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第57話 変わり始めた心たち


まだまだ夏の名残が色濃く残る、八月二十六日。


メイは朝からなんだかそわそわしていた。

今夜、梓と会う約束をしている——それだけのことなのに、心がちょっと落ち着かない。


カフェ・ラフォーレリーヴルスは、きょうと明日の二日間は完全休業。

昨日はレセプションの反省会があったけれど、午前中でさくっと終わり。

それも含めれば、二日半のまとまったお休みだ。


「せっかくだし、家のこと片付けようかな」


そう思って掃除を始めたものの、雑巾を持ったまま窓の外をぼーっと眺めてしまったり、掃除機のスイッチを入れたまま手が止まったり。

なんとなく手がつかない。


気持ちは、別のところにある。


梓ちゃんと会うのは、うれしい。すごくうれしい。

……でも、ちょっとだけ、緊張する。


夕方、6時前。

矢鞠駅近くのファミレス——梓と初めて一緒に食事をした場所。


メイは待ち合わせの15分前に店に入った。

案内されたのは、あの時と同じ窓際の席だった。


(ここ、前に梓ちゃんと座ったところだ……)

ほんの少し、胸があたたかくなる。


座ってバッグを横に置き、スマホをちらりと見る。

Rainでは、たしかに「今日、6時ね」って約束してある。

それでも、胸の奥がなんとなく落ち着かない。

(……来てくれるよね)


既読マークがついているのに、こんなにそわそわするなんて——我ながらちょっと笑ってしまう。


——ピンポーン。


自動ドアが開いて、誰かが入ってくる音。思わず顔を上げたその瞬間——

梓がいた。


一瞬で、胸の緊張がふわっとほぐれる。


メイは小さく手を振った。

梓も気づいて、軽く手を挙げながら歩いてくる。


「久しぶり」


「……あぁ、久しぶり」


梓の声は少し低くて、表情はどこか硬い。

けれど、ここに来てくれたのが——それだけで嬉しかった。


「わざわざこっちまで来てもらっちゃってて、ごめんね」


「いや、バイクだから……」


さらりと返すその口調は変わらない。でもその視線は、一瞬メイを避けるように泳いだ。


「梓ちゃんの家って、どこだっけ?」


「総美大野。バイクで……二十分くらい」


「そっか。ちょっと遠かったね。ありがと」

口元の笑みが、ぎこちない。

心の中で呪文のように唱える。

(大丈夫。笑顔、笑顔で……)


