第61話 ソフトオープン前日、嵐の予感
9月2日、ソフトオープンの前日。
カフェ・ラフォーレ リーヴルスの店内は、朝からどこか慌ただしく、でも少しわくわくするような空気に包まれていた。
明日の準備に加えて、グランドオープンに向けた動きも本格的になってきて、いろんな仕事が入り混じるように進んでいる。
奥のテーブルでは、鈴原店長と美智子、京子が並んで、ふれあい文学館の砂川さんと向き合っていた。
砂川さんは、グランドオープン当日のセレモニーで司会を務める予定。その打ち合わせもあって、式の流れやタイムスケジュール、控室の使い方など、細かな確認を一つずつ進めているところだ。
その少し先、厨房とレジカウンターまわりでは、志麻と詩音が、アルバイトの子たちと一緒に、明日の営業を想定して、ひとつずつ手順を確認している。
ドリンクやフードのオーダーの流れ、渡すタイミング、動線の確認。みんなで声をかけ合いながら、せわしなく動いていた。
フロアの中央のテーブルでは、明美、沙織、ユキが、ソフトオープンに来たお客さんに配るノベルティーのコーヒーのドリップパックとメッセージカードを、黙々と袋詰めしていた。
一方そのころ、展示エリアでは、メイが柳森さんとふれあい文学館の太田さんと一緒に、明日のイベントの最終確認を進めていた。
ひと通りの作業を終えた三人は、そろってカフェフロアへと戻ってくる。
「これで、明日はほぼ大丈夫そうですね」
太田さんが、少し肩の力を抜くように言った。
「はい。太田さんがいてくれると、作業が早く進んで助かります」
メイがそう言うと、
「今まで孤軍奮闘だったからね、平瀬ちゃんは」
と、柳森さんが優しく笑った。
「いえ、スタッフのみなさんの助けを借りて、ここまで来たって感じです」
そう答えたメイに、柳森さんはあたたかな表情を浮かべた。
「じゃあ、私はこれで失礼します」
太田さんがそう言って笑顔で頭を下げると、メイと柳森さんも「お疲れさまでした」と見送った。
こうして、慌ただしくも活気のある午前中が過ぎていった。
◇◇◇
お昼どき。
カフェフロアでは、アルバイトの子たちがつくった軽食メニューが、この日のまかないとしてふるまわれていた。
あちこちのテーブルで笑い声があがり、にぎやかな雰囲気に包まれている。
こういう“みんなで食べる時間”になると、たいてい決まった顔ぶれで席が固まりがちになるものだが、カフェ・ラフォーレ リーヴルスのスタッフたちは少し違っていた。
バイトの子たちの輪の中に、自然と鈴原店長や美智子さんが混ざっていたり、詩音やメイが、少し年上の京子さんや志麻さんと一緒に笑い合っていたり。年齢や立場に関係なく、気づけば誰とでも自然に会話が生まれる。そんな“垣根のない”やりとりが、当たり前のように広がっていた。
この日は、詩音とメイが、沙織さんとユキと同じテーブルに座っていた。
「袋詰め、めっちゃ肩こるよー」
沙織がテーブルに肘をつきながらぼやくと、
「沙織さん、肩に力入りすぎです」
と、ユキがいつもの調子で返す。
「そうかなぁ?」
そう言いながら、沙織は肩をぐるぐると回している。
そんな二人のやりとりに、詩音は小さく笑った。
しばらくして、沙織がふと思い出したように口を開く。
「そういえばさ、グランドオープンのノベルティーって、今日の午前中に届く予定じゃなかったっけ?」
「……あ、あの革の栞だよね?」
メイが顔を上げる。
「そうだ、そうだったよね」
詩音は、腰ポケットから折りたたんだスケジュール表を取り出して、目を通した。
「やっぱり。今日の午前中到着になってる」
「これ、詩音が発注したやつだよね?」沙織がのぞきこむように言う。
「うん、そうなんだけど……後で業者さんに電話してみるね」
詩音は、少しだけ不安そうにそう答えた。
◇◇◇
食事を終えると、詩音はすぐにスマホを取り出し、業者に電話をかけていた。
なんだか雲行きが怪しい。
「……いや、それじゃ困るんです。電話でもメールでも確認したんですけど……はい……」
声のトーンがみるみる曇っていく。
近くにいたメイと沙織が、心配そうに近づいてくる。
「いえ、9月6日に使う予定で……」
メイがそっと声をかけた。
「どうしたの?」
スマホを耳から少し離し、詩音が困った顔でつぶやいた。
「オーダーされてないんだって、栞……」
「え、なにそれ!」と、沙織が思わず声を上げる。
「担当者が休職中で引き継ぎが漏れてて、正式発注が記録になくて……」
「じゃあ、いつ届くの?」とメイ。
「それが……今から作るから、来週の半ばになるんだって……」
「それじゃ間に合わないじゃん……」
沙織がぽつりとこぼす。
そのやり取りを聞いて、美智子と京子が静かに近づいてきた。
「まずいな……」と、美智子が小さくつぶやく。
店内に、緊張した空気が広がる。
ざわざわしながら、アルバイトの子たちも集まってくる。みんな心配そうな顔をしていた。
