第56話 突然の来訪者
この日、梓は朝からイライラしていた。
朝のラッシュでごった返す総美大野駅のホーム。梓は人の波に押されるように電車へと乗り込んだ。
久々の出社日。普段はテレワークが中心だが、週に一、二度は本社へ顔を出さなくてはならない。今日はその日だった。
満員の車内で吊り革につかまりながら、梓は無意識にため息をつく。
人混み、揺れる電車、詰め込まれた空気。どれも好きじゃない。
でも――このイライラの根っこが、それだけじゃないことは、薄々気づいていた。
ポケットからスマホを取り出し、Rainの通知に目を落とす。
トーク画面の中には、数日前にメイから届いたメッセージ。
『電子招待状送るから、これたら来てね』
その下に、昨日の夜に届いていた新しいひと言。
『今日 もしかして来てくれた?』
小さな文字が、胸の奥に波紋のように広がっていく。
梓の目が、その言葉に吸い寄せられる。
そして、あの午後の光景が――
頭の中に、スローモーションのようによみがえってきた。
──昨日の午後。
お昼を少し過ぎたころ、梓はレブル250を走らせていた。
向かっていたのは、矢鞠市。
ラフォーレ リーヴルスのレセプションが行われている日だった。
別に、行くと決めたわけじゃない。
でも、なんとなく――あのあたりに行かなきゃいけない気がしていた。
目的も理由も、言葉にできなかった。ただ、身体が向かっていた。
日曜の午後。ラフォーレの前の駐車場はそこそこ賑わっていた。
梓は、少し離れた公園の入口にある駐輪スペースにバイクを停める。
ヘルメットとゴーグルを外し、少し乱れた前髪を指先で整えながら、カフェの建物を見やる。
木の温もりを感じる外壁に、大きなガラス窓。
ここの会社のカフェは、どこも雰囲気がいい。そんなふうに思って見ていると、
ふと、そのガラスの向こうに見覚えのある姿が映った。
本棚のそばの席に、ひとりで本を読んでいるメイの姿。
心臓が、ひときわ強く跳ねた。
さらに、その少し右手側。別のテーブルにいた女性の横顔が目に入る。
数人と談笑していたが、間違いない。美智子さんだ。
瞬間、梓の足は無意識にその場を離れていた。
ヘルメットを握りしめたまま、公園の奥へと向かう。
少し歩くと、木陰にひっそりとベンチがあった。
その前に立ち止まり、ゆっくりと腰を下ろす。
──何やってるんだ、私。
ため息混じりに空を見上げる。
木漏れ日が優しく差し込み、周囲は木々に囲まれている。
どこか林間キャンプ場を思い出させるような静けさ。
……あそこに入っていっても、いいのだろうか?
メイには、仕事だなんて嘘をついた。今さらどんな顔をして行けばいい。
ヘルメットを膝の上に置き、スマホを取り出す。Rainの画面を開くと、メイのメッセージが表示されていた。
『電子招待状送るから、これたら来てね』
送られてから、何度も見ては閉じたメッセージ。
けっきょく、今も返事はしていない。
煮え切らない思いのまま、しばらくの間、ベンチに座っていた。
……どれくらいそうしていただろう。
風に揺れる枝の音を聞きながら、梓は立ち上がった。
「……帰ろう」
そう呟いて、ヘルメットをかぶる。
ゴーグルを付けてバイクにまたがると、一気に走り出した。
◇◇◇
満員電車の中、ガタン、と大きく揺れる車体に、梓は軽くよろける。
吊り革をぎゅっと握りしめながら体勢を戻し、ふたたびRainに目を落とす。
『今日 もしかして来てくれた?』
メイからの、昨夜のメッセージ。
返せないまま、今もそこに残っていた。
梓は静かにスマホの画面を閉じた。
◇◇◇
新宿から地下鉄に乗り換えて数駅。
出口の階段を上がると、すぐ目の前に見えてくる、白いオフィスビル。
その4階と5階が、梓の勤務先の本社だった。
エレベーターで4階へ。
受付で社員証をかざし、ゲートを抜ける。
細長い通路を進んで、ガラス張りの会議室に入る。
「おはようございます」
すでに中にいたのは、直属の上司・重田洋子。
ショートヘアで、きびきびとした雰囲気の女性だ。
「おはよう、広瀬さん。今日はよろしくね」
「……はい。よろしくお願いします」
軽く頭を下げて、自分の席に座る。
午前中は定例の会議。午後は別室で打ち合わせと作業。
いつもなら、淡々とこなせるはずの内容。だけど、今日は何をするにも気が重かった。
人と話すのは、普段から得意じゃない。
けれど今日は、それがいっそうしんどく感じる。
——何でもないふりをして働く。
そのこと自体が、今日はとにかく、疲れる。
午後5時。
ようやく長い一日が終わった。