梓はほんの少しだけ目をそらして、うなずいた。


そのタイミングで、店員がメニューを持ってやってくる。

季節のおすすめを案内され、自然と会話は一度止まった。


オーダーを済ませて、二人きりのテーブル。

目の前にはメニュー表と、沈黙と、なんとなく落ち着かない空気が流れていた。


沈黙のまま、しばらくコップの水をいじっていた梓が、ふいに顔を上げた。


「で、話って何?」


「……あぁ、そうそう。実はね、寝袋のことなんだけど」


「……寝袋?」


「うん。実はまだ持ってなくて。そろそろちゃんと買おうかなって思ってて……」


「ふーん、そうなんだ」


「前にマウントワンで、店員さんにいろいろ聞いたんだけど……よく分からなくて。だから、梓ちゃんに選び方とか、おすすめとか、いろいろ聞けたらなって」


梓は一度、視線をメイから外し、テーブルの端に目を落とす。

そして、少し間を置いて、ぽつりと口を開いた。


「……いつ、どこで使うかによって、選び方は変わるかな」

「確か、冬に行くとかって……」


「うん。そのつもりなんだけど」


「行き先は?」


「まだ決めてないけど、富士山がどーんって見えるとことか」


「……なら、朝霧高原あたりがいいかも」


「……あさぎりこうげん?」


「うん。たとえば十二月の朝霧高原だと、最低気温がだいたいマイナス二〜三度くらい。だから、『快適使用温度』を基準に選ぶといいよ」


「快適使用温度を……ちょっと待ってね」


そう言って、メイはバッグから小さなメモ帳とボールペンを取り出し、さらさらと書き始めた。


その様子を見て、梓の口元がほんの少しだけゆるむ。


「快適使用温度、と。……ごめん、続けて?」


「うん。『限界使用温度』って、“我慢できるギリギリ”ってだけの数値だから。ちゃんと眠れるかって言ったら、別問題。寒くて寝れない夜って、ほんとしんどいから」


「確かにキツそう……」


「私は最低気温と快適温度を目安にして、少し余裕のあるやつを選んでる」


メイは頷きながら、またペンを走らせる。


「形とか、色とかは? あの……ほら、ママー型とか?」


「……それ、マミー型ね」


「……あ、そっか」


「色はあんまり気にしないけど、形は重要。マミー型は保温性が高い分、動きにくいんだよ。私は寝返り打ちたいから、ちょっとゆったりしたマミー型を使ってる。最近は封筒型でも性能良いやつあるし、そこは好みかな」


「へぇー、なるほど……」


メイは相づちを打ちつつ、真剣な表情でメモを取る。


「他に気にしてることってある?」


「うん……中の素材とか。ゴワゴワしてたり、カサカサ音がうるさいやつとか、地味に気になる。あと、静電気で髪がバーってなるやつ。あれ最悪」


「それ、やだな……」


メイが笑うと、梓もつられて、ふっと口元をゆるめた。


「だから素材も妥協しない。寝袋の中って、意外と繊細な空間なんだよ」


梓は続ける。


「あと、私はバイクでキャンプ行くから、収納性も大事。でもね……」


一度言葉を切り、視線を遠くにやる。


「私は“信頼できる厚み”がある寝袋がいいと思ってる。前にさ、薄くて安いやつ買って、失敗したんだ。寒くて寝られなくて、マジで後悔した」


「……うん、わかる気がする」


「だから他の荷物を減らしてでも、しっかりしたやつを持っていく。私にとって寝袋は、“最優先すべき荷物”なんだよ」


メイは、メモを取る手をそっと止めた。

目の前でまっすぐ語る梓の表情が、なんだか頼もしく見えた。


「……おい、聞いてる?」


「……あ、うん、聞いてるよ」


慌てて返事をするメイに、梓がちょっとだけ眉をゆるめる。


「それだけ、寝袋って大事にしてるんだなぁって。私は車で行くつもりだから、収納性とかはそんなに気にしなくても大丈夫そうだけど……」


「車ならね。……でも、大切な睡眠を預ける道具だから、ちゃんと信頼できるやつがいい。安いのを何回も買い直すより、最初にいいのを選ぶほうがいいと思ってる。テントよりも、長く使えるし」