そこへ鈴原店長がやってきた。
「詩音ちゃん、ちょっとスマホ貸してくれる?」
やわらかく言って、受け取ったスマホを耳に当てた。
「もしもし、店長の鈴原です。はい……」
いつもの穏やかな口調のままの話し方。
話しながら、そのまま控え室へと入っていく。
詩音は、その場で小さくうつむいた。
「どうしよう……せっかく、みんなで選んだ栞なのに……」
「大丈夫だよ、詩音」とメイがそばで声をかける。何の根拠もなかったけど、それしか言葉が見つからなかった。
その横で、美智子と京子が真剣な面持ちで、何やら相談している。
しばらくすると、控え室のドアが開いて、鈴原店長が戻ってきた。いつもと変わらぬ、やわらかな笑顔をたたえて。
「9月5日の夜に到着するようになったわ。向こうのミスだから、全力で間に合わせるって」
その言葉に、詩音はぱっと顔を上げた。
「……よかった……店長、ありがとうございます……」
ほぼ泣きそうな声だった。
「ほらね。鈴原店長にかかれば、なんとかなるんだから」
沙織が明るく笑って言った。
「でも、それって、グランドオープンの前日の夜……」
ユキが冷静にぽつりと続ける。
みんなが少し不安な顔になる中で、鈴原店長は静かに言った。
「そうね。ギリギリだけど……でも、みんなでやれば、ちゃんと間に合うわよ」
やさしくて、だけど、どこか力強いその言葉に、ひとり、また一人と、明るさを取り戻していく。
「うん、やろう!」
「ぜったい大丈夫!」
そう言いながら、アルバイトの子たちがそれぞれの持ち場へと戻っていった。重たかった空気が少しずつ晴れていく。
そんな声とは裏腹に、沈んだままの詩音。
「大丈夫だよ、これで」
メイが詩音の隣に腰を下ろし、そっと肩を寄せる。
けれど詩音の顔は、晴れなかった。
「私がもっとちゃんと確認してればよかったのに……」
俯いてつぶやく詩音の声に、自責の色がにじむ。
「詩音はちゃんとやってたじゃん。向こうのミスなんだし、間に合うって言ってるし……」
「でも……」
そのとき、そばに立っていた京子がやさしく言った。
「詩音ちゃんのせいじゃないわよ。みんないるんだし、今はやれることをちゃんとやっていきましょ」
続けて、美智子も言葉を投げる。
「だな。今はソフトオープンに集中しなきゃ」
いつも通りの、ぶっきらぼうな口調で続いた。
「……ありがとうございます」
ようやく、詩音の口元に少しだけ笑みが戻った。
そんな様子を見ながら、鈴原店長は微笑んだまま、さりげなく美智子に目配せする。
すっと近くまで寄って来た彼女に小さな声で言った。
「一応、最悪のことも、考えておかないとね」
「……そうですね」
周囲ではスタッフたちが雑談を始め、徐々に場が和んでいく。
その中で、京子と志麻にもさりげなく合図し、鈴原店長と美智子は店の奥へと静かに消えていった。
沙織が元気に声を張る。
「さあ、午後からも、気をこぼしながら張り切っていくよー!」
「それ、たぶん、気を取り直して、ではないかと……」と、ユキが静かにツッコむ。
「ヤバっ!詩音の病気がうつったかも!!」
沙織が大げさに叫んで、みんなの笑いが起こる。
詩音も、つられてクスッと笑った。
それを見たメイも、笑いながら心の中で思う。
ーーそう。今、自分にできることを、ちゃんとやろう。
カフェ・ラフォーレ リーヴルスの店内に、またいつもの元気が戻ってきた。
◇◇◇
ソフトオープン当日の朝。
更衣室では、沙織とユキ、明美が、制服に着替え中。
そこへ──
「おっはよーございまーっす!」
ドアが勢いよく開いて、詩音が元気に飛び込んできた。
「うわっ! お前、ノックぐらいしろっ!」
沙織が慌てて前を隠す。
「この前も、美智子さんに怒られてましたよね……」
ユキが淡々と冷静に言う。
「ご、ごめん、ごめん」
頭をかきながら、詩音は自分のロッカーを開ける。隣では沙織がひとこと。
「……ふっ。元気そうで、何よりだ」
「うん。昨日帰って、家で話してたらさ、お姉ちゃんに怒られた。いつまでウジウジしてるのって」
「うんうん、その通り。過ぎたことは、もはや風に流すがよし」
「そう、だから切り替える!今まで通りに、ね!」
「……いや、今まで通り過ぎるのは、いかがなものかと」
ユキが着替え終え、すれ違いざまに静かにツッコむ。
「はは……」
沙織と詩音が顔を見合わせて苦笑する。
「でも、やっぱり、詩音さんはそうでないとですよ」
明美がふわっと笑う。
「えへへ」
照れたように笑って、詩音は一呼吸。
「さあ! ソフトオープン、張り切っていこうっ!」
沙織が勢いよくドアを開けて飛び出していく。
「おーっ!」
明美も笑顔で続いた。
その背中を見送りながら、詩音は静かに制服のボタンを留めていく。
(……切り替え、切り替え。集中、集中。)
詩音は心の中で、唱えるように繰り返していた。
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