出会う。
華やかで、才能にあふれ、努力さえ楽しそうにこなす子。
彼女もまた、同じ夢を追いかけていた。
「一緒にアイドル、やりませんか?」
そう転校生から誘われたとき、彼女は少し迷った。
けれど、その子はまっすぐに言った。
「想いは、きっと届くから」
ふたりで努力を重ね、何度もオーディションに挑んだ。
けれど夢は遠く、合格の知らせは来なかった。
くじけそうになったとき、町の小さなデパートの社長が声をかけてくれた。
――「君たちのがんばり、ずっと見てたよ。うちの屋上で、歌ってみないか?」
その日、小さなステージから、夢がはじまった。
きらびやかじゃない。だけど、まっすぐで、たしかな夢だった。
――夢は、形じゃなくて、想いでできている。
ページを閉じたとき、胸の奥がじんわりと熱を帯びていた。
さすがに涙は出なかった。けれど、何かが残った気がした。
“――小説も、悪くないな”
***
季節は進み、1998年の秋。
ある日の練習帰り、奏恵が目を輝かせながら言った。
「ねえ、本が読み放題の喫茶店があるんだって!」
「ここからそんなに遠くないし……帰りに寄ってみようよ!」
その勢いに押されるように、三人で足を運んだのは、数駅離れたところにある文芸喫茶。
年季の入った木造の小さなお店だった。
扉を開けると、ふわりと広がるコーヒーの香りと紙の匂い。
店内にはビル・エヴァンスの、しっとりしたジャズが流れていた。
その空気に、奏恵はすっかり心を躍らせている様子だった。
注文を済ませる。
麗佳はホットコーヒー、裕子は紅茶。
奏恵は迷いに迷った末、アイスコーヒーとショートケーキを選んだ。
「ちょっと見てくるね」
そう言って、奏恵は席を立つ。
麗佳はそのまま座ったまま、店内をぐるりと見渡す。
天井からは、小ぶりのシャンデリアがいくつか下がっていた。
壁は深い焦茶色の木材で覆われていて、レコードジャケットがアクセントのように飾られている。
席ごとの仕切りには観葉植物があしらわれていて、隣が見えないようになっていた。
しばらくして奏恵が戻ってくると、少し不満げに口をとがらせて言った。
「……もっといっぱい本があればいいのに」
「図書館じゃないんだから」と裕子があきれたように返す。
「だって本棚、あれしかなかったよ? しかもジャンルも偏ってて……哲学系ばっかり」
「それなら、麗佳にピッタリじゃない?」
裕子がからかうように言うと、
「なにそれ、私が理屈っぽいって言いたいの?」と麗佳。
「あれ〜、麗佳さま、ちょっと怒ってる?」
茶化す奏恵に、三人でクスッと笑い合う。
ちょうどそのとき、ウェイトレスがやってきて小声で言った。
「……もう少しお静かに願えますか。他のお客様のご迷惑になりますので」
「すみません」
麗佳が頭を下げる隣で、奏恵はぺろっと舌を出し、肩をすくめて見せた。
----
喫茶店を出た三人は、近くの銀杏並木を歩いていた。
道の上には落ち葉が広がり、足元でカサカサと音を立てる。
それはまるで、秋の終わりを告げる静かな前奏曲のようだった。
ふいに裕子がつぶやく。
「なんかさ……あのお店、ちょっと敷居が高かったよね」
「“本を読ませてあげてますよ”っていう、圧みたいなのを感じたっていうか」
「わかる……常連さん以外、お断りって感じだった」
麗佳も、苦笑しながらうなずく。
そんなふたりの前を、奏恵がふわりと軽く駆け出した。
くるりと振り返り、笑顔で言う。
「私はね、本の読める喫茶店って、やっぱり素敵だと思ったよ!」
落ち葉を軽く蹴りながら、言葉を続ける。
「今日のお店はちょっと残念だったけど――
でも、紙の匂いとコーヒーの香りの中で、ゆったりと本が読めるなんて……いいと思わない?」
その背中を、麗佳と裕子は立ち止まって見つめていた。
奏恵はふっと笑って、また前を向いて走り出す。
ほんの数歩先で立ち止まり、もう一度、くるりと振り返った。
今度は少し照れたように、それでもまっすぐな声で言う。
「だからね……
もっと大きくて、もっと本があって、もっと自由な、そんなカフェ――やってみたいな」
銀杏並木の坂道の先、奏恵は両手を広げる。
風を抱くような仕草。髪がふわりと舞い上がる。
木漏れ日が、肩にそっと降りていた。
その笑顔は、太陽をまっすぐに見上げる子どものようで――
キラキラしていて、眩しいくらいだった。
金色の並木道に舞い降りた天使。
――あの瞬間の奏恵の姿が、麗佳の目に焼きついて離れなかった。
***
ここまで読んでくださってありがとうございます!