「そっかー……勉強になるなぁ。やっぱり実際に見て決めた方がいいよね」


「うん。寝袋は意外と高いし、通販で失敗すると立ち直れない」


「だねっ」


メイはそう言って、楽しそうにクスクス笑った。


ちょうどそのとき、料理が運ばれてきた。


メイはミートドリアのセット。

梓は、和風おろしハンバーグとライス少なめ。


白い湯気がふわっと立ちのぼり、思わず声が出た。


「うわぁー、梓ちゃんの、それ美味しそう!」


メイが目を輝かせて言う。

梓はほんの一瞬、フォークの動きを止めた。


「……うん」


それだけ言って、視線を落としたまま、またハンバーグにフォークを入れる。


「いただきまーす!」

ちょっと頑張り気味のメイの声。


「……いただきます」

それにつられるように、梓も小さくつぶやいた。


言葉に出したのはそれだけだったけど、確かに“ほぐれた”気がした。


ミートドリアのスプーンを口に運びながら、メイがふと思い出したように言った。


「そういえばさ、あの梓ちゃんのテント。新和キャンプ場で見た、ベージュの三角形のやつ」


「……ああ、ワンポールの?」


「そうそう!あの時、あのテント、カッコいいなって思って見てたんだ」


「あれ、試し張りしに行ったんだ」


「そうだったんだ」


「前のテントがくたびれててさ。雨漏りとかしてきたし」


「雨漏り……あ、そうそう」


何かを思い出したように、メイが続けた。


「そういえば、私の友達でね、おじいちゃんから古いテントをもらった子がいるの」


「うん」


「嬉しくなって、庭で張ったんだって。生まれて初めてテントの中に入って……感動してたら、いきなり大雨」


「うん」


「そしたら、そのテント、雨漏りすごくて」


「……ああ」


「テントから出られないし、雨漏りで濡れるしで、結局びしょびしょになっちゃって」


梓が、フォークを止めてクスッと笑った。

「それ、笑える」


「でしょ!……あっ、声大きかった」


照れくさそうに肩をすくめたメイに、梓は目を細める。


今までとは少し違う、やわらかな空気がふたりの間に広がっていた。


◇◇◇


食後のコーヒーを飲みながら、メイがぽつりとつぶやく。


「なんか……いろいろ聞けて楽しかったな。早くお泊まりキャンプしたくなったな〜」


梓は、カップのふちに視線を落としたまま、静かにうなずいた。


「明日、お休みだし……買いに行っちゃおうかな、寝袋」


メイの独り言のようなその声に、梓の唇がわずかに動いた。


「……付き合おうか?」


「えっ?」


「寝袋、買うの。……よかったらだけど」


メイは一瞬ぽかんとして、それからパッと顔を明るくした。


「え、いいの!? ほんとに?」


「……明日、私も休みだし」


少し照れたように視線をそらす。


「やった……! うんうん、付き合ってほしい!」


喜びを隠しきれないメイの声に、梓は静かに微笑んだ。


◇◇◇


食事を終え、ふたりはファミレスの駐車場に出た。


夜の空気は、まだ少しむわっとしていて、

さっきまでの店内の涼しさが、じんわり体に残っている。


梓は口を閉じたまま、バイクの鍵を握りしめていた。

どこか浮かない表情。視線は地面に落ちたまま。


メイが先に口を開く。


「今日はありがとう。……いろいろ話せて、よかった」


「……あぁ。私も」


梓はそう言って、小さくうなずいた。でも、その目はまだ上がらない。


ほんの短い沈黙のあと、梓がぽつりと口を開く。


「あの……」


そこから先の言葉が、なかなか出てこない。

唇がかすかに動いては止まり、何かを探しているようだった。


やがて、小さな声で、絞るように言った。


「……レセプション、ちゃんと顔出さないで……ごめん」


メイはひと呼吸だけ間を置いて、静かに笑った。


「全然。私が無理言ったのに……来てくれたってだけで、うれしかったよ。ありがとう」


(いや、そんな……)

伝えたい言葉が出てこない梓。首を横に振り、手を軽く上げるのが精一杯だった。


そのあと、ようやく顔を上げたその表情には、少しだけ照れくさそうな——そんな安堵の笑みがにじんでいた。


そんな梓の横顔を見ながら、ふと思いついたようにメイが言った。


「あ、そうだ。明日、雨漏りテントの子、一緒に連れてきてもいい?」


「……え?」


「梓ちゃんの話、したら会いたいって言ってたし。梓ちゃんにも、会ってほしくて」


梓は少しだけ黙ってから、ぽつりと答えた。


「……まぁ、いいけど」


「やったー!ありがとう!」


メイは、顔をぱっと明るくして、にこにこ笑った。


梓はバイクにまたがり、ヘルメットをかぶって、ゴーグルを下ろす。

キーをひねると、エンジンの音が夜の静けさを少しだけ揺らした。


「じゃあ、また明日ね」


メイがそう声をかけると、ヘルメットの奥で梓が小さくうなずいた。


バイクが走り出し、夜の街へと消えていく。

その背中に、メイは小さく手を振った。


角を曲がって見えなくなったあと、くるっと背を向け、小さくガッツポーズ。


「よし!」


声に出たそのひと言に、自分でも驚いた。

でも、止めようとしても、笑顔がこぼれていた。


ここまで読んでくださってありがとうございます!

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