パソコンをシャットダウンし、カバンに手をかけたところで——
「広瀬さん、お疲れさま。お客様が来てるわよ」
重田の声に、梓は思わず振り返った。
「……え?お客さん?」
誰かと約束していた覚えもない。
一瞬、頭が真っ白になる。
「受付にいらっしゃるから、行ってあげて」
言われるままにエントランスへと向かう。
ガラス越しに見えたその姿に、思わず足が止まった。
そこに立っていたのは、美智子だった。
白のブラウスに、ベージュのスラックス。
派手さはないが、どこか芯のある佇まい。
変わっていない。でも、少しだけ優しく見えた。
「……えっ」
声にならない声が漏れる。
美智子は、気づいていたようにふっと微笑み、片手を軽く上げた。
「梓。久しぶり」
その声音に、間違いようのない懐かしさがにじんでいた。
◇◇◇
地下へと続く階段を降りた先にある、こぢんまりとした喫茶店。
照明はやや落とし気味で、店内にはジャズのBGMが静かに流れていた。
アンティーク調のテーブルの向かいに、美智子が座っている。
梓はまだ落ち着かない様子で、カップに手を伸ばすこともできずにいた。
視線は彷徨い、言葉は喉の奥に詰まったまま。
美智子は、そんな梓の様子に特に表情を変えることもなく、ゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。
沈黙が、ふたりの間に流れる。
(……どうして、ここにいるのがわかったんだろう)
梓は心の中で問いかける。
そしてようやく、声を出そうとする。
「あの……」
けれど、言葉はすぐに途切れた。
その気配を感じたのか、美智子が口を開く。
「まさか梓が、重田の部下だったとはね」
「……え?」
「重田洋子。梓の上司だろ? 大学の同期でね、久々に連絡があって――その流れで昨日のレセプションに誘ったんだ」
「そうだったんですね……」
ようやく合点がいく。
「でも、元気そうでよかった」
ぽつりと言われ、梓は小さくうなずく。
「……はい」
ふたたび、短い沈黙。
そして、美智子は静かに切り出す。
「昨日、来てくれたんだってな。ラフォーレのレセプション」
「……っ」
その言葉に、思わず目を見開く。
一瞬の反応で、美智子は確信したように頷いた。
「メイが言ってたよ。平瀬メイ——知ってるだろう?
彼女が言ったんだ。“あのバイク、梓ちゃんのだ”って」
(……いつ、見られてたんだろう?)
梓の脳裏に浮かぶのは、あの午後の光景。
ガラス越しに見えたメイの姿。公園のベンチでためらった時間。
そして、誰にも会わずにその場を離れたこと。
——その間に、あの二人が、自分のバイクのそばに来ていたんだ。
梓は目を伏せた。
言い訳をする気にもなれなかった。
そんな梓に、美智子は少しだけ柔らかな声で言う。
「メイ、すごく残念がってたよ」
その言葉が、じわりと胸に滲んだ。
梓は、ただ黙っていた。
喫茶店を出たとき。
「何かあったら、連絡して」
そう言って、店の紙ナプキンをすっと梓に差し出した。
梓は無言のまま、それを受け取る。
隅に、美智子の手書きの電話番号が添えられていた。
「じゃあ、また」
美智子が小さく笑って言った。
梓は軽く頭を下げて、美智子の背中を見送った。
◇◇◇
夜。梓の部屋。
ベッドに腰を下ろしながら、スマホの画面をじっと見つめていた。
Rainを開いて、メイのトークルームを開く。
入力欄には、すでに打ち込んでいた文字があった。
『顔出せなくてごめん』
でも、それを送信できずにいた。
一日中まとわりついていた、理由のわからない苛立ち。どこか心の奥に引っかかっていた、自分でもつかみきれない気持ち。
(……何ビビってんだ、私)
ぽつりと、心の中でつぶやく。
そして、静かに指を動かし、メッセージを送信する。
そのままベッドに背中をあずけ、天井を見上げた。
大きく息を吐く。ひとつ、肩の力が抜ける。
数秒後、スマホが震えた。
画面には、メイからの返信。
『来てくれてただけでもうれしいよ』
その一言に、胸の奥が少しだけ揺れた。
返せる言葉が、すぐには見つからない。
すぐに、もう一通メッセージが届く。
『キャンプのことで聞きたいことがあるんだけど、明日、会える?
昼でも夜でもいいんだけど。』
梓は、しばらく画面を見つめたまま、迷うように、でも静かに考えた。
そして、指を動かす。
『いいよ』
外では、スズムシが鳴いていた。晩夏の夜が、静かに息をしている。
